2002年3月25日
今でも日本の人の中には、漠然とにしろ日本と中国とは同じように漢字を使うから「同文同種」と思っている人がいるんでしょうか。極端にそこまで思わなくても非常に似ていると思う人はいるのかも知れません。大学の第二外国語受講の時など、「アルファベットじゃなく同じ漢字だから」とか、「見れば大体分かるから」とか、「似ている字体が多いから」と言った安易な理由で選択したと、友人たちが語っていたことが思い出されます。
世界中で日常、漢字を使って生活しているのは、現在日本と中国・台湾それに東南アジア等々世界にいる華人だけのようです。お隣の韓国はハングルを中心としサブ的に漢字が登場することがあってもそれはむしろ副次的でしょうし、北朝鮮はハングルだけのはず、ベトナムも歴史的に漢字が使われたことがあったとしても今は表記を変えたベトナム語だけ。かつて西夏の勃興と共に漢字に似た西夏語が作られたにせよ、今や過去の話。漢語が一種の外交用語として東アジアの国々で効力を発揮していたのも既に過去の話。
となると、象形文字をルーツとする中国で発明された漢字は、繁体字(本字)・簡体字・日本の漢字等の違いがあるにせよ、今や本家の中国人と、華人と、伝来先の日本人の使用ということになるかな。でも元来漢語(中国語)と日本語という、世界の異なった切り取り方――例えば親族呼称ひとつを取っても厳密な中国とそこまででない日本――に始まって、語法も発音もまったく異なった――ただし日本の漢字音には中古漢語の化石と言われている字もあるそうです――ことば同士で使われているわけだけど、伝わって千数百年の間に慣れっこになってしまって、もう日本の文字として一般的にはまったく違和感のない感覚になっているのでしょうね、おそらくは。
でもそんな違和感の少ないわたしに本当はそうじゃなかったんだよ、苦労して加工しているんだよと教えてくれたのが、高島俊男の『漢字と日本人』(文春新書:2001年10月出版)という本でした。もともとは1998年秋から翌春にかけて英文誌『Japanese Book News』(国際交流基金)に「Chinese Characters and the Japanese Language」という題で、連続掲載されたものを下敷きにして新書として新しく書かれていたものです。題名のとおり中国から移入された漢字と日本人・日本語との長い付き合いを、時に軽妙洒脱に、時にこんこんと説き聞かせるといって風で、日本語のありのままの相が手に取れて目から鱗が何枚も落ちるといった状態でした。当然、自分がいかに無知だったかということにもなるわけです。
初刷部数は知らないけど――初刷って数千部くらいだろうか?――、刊行後僅か半年も経たないこの春に買った時点で、既に10刷目ということからも、おそらくこの手の本としては売れている部類に入るのでしょう。世の中でも自分のことば・日本語に対して興味を持っている人がそれだけ多いということを意味しているのかも知れないです。
漢語を書き表すには一番最適で理想的である漢字を、ことばとして発達途上にあった日本語に移すことによって、新しい概念や語彙を手に入れる代わりに日本語として使えるように加工に加工を重ねて、今日もその途中に過ぎないと知るにつけ、漢字の字体そのものの問題は別として、前々からよく言われている「若者の日本語の乱れ」には寛容になれそうな気がします。
よく知られているように古代「母」(haha)が「papa」と発音されていたことを思えば発音の変化は時の流れだろし、読み方・言い方もそうだし、語法だってこれまた時の流れの中で変化してきたわけだから、淘汰されるものは淘汰され残るものは残り、今は異端でも何れ市民権を得るんだろうという思いが強いです――個人の主観に大きく左右されますが「半疑問の語尾上げ」だけは生理的に苦手です(自分勝手と言われれば自分勝手なのでしょうが)――。
ただ文字自体については、かねがねマスコミ等での使用根拠になっている常用漢字は、もっと再考の余地があるのではと思っていたところ、高島氏の戦後国語改革の実状を聞くと――明治期に標榜された漢字廃止と音標文字化の方向性が捨て去られていない・敗戦後間もなく短期間で当用漢字を決めてしまったこと――余計にそう思ってしまいました。
教育漢字はそれなりの意味があるとしても一般的に使われる常用漢字ですが、その字数制約がナンセンスなほどきつすぎるため新聞・テレビでの「だ捕」とか「破たん」「隠ぺい」「信ぴょう性」などのひらかなと漢字を混ぜた字、所謂まぜがきは、何か間が抜けていて一向に落ち着きません。いっそ制限を撤廃して漢字で全部書いて横にルビを振るとか、あるいはまったくのカナで書くとかしたほうがよっぽどすっきりすると思ってしまいます――カナだけならこれまた間延びした感があるので、やっぱり漢字だけの方がいいかな?――。
また本の漢字からの略字(新字)の作り方――例えば「壘」が「塁」・「暇」や「霞」はそのままなのに「假」だけ「仮」・「專」が「専」なのに「傳」が「伝」等々――は、筆記体と印刷体とを一緒にしようという無茶な根拠があったということも知りました。それにワープロなどでのJIS漢字の件。別体系のユニコードもあるけど、通常使用の点ではいつも外字に頼り不便に思ってきただけに、情報機器に使うからといって漢字数が工業規格として制約されてきたということにも不条理を感じてしまいます。
自分も日頃何気なく無意識に使っている漢字ですけど、ちょっと立ち止まって考えてみると、別に立ち止まらなくて歩きながらでもいいんしょうが、本当にこれでいいのかなぁと思わさせてくれる本でした。ほんとに何枚鱗が落ちたことか。
漢語の漢字と日本語の漢字とはちょうど中嶋嶺雄氏の語る「(日中は)異母文化」の基底をなしているのではとさえ感じられてきますが、見方を変えればだからこそ却って面白いんじゃないかとも。漢語で「山」は「shan」だけどそこに「san」(さん)や「sen」(せん)の音読み以外に和語の「yama」(やま)と訓読みさせるなんて、あたかも英語の「mountain」と書いて「mauntin」の発音以外に「やま」と読ませるようなことを行う大胆さに敬服するばかりです。それに半端じゃない字音語の多さからくる同音異義語の多さときたら……面白いです。
自分はその道の者じゃないけど、異なった漢字を使う双方にただただ興味は尽きないものです。