C 1994年8月〜9月 絲綢之路T
――仲間との初旅――
その年の5月頃、ある用事で東京に行った。そこで2年前、初めて中国に行った時に出会った同学たちと会おうということになった――それまで連絡は取り合っていたが、会うのは2年ぶり――。当日会えたのは、ぼく以外に女4名、男1名の合計6名だったかな?詳しい人数は忘れてしまった。
みんなはその春大学を卒業したてで、大学院に行った者、就職した者と色々だったけれど、それぞれの環境にようやく慣れかけてきたかなぁという頃だったろうか。そんなところへ久しぶりの再会。飲んでる時に、ふいに異口同音に口をついて出た言葉「また中国行きたいねぇ」「まだ行ったことのないシルクロードか雲南辺りなんかいいんじゃない」「ぜひ行きたいなぇ」だった。そのことが何時のまにやら盛り上がってしまい「行きたい」から「いつ行く?」に変わっていて、「じゃ、この夏あたりどう?」「今年の夏ってか?」ってなことに話がトントン拍子に進み、まとまっていって、「ほな行こか」という具合にあっさり決まってしまった、のであった。
げに勢いとは恐ろしきものかな。
因みに、翌日は浅草の仲見世やら芝の増上寺やら東京塔やら隅田川下りやらと、所謂「東京見物」に付き合ってくれてと言うか、連れていってもらってと言うか、典型的なお上りさんしてました――奇特にもその日用事がないと言って付き合ってくれた人は、その夏アメリカへ福祉の勉強に行った、あれから日本へ戻ってきたのだろうか――。
その年の8月2日、みんなは神戸に集まった。ぼくとパオ(仮名)、それに紅一点のファン(仮名)、そしてその日初めて会うファンの連れのマオ(仮名)の男3人・女1人の計4人。パオとファンは大学院1回生、マオは大学4回生。ぼくを除き彼らは前日に夜行で東京を発ち一足先に神戸に入っていた。神戸というのは偶々当日が神戸ポートターミナルから新鑑真号の出航――今は上海に向けて大阪と神戸の隔週出発だが当時はまだ横浜・大阪・神戸と順繰りに出航していた――となっていたからで、みんなで初めて船で中国入りという算段。
乗船手続きを済ませ、8人部屋の2等洋室に入る。すると後からどっかで見たことのある顔が入って来た。おっ、紛れもなく知った顔。何と、ぼくが西安にいる時に出会ったシ−アン(仮名)ではないか。この春なったばかりの得難い高校教師の職を擲って西安へ長期留学するために新鑑真号に乗船したと言う。西安で中国にどっぷり填り、もっともっと勉強したくなったという話だ。いとも容易く転身できる彼女に羨ましさを覚えるが、同じ時期に同じ船に乗り合わせる縁の方に大いに驚いた。ただ後で考えてみると、9月の新学年スタートや仕事の後かたづけからすると至極妥当な時期だったかも知れない。シーアンとは2泊3日の船旅と上海での数日を共に行動することとなった。
船は、大阪湾を南下して関空の工事現場(その年の秋開港)を過ぎ、紀伊水道を抜けると、黒潮の出迎えを受けていよいよ太平洋。四国沖から鹿児島へと日本列島沿いに進む。日長、大海原を見つめていたり、見つめていたり、見つめていたり………、健康的な日焼けを兼ねて。飛び魚や偶〜に見る海豚?、方向からすると中国行き(?)の飛行機、遠くの船なんかをぼ〜んやり見つめて過ごす一日。海に反射する夕陽、夕陽に映える雲、どれもが美しく海原での夕陽には格別のものがあった。夜には、上陸後のコースやらシルクロードのコースやらを考えたり、小姐のカラオケを聴きに飲みに行ったり(当時は、今でもだけど中カラなんてよう歌わんかったなぁ)、真っ暗なデッキで星を眺めたり、将来の話を聞いたり、と普段の生活を離れたちょっとばかし贅沢な刻の過ごし方をしていた。
8月4日、海の色が徐々に黒青色から茶色・珈琲色へと変化してきて浮遊物も目立ち始めると間もなく陸が近づいてくる。漁船や貨物船が急にそこかしこに増えてくる、――長江だ。よく海のようだと言われるが、強ち誇張ではなく、黄海に直結する下流域辺りはやはり広い。この頃になると船員たちは船首甲板に出だして、到着の準備を始めている。いよいよという感。
船は大きな中之島の崇明島を後ろに擁する長興島との間を進みんで行くと、今度は呉淞口から黄浦江に進路を取る。対岸の景色も林から各種工場群へとゆっくりと変わるにつれ船は市街地へと入って行く。各国の貨物船、黄浦江の観光船等々行き交う船がグーンと多くなる、対岸には係留されている貨物船、ちょっとしたドッグ、工場、渡し場等々、ビルも目立ち始め、楊浦大橋をくぐると、やがて戦前の魔都上海の表玄関とされた外灘の建物群が見えてくる。景色の移り変わるさまをバックに写真を撮り合っているうちに大名路の国際客運站に到着した。でもまだ何処に泊まるか決めていなかった。
上海到着日は暑〜い日だった。下船後、さあ何処に泊まろうかということになったが、ファンは上海で常宿にしている金門大酒店に自分とマオの分を予約していると言う。おい、おい、そりゃないでぇと思いながら、旅の始めにちょっと高いところ――中程度だから必ずしも高いということもないが――を敬遠したいという気持ちからみんなはドミトリーがあり船で入国した人たちの常宿となっている浦江飯店に行こうということになって、炎天下荷物を背負って歩くこと10分。だが一足違いで満員となり、しばし考え込む。そこで以前ぼくが泊まったことがあり某ガイドブックに載っていた上海○○学院に行こうと決まった――この時点ではまだ両替していなかったことがあとで響くことになるとは――。車で乗り付け、部屋を確保しようとすると押金のないことが判明。荷物を置いて急いで両替に行き戻ってくるが、ここでも一足先に部屋が一杯になったと言う。またしてもと思うが「両替に行くけど待っててくれると言ったやないか」「先に予約してたやろ、何で後から来たもんにかすねん」とみんなで激しく詰め寄るものの無いものは無いということで、しかたなくその場を後にし(粘り足らなかったか)、取り敢えず金門近傍で偶然見つけた襄陽飯店にした。その夜はみんなでこれからの旅・留学の始まりに乾杯をした。
翌5日、ぼくらは宿をもう少し安い中国科学専家招待所に移し、その夜は和平飯店のお爺さん達の爵士楽を初めて聞きに行った。これは中国に来る前からみんなで聞いてみようと言っていたところで、演奏の質そのものより文革に耐え高齢にも関わらず再度楽器をとって演奏している姿の方に感心と共に言いしれぬ感動を覚えた(気がした)。この日は各自自由に動き、烏魯木斉行きの飛行機や列車の切符を取る者と分かれて行動していた。今回の絲綢之路出発地・烏魯木斉へ行くのに、車窓風景を眺めて道中を楽しみたいのとその日のうちに着き向こうでしばらく過ごしたいのとに好みが分かれたためだった(どうも何から何までみんなで一緒じゃなくてそれぞれがそれぞれの楽しみ方をしたい者同士でしょうか)。
次の日(6日)、西安に長期留学するシ−アンと
シーアン:「帰りにぜひ寄って行って」
ぼく:「できれば寄るわ。住所教えといて」
シーアン:「まだ分からない」
ぼく:「そりゃそうや」
こんな趣旨のことを二言三言交わして別れ(彼女は列車の都合で上海にもう1泊)、みんなとはまた2日後に烏魯木斉で集合しようと約束して、それぞれ列車で行く者と飛行機で行く者とに分かれた。今回の旅は、予め宿を予約しておかず、現地に入ってから決めようという、臨機応変に対処しようと言うか行き当たりばったりと言うか、そこらあたりも楽しもうというスタンスだった。
列車は没問題であったが、飛行機は天候等々の関係で常の如く遅れ烏魯木斉に到着したのはかなり夜も遅くなってからだった。当然、空港のホテルインフォメーションも閉まっていたため取り敢えず近くにあった皇朝大酒店に宿を取り、翌日(7日)にはさらに安い、駅近くの新疆飯店へ移った――某ガイドブックの評判はよくないがぼくらの場合は偶々かそんなこともなかった――。この日は朝からシルクロード旅游のために旅行社へ車のチャーターと運転手・ガイドのレンタル交渉に行った。車はランクルを避けミニバスとしたが、運転手とガイドを加えた6人の乗る車の長旅では正解だったようだ。ガイドはまだ新疆大学の学生だったが、夏休みにはいつもこのバイトをするようで決して経験不足じゃなく、人のいいあんちゃんといったところ。あとは当日会う運ちゃんだけか。このあとは烏魯木斉散策……、東経度上、烏魯木斉は北京から本当なら数時間の時差があるけど、北京時間だから夜はまだまだ8時過ぎまで明るく、何時までも昼間の気分(北京時間と非公式の新疆時間がある)。本場の羊肉串やナン、抓飯(ポロ)等々、それに哈密瓜に西瓜・香蕉・葡萄、果物類美味しかったなぁ。北京や上海で食べるのとはやっぱりちゃう。さらに新疆料理の一つで、安い、焼きうどんに近い拌面(ラグメン)も店によって中の具や味付けが異なり、美味しかった――このあとの旅ではずっとお世話になる料理――。それにしても街を歩く人たちの眼の色が違う、中央アジア特有とも言える長い歴史の間の諸民族間の混血の果てか、綺麗な人がやたら目に付く(知らず知らず綺麗な人を捜しているとも言えるが)。それまで見かけていた漢族の姿がめっきり減りそこらかしこにウイグル族の人々だ。しかし、実際の人口は漢族がウイグル族を遙かに上回っているので、沿海部の漢族しか見てこなかった目にはそう映るだけだけど………。
8日には駅まで列車組を迎えに行き合流し、9日に出発した。長旅なのでどんな運転手さんかと若干心配していたが、実に気のいい運ちゃんで、新疆の白酒が中国一の白酒と言ってはばからないその笑顔が妙に親しみを感じさせる漢族のおっちゃんだ。この日はまず天池でゆっくりし、さらに天山山脈の北側をカザフスタンとの国境に向けて進み――途中で一泊――、10日に国境の町霍尓果斯から霍城、伊寧――かつての天山北路――、11日天山山脈の内側を抜け庫尓勒に出て、庫尓勒から庫車へ進む。伊寧からナムト、バルクンタイへ進む天山山脈の内側――南に天山山脈・北にコキルチャン山脈ボロボロ山脈――は道幅が狭くウイグル族の乗る耕耘機や驢馬車が通い並木越しに見える長閑な風景を堪能できた――でも夜になると寒いのなんの――。このあたり(詳しくは何処だったっけ?)で初めて新疆西瓜を食べた。運転手のおやじさんが昼下がりの休憩時に買ってきてくれたもの。その瑞々しさといったら一口かぶりつくと口一杯に甘さが溢れ、いっぺんに、一瞬だけど暑さが吹き飛ぶ心地。夜もかなり遅くなってから道沿いの宿に泊まる。
12日には庫車に入った。庫尓勒(烏魯木斉からだけど、ぼくらは途中からその道に入ったから)からこちらは道が舗装整備――かつての西域北道(天山南路)――されていて思ったより快適な車の旅となっている。庫車は昔、亀茲国のあった場所で、『漢書』によると戸数6970、人口81317、兵21076とあり西域諸国の中でも大きな国家だったようで、しかも4世紀には鳩摩羅什を輩出している国だ。庫車と言えば、新疆最大とも言われている、――町から西北に75km程離れた拜城県にある――、克孜爾千仏洞だけは見ておこうということになった。ここは敦煌と異なり塑像もほとんど残っておらず見られる窟の数も少ないが、往事の亀茲を偲ぶには十分(近くには千泪泉がある)。さらに何たって夜市で食べられたことは、みんなにとっても久々の美味しいものにありつけた感。おやじさんの白酒を飲む顔が思い出される。庫車でゆっくりしたためか13日夕方遅くにようやく阿克蘇に入った。翌昼、三岔口――ここが喀什方面・莎車方面への分岐点――で食事を取り、喀什手前の阿圖什で一泊。阿圖什から喀什まではもう目と鼻の距離、久しぶりにおやじさんやあんちゃんたちとゆっくりと飲んだ記憶がある(?)。ここで泊まったホテルは夏は湯が出ないという水シャワーだったが、ここまで来るとさもありなむと思う。某ガイドブックには「外国人観光客もほとんど来ない、静かなこぢんまりとした町」と書いてあったが、そのこぢんまりさがまたいい頃合い。ここではイスラム教を信じた最初のウイグル人という伝説のある蘇勒坦麻扎を見に行ったような見に行かなかったような、記憶が曖昧。で、翌日に喀什に入った。中国西端の街、経度では、もうネパールは言うに及ばず、釈尊ゆかりのインドの仏教聖地を優に越えていて、パキスタンはもうすぐそこ――以前聞いたことがある。その人の知り合いが塔什庫尓干(喀什から294kmの地)で驢馬を買いそれに乗ってパキスタンとの国境フンジェラブ峠(4943m)に向かうのを見送ったと――。