古典音楽 くぅてぃえんいんゆぃえ





音楽好きな自分が、自分にとって古典となる古今東西の音楽をジャンル度外視で試しに集めているものです。てんこもりな古典音楽になればいいのですが。純然たる古典もあれば、そうでないものもあるといったまったく恣意的なものです。自分自身にとっての古典とは、それが一過性でなく何時までも折りに触れて聴いていたいと思えるようなものが古典の音楽なのです。しかし、こうして改めて見ると、今まで自分が聴いてきた音楽が、こうも偏ったものだったのかと少し愕然とするところがあります。


随時更新




15) Sibelus 交響曲全集・管弦楽作品集

       コリン・デイヴィス指揮 ロンドン交響楽団
                  (RCA 82876-55706-2)

入院中(2005年)、CHINESE-POPSと共によく聞いていたのが、CLASSICではバッハやらモーツァルトやらベートーヴェンやらシベリウスなどだった。どれもが自分にとってひとときを過ごせる大切な音楽、期せずして音楽の持つ力・意味を感じさせられた気がする。

中でも、シベリウスを聞いていた盤は、全7曲の交響曲以外に「交響詩クレルヴォ」(クレルヴォ交響曲)を含む主要管弦楽10作品(「組曲カレリア」・「組曲恋人」・「交響詩フィンランディア」・「交響詩エンサガ」・「交響詩タピオラ」・「交響詩夜の騎行と日の出」・「交響詩ポヒョラの娘」・「交響詩大洋女神」・「悲しきワルツ」・「鳥」)を収めた廉価な輸入盤で、比較的手頃な値段でシベリウスのオーケストラ作品の主要なすがたを俯瞰できるものとして聞くにはちょうどいい感じだった。
指揮者のコリン・デイヴィスがロンドン交響楽団と1992年〜2000年の8年越しで録音したそうで、彼は作曲者の故国フィンランドで絶賛されたボストン交響楽団と旧全集(交響曲全集)を作っているだけに、まさに円熟期に入っている今ならばよりよいものができていると期待させる新全集だった。しかもシベリウス作品では、彼と組んで実績を積むロンドン交響楽団であるだけに、なおさらのその感を強くした。
ロンドン響の奏でる弦の静かな唸りが、ベットから外を見ている自分にとってほっとできる時間だったようだ。何故かしら、シベリウスの時として清逸な音楽と病室からの冬景とが心に沁みるようにしっくりと自分の中に入ってきて、何も考えずに音楽に身を委ねることができたような気がする。もしかすると、好きな音楽を好きな時に好きなだけ聞くことが、結果として精神的に十分落ち着くことができ、それが身体的にもいい方向へ作用したのかも知れない。

近頃は、一部の医学関係者の間で、モーツァルトの音楽が免疫力の増加等の観点から身体にいいと言われるようになってきて、そのような書籍やCDも出ている。日常生活で言われる、所謂「癒しの○○○○○」を越えた意味合いで、使われ出しているようだ。だが、これは何もクラシックのモーツァルト音楽に限った話しではないのではないだろうか。それなりにデーターの蓄積が行われているのだろうが、「笑い」と違ってまさか万能ではあるまい。否、万能薬なのだろうか。でも、中にはクラシックがモーツァルトが全く肌に合わない人もいるだろう、そのような人に無理矢理聞かせても苦痛になるだけで期待された効果があるとは俄には信じられない。ただただ、その人にとって好きな音楽が結果的に病状をよい方向へ導く助けになるのであれば、治癒の一助として無いよりは有る方が遥かに好ましい結果を生む可能性があるというもので、精神的にも身体的にも「好い」と言うことになるのであろう。

今回、自分の場合は、音楽ならばチャイニーズポップスの王菲等々であり、クラシックのバッハ・モーツァルト・ベートーヴェン・シベリウス等々であったようだった。




14) 中島みゆき的アジアン・カバーズ

         (YAMAHA MUSICFUNDATION KICS-2384)

アジアに広がるCHINESE POPSが好きになってからだいぶ経つが、きっかけをよくよく考えてみると、一つにはケ麗君が自分の曲を中国語歌詞で歌っているのを聞いてからだった。無論、中国で実際に曲を聴くという体験が一番大きいのだが、その前に日本に居て今までまったく耳にしたことのない音・声が妙に心に残ったものだ………。

JAPANESE POPSが中国語カバー曲となってアジア音楽界に何らかの影響を与えるようになったのもその頃からだったような気がする。否、もっと以前からだったのだろう。今までにアジアでカバーされている日本の曲は数多く、たくさんの歌手がカバーされているが、中島みゆきもその一人になっている。このアルバムが出るまで別にそんなことは考えてこなかった。改めて聞いてみてそうそうこの曲もあの曲もそうだったんだと実感が湧いてくる。ここには14人の歌手が普通話・広東話でそれぞれに彼女の曲をカバーしている。中にはアジアで台湾で大陸でヒットした曲が幾つも含まれていた。実は未だに原曲を聴いたことがないものもあるため比較できないけど、こちらを聴いている方が自然と耳に入ってくる場合がある。

ざっと全曲挙げてみると、「ひとり上手」(「漫歩人生路」ケ麗君)、「ルージュ」(「容易受傷的女人」王靖雨/文)、「幸せ」(「傷心太平洋」任賢斉)、「帰省」(「美麗心情」本多ルル)、「時代」(「時代」葉倩文)、「ローリング」(「流浪花」呂方)、「最愛」(「最愛」周慧敏)、「やまねこ」(「絶對是箇夢」湯寶如)、「六花」(「等風的旗」張信哲)、「孤独の肖像1st」(「愛的輓歌」鄭秀文)、「EAST ASIA」(「恋イ尓」萬芳)、「誕生」(「Remember無儘至愛」黎明詩)、「空と君のあいだに」(「一箇人的我依然会微笑」林佳儀)、「ホームにて」(「只因愛有」葉倩文)、「捨てるほどの愛でいいから」(「恋恋風塵」陳慧嫻)の15曲。今から思うと、この中でもっとも印象深いのが王靖雨/文(王菲)の「容易受傷的女人」と任賢斉の「傷心太平洋」。
「容易受傷的女人」を初めて聴いたのが、タイ在住の知人にもらったタイの音楽カセット。当然すべてタイ語で書かれているため誰の何という曲かも、まして王菲とは直で結びつかなかった。でも微かに聴き覚えのある曲だった。中国で聴いたことがあるようなないような朧気な記憶があったし、中島みゆきの「ルージュ」だったから当たり前と言えば当たり前だったのかも知れないが、その時はそれすらも思いつかなかった。アジアでヒットしたことを後で知ることとなるんだけど、誰が歌っているかは関係なく歌そのものは沁みてくる感じがしていた。
「傷心太平洋」はちょうど中国にいる時に流行っていた。街中のそこら中から彼の曲が流れていて、タクシーの中でもラジオからかかっていた。よもやこれが中島みゆきの原曲だとは思ってもみず、また台湾・香港でヒットした曲が大陸へ渡ってきたとも知らず、ただ耳に馴染みやすいいい曲だと感じたものだし、できれば上/下拉OKで歌ってみたいと自分の音痴を棚上げしてちらっと思ったりしていた。その後、鳳凰台のMTVでこの曲を見て、何かの主題歌かとも感じたものだった……。

半分以上原曲を知らないという弱さがあるけど、単なるカバーじゃなくってそれぞれが自分のものにしている風に感じられる。こんなところからももしかすると日本語歌詞以外の曲−中国語曲の魅力が隠れているのかも知れない。ややもすれば日本人は西洋音楽に目が向きがちなだけに。ふっとこんなことを思わせるアルバムだった。




13) Sarah Brightman TIME TO SAY GOODBYE

         (TOSHIBA-EMI TOCP-50399)

昨年(2002年)の夏時分だったろうか? テレビ朝日系の日曜の長寿番組『題名のない音楽会』で偶然初めて「Time to say goodbye」を聞いた。既に5年以上も前にヒットしていたと後々で知ることになるが(自分は疎いと言うか、もの知らずですね)、その時は全く知らず、この番組で日本人男女一組が切々と歌っているのに出会っていっぺんに気に入ってしまった。もっと大袈裟に言えば、ふいに表に出て出会い頭のように雷に打たれた気分と言った方がより近い形。その時点では、喜びの歌か悲しみの歌かは別として、歌詞とメロディーがぴったり寄り添い、かつ睦言のようにソプラノとテノールがこれまた寄り添い歌い上げていて格段にいいデュエット曲だと感じていた。この予期しない曲との出会いで感動を味わえた一瞬だった。だけど、初めから番組を見ていなかったため誰の何という曲だったか皆目分からずじまいで、それ以来誰の曲かずっ〜と気になっていて、インターネットやらCD屋巡り等々で、秋頃にようやく手にしたアルバムがこれ。

この一枚は「Time to say goodbye」をフューチャーした1997年末日本で発売したもので、Andrea Bocelliとの「Time to say goodbye」に始まり、Jose Curaとの「Just show me how to love you」と「There for me」等のデュエット曲を含め、クラシックありポップスありとジャンルに拘らない(CDの帯にはアサヒビールCM曲「Naturaleza muerta」収録とあるけど、このCMには覚えがない。でもこの曲もいい)造りとなっていて、しかもアンコールトラックにはPucciniとMozartの曲も入った14曲構成となっているため、初めてSarah Brightmanを知ろうとする自分にとっては恰好の一枚。

彼女の歌声は、わたしの好きなソプラノ声なので聞き易くすっーと入ってくる感じがする。純粋にクラシックの声楽曲(更に歌劇もいいんだろう)もいいだろけど、この人の魅力はポップス曲で表れてくるような気がした。歌い方はクラシックを学んだ人として当然の特徴のある歌声のようだけど、天性の伸びやかさと張りのある声質は、かえってポップス曲やミュージカルに合う気がした。ますます他曲も聴いてみたくなった出会いだった。




12) 日本〜叡山の谺 天台聲明
      1978年10月ラジオ・フランス・スタジオ録音
                     (Ocora C58-0065)
   舞楽法要庭儀曼陀羅供
      1995年10月京都コンサートホール録音
      大原魚山声明研究会・平安雅楽会
                     (CDブック)
   五台山念仏の系譜
      1998年4月大原寺勝林院阿弥陀堂録音
      大原魚山声明研究会
                     (CDブック) 

日本音楽の源流となる声明には、奈良に伝わる古い形のものから天台宗・真言宗のもの或いは浄土宗・真宗等々のものと多種あるようですが、世界的にも有名なものが天台の声明となっています。本来は一つの宗教行為として、荘厳された仏殿において所定の所作を伴いながら仏に対して礼拝、懺悔、告白、祈り、教えを聞く等々のものであって儀式時のみに修されるものなのでしょうが、古典儀式音楽として声明に静かに聴き入っていると明らかにクラシックやらポップスやらジャズやら歌謡曲などと異なる形式に身を委ねる心地よさに時間を忘れてしまうほどです。

「叡山の谺」は密教法要の胎蔵界曼陀羅供の一部をスタジオ録音したもので、四智梵語讃・四智漢語讃・云何唄・散華・対揚・供養文・唱礼・驚覚真言・九方便・五大願・大讃・仏讃・四智梵語讃・切音回向方便・随方回向が選ばれ約55分ほどの曲となっています。聴き入るにつけ僧侶たちの立ち居振る舞いが浮かび上がってくるようで、その中に(スタジオでの聴き手として)自分がいる気がするぐらいでした。

「庭儀曼陀羅供」は密教声明のうち、胎蔵界曼陀羅と金剛界曼陀羅を大壇の前に掛け建物の前庭で雅楽・舞楽を交えて胎蔵界金剛界両方の合行曼陀羅供を演奏会形式(実際の法要より短縮)で執り行われたものです。全体は吹調子(雅楽)・振鉾(舞楽)・列讃(四智梵語讃)・着座讃(四智漢語讃)・唄匿(云何唄)・散華・対揚・表百・万歳楽(舞楽)・合行唱礼・驚覚・九方便・五大願・大讃・百八讃・甲四智(四智梵語讃・甲様)・切音発願・随方回向・蘭陵王(舞楽)・長慶子(雅楽)の順番で、CDの制作時に更に70分程に短縮して収録されています。しかしそうであっても滅多に行われない法要の全体像がよくわかり、併せて密教声明の魅力がよく出ていて引き込まれてしまいそうでした。

「五台山念仏の系譜」は顕教声明の中で、中国五台山から円仁が将来した『引声阿弥陀経作法』の一部(四奉請・甲念仏・阿弥陀経・合殺・後唄の各一部)と後白河天皇が始修した宮中御懺法講の流れをくむ『声明例時作法』の一部(四奉請〔全曲〕・甲念仏〔全曲〕・阿弥陀経・大懺悔・五念門の各一部)で、五台山将来の声明と天台声明とが比較できる恰好になっていてとても興味深かったです。因みに「引声」は経典・偈頌の一字一字を長く引き延ばすところから付けられた名前で、「例時作法」は天台宗の通常の日誦作法のうち、『阿弥陀経』を中心とする夕座の日課にあたります。

声明は古典儀式音楽なのでしょうが、それでいて常に新しさを失わない音楽でもあると思ってしまいました。




11) 天平楽府〜蘇るシルクロードの調べ

      劉宏軍司楽・笛  天平楽府
                     (Victor VICG-601062)

シルクロードの調べは、古代のタイムカプセルを開けたような感覚を与えてくれた。

解説書によると、周代初頭から春秋戦国時代にかけて楽器の発達が著しく、当時既に宮廷オーケストラのようなものがあったそうで、春秋時代の晋の編鐘は台湾の故宮博物院に1セット存在している。前漢代張騫の西域探求以来、隋・唐代に五弦琵琶・四弦琵琶・篳篥・胡笛が伝来し、また阮咸・方響・秦箏・尺八・笙・竿・太鼓類が考案されていったようで、さらに南宋以降には古楽器に改良が加えられたり新しいものが考案されたりして楽器の変遷が激しく、唐代までの古楽器は残されていない。しかし、唯一唐代古楽器の一部が正倉院の御物(18種75点:8世紀中頃のもの)として今日まで大切に保管されており、そのうち現在まで劉宏軍によって20数点が復元されている。

一方、シルクロードに栄えた敦煌から出土した楽譜――海外流出――の解読・記譜が近年成功し、正倉院復元楽器と敦煌琵琶譜とにより、おそらく天平人が聴いたであろう――と言うことは、唐代の人々も聴いたであろう――宮廷音楽を現代人が再び聴くことが出来る日が来るとは、考えてもみなかった。厳密には、今復元されている楽器は往時の楽器と異なる音色かも知れないけど、現段階での確かな音色に違いないし、今の楽譜は往時の楽譜とは異なるかも知れないけど、最新の解釈に違いない。

確実に、時の変化に晒されたタイムカプセルを開けてみると………
劉宏軍率いる中国・韓国・日本の伝統音楽演奏家たちからなるオーケストラ「天平楽府」(五弦琵琶・四弦琵琶・阮咸・箜篌・箏の弦楽器群、横笛・尺八・篳篥・笙の管楽器群、方響・編鐘・太鼓の打楽器群)が、踏揺娘(隋代古楽民間伝譜)、急曲子(敦煌琵琶譜第9番)、傾盃楽(敦煌琵琶譜第12番)、又慢曲子西江月(敦煌琵琶譜第13番)、伊州(敦煌琵琶譜第24番)、碣石調幽蘭(六朝時代丘明伝譜)、開山月(漢代楽府歌曲)、迦楼羅、獅子舞、鳳凰涅槃の全10曲を次々と奏でてくれて――(全10曲中終わりの3曲は劉宏軍作曲)――、いっとき太古の昔シルクロードの時代ににいざなってくれる気がした。そのゆっくりとたゆたうようなシルクロードの調べは、聴く者の時の進み方もゆっくりとたゆたわせるようにして少しばかり酔わせる感じがした。




10) 草原之旅

      内蒙古直属烏蘭牧騎楽隊
            (中国華芸音蔵 CN-A58-97-429-00/A J6)

たしか、1997年夏に内蒙古へ行ったときに買ったうちの一枚だったような気がする。買った当初は聞いていたけど、いつの間にかそのまま聞かなくなり暫く寝かす状態となってしまっていた。今また偶然眼について取り出してみた。CD左隅には「内蒙古草原旅游」とあるから草原への行きか帰りのどちらか、呼和浩特(内蒙古自治区の区都)で買ったものだろう。

民話「スーホーの馬」で有名な馬頭琴――ある時に少年自慢の駿馬を競馬に出場させ勝ってしまったがために、強欲な領主に召し上げられてしまう。しかし馬がそれを嫌がり逃げるものの怒った領主に射殺されてしまう。少年が嘆き悲しんでいると、死んだはずの馬が現れて何時までも一緒に居られるように楽器を作らせた。という馬頭琴誕生の話――に古箏などが加わった合奏で、合計14曲収められている。

却って少し時間が経ったからなのだけど、今改めて何曲も何曲も聴いていると、曲と無関係に馬に乗り草原のあちらこちらを巡って風景を愛でていたことが思い出される。360度遮るものもなくどこまでも地平線が広がり、地平線の先にもくもくと沸き立つ、あるいは幾筋にもたなびく雲、雲、雲。小高い丘から眺めると陽のあたる草原、風にそよぐ草原が刻々と表情を変える。草原をわたる風に微妙な季節の推移を感じ、皺の刻まれたモンゴルのおっちゃんたちの顔、顔、顔。再び天を仰げば真っ青の空……。幾重にも思い起こされてくる。

最初、内蒙古での風景が次から次へと浮かんていたが、そのうち曲そのものに浸るにつれ馬頭琴の奏でる音色に心地よくなってくる。今の風潮に流されそうで好きな言葉ではないが、敢えて言えば「それは癒し系やで」と言われそうである。実際「癒し系」がどうかは別として、中国楽器でもどちらかと言えば弦楽器が好きなわたしにとって、この一枚には弦の響き、馬頭琴の音色に、草原の匂いが香り立つ悠久の時を感じずにはいられなかった――まったくの妄想か――。当然、草原を経験していない人ならば、また違った感じを持つだろう。それはそれでふくよかな音色体験を紡ぎ出すはず。

草原体験の有無とは別に、馬頭琴は、いつかどこかでかいだかも知れない草原の匂いを思い起こさせる気がした。




9) 吉松隆 ギター協奏曲「Pegasus Effect」
      1985年3月小松一彦指揮 東京フィルハーモニー
             山下和仁(ギター)、初演

      尾高忠明指揮 東京フィルハーモニー
      山下和仁(ギター)
                 (RVC R32C-1051)

それまでギターの曲と言えば、スペインの作曲家ロドリーゴのアランフェス協奏曲(これも名曲)ぐらいしか知らなかった。自分も一度は映画音楽「禁じられた遊び」――何やら古いなァ――やビートルズ・アリス等の曲からギターに触れたたものの長続きせずモノにならなかっただけに、ギターには何やらほろ苦い思いがある――Fさんたちのような弾ける人が羨ましい気もあるかな――。今では聞くだけのそういう自分がふと出会ったものに、吉松隆のギター協奏曲「天馬効果」(Pegasus Effect)があった。ギタリスト山下和仁のために1981年春から1984年冬にかけて足かけ3年以上かかって作曲されたギター曲。

ギターとオーケストラという珍しい組み合わせのこの曲は、馬(ギター)が翼(オーケストラ)を得て天馬に変身するあたりから曲名がつけれたそうで、ギターとオーケストラとが組合わさることによって、ギター独奏だけでもなくオーケストラ単独曲だけでもなく、両者が上手い具合に混ざることによる相乗効果を上げていて、すぅーっと曲に引き込まれるようだ。

吉松隆に言わせると、古典的協奏曲を模した3部形式の曲で、T:Bird「歪んだルネサンス風の歌と鳥たちのさえずりが浮遊する擬似ソナタ形式のアレグロ」、U:Flower「優しき風と淡い光の漂うノスタルジックな夢への讃歌」、V:Wind「迷宮からの脱出、あるいは世紀末を走り抜ける少年たちによせるプレスト」からなっていると。

聞く者にとってもそれがギターとオーケストラとがいい頃合いで融合していると感じ取られる構成なのだろうし、いいギター曲に巡り会えたと思える瞬間だった。音楽的想像力が膨らみ天空と鳥と風とに収斂されるイメージが飛翔するかのようにも思えた。

現代の音楽と言っても概して聞き難い前衛的音楽ではなく、クラシック・ロック・ジャズ・民族音楽等々の様々な音楽様式が等価値として現れている現代の価値観の下での作品群に連なるため聞き易い曲だった。




8) TIBETAN BUDDHISM
      1972,1973年採録
      西北インド・ヒマチャルブラディッシュ州現地録音

                 (NONESUCH WPCS-10143)

チベットものはこの1枚しか持っていないため、偶々買ったもの(試聴できなかったので)が気に入ったということになろう。ライナーノート後註から推測すると何度も番号を変えて発売されているように見受けられる。ひょっとしたら隠れた名作かも知れない。

「チベット仏教音楽の神髄」と銘うたれたこのアルバムには3曲収められている。果たして「声明」を音楽(古典音楽)と言っていいのか、楽曲と言っていいのかは問題であるけど、広義の音楽(自分では聞く者に何らかの働きかけを行う音・声等と勝手に思ってます)として自分にとっては楽しめるものとなっている。僅か3曲だけど時間としては1時間以上にもなるためその音の中に身を置くには十分な時間ではないだろうか。

この3曲(法要)は、チベット仏教の主流となっているゲルク派(黄帽派)のもので、そこに所属する僧侶たちによる録音であるが、1曲目の「Mahakala Sadhana:Dun-kye」(地獄の王マハーカラへの声明)はタンヂョング地区のカンパガール寺院で録音され、2曲目の「Tantras of Gyuto」(歓喜成就タントラの伝授)と3曲目の「Tantras of Gyuto:Mahakala」(大慈悲タントラ・マハーカラの秘呪:ラハモへの祈り)とは何れもダラハウズィ地区のギュト・タントラ学院で録音されている。

中でも2曲目のギュト・タントラ学院の録音では、数十年或いは場合によっては半世紀に1度あるかないかの、ラマ(師僧)から修行僧へ伝授される最後の課程「ギュトゥ」伝授という一大儀式が収められている。これを伝授される者は、無上の者であるラマその人になるとされ、公開されることのない崇高な儀式とされているそうだ。低く地の底を這いうねるようなギュト・タントラ学院生たちによる低音の唱和の中に、師からの伝授を聞き漏らすまいとするかのような真剣な修行僧の存在が、CDの音の向こうから伝わってくる感じがする。

クラシックやポピュラー等々の世俗音楽とまったく異なるチベットの声明は、聞く者にいっとき異空間へと誘ってくれると言えるのかも知れない。




7) 譚盾 鬼戲(GHOST OPERA)
      1994年作曲
      ブルックリン音楽院等委嘱作品

      クロノスクァルテット、ウー・マン(琵琶)
                  (NONESUCH WPC-5076)

アメリカ在住の中国湖南省出身の作曲家・譚盾の作品に初めて接したは、香港回帰のセレモニーで新曲の交響曲「1997 天地人」を披露したときだった。その作品をFM(だったと思う)で聴いて面白い音楽家がいるなと思い、それから少しずつ聴き出している。

この曲「弦楽四重奏と琵琶、水、石、紙、金属のための鬼戲」は、弦楽四重奏と琵琶に打楽器的効果の加わった音楽に演劇的要素も入っている不思議な作品に仕上がっている。キャストとして、現在が弦楽四重奏と琵琶、過去がバッハ、民謡、僧侶たち、シェイクスピア、永遠が水、石、金属、紙となっていて、舞台には時計回りに水、民謡、紙、シェイクスピア、石、僧侶たち、金属、バッハ、真ん中に弦楽四重奏と琵琶が置かれ、中国・チベット・アメリカの各文化の要素を用いながら人間の精神のあり方を追求したものと説明書にはある。曲は全5楽章(原文は幕)からなり、第一幕バッハと僧侶、シェイクスピアの水の中での出会い、第二幕大地の踊り、第三幕「小さなキャベツ」(民謡)との対話、第四幕金属と石、第五幕紙の歌と、計約36分に及ぶ曲だ。

ロサンゼルス・タイムズの評(栗田洋訳)に、
「大きな広がりと文化的な多彩さを持ったこの作品では、バッハとシェイクスピアの断片と中国起源の明るいペンタトニック音階、さらに流れる水などの風変わりな音が、穏やかにそして強烈な存在感を伴って共存している」とある。まさにこの曲を端的に言い表している。重層的に演奏され打ちならされながら各音が共存しているようだ。多くの聴衆から乖離し一握りの愛好家にしか支持されない前衛音楽よりはるかに地に足がついた現代音楽であり、思索的ではないだろうか。

しかも譚盾は言う「GHOST OPERAの演技者は過去と未来の対話、精神と自然の対話でもある」と。

わたしには譚盾の語る以上に、演技者のみならず聴く者にとってもこれらは現在と過去と未来との対話形式の音楽になり得るかも知れないと思えた。そんな不思議な音楽だった。
また、この曲の先には彼の歌劇「マルコ・ポーロ」(1996年)がある。




6) Beethoven 交響曲全集

      ゲオルグ・ショルティ指揮 シカゴ交響楽団
                    (LONDON F00L29108〜13)

わたしがBeethovenの交響曲を初めて聴いたのは、中学の音楽鑑賞の時間だった――学校では小学生の時期も含めそれまでもそれ以後も聴いていたであろうが、今では何を聴いたのか記憶に残っていない……――。曲名は交響曲第六番「田園」(後年ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団と判明)だった。中学生のわたしには大袈裟ではなく、こんな美しい音楽がこの世に存在したのかと思ったものだった。それ以来、自分にとってBeethovenは特別の音楽家となり、多くの曲を聴いてきたが、中でも交響曲は出会いの原点と言えるもので、十人十色様々な指揮者の解釈を聴いてきた。

ゲオルグ・ショルティ指揮シカゴ交響楽団(最初レコード版・今はCD復刻版)の演奏は、それまでの演奏と異なり指揮者の解釈による改変・省略をせずに愚直なまでに楽譜通り演奏する「原典主義」と言われるスタイルを取った音楽で、Beethovenの真の姿が見えてきたと思ったものだ――モダン楽器と古楽器の違いはあるものの――。一曲一曲で、ベスト版というものが出てくるのが常だが、全曲を通して聴く場合、原典主義というスタイルによる交響曲演奏に素直に感動できた。CD添付解説書「ベートーヴェンの交響曲をめぐって」でバジル・ラムは言う、

「9曲の交響曲の各々は、それぞれ特色のある響きのパターンを持っているが、実際の表現手段には、ごくわずかの違いしか認められない。そしてこれらの交響曲を、シェイクスピアの戯曲と同様汲めども尽きせぬ作品にしているのが、楽想と響きの統合である。どんなにベートーヴェンの交響曲に親しんでも、それらがその中に持っているすべてのものを発見した、と感ずることは決してない。そしてベートーヴェンのオーケストレーションの細部について、何か新しい発見でもすれば、それは作品そのものの理解をいっそう深めることになるのである。」(10頁)

と。Beethovenの交響曲を的確に言い当てているようだ。聴くたびに色々な新しい発見があるというところに再現音楽であるクラシック音楽の真髄があると思う。それを明確に聴衆に指し示したのが、ショルティの演奏ではないであろうか。第一番ハ長調、第二番ニ短調、第三番「英雄」、第四番変ロ長調、第五番「運命」(日本での副題)、第六番「田園」、第七番イ長調、第八番ヘ長調、第九番「合唱」の全曲それぞれにおいてその楽想がすっくと立ち上がっていて、Beethovenの音楽の世界に誘われる。当然どこから聴いてもよいのだが、順次最初の曲から最終曲まで聴き通してみると、特に、Beethovenの音の修辞法が如何なく発揮された第九番「合唱」は、ついつい彼の演奏がそれをうまく引き出していると思える一曲だった。




5) Messiaen トゥーランガリーラ交響曲
      1949年12月バーンスタイン指揮ボストン響初演
      ボストン交響楽団委嘱作品

      エサペッカサロネン指揮フィルハーモニア管弦楽団
                    (CBSSONY 54DC826〜7)      

インド古典雅語のサンスクリット語で「愛の歌」の意とされるこの言葉は、メシアン本人によれば「愛の喜悦と、時間と、運動とリズムと、生と死とによせる讃歌」という意味が込められている、と作曲家西村朗氏は語る。差詰め、忘我の喜悦の愛がメシアンの音楽言語によって全身全霊を傾けて語られているのではないだろうか。

全曲は、第1楽章序章・第2楽章愛の歌T・第3楽章トゥーランガリーラT・第4楽章愛の歌U・第5楽章星たちの血の喜悦・第6楽章愛のねむりの園・第7楽章トゥーランガリーラU・第8楽章愛の展開・第9楽章トゥーランガリーラV・第10章フィナーレの全10章からなる80分弱の大曲で、「彫像の主題」「愛の主題」等の主要主題が全10章のさまざまな局面に現れ全体を結びつけているために散漫にならず有機的連関を強固に構築しているあたりは、さすがメシアンの様式美を示しているように思われる。3管編成の金管と多くの打楽器、さらにピアノとオンドマルトノ(メシアンが発明した楽器だったのでは?)の独奏とが絡み合い、その独創的なリズム、旋法、和声、オーケストレーション等々により実に官能的なエロスの輝きに満ちていて、聴く者をしてすぐさま虜にしてしまう不思議な音楽だ。と言えば、言い過ぎだろうか。特に、オンドマルトノの音色は、透明感のあるエロスの音色そのもので、オーケストラとうまく解け合っているようだ。
戦後音楽的に成功している曲ではないだろうか、と言う感を強くする一曲。




4) Antonio Vivaldi 和声と創意への試み

        イ・ムジチ合奏団
               (PHILIPS 422 402-2/422 386-2)

全12曲からなる協奏曲集。曲集の1曲目から4曲目までが、有名な「春」「夏」「秋」「冬」の名を持つ「四季」、5曲目が「海の嵐」、6曲目が「喜び」と名付けられている。この時代に盛んだった合奏協奏曲ではなく、独奏ヴァイオリンに比重があるためにヴァイオリン協奏曲とも言われ、「四季」は普通のオーケストラでも取り上げられる一曲。
イ・ムジチと言えば「四季」、「四季」と言えばイ・ムジチと言う具合にかつては相場が決まっていた。コンサートマスターが換わるたびに録音を続け、その度に解釈を少しづつ変えてきたと言われている(自分はそんなに聴いていないのでその違いは分からない)。古楽器が流行る以前の現代楽器演奏での一時代を画した演奏だった。

殊に「四季」は耳に馴染みやすく、聴いた途端に直ぐに気に入った曲で、初めて聴いた演奏も確かイ・ムジチだった。イタリアの合奏団らしく明るく闊達に響き、聴いていて明るくなる演奏だ。やがて「四季」だけでは飽きたらず、全12曲を通して聴きたくなり、方々を探していたら当時はイ・ムジチ以外はなく、他の演奏を聴いてみたい自分にとっては歯がゆい思いをしたものだった。何故なんだろう、その楽天的な底抜けさに少し物足りなくなっていたのだろうか。
そのうち古楽器演奏に日の目が当たるようになり、現代楽器は省みられることが少なくなっていった。わたしは楽器に詳しくないが、Vivaldi在世時代の楽器と現代の楽器とは明らかに違うために、当時の音色を再現するためには古楽器に勝るものはなく、それが作曲家のめざした音楽に一歩でも近づくことになるという等の理由で流れが変わってきたようだ。しかし、古楽器は古楽器の良さがあり、現代楽器は現代楽器ならではの良さがあり、むしろ両者を聴けることの喜びを素直に享受しなくなってきていた。そこで再度イ・ムジチの新しい12曲モノに手を出してみることにした。全曲通して聴いてみると、これはこれで程良い愛すべき演奏となっている。むしろそういう音楽を受け止める心持ちになっていたからすっと入ってきた音楽なのかも知れない。ん〜やはり自分の音楽にしている演奏で、程良い時間を空けて心地よく聴くことが出来る。今ではさらに新しいヴァージョンが出ているけど、自分の持っているヴァージョンは独奏ヴァイオリンFederico Agostinのもの。




3) John Lennon LENNON LEGEND

        (TOSHIBA-EMI TOCP-50317)        

John Lennonの曲は、かなり大きくなってから聴いた覚えがある。ビートルズ解散後にビートルズを聴いた世代としては当たり前のことかも知れない。でもレコードを買うまでには到らず、そしてあの衝撃的なニュースを聞いた。その日が太平洋戦争の開戦日であり、また仏陀の成道会であることを知っていたため、これからは多色刷りの一日になるのだろうと、自分と直接の繋がりもないのにそんなことを漠然と考えていた気がする。

翌1981年に「Imagine」がリエントリーされ1位[かなり後で1971年10月シングル発売を知る]となり、その後初めてレンタル屋で借りて聴いた。こういうのを身体中に電気が走ると形容されることなのかと、一人納得しながら感動していた。おそらく多感な時期だったから受信機側の感度が良すぎてオーバー気味に覚えているのだろうか。

このCDは1997年発売のベスト版だが、「Imagine」を初め「Woman」や「Happy Xmas(War is Over)」・「(Just like)Starting Over」・「Borrowed Time」等が収録されており、自分のような横着ものにはこの上もない一枚である。なるほど、だらかベスト版か。CD解説にも書いてあるが、彼は日常の私的なことを歌いながらもそこに普遍性を持たせて大きなテーマを歌い上げている。だが、それだけではなくその詞を載せる曲調が耳に馴染みすっと聴ける曲になっているところが自分にとって好きなようだ。今でもしみじみと感動する曲があり、聴いていて心地よい曲が多い一枚と言えるだろう。




2) 武満 徹 November Staps
       1967年11月小沢征爾指揮初演
       ニューヨークフィル創立125周年記念委嘱作品

       岩城宏之指揮 NHK交響楽団
                   (CBSSONY 58DC282〜3)

もう一つ武満の作品を取り上げてみたい。わたしが初めてこれを聴いたのはNHKFMのクラシック番組だった。今となっては、何時の何という番組だったかは忘れてしまった。それはむしろどうでもいいことなのかも知れない。この曲に出会えたことが大きなことだったと得心している。曲自体は切れ目のない11の段(ステップ)から構成されており、2群に分けられた小編成のオーケストラに囲まれた琵琶と尺八の音色に新鮮な驚きを感じた一曲だった。琵琶・尺八といった日本の伝統楽器を西洋で育ったオーケストラに取り込むだけではなく、それらは音のつぶとしてあるがままに音響空間を醸し出している。多層的音空間が繰り広げられる「場」であると思う。武満は言う、

「それらの境界は相互に浸透し合い曖昧である。起源をもった語法と、新しい音響態が、音空間を多層にする」(1984年6月13日東京文化会館コンサート 作曲家の個展'84プログラムノート)と。

これは単に西洋楽器群に日本の楽器を取り入れて奏でるものとは異質なものであろう。お前はいったい何様のつもりだと言われそうだけど、武満のこの作品は、現代音楽の分野で日本人作曲家として、日本の伝統楽器を自由に使いこなせる作曲家の一人に違いないと思えるヨイ曲だと感じる。感動を覚えた一曲。




1) 武満 徹 弦楽のためのレクイエム
       1957年6月初演、武満の初期オーケストラ作品。

       若杉弘指揮 讀賣日本交響楽団
                       (Victor VDC-5507) 

武満の作品では「地平線のドーリア」も好きだし、「鳥は星形の庭に下りる」や「秋庭歌」もいい。この曲は、剣の舞で有名はハチャトゥリアンが深海の底の音楽と形容し、ストラヴィンスキーがきびしい音楽と讃美を惜しまなかったものだ。それ以降日本でも評価が高まり、現代音楽の分野で“古典”の評価を得ている一曲だそうだ。これを初めて聴いたのは、西洋のクラシック音楽に填りだし、あっちこっち聴き出した頃だったろうか。日本でも明治以降、西洋音楽教育が始まり、やがて日本の叙情を西洋音楽理論で表現するようになったり、学校唱歌の誕生、また日本人のクラシック作品誕生といった歴史を、知るようになると、俄然日本のクラシック作品に興味を持つようになり、一番最初に偶々出会った作品が武満徹だったような気がする。

クラシック音楽自体が決して過去の音楽という気がせず、現代の私たちが聴いても今なお感動もするし感激もする音楽だと、常々感じていただけに、20世紀の今生きている人達はクラシックという分野でどのような音楽活動をしているのかに興味が湧いてきたこともあって、西洋人の現代音楽だけでなく日本人はいったい何をしているのだろうと素朴な疑問を持ったものだ。そこに武満の作品が現れたというわけだ。深海の底というよりも自分には地の底から響いてくる音にならない音、何か原初的なものを感じてしまう一曲。

                         



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