2000年10月9日
昔、日本史の授業で習った頃、壬申の乱の後、天武天皇・持統天皇の時代から国史編纂と律令整備を二本柱に整備に着手し、それがこの時期に一応の完成をみて、元正天皇に養老4年(720)舎人親王が『日本書紀』30巻・系図1巻を撰上し、これに先行すること8年、和銅5年(712)には元明天皇に太安万侶が『古事記』を撰上したという話でした。特に『書記』の「神代記」は荒唐無稽で、また全体を通して大いに潤色されていて取り扱いには注意が必要ということぐらいしか知らず、それ以上突っ込んで学ばなかった感がありました(普通はそういうもんですね)。
でも、先日、音韻学に造詣の深い京都産業大学教授の森博達著『日本書紀の謎を解く 述作者は誰か』(2000年第3版 中公新書1502)を買い、早速読んでみるとこれが実に面白かったです。1999年10月初版の新書が今年でもう第3版と言うことは、こういう類の本としては売れてる方だし、新書だから千円もしないんで、何と買い得なんやろと手にとってじわじわと感じてました。しかし、それよりもむしろ『日本書紀』の研究が、ここまで進んでいるのかという素朴な実感が知的好奇心を大いにかき立て、述作者推定等、一部分まだ十二分に論証されていないとちゃうんと思いながらも筆者の推理・推定の様子にわくわくしたものです。日本古代史を専門にしている人から見れば違った意見が出てくるでしょうが、『書紀』に書かれいる言葉の音韻・語法の分析といった別のアプローチからこのような結論が導かれることに目から鱗状態でした。
目次を見ると、従来の書記区分論を批判的に取り上げた第1章の「書記研究論」から「書記音韻論」・「書記文章論」・「書記編修論」の四章立てで、筆者の二十年来の研究が新たに新書という形で世に問われている、そんな意欲作という印象を持ちました。筆者は最後にこう語っています。
書記三十巻は表記の性格によって、β群(巻一〜一三・二二〜二三・二八〜二九)・α群(巻一四〜二一・二四〜二七)・巻三○に截然と三分された。β群は、歌謡と訓注の仮名が倭音によって表記されている。原音で読むとまったく日本語の音韻を区別できない。文章も倭習に満ちていた。漢語・漢文の誤用や奇用は枚挙にいとまがない。基本的に和化漢文で綴られているのだ。α群は、中国原音(唐代北方音)によって仮名が表記されている。また文章は基本的に正格漢文で綴られていた。β群に比べて倭習ははるかに少ない。しかもα群の漢語・漢文の誤用には正当な理由があった。α群の誤用は、原則として引用文と後人による潤色・加筆部分に限られている。そしてα群の奇用は原史料の反映である。α群は本来、原史料を尊重しつつ、中国語で述作されたのだ。巻三○は仮名表記が少なく、原音か倭音か、その性格を判別できない。文章は倭習が少なく、α群に近い。ただし、語句や文体には、α・β両群にはない独自性もある。
・・・・中略・・・・
持統朝に続守言と薩弘格が書記のα群の撰述を始めた。続守言は巻一四から執筆し、巻二一の修了間際に擱筆した。薩弘格は巻二四〜二七を述作した。文武朝になり山田史御方がβ群の述作を始めた。元明朝の和銅七年から紀朝臣清人が巻三○を撰述した。同時に三宅臣藤麻呂は両群にわたって漢籍による潤色を加え、さらに若干の記事を加筆した。こうして、元正朝の養老四年(七二○)に『日本書紀』三十巻が完成し撰上された。唐人の続守言と薩弘格が正音により正格漢文で、α群を述作した。つまり中国人が中国語で述作したのだ。倭人(日本人)の御方は倭音により和化漢文でβ群を述作した。若くして優秀な清人は倭習の少ない漢文で巻三○を述作したが、藤麻呂の潤色・加筆には倭習が目立った。
〔225頁〜229頁引用〕
主の音韻論と語法の分析から渡来中国人が書いたα群と日本人が書き継いだβ群の混在とが浮き彫りになり、状況証拠的に当時の歴史分析から人物特定をする。これは読んでいて非常に楽しかった。具体的に述作者を推定するあたりは専門家の意見を異にする箇所かも知れないけど、α・β両群の漢字音の差異の事実は、鱗が何枚も落ちる快感を味わえて至福の瞬間でした。教科書を書き換える日は近いんだろうか?
後日、本の帯の毎日文化出版賞受賞の文字を目にしました。