5 著者の罠?良心

                              2001年1月4日(7日手直し)



 最近ある本屋で、法政大学社会学部教授の高尾利数氏が『キリストとは誰か』の姉妹編として『ブッダとは誰か』(2000年3月10日刊 柏書房)を上梓していることを知った。その筋ではとても有名な人なんだろうが、恥ずかしながら知らなかった。分野が異なるとこういうものと自分の無知を棚に上げる自己弁護に納得しながらページをめくってみる。キリスト教の批判的継承を課題としてキリスト教研究をしてきた氏が、仏教の祖釈尊とどう取り組むのかに第三者的な興味を覚えた。
 わたしは最初意地悪く、仏教研究者ではない人が、しかもキリスト教専門の人が、よりによって仏陀の教えを書くということに何となく違和感を感じ、何故書くのうまく書けるのという素朴な疑問を持っていたということになるのだろう。

 しかし、読み進むにつれこの種のある期待は見事に裏切られ、仏教を専門にするしないにかかわらず、仏教に関係するしないにかかわらず、出来るならば広く読まれるべき一書じゃないのかと思えるようになってきた(だからといってここでお勧めしているわけではないですよ)。変われば変わるもので、まんまと著者の罠に引っかかったといえば言い過ぎだろうか。
 釈尊については多くの本が出ている。もちろん神格化以前の人間としての釈尊を描いている仏教者も大勢いる。たとえそうであっても仏教者の書くものとは一風・二風(二風:この表現はないんだろうけど)も変わっている。書いている内容は仏教の基本的な教えであるが、キリスト教を加えた複眼的視点からあくまでも人間釈尊としていかに目覚め、それが現代人にもいかなる意味があるのかを実に明晰に書いている。むろんこちらも約2500年ほど前のインドに実在した人間と頭では十分分かっているつもりでも神格化された仏陀・釈尊像(仏身論:注記)に慣れている者にとっては、読後感心させられることばかりだった。仏教の基本的な教えを手際よくさばき読者に提示するあたりは、さすが「現代社会と宗教」という大学の講義で扱ってきただけのことはある。

 日本人は特定の宗教(たとえば仏教・キリスト教等)の信者じゃないという意識が強く、ために無宗教とよく言われているが、その一方で年中行事化した種々の宗教儀礼にはことさら意識せずに参加している(ある宗教学者は、無宗教といわれる中にも本人は意識していないが多重的信仰・宗教性が認められると言う)。学校で習わなかったとか家庭でしつけられなかったというさまざまな事情があったにせよ、多くの人には宗教に対する免疫力がないようである。そのため的確に判断できないで、ある場合は詐欺的な商売にひっかっかたりかえって盲信したり、また宗教絡みの事件が取りざたされるたびにますます自分の周りからことさら宗教色を避けようとしている。信じる信じないの次元ではなく、信じないから自分と無関係ではなく、第三次新宗教成立ブーム以降(注記)のこのような時代だからこそ基本が大切なのではないだろうか。著者も現代社会の宗教現象を探る上で本質を見極める必要から原点に帰って考察しようとしているその姿に共感を覚える。これからも氏の研究に目が離せない。

 なお、序の「あらかじめ誤解された日本仏教ーその数奇な歴史」は著者の見方がストレートに出ていておもしろかった。

 注記
 ◎仏身論:釈尊滅後、釈尊をどう見るかどう考えるかという釈尊(仏陀)観は変遷をとげ、特に大乗仏教になると大いに発展した。中でも三身論が代表的な考え方。三身の名称は宗派によって異なるが、法・報・応の三身が有名。法身とは、具体的なすがたかたちを持たない真実の常住普遍平等の理。報身とは、菩薩が仏に成るために立てた願とおこなった修行の結果・報いとして成る仏。応身とは、人々を救うために人々の能力に応じて具体的なかたちをもって現れた仏(歴史上の釈尊等)。

 ◎第三次新宗教成立ブーム以降:江戸時代末期から明治初期にかけての第一次新宗教成立、第二次大戦後の第二次新宗教成立に次いで第三次新宗教成立が言われ、今では新々々宗教が起こっているとも言われてます。




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