E 1995年
――縁(えにし)―― (「風景画」Iと同文)
行く河の流れは絶えずしてもとの水に非ずということで、一つ思い出したことがあります。
もう今から6年ほど前のことです。1995年、その年自体が阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件など大きな社会的出来事のあった年ですが、個人的にもその年の夏と言えば、どうしてもあることが思い出されます。あれから既に5年以上経っていますので、わたしの見聞きした記憶が曖昧になる前に、聊かここに書いておこうと思います。でも細部は忘れてしまっているところもあります。
そのころわたしは、偶々ある用事があって暫く中国四川の成都にいました。成都は中国大陸内陸部の四川省の省都で、後漢滅後の三国時代、蜀の都として諸葛孔明を初めとして劉備などの活躍する『三国志演義』等々で有名な、日本人にも名前の知られている場所の一つです。
その地で一人の日本人ライターAさんと出会いました。Aさんにとってはそれが初中国でした。仕事のやりくりをし、それでも無理なものは持ち込んでそこから原稿を送るということで編集者をしぶしぶ承知させて中国へやって来たということでした。
そんなことをさらりと話したかと思うと、中国文革時代、日本の某協会でも文革の礼賛派と否定派とに別れて内ゲバのような乱闘があったことなど、やんわりと酒の肴にして話してくれたものです。60年安保に揺れた当時、社会主義を理想とし現体制を批判する青年の主張の一端として中国をどう見るのかに関わっていたと言うことは想像に難くありませんが、人間関係に及ぶような詳しい話ではありませんでした。
Aさん初め何人かの人たちは、ここに学びに来ていた人たちで、わたしも一緒に道教の地・青城山に行ったり、また市内の三国志ゆかりの地(武侯祠だったかどうかは忘れました)などへ行ったと思います。またAさんはたいそうお酒の好きな人で、白酒をいたく気に入り、わたしもAさんのところへお酒(白酒だけじゃなく種々のお酒もありました)を飲みに寄せて貰うことが間々ありました。部屋にはクーラーが寒いくらい利いていたにもかかわらず、いつもAさんだけは汗をかいていました。
その日の晩も甚平姿のAさん一人汗をかきながらみなでいつものようにお酒を飲んでいました(そのときの話題は残念ながら覚えていません)。ただ、わたしだけは翌日郊外の都江堰へ知人と行くために早めに切り上げてAさんの部屋をあとにしました。今から考えると、結果的には、これがAさんを最後に見たと言うことになってしまったのでした。
翌日早朝から都江堰 ――成都より北西へ60km程行った所にあるB.C.3世紀李冰・李二郎父子が岷江の氾濫を防ぐために作り始めた水利施設で現在でも有効に機能してます。中州前方の角嘴及びそこへ行くための安瀾索橋や全体を見渡せる仁王廟等は楽しめました――
に出かけていたわたしが帰ってきたのは夕刻頃だったでしょうか。明らかにいつもと様子が異なっていました。その場に居合わせた人たちに聞いた話では、朝何時まで経ってもAさんが起きてこないので不審がった友人が部屋に行くと、既にAさんは帰らぬ人となっていたそうです。一番最後に見た人は昨晩遅くまで一緒にお酒を飲んでいた○○さんだったそうですが、その時点では何も変わった様子は見られなかったそうです。発見後が大変で、公安・医者を呼んだり、日本の家族に連絡を取ったり、さらに公安の実況検分や事情聴取、原因究明のためなのでしょう、病院への付き添いやらとてんてこ舞いだったそうです。どうも亡くなった原因は、慣れない土地での疲労等々と元々の高血圧の上に多量のアルコール摂取にあったそうです。
わたしは居合わせたみんなからささやかな通夜の真似事でもいいからして欲しいと頼まれました――おそらく頼まれたのはその方面に詳しかったからだと思いますが――。その人たちの心情からしても、異国の地で亡くなった人をそのままにしておくことはできず、せめてここで手に入るもので少しでも弔いたいという気持ちと、自分たちも何らかのけじめをつけたいという思いが伝わってきました。またわたしとしても全く知らない間柄ではなく、短いながらも親しくしていただいた人だっただけに、何かお役に立つことがあれば、して上げたいという気持ちは持っていましたので、引き受けることにしました。法律上宗教施設以外での宗教活動や外国人による布教活動は厳禁でしたが、日本人同士の間で亡くなった人を思い心を落ち着けるためということでそれに抵触せず、向こうのご好意により静かに行わせていただきました。向こう方々も協力してくださり短時間で、Aさんの写真を真ん中に置き、線香を手向け左右に花瓶を置いた簡単な祭壇のようなものとみなさんの座る椅子が設えられました。時間も時間でしたからみんなの夕食の後、わたしが導師をつとめて、勤行をさせて貰いました。当然、予め経本を持っていたわけではなく、ちょうどこちらで購入したあるものがありましたので、それに則って行いました。
後にも先にもこれ一回きりのことでしたが、このような形での不思議な縁もあるものだと、つくづく思ってしまいました。まるでAさんは仏縁を結ぶためにはるばるここまでやって来たのではないかと、わたしはそのためのお手伝いをするために出会ったのではないかと、今振り返るとそういう思いがあります――単なる自分の納得に過ぎないかも知れません――。
大変なショックがあったのでしょうが、他の人たちはこの出来事を無事乗り越えられたようで、途中帰国もなく当初の計画を最後まで貫徹されました。おそらくAさんのためにも途中放棄せず、やり遂げるという考えがあったのでしょう。
こういう形で、わたしを含めたそれぞれの人にとっての1995年の成都の夏は過ぎていきました。