1 日本の仏教の歴史を見ましょう。
1 仏教伝来(ぶっきょうでんらい)
日本に仏教が伝来したのは、今から1450年以上も昔のことです。欽明天
皇(きんめいてんのう)の時代、西暦538年【1】のことでした。その年に朝
鮮半島の百済(くだら)【2】国王・聖明王(せいめいおう)から釈迦仏像(し
ゃかぶつぞう)【3】・仏具・経典(きょうてん)【4】が朝廷(ちょうてい)【5】に
伝えられました。これは国と国との関係の上で伝えられたために仏教公
伝と言います。個人的・私的にはもっと早くから伝わっていたと考えられ、
渡来人(とらいじん)と呼ばれる大陸から渡ってきた人々の間で信仰され
ていました。
その当時の日本では、自然現象・気象現象など人間の力ではどうしよう
もできないモノに対して「カミ」として信仰していました。そのために当初
は、仏教も外から入ってきた新しい「カミ」という理解をしていました。
このため政治を行う有力者の中で、仏教を受け入れると今までの「カミ」
の怒りを招くと考える人々と、反対に新しい「カミ」を受け入れないとその
新しい「カミ」の怒りを招くと考える人々との間で、受け入れないるかどう
かで争いが続きました。
この頃は国として信仰するのではなく、蘇我(そが)氏など一部の人が
信仰する形を取りました。
しかし、やがてこれが有力者達の権力争いと結びつき、とうとう西暦587
年に戦争が起こりました。仏教を受け入れる側は、大陸の文化を積極的
に受け入れようとする蘇我氏を中心とする人々、反対側は朝廷の軍事を
担当する物部(もののべ)氏や朝廷の神事を取り扱う中臣(なかとみ)氏
でしたが、結果は蘇我氏側の勝利に終わりました。このあと本格的な寺
院法興寺(ほうこうじ)【6】が建立(こんりゅう)【7】され、蘇我氏を中心に
国として信仰されていくこととなります。
また、日本最初の出家者は、司馬達等(しばたっと)の娘善信尼(ぜんし
んに)【8】など3人の渡来系氏族の少女でした。
【1】538年説以外に552年説があります。しかし有力なのは538年説です。
【2】現在の韓国南部の黄海側。この時代は高句麗(こうくり)と新羅(しらぎ)と百済の三国に分かれていました。
【3】釈迦とは仏教の開祖、釈迦牟尼世尊(しゃかむにせそん・釈迦族という種族の聖者の意味)のことです。一般的には釈迦ともいいます。
【4】仏倶とは、仏像をまつったりする時などに使うもの。経典とは、漢文(古代中国語)で書かれた仏教の聖典。
【5】天皇をトップとして有力者達が協力して政治を行うところ
【6】法興寺は飛鳥寺(あすかでら)ともいいます。
【7】「こんりゅう」とはお寺を建設すること。
【8】善信尼・禅蔵尼・恵善尼の3人。
2 飛鳥仏教と聖徳太子(あすかぶっきょうとしょうとくたいし)
仏教を時代で区分すると、聖徳太子(しょうとくたいし)〔574〜622〕の時
代と奈良時代(710〜794)になるまでの期間の仏教を主に飛鳥(あすか)
仏教と言います。
推古天皇(すいこてんのう)の摂政(せっしょう)【1】となった皇太子(こうた
いし)【2】の聖徳太子は、蘇我馬子(そがのうまこ)と共に大陸の先進文
化を積極的に取り入れた国家作りをめざしていきました。この時代の仏
教は、大陸の思想・学問・技術・建築・工芸などを含む発達した文化体
系でした。
政治的には、日本最古の憲法と言われる『十七条憲法』【3】(じゅうしち
じょうけんぽう)を定め、また生まれだけではなくて能力に応じて役人とな
る制度として官位十二階(かんいじゅうにかい)などを作りました。
仏教を信仰していた聖徳太子は、お寺を各地に建立(こんりゅう)し、自
分自身で仏教を研究し、経典を講義したと言われています。先述の『十
七条憲法』には儒教の影響以外に仏教の影響があり、経典では『法華
経』(ほけきょう)・『維摩経』(ゆいまきょう)・『勝鬘経』(しょうまんきょう)
【4】を研究して註釈を作ったと言われています。お寺では、四天王寺(し
てんのうじ)・法隆寺(ほうりゅうじ)・中宮寺(ちゅうぐうじ)【5】をはじめと
して七つの寺院が建てられたと伝えられています。
聖徳太子は死後、多くの人々からしたわれ、やがて太子信仰(たいし
しんこう)が起こりました。
【1】天皇を補佐して政治をとる役職(当時は天皇家の血筋の者)。
【2】次の天皇となる後継者。
【3】役人のための道徳的訓戒の要素が強い。
【4】『法華経』(ほけきょう)は例外なくすべての人が仏となることを七つの喩えを含めて文学的に説いている経典。
『維摩経』(ゆいまきょう)は男性の仏教信者維摩居士(人名:ゆいまこじ・居士とはお坊さんになっていない仏教信者)が主人公で、維摩居士への病気見舞いから始まりすべてのことにこだわらないことを説いている経典。
『勝鬘経』(しょうまんきょう)は女性の仏教信者勝鬘夫人(しょうまんぶにん)が主人公で、すべての人には仏に成る可能性のあることを説くなどの正しい教えを説いている経典。
一般的に、この三つの経典を解釈した書物を書いたと言われていますが、現在でも学者の間で異なった説があります。
【5】四天王寺は大阪市にあり、法隆寺は奈良県斑鳩町(いかるがちょう)にあり、中宮寺は法隆寺の隣にあります。また法隆寺は世界文化遺産に登録されています。
3 奈良仏教(ならぶっきょう)
710年に奈良に都が移った84年間の時期を奈良時代と呼び、この時代の
仏教を奈良仏教と言います。この時代の仏教は南都六宗(なんとろく
しゅう)【1】と言われる中国から相次いで伝来した六つの宗が栄えてい
ました。六つとは、三論(さんろん)・成実(じょうじつ)・法相(ほっそう)・
倶舎(くしゃ)・華厳(けごん)・律(りつ)の六宗です【2】。
この時代のお寺は、国を護(まも)るために建てられた官寺(かんじ)【3】
や有力貴族の繁栄(はんえい)を祈(いの)るために建てられた氏寺(うじ
でら)で、お寺には土地とそこで働く人間が与えられています。僧尼(そう
に)【4】は国が決めた身分(みぶん)となっていて、国の許可を得ないで勝
手に僧尼になること、お寺以外に住むこと、人々に仏教を説くこと等が禁
止されていました。このような国のための仏教を律令(りつりょう)【5】仏
教とか国家仏教と言います。
聖武天皇(しょうむてんのう)は、仏教の力によって災いを払い福をもたら
し国が平和で豊かになることを願って741年に国ごと【6】に僧尼の寺を建
てる命令【7】を出し、さらに743年には大仏(だいぶつ)【8】を作る命令を
出しました。大仏を作るには延べ人数220万人の人々が働き、多くの資
金が使われて、749年に完成しました。752年には仏教伝来以来の最も大
きな儀式として、大仏開眼(かいげん)の法会(ほうえ)が行われました。
またその2年後の754年には、中国から困難を乗り越えてやって来た鑑真
(688〜763)【9】が、大仏殿の前で戒律(かいりつ)【10】を授け、以後正式
の受戒(じゅかい)儀式(ぎしき)が行われるようになりました。
しかし、一方で国家のために奉仕する僧侶(そうりょ)の姿勢に反対して、
お寺を出て山中に住む僧侶や社会活動をする僧侶達もいました。民衆に
仏教を広め農民の生活を助けて池を掘ったり橋をかけたりした人に行基
(ぎょうき)〔668〜749〕がいます。行基の仏教集団は、初めは国家仏教
の枠外(わくがい)にある活動と見られて弾圧(だんあつ)されましたが、
大仏造立(ぞうりゅう)の頃になると行基の力を求めてきました。彼は大仏
造立に協力しましたが、民衆に仏教を広め続け民衆救済に尽くしました。
【1】南都六宗の「南都」(なんと)とは奈良のことで、「六宗」(ろくしゅう)とは六つの宗派(しゅうは)です。この時代の「宗」とは今と異なり、同じ仏教を学ぶ集団という意味で、「宗」の代わりに「衆」(しゅう)とも言われ、お寺と「宗」の関係は現代の大学と学部の関係に似ています。
【2】三論宗(さんろんしゅう)とは、インドで大乗経典(だいじょうきょうてん)の思想を体系化し哲学的に完成させた龍樹(りゅうじゅ)〔150頃〜250頃〕の論書をよりどころとする宗派。中国では吉蔵(きちぞう)〔549〜623〕が大成させて、その思想にもとづいています。
成実宗(じょうじつしゅう)は鳩摩羅什(くまらじゅ)〔344〜413/350〜409〕翻訳の『成実論』(じょうじつろん)という書物にもとづく宗で、三論宗の付属の位置にあります。
法相宗(ほっそうしゅう)とは、インドの4〜5世紀に活躍(かつやく)した無着(むじゃく)〔395頃〜470頃/310頃〜390頃〕・世親(せしん)〔400頃〜480頃/320頃〜400頃〕兄弟の唯識(ゆいしき)学派に基づく宗派。中国の玄奘(げんじょう)〔600/602〜664〕がインドから持ち帰った世親・護法(ごほう)〔530頃〜561頃〕系統の唯識思想を弟子の基(き)〔632〜682〕が確立させて、その思想にもとづいています。
倶舎宗(くしゃしゅう)は、玄奘翻訳の世親の『倶舎論』(くしゃろん)にもとづく宗で、法相宗の付属の位置にあります。
華厳宗(けごんしゅう)は、『華厳経』(けごんきょう)にもとづく宗派で、中国の法蔵(ほうぞう)〔643〜712〕によって大成された華厳思想によっていて、東大寺の中心学問となります。
律宗(りつしゅう)とは、戒律にもとずく宗派。中国では多くの戒律の中でも5世紀の初めに翻訳された『四分律』(しぶんりつ)という戒律が栄え、道宣(どうせん)〔596〜667〕によって大成されて、それが鑑真によって伝えられます。
上記については、まだまだ難しい言葉があるので、別にくわしく書こうと思っています。
【3】国家施設のお寺。
【4】僧(そう)とは男性出家者、尼(一字では、あまと読む)とは女性出家者。当時の僧尼は、今で言う国家公務員のような身分。
【5】律令とは、中国の法律制度に倣って作られた法律をさし、その法律に基づいて政治がおこなわれました。
【6】「国ごと」の「国」とは、今の都道府県に当たり、江戸時代(えどじだい:1867年)まで使われていました。例えば大和(やまと)=奈良県、信濃(しなの)=長野県。
【7】僧の寺を国分寺(こくぶんじ)、尼の寺を国分尼寺(こくぶんにじ)と言い、正式な名前は国分寺が金光明四天王護国寺(こんこうみょうしてんのうごごくのてら)、国分尼寺が法華滅罪寺(ほっけめつざいのてら)と言います。これは『金光明経』(こんこうみょうきょう)という国家を護る力があるお経を読む国王は、四天王(してんのう:仏教を護る神)に護られ国が豊かになると信じられていたためです。また『法華経』(ほけきょう)によって罪をなくすことができると信じられていたからです。
天皇の命令は詔(みことのり)と言います。
【8】東大寺の大仏は、毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)と呼ばれ、『華厳経』(けごんきょう)の教主で、全世界を照らし出す光にあふれている仏。作るのに8つの部分に分けて大量の金・銅・錫(すず)・水銀を使い3年間かかりました。現在の大仏は頭部は江戸時代(えどじだい)・胴体(どうたい)は鎌倉時代(かまくらじだい)に作られ、この当時のものは一部分だけ残っているだけです。
【9】日本に戒律(かいりつ)を伝えた中国楊州の僧侶。戒律の師を探しに来ていた日本の僧侶の願いを聞き入れて日本に行くことにしましたが、11年6度目にして来ることができました。受戒儀式の後に唐招提寺(とうしょうだいじ)を建てそこに暮らしました。
【10】戒律(かいりつ)とは「○○○をしてはいけない」と言うような僧侶が守るべき各種禁止事項の「戒」(かい)と、その「戒」が作られた事情等と教団(きょうだん:僧侶の集団)規則の「律」(りつ)のこと。一人前の僧侶になるためには戒を受ける「受戒」(じゅかい)と言う儀式(ぎしき)をしなければいけませんでした。
4 平安仏教(へいあんぶっきょう) 一部分更新
西暦794年京都(平安京)(へいあんきょう)に都がうつされてからの約400
年間を平安時代(へいあんじだい)と呼び、この時代の仏教を平安仏教と
言います。
平安時代の初め(9世紀の初め)に最澄(さいちょう)〔767〜822〕と空海(く
うかい)〔773〜835〕という二人の僧によって天台宗(てんだいしゅう)【1】と
真言宗(しんごんしゅう)【2】の二宗が開かれました。
最澄は少年の頃、近江(おうみ:滋賀県しがけん)にあるお寺に入り僧に
なる修行(しゅぎょう)を始め、19歳で東大寺で一人前の僧となりました
が、奈良の仏教に批判的(ひはんてき)で故郷(こきょう)に帰り比叡山
(ひえいざん)で仏教の学習と修行を続けました。やがて桓武天皇(かん
むてんのう)に認められて、西暦804年遣唐使(けんとうし)【3】に加わり唐
(とう)【4】へ短期間仏教を学びに行きました。最澄は天台山(てんだいさ
ん)へ行き天台宗を学び、また帰国直前に密教(みっきょう)を学んで、翌
年の805年に帰国しました。帰国後、彼は天台宗を開き『法華経』(ほけ
きょう)【5】にもとづいて誰でも平等(びょうどう)に救済(きゅうさい)される
と説(と)き、また天台宗独自(どくじ)の受戒場所(じゅかいばしょ)【6】を
作ろうとして、奈良の宗派と激(はげ)しく対立しました。なお、これは彼の
死後に認められました。天台宗は最澄の死後、密教方面の充実をはか
るために円仁(えんにん)〔794〜864〕が838年から847年まで、円珍(えん
ちん)〔814〜891〕が853年から858年までと相次(あいつ)いで長期間唐へ
密教を学びに行きました。こうして天台宗は次第に密教化の傾向が強ま
り、天台宗の密教を台密(たいみつ)と呼び、空海の真言宗の密教を東
密(とうみつ)と呼んで区別します。平安時代を通じて天台宗のある比叡
山は仏教の中心地の一つとなり、鎌倉時代(かまくらじだい)(12世紀末
〜14世紀の初め)に新しい仏教の宗派をはじめた多くの人たちも最初こ
こで学んでいます。
空海は讃岐(さぬき:香川県かがわけん)の出身で、最初役人になるため
に京都(平安京)で学んでいましたが、仏教が最高の真理であるという考
えに至り、これを修行するため四国の山地などの各地で厳(きび)しい修
行生活をおくり、こののち804年の遣唐使(けんとうし)に長期間仏教を学
ぶために加わりました。空海は長安の青龍寺で恵果(けいか)〔746〜
805〕から密教のすべてを学び、最澄帰国の翌年806年に帰国しました。
本格的に密教を伝えたため朝廷(ちょうてい)や貴族(きぞく)の歓迎(か
んげい)を受け、高野山(こうやさん)に密教僧の専門道場を開き、また東
寺(とうじ)【7】を中心に平安京で活動しました。彼は多くの人々のために
加持祈祷(かじきとう)【8】を行い、また密教の修行によってついにこの身
のままで仏となる即身成仏(そくしんじょうぶつ)【9】を説きました。一方
で、東寺のとなりに日本で初めて身分(みぶん)に関係のない学校として
綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を作ったり、また書道(しょどう)に深く
通じていて嵯峨天皇(さがてんのう)・橘逸勢(たちばなのはやなり)と共に
三筆(さんぴつ)と呼ばれ、後世には「弘法(こうぼう)にも筆の誤り」「弘法
は筆を選ばず」【10】と言ったことわざも生まれました。
天台宗や真言宗は、新しい宗派として朝廷(ちょうてい)や貴族(きぞく)に
受け入れられ、やがて南都(なんと)の宗派と同じように国家仏教の役割
をもっていました。しかし、いっぽうで南都の宗派と比べて民衆への活動
も行われていました。
【1】天台宗(てんだいしゅう) 中国では鳩摩羅什(くまらじゅ)〔344〜413/350〜409〕翻訳の『法華経』にもとづき天台山の智(ちぎ)〔538〜597〕によって大成されましたが、日本では円(円教=『法華経』にもとづく天台の教え)・密(密教)・禅・戒(戒律)の総合仏教として成立しました。すべての人が仏と成れることを説きます。
【2】真言宗(しんごんしゅう) もともと中国では善無畏(ぜんむい)〔637〜735〕・金剛智(こんごうち)〔669〜741〕・不空(ふくう)〔705〜774〕などのインド出身僧が『大日経』(だいにちきょう)や『金剛頂経』(こんごうちょうきょう)などの密教経典を翻訳したことによって盛んとなり、そののち恵果(けいか)から日本の空海に伝わりました。今までの仏教が仏に成るのに長い時間かかるのに比べて密教ではこの身のままで仏と成る即身成仏(そくしんじょうぶつ)を説きます。
【3】自国の国作りのために当時の先進国であった中国に各種制度・学問・技術・工芸・美術等々のさまざまなものを学びに国から派遣(はけん)されました。
【4】当時の中国の王朝。
【5】『妙法蓮華経』(みょうほうれんげきょう)の略称。28章から成り立ち、前半部分と後半部分とに大きく分けられます。前半部分の中心は、いろいろな人々にいろいろな教えが説かれきたがそれは仮のことで真実はすべての人が等しく仏と成れることを説きます。後半部分の中心は、歴史上インドに出現した釈尊(しゃくそん)は仮のすがたであって実ははるか昔にすでに仏となって教えを説いていたということを説きます。
【6】最澄は自分の宗派の僧侶(そうりょ)のために独自の戒律を受ける場所を作る必要性を考えていて、今までの東大寺ではなく天台宗独自の戒律を受戒する場所(戒壇院:かいだんいん)として比叡山に作ろうとしました。
【7】東寺は現在の京都市南区にあり、五重塔(ごじゅうのとう)が国宝になっています。
【8】「加持」(かじ)とは仏とわれわれが相応し一致することをさしましたが、これを祈祷(きとう:いろいろな方法によって仏・菩薩(ぼさつ)に禍(わざわい)をなくし福を求めることを願う)と同じ意味に使って、仏の不思議な力がその人たちに加わりその人たちを護(まも)ったり利益を与えるようなはたらきがあります。
【9】あらゆるすべてが大日如来(だいにちにょうらい)のあらわれであるとみるために、その大日如来と修行者とが合一することによって仏と成ること。
【10】弘法とは弘法大師(こうぼうだいし)のことで空海をさします。空海は書道に優(すぐ)れていたために、そこからどのような名人でも時には間違うこともあるということを「弘法にも筆の誤り」、文字のうまい人は筆の善し悪しに関係なくどのような筆であっても書くことができることを「弘法筆を選ばず」といいます。
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留学生のための参考書
参考書 比較的難しくなくそれでいてもう少し詳しい事柄を知りたい人のために
挙げてみました。
・Fourdation of Japanese Buddhism, Vol .1and Vol.2 Daigen&Alicia
Matsunaga, Buddhist Books International ,1974
・日本佛教史 楊曾文 浙江人民出版社 1995
・日本仏教史 松尾剛次 岩波ジュニア新書 1999
・新装版 仏教の歴史 ひろさちや 春秋社 2000
・日本仏教十三宗ここが違う 大法輪閣編集部 大法輪閣 1998
・留学生のための日本史 東京外国語大学編 山川出版社 1990(日本
語初級者用)