A 1992年7月〜9月 北京 希拉穆仁 蘇州 西安 上海
――初中国――
初めての中国(大陸)でした。その前の年に、たとえ団体であっても初めて海外へ行くことによって、行きたいけど実際はなかなか踏み出せずにいた状態から、自分の中で堰を切ったように、何かが弾けたように、くよくよ考えていても先に進まず仕方がないし、たとえ一人であろうがなかろうが、まずは行動しようという気に180度変わりました。
そういう秋頃にたまたまあるところで、海外研修制度があるということを知り早速応募しました。短期間海外で好きな時期に自分の企画立案した研修を受けるというもので、年末締め切りでしたからわずか1〜2ヶ月しかなくお世辞にも十分準備した書類ではなかったのですが、どういうわけか(熱き思いが通じたか? いやそんな甘いものではないはずだから?)採用されて、翌夏に初めて中国へ行くことになったのです。目的は(たいそうですが)中国の仏教事情調査とそれに関連する語学修練。90年代初頭は1989年6月の第二次天安門事件の影響も消え、再び経済の改革開放が叫ばれ外資導入による積極的な経済建設に邁進していた頃で成長率10%以上を確保していたと記憶しています。だから当時(現在も)経済関係で中国が熱く語られていましたが、こと文化面になるとそれほどでもなかったようです。今思うとそのあたりにも採用された背景があるのかもしれませんが、本当のところ分かりません。
1992年7月、午後のエアーチャイナの便でさくさくと中国の土を踏みました。機内は帰省や商用の中国人――離陸するとそれまでの外国人から自国人へと変わるにつれ日本人たちは既に自国人から外国人へ変わる瞬間を目の当たりにしました――が割と多く、「ここは既に中国」と当初は面くらいましたが、好奇心の方が勝ったようで、未だ見ぬ中国に着く前からわくわくしっぱなしでした。この便は上海で入国審査を済ませるため、ここで初めて中国を体験することになりました。虹橋空港を一歩も出られないという不満はありましたが、中国の空気を吸えただけでよしとしようと言い聞かせ機外に出るとふう〜と大きく深呼吸。機内で偶然話した上海短期留学生とは縁があればどこかで会おうと言い合いながら見送り、自分はところてんのように次から次へと続く列に着いて手続きを済ませ、国内便扱いとなった同じ飛行機に乗り込み夜遅く北京に降り立ったのでした。空港リムジンバスからの夜の北京は、左右の林を抜け街中に入ると――この頃はまだエアコンの値段が高いこともあり今ほど普及していなかったものだから――多くの男性たちが半裸で家の前に椅子やベッドを出して涼を取りつつトランプや麻雀をしている姿でした。最初の出会いがこのような光景だっただけに現在でも北京空港から市内に入るとき外を見る度に目の前の現実の景色と関係なく心象風景・残像として蘇ってきます。
夜遅くある大学の留学生寮に入り、一日おいて翌々日からテストによるクラス分けと即授業という生活が始まりました。共同シャワー・共同トイレの二人部屋でしたが、幸か不幸か長期留学生の同屋は旅に出ており実質一人部屋状態でした。授業は長期語学留学の場合と同様に中国語による語法・読解・听力等で、テキストに沿って午前中に講義があり、午後は週数回希望者のための輔導。中国語による授業がとても新鮮で先生もわたしたちに合わせてくれたのでしょう、プレッシャーもなく楽しく受けることができました。
当然初めての北京だったので、長城・十三陵・故宮・天安門・天壇・頤和園・円明園・景山公園・盧溝橋、抗日戦争記念館等々の名所旧跡を見たり――こののち何度も行くことになる場所もあります――、北京動物園で初めてナマのパンダに会ったり(日本ではまだ見たことがなかったもので)、北京に勉強に来ていた中国人僧リリー(仮名)と会ったり、その縁で信者さん宅で食事をよばれたり、僧侶志望のリリーの日本人の友人ロン(仮名)(数年後、日本のある宗派の僧侶になったと聞きました)いろいろな出会いがありました。それはそれとして貴重なことだったのですが、それプラス何と言っても街をぶらぶらしながら中国人の普段の暮らしを垣間見られたことは、それまで本やテレビ等を通してしか知り得なかった中国の暮らしが眼の前に広がっており、後から思うと一種のカルチャーショックを受けていたんでしょうが、見るもの聞くものどんな些細なことでもみんなとてもおもしろく、はまってしまったわけです。
節電という名(噂)の停電、興味深いテレビ番組・コマーシャル、中華音楽、新聞雑誌、お店、タクシーのうんちゃん、混雑したバスと乗客たち、売り子さん、デパート、映画館、マクド、お土産や・・・・・・、同じ血の通った人間同士、おもろいなぁという感じが次第に強くなっていきました。まじめな話からたわいもない話まで、どれをとっても人間と人間とのやりとり、わたしにとって、日本では久しく見られなくなりつつあった相手の顔が見えることへの実感を感じたのです。むろんそこではぼられたことによる悔しさやさまざまのことで腹の立つこともあるにはありましたが、彼らの生きるエネルギーの前ではほんの小さな取るに足らない事のように思えるほどでした(腹が立ったのにほんとうかぇと言う声が聞こえてきそうですが、これがほんとなんですね〜)。
ある週末、中国の草原を見ようと言うことで内蒙古の呼和浩特まで行くことになりました。そこで現地の草原ツアーに参加しておおよそ70〜80Km郊外の希拉穆仁まで行き、パオに泊まってささやかながら草原を体験したのです。希拉穆仁は草原体験のための場所の一つとして作られているため純粋にパオで生活するということは経験できませんが、それでも以前見た北海道の大地・地平線よりはるかに野性的で荒々しく、馬に乗り、日没の地平線を何処までも追いかけたり、夜の暗さを実感したり、満天の星空を眺め人工衛星や彗星を見つけたりと、人間の小ささと自然の大きさを身体で感じる日々を過ごすには十分でした。
このあとしばらくして帰国する同学たちと別れ、一人蘇州からさらに西安へ、そして帰国のため上海へ行くことにしました。
時間・便の関係で、飛行機で上海へ行き、空港から駅まで間に合うか気が気ではなく、何とか列車に飛び乗って江南の地蘇州に到着。あらかじめ予約していたホテルに入ったのが飛行機が遅れたこともあり夜中の1時過ぎでした。ここで数日、所期の目的のため雨降りが多かった中あちこち周り、そして次が古都西安へ。
ここで初めてホテルの客引きタクシーのうんちゃんに会った。行き先を言ったのに、「うんうん」と聞くふりをしてあれよあれよという間に勝手に違う場所に連れていきチェック・インしよとするので、一人連れていくといくらもらえるだろうと思いながらも、「てめえ〜、何さらしとんねん。奥歯に手突っ込んでガタガタ言わしたろか」(かなりの誇張表現)と怒って目的地に行かせたことがありました。でも向こうもやるもんで、こちらがたとえ地図を持ってても地理に不案内なことをいいことに「近いよ」と言いながら目的地のホテルのかなり手前で下ろして、かんかん照りの中、荷物を背負って歩くというおまけつき。ここでもまたあちらこちらを周り、最後に上海へ戻ることにしました。当たり前ですが長安の面影(あんた知ってんのと突っ込まないように)はだいぶなくなってきていたけど、そこに暮らす人・モノ共に興味深く、また地方都市ならではの(観光地としての治安の問題は言われていましたが)あったかみがありました。
しかし上海へ入ると、ここまでくるとだいぶ疲れがたまっていたのでしょう、風邪が治らずとうとう滞在中ずっと寝込でしまいました。そのうち風邪薬もなくなり熱は下がらず食欲もなく、帰るまでこの調子じゃまずいと考え、外国人の行ける病院に行くことにしました。前もってホテルの人に聞いた場所は、幸いにもホテルからとても近く、ふらふらになりながらたどり着き、診てもらえたのです(海外傷害保険を使ったので帰国後日本円でバック)。それがなかなか知的な美人女医で、楚々としたなかにも医者としての使命感・責任感に静かに燃えるすがたが見て取れました。結局、上海では買い物にも遊びにも行けず、最初の上海体験は駅とホテルと病院だけですね。
虹橋空港ではまだ身体にだるさを覚えながら機上の人となり、だんだんと小さくなる上海郊外の家々を見ながらまた来ようと決めていました。終わりよければ何とやらで、なにせ上海で何をしたかというと風邪をひいただけでしたから。