7 柳絮

                                  2001年3月18日



 幾度となくしばらく北京にいましたが、あいにく春の風物詩である柳絮には会ったことがありませんでした。どういう縁だか、その時期には北京におらず、暑いか時期か寒い時期かのどっちかの割合に気温にメリハリのある時期でした。それが昨年初めて柳絮を見られたのです。胡同を白い綿毛のような大きなかたまりが転がってゆき、建物の隅っことなる吹き溜まりには幾つものかたまりが群れていました。黒いストッキングの大きなものをすっぽり被ったり、それを帽子に付けて、自転車に乗る小姐たち(大姐もいるでしょうが)。初めて北京の春の風物詩を実感したものでした。それは生活者として暮らしていないからそう悠長なことが言えるんじゃ、と言われるかも知れないですね。

 事実、今年2月初め林業部によると、北京には全体の70%が柳絮の飛ぶ品種で、例年春の「厄介者」として迷惑がられている柳絮対策として、今年から順次柳絮の飛ばない品種に植え替え、2005年頃からは柳絮が消えるというそうです。実際、この時期に完了するかどうかは知る由もありませんが、長期的に見れば何れなくなる方向に変わりはないのでしょう。寂しくなりますが、そうなれば風物詩が一つ消えていくわけです。

 ちょうど、陳真さんの『柳絮降る北京より―マイクと共に歩んだ半世紀』(2001年1月30日刊行 東方書店――部分的には1995年4月から1997年3月までのNHKテキストに掲載されていたそうです――)を読んでいたからなおさらだったのでしょう。陳真さんと言えば、日本ではNHKテレビ・ラジオの中国語講座でお馴染みの人で、特に「ミンミン―父との旅路」(『火車在黎明時到達』:「列車は夜明けにつく」)では、自分もその期間ラジオに釘付けになりました。1949年成立の新中国の歩みがそのままそっくり彼女の半生でもあり、放送局というある種特別な環境にいる筆者の自伝的エッセーです。少女期に住んでいた日本から父の故郷台湾に戻り、さらに大陸の解放区へと移り、天安門上の毛沢東の宣言に胸躍らせた日々の新中国誕生時のういういしい十代――16歳で北京放送局に入局したそうです――、文革期の厳しい体験、開放期以降の日本への出向等々。今では、個人の体験を綴った数多い中国モノの一つではあるでしょうが、放送局員という立場から半世紀を見てきたものが寡聞にして知らなかっただけに、少し大げさに言えば、読んでいて一人の中国人の人生を通して中国現代史を追体験しているような気になりました。目次を見ると、

第一部北京の街をラクダがゆく
第二部木の葉蒸しパン
第三部北京、そして東京

と、各部9〜10編ほどの短文からなっています。戦後まもないころの中国人の国に対する意識や大陸に残り新中国作りに積極的に関わった日本人との関係、文革期北京での放送局内部など興味深いことばかり、現在に直につながっていると言えば、
日本のどっかの放送局みたいだけど、中国のアナウンサーは容姿が採用の基準として重視されるという、70年代末女性キャスターの募集条件には身長1メートル65センチ以上、容姿端麗、二重瞼(←これだけは女性局員みんなの強い反対で撤回されたそうです)とあったそうで、男性アナウンサーにはクリーム顔のやさ男((女乃)油小生)が多いといいます。そういえば好みは別として、前々から男女共に比較的整った顔をしているように思えたのは、案外自分の主観だけではなかったことが分かり、ちょっとほっとした気分でした。
この人を主人公とした放送局物語のような小説や映画があれば見てみたいものです。




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