14 世界が停まった日

                             2001年9月17日



 元○○○○ロンドン支局長(ロンドンだったと思う)の某氏がいみじくも語った。今回のアメリカ同時多発テロを「世界が停まった日だ」と。言うまでもなく日本時間で2001年9月11日火曜日の午後10時前(アメリカ東部時間で9月11日午前9時前)に起こったあの出来事を指している。ほぼ一人勝ち状態のアメリカの政治・経済・流通・運輸・交通等々が一瞬にして凍りつき、それが世界に波及する事態を予想してのこと。案の定、経済では翌日の日本の株価は日本経済の脆弱さも手伝って17年ぶりの1万円台を割り込み、ドル安円高の傾向を示した。日本経済に暗澹たる気持ちを持たせることとなり、世界経済に先行き不透明感を一層強くさせたようだ。これは西側世界を中心とした経済システムの価値観を持つものの視点であることは明らかであろう。また安全保障という面からもそれ以前の北アイルランドや中東、コソボ、ユーゴズラビア等のテロ事件と比べても、ハイジャック機を武器にする手段の狡猾さ残忍さという点からまったく異質なものとなっていて、しかも舞台が多くの国々の人が働くアメリカの中心部で、日本人も多数巻き込まれているだけに対岸の火事ではなく、いつどこででも起こり得ることを私たちの前に示し心が凍りついた。そういう意味でも「世界は停まった日」と言える。

 一方、テロ実行犯の黒幕と目される人物が属するイスラム世界の国々も多くがアメリカに苦々しく思っていることは一旦横に置いて一様に今回のテロへの否定的見解を発表している。確かにテロという行為は、政治的立場・思想信条・宗教等々の如何なる基準に照らしても人命を軽視し平和を脅かし諸システムを破壊する独善的自己中心的行為のために決して行われるべきではなく、その主張にたとえ一片の理及び同情の余地があったとしても目的達成の手段としては絶対に取ってはいけないものであろう。これは人類にとって共通に理解され得る土台であると考えられていた。そうだからこそこれまでテロ行為を行ってきた一部の人たちに対して強く批判され犯罪行為としてきつく取り締まられてきたわけであろう。今回のテロもその点から厳しく糾弾・取り締まられて然るべき行為であることは大多数の人たちにとって自明のことである。ただ溜飲を下げ喜んでいる一部のイスラム圏の人々を除いては、そうだろう。それほど宗教は、宗教の違いを越えた平和共存への人類共通理解に対して時として挑戦するものなのかも知れない。或いは宗教を信奉する信者たちを取り巻く様々な不公平・不満を生む貧富の差等の現実的諸問題の方かも知れない。そこにこそ根の深さがあるのだろう。

 確かに世界情勢は一筋縄ではいかないもので、第二次大戦後だけでも世界中で数多くの不条理がまかり通ってきたと思われる。理想は理想として、異なるイデオロギー同士、異なる文明同士のせめぎ合いの中で、キリスト教的世界に根ざす自由主義経済が20世紀末に世界を席巻し、比較優位の上で世界の富の多くを有して高い文化的生活レベルを維持する一方で飢え貧困等による日々の生活に困窮している比較劣位の人たちがいるのも事実。残念なことにその多くがイスラム世界やアフリカ、中南米等に偏り、様々な歪みを生み出している。大枠としては、このような世界規模での歪みがテロの温床として存在していてそれをなくすことが必要と、識者は今回のことでメディアを通じて語っている。それは長期的な視野からはとても大事な指摘だと分かる。ただ今回のテロには一般的な漢方薬のように即効性はないだろうが。

 アメリカの次の行為「軍事的報復」はいつどこで行われるかに世界の耳目が移りつつある現在、報復は報復を生むと分かっていてもアメリカは確実に報復に踏み出すだろう。「これはテロではなく戦争行為」とブッシュ大統領は語り、「神に慈悲はあるがアメリカにはない」と政府高官が述べていたという新聞記事を目にし、アメリカの国民感情、アメリカの立場がそうせざるを得ないからだろう。
 マスコミが煽っていると言われてもしかたのない報道がされている今、個人的には宗教者の言葉に関心があった。ちょうどそういう中で、ローマカトリック教会法王のヨハネ・パウロ2世は報復を行わない勇気を持つようにアメリカに自重を促したと報道されていた。新聞の小さな目立たない記事だった。来るべき軍事行動に焦点が移っている眼前でこの報道は掻き消されてしまいどれだけの人々が目にしただろうか。しかし、これは今だからそこむしろ大きな意味があるのではないだろうか。6000人以上の人が行方不明となり、家族・親類・友人の人たちの気持ちを考えると何を寝ぼけたこと言っているのかと批判される言質かも知れない。もちろん世界中の人々が願っているように行方不明の人々の一刻も早い救出を祈る気持ちに変わりはない。ただヨハネ・パウロ2世の言葉は、宗教者としては非常に重みのある言葉だと思われる。報復には報復、やられたらやり返すという中からは何も建設的なことは生み出されないし、単なる憎悪の拡大再生産にしかならない可能性が大きい。そういうことも分かった上で、ヨハネ・パウロ2世の発言は私たちにとって大いに傾聴に値する。今のところ世界の宗教者の中で、このような発言を行ったのは、管見ながら法王しか知らない。多分、平和を願い犠牲者に対して追善供養等を行っている仏教寺院もあると推測するものの仏教界等々の宗教界からは一向に世界に向けてまだ何も聞こえてこない。こういう時だからこそ、精神的指導者を自認するしないを問わず、本来宗教指導者がまずメーセージを発しなければいけないのではないだろうか。それも『ハムラビ法典』の「目には目を」のような対応ではなく、人間の憎悪と嫉妬と悪意と正反対の位置にある慈悲と慈愛と善意とに基づいてなされて欲しいものだった。
 こう言えば、現時点ではおそらく単なる平和ボケ、単なる幻想、単なる上っ面な偽善、被害者の痛みを考慮しない温もりの感じられない単なる身勝手な独善的な考え方と誹りを受けそうである。だけど、緊迫した時だから敢えて宗教者たる者は、犠牲者を悼みつつ時流に流されず冷静になる必要があり、その各自の宗教理念に基づいて平和的解決への実効的な提言を行って欲しいと思われる。


ちょっと大上段から大仰なことを書いてしまいました。抽象的ですし、偉そうです。あとからUP取り消そうかな。




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