01−1  2001年2月 中国広州@   

――それは一本の電話――



それは一本の電話から始まった。
1月31日(水)の夜遅くであった。「1月は行く、2月は逃げる、3月は去る」なんて誰が言ったのか、これも人口に膾炙しているんだなぁなどと、21世紀もはや一ヶ月過ぎたかと妙な感慨に耽っていた矢先にけたたましく電話のベルが鳴った。こういう時間帯に電話がかかるというのは、経験則に照らしてみてもいい電話の確立が低い。たいてい急な少し面倒な用件に決まっていた。
出てみると、Nざうるすさんの興奮したような少々上擦った声だった。

N:「Sゃ-ねいさんから今電話があってコウシュウに格安で行けるねん、一応職場に聞いてみると返事した。でも気持ちはもうコウシュウ。あれ広州だったかな、それとも杭州だったかな。来月の25日に出発、ところでみんなで一緒に行く?」

という趣旨の一方的にまくし立てるような電話だった。Sゃ-ねいさんと言えば、ついこの間、火鍋で初めて会った人だったなと思いながら、広州はまだ行ったことがなかったし月末なら大丈夫だったのでその場で「行くよ!」と即答した。
電話の主のNざうるすさんは広東話と普通話の二足の草鞋を履きかつてはバレエも習っていた人だ。一方のSゃ-ねいさんと言えば、2年の上海留学経験があり80年代の中国の空気を辛うじて知っている某旅行会社に勤める人だ。
後日Sゃ-ねいさんからメールが入り、この旅行の成り立ちの経緯を知った。要はライバル会社との旅行社向け商品の競争。でもそのお陰で飛行機代・ホテル代込みのとても安い旅が出来るのだから消費者にとってはとってもありがたいことだ(Sゃ-ねいさんに合掌)。今回の旅に多くの人が参加するのだから旅行社サイドとしても成功だったのだろう(これも後日そのことを知る)。いつもの旅と異なり、今回はすべて旅行社のしゃ-ねいさんが取りはからってくれるのでらくちんらくちん、あとは旅行当日を待つだけ。旅行の前に2月の用事を片づければ、あとはゆっくり旅三昧と言うわけだった。


旅行当日、遠方のNざうるすさんから電話が入ることになっていた。だがいくら待ってもちっともかかってこない。広州の情報を得るためにわずかな時間を惜しんでインターネットをしていたことがあだとなったのか。しかたないので、こちらから携帯にかけてみると、関空到着間近の電車の中だった。

樂:「今どこに居るの?」
N:「電車の中、12時頃に到着する予定」
樂:「えっ、早いですね。待ってたんですよ」
N:「用事があるから早めに出たけど、電話しても話し中やったし・・・インターネットしてたんちゃうん?」
樂:「そっ、そうだけど。今から出ます」
N:「12時半頃着くの?」
樂:「(1時間では無理やろと思いながら)何時になるか分からないです」

と電話を切って家を出た。飛行機が2時過ぎの、集合時間がその1時間半前に設定されていたが、集合時間には間に合わない。まぁ、全体で行動するツアーと違うし、集合時間に少々遅れるだけで、没問題などと都合の良いように考えながら車窓から春まだ遠い樹々の蕾に目を凝らしていた。大阪はあいにくの曇り空、広州の天気も決して芳しくないという情報だ。
空港駅で「あのリュックの人、うっとこのツアーの人じゃなかった?」などという声をうしろに聞きながら急いで集合場所を目指した。10分ほど遅刻してそこへ着くと、ちょうどSゃ-ねいさんがわたしの出入国カードに記入してくれているところだった。遅刻していたので、代わって記入してくれていたようだ。ただ便名が出国便と入国便とで反対になっていたことだけを除いて(後で係官に指摘されて気づく)、ありがたかった。
うしろからNざうるすさんの声がする。何でも広州で麦〔マイ〕さんのお姉さんと会うのだけど一人では行けないし、みんなで一緒に行くとわたしやSゃ-ねいさんを巻き込むようだし、それに電話連絡が気が重いと訥々と言っていた。麦さんとはNざうるすさんの広東話と普通話の先生で、かれこれ3年以上の付き合いだそうだ。麦さんは広州の出身で、その兄弟姉妹も広州に住んでいるらしい。それで広州に行くのなら会ってきたらという話になったようだ。行く前からかなりプレッシャーになっていることが手に取るように分かる。「食在広東」と意気込んでいたのが嘘のようにまったくブルーになっていたのだ。Nざうるすさんにも麦姉がどのような人か分からないだけに、わたしも期待と不安が交叉した気持ちを抱きつつでもどんな人なんだろうと期待の方が次第に勝っていく。こうしてシャトルへと乗り込んだ。
待合い室では、前日に買った広東語の本を見ながら(泥縄式です・・・)Nざうるすさんに広東語の環境に入ってもらいながら(別名プレッシャーをかけながらとも言える)中国の南方へは行ったことがあるもののいつも別会社便しか使っていなかったのだけに、初めての南方航空はどんなのかなという思いが膨らでいった。

何とマイ画面・マイ液晶が付いているじゃないですか、中国南方航空よ。今まではでっかいスクリーンしか見たことのなかったわたしは、それだけで気分よくなった(今までどんな飛行機に乗ってきたのかと言われれば、それまですね・・・)。先日、新聞を読んでいたらヨーロッパ便ではマイ画面が登場という記事があった。ということは、何かと問題の多い中国便でもやるなと(一応)思った。Sゃ-ねいさんは新聞を一頻り読んだ後はひとときの戦士の休息、Nざうるすさんはひとすら読書三昧、わたしはと言えばマイ液晶が気に入りチャンネルVや葛さんの中国電影、ブルースウイルスの何とかという電影を見たりと飛行機の中では三者三様。いや多人数多人様と言うべきか、今回の企画にのった旅行者の声が後ろから前からと聞こえてくる。


予定通り広州白雲空港へと到着した。国際空港にしてはこぢんまりとした空港だ。街の真ん中にある空港のようで、他の中国のどの都市よりも町並みが異常に近い。後ろの席でも同じようなことを言っている。あとで地図を見ると街は空港に近接しているといった方がよく、こりゃ伊丹空港もどっこいどっこい。
いつもなら個人査証のために空いているところへ列んでさっと手続きを済ますが、今回の場合は団体査証だったために書類に記載された名前の順の通り、みんな一列に列んでお行儀よく順番を待つ。団体査証は行きと帰りとの2枚、各自の名前が書かれた書類で、行きで1枚を係官に渡す。わたしは列の最後尾にいたため一番最初に入国したSゃ-んねいさんから書類がないと帰国できなくならからくれぐれも帰りの書類を返してもらうように念を押された。他の列はあっという間に終わりブースが閉まっていくのに自分とこの列だけ終わらず、おいおいおいと思いながらしばし時間を過ごす。
荷物を持って外に出るとそこには現地スタッフの周さんが待っていた(翌日の観光だったかゴルフだったかに付いていくそうだが、わたしたちは参加しないので周さんとの縁はなかった)。ホテルに着くとSゃ-ねいさんが添乗員よろしく仕事をこなしているのを横目にわたしは外貨両替のCD機に興味を示していた。国際空港としては小さ過ぎ、数年後には新しい大きな国際空港ができると現地スタッフが言う。その人が今日の主役の張さん(彼も翌日付いていくはず)だった。日本を発つ直前、Sゃ-ねいさんもNざうるすさんと同様、現地でおよばれがあることを知るもののそれがどのような人だか分からなかったが、何と今目の前にいる人だ。この人とはホテルで会ったわけだが、最初から気さくな人だった。
一人、部屋で、まずはお茶ということで水を沸かそうとしていたらチャイムが鳴り、これからSゃ-ねいさんのお相手と食事に出るという、反射的にカメラを手にして出ていた。

食事の場所は領事館の人たちもよく通ってくるという華楽宮酒店。旗袍のおねいちゃんに案内されると、まずは上の階へ行く。張さんは気を遣ってか、どこでもいいですよと言いながら上の階を品定め。しかし4人では大きなテーブルのために結局1階の奥の窓側で食事を取ることにした。何を注文するかで、これまた張さんの気遣いが始まった。わたしとしては美味しければそれでよしと思っていたので、成り行きを見守るつもりだったが、食材の調理法まで聞いてくる気の遣いよう。それで蝦・蟹は蒸しに決まり、青梗菜の炒めもの、それに夏果という名のこりこりとした程良い食感が味わえる木の実と貝柱等の入った野菜炒め、烏骨鶏等から出汁をとったスープというように決まった。アルコール度数3.9度の珠江ビールの純正(従来の珠江より美味しいと張さん)で乾杯をし、Sゃ-ねいさんと張さんとは仕事の付き合いらしく彼らの仕事の話を聞きながら食べ始める。しかし張さんはわたしたちにも気を遣いあれこれと料理を取り分けたりビールを注いだりと自分はいっこうに食べる気配がなかった。昼間たくさん食べあまり食欲がないという話だ。数年前までは痩せていたがこの仕事でお腹も出て太ったというようなことを頻りに口にしながらあれこれと気配りをしてくれていた。
Sゃ-ねいさんによると、「彼は遠慮するたちじゃない、本当に食べ過ぎで食欲がない」という話。
仕事相手のSゃ-ねいさんは言うにおよばず、その友人たちにも何かと気を配る。仕事上の付き合いの場合、客は下にも置かないくらいもてなされるということは一応知ってはいたが、張さんはだいぶ日本人的感覚も身に付いている中国人ではと感じた。
案の定、張さんは90年代初め日本に長期留学したことがあり、今また旅行業界人として日本人とも仕事をしている。ここは張さんがよくいく店らしく経理が挨拶に来たが、やけに疲れている顔が気になった。張さんによるとレストラン業は夜遅くかつ競争が厳しいとのことだった。
それにしても蒸し蝦はつけタレがいける、蒸し蟹もなかなかのものだ。烏骨鶏からとったスープのコクのあること、あること。また後から出てきたその出し殻もおいしかった。夏果はまた食べてみたい一品だ。

しこたま「食在広東」をお腹に詰め込んで満腹になっていると、張さんがこれからどうすると訊いてきた。マッサージに行くかカラオケを歌いに行くかだ。いっときマッサージに傾きかけたがカラオケに決まった。
場所は駐在員のよく行く「クラブ東京」。ここも張さんがよく行く店らしく男性経理や女性マネージャーが入れ替わり立ち替わり挨拶に来ていた。
この店で張さんの本領発揮? 張さんが日本語の歌を歌い、わたしたちが中国の歌を歌うという予想した成り行きだった。日本語の勉強と称して歌う歌はどれも一昔前の演歌が中心、おそらく日本留学時代に覚えた歌だろうし、ここに連れてくる日本人おじさんとも合っているようだ。で、わたしたちはと言えば、日頃日本で歌う機会が少ないだけに逆に中国語の歌える歌を探しまくっている始末。妙と言えば妙な光景、微笑ましいと言えば微笑ましい光景。わたしがケ麗君の「甜蜜蜜」を歌い出すと、張さんはSゃ-ねいさんに踊りを申し込むもののけんもほろろに断られ、今度はNざうるすさんに申し込む。どうしても踊りたいらしい。奥さんとの甘い想い出でもあるのだろうか? Nざうるすさんはこのままでは場が白けることを察したのか、わたしたちの「踊ったら」というノーテンキな言葉に後押しされたのか、おもむろに立ち彼にエスコートされて踊り出す。やがてくるっ、くるっ、くるっと回転し出し、ご満悦の様子。こうしてNざうるすさんは彼に気に入られて「Mリチャン」というニックネームをもらい、ことあるごとに「Mリチャン、踊りましょ」と言われて踊りまくった。さすがバレエを習ってたことだけはある、身体がすぐ動く、動く、動く。
いったい何曲歌っただろうか。張さんは美空ひばりの「愛燦々」の歌詞に惚れ、今また中島みゆきの「悪女」に「いい歌詞です」と感心する。最初紅茶を飲んでいたが、やはり歌うためにはビールですという彼の思いに押されてビールを飲みながら歌う、歌う、歌う。わたしたちは張さんに広東語の曲をリクエストし、最後にみんなで谷村新司の「昴」を熱唱しておひらき。時間は12時半頃だったろうか。その後タクシーで帰宅。実に濃い〜〜一日であった。


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