2001年11月10日
『愛情麻辣湯』(スパイシー・ラブスープ)の張揚監督が新作『洗澡』(こころの湯)を撮った。この作品を初めて知ったのはある知り合いの話に出てきたことだったが、「おっ、これか!」と実際目の当たりにしたのは中国でCD・VCDを買う最中だった(いい〜もの見つけたという感覚だった)。帰国後そのVCDを見て面白そうと思っていたところが、程なく日本での上映(単館上映だけど……)となったわけ。映画は家で好きな時に好きなように見られることもいいけど、都合がつけば大きなスクリーンで見るほうが遙かに臨場感があり好きな見方。
それにしてもパンフレットには、1999年トロント国際映画祭国際批評家連盟賞受賞、1999年テサロニキ映画祭グランプリ(Golden Alexander)&観客賞受賞 、1999年サンセバスチャン国際映画祭監督賞&OCIC賞受賞、2000年ロッテルダム国際映画祭観客賞受賞、2000年ブエノスアイレス国際映画祭撮影賞受賞、2000年ファーイースト映画祭観客賞受賞と書いてあり、まあ取るは取るは多くの賞を取っているものだ。純粋に中国都市部下町の物語ではあるけど中国の枠、東アジアの枠を飛び越えて世界中の観客に愛される映画になっているようで、見る前から自分のことのように嬉しくなってきた。しかも主役が父親役の朱旭、兄弟役の濮存マ、姜武の3人。わたしにとっては姜武以外はみな馴染みがあり演技もしっかりしている人たちで、やはりいい作品を予感させてくれる(見終わって姜武の演技もよかったなぁ〜)。ことに銭湯好きのわたしにとっては。
かつての日本と同じように都市再開発の中で、昔ながらの人情味溢れるいい風情がまた一つ消えようとしている、そんな北京下町の銭湯での話。特に2008年の北京オリンピックに向けて準備が加速するだけに、映画だけのことじゃなくて実際にこの傾向は強まりこそすれ弱まりはしないのだろう。寂しいけど。
再開発のため既に撤去が決まっている一角に朝から庶民が集う昔ながらの銭湯「清水池」――日本風に言えば清水温泉か清水湯かな?――が舞台となっている。その銭湯経営を天職として勤め上げてきた主人劉父さん(朱旭)とそれを手伝う次男の阿明(姜武)。そこへ深〔土川〕で家庭を持つ長男大明(濮存マ)が帰って来ることから物語は始まる。何気ない阿明からの絵葉書に、父親の身に何か起こったかと勘違いして久しぶりに帰って来た大明。
そこには彼がいたころから変わりのないであろうと予想させる風呂屋の日々があった。めいめい湯船につかり、またマッサージを受ける人たち。蟋蟀対戦をする老人、毎回シャワーを浴びながら「オーソレミヨ」を歌う少年、夫婦喧嘩を持ち込む隣人、やくざ風男たちに追われるネオン業者等々、銭湯を核にさまざまな人生模様が繰り広げられている。日本でもその昔交流の場として機能している銭湯があったことを思い出させてくれる一コマ一コマ。どれも何故か微笑ましく愛おしく思われてくるのは、もうスクリーンの中だけでしか見られることのなくなった庶民の姿だからだろうか。
いい頃合いでトラブルに向き合う劉父さん。夫婦喧嘩をうまく仲裁し元の差やに収めさせるが、長年の疲労が溜まったのか喧嘩を収めさせた後の風呂の中で亡くなってしまう。大明は阿明を引き取る決心をするものの父親の死を受け入れられない阿明は何時ものように開店準備をするあたりは、見ている側はとても痛い気持ちになってくる。既定方針通り取り壊しの日が近づく中で、最後の地域のお別れ会が開かれ、件の少年が「オーソレミヨ」を歌い始めるが、その少年はあがり症で歌えない。日頃のシャワーの中でしか歌えないため阿明がホースの水を撒きそれに後押しされて朗々と歌い上げる少年。
この映画では「オーソレミヨ」(中国訳題:わたしの太陽)が一つの鍵になって物語が展開しているようだ。最初風呂場で歌う「オーソレミヨ」、しかもシャワーを止められると途端に歌えなくなり再びシャワーを浴びながら歌い始める「オーソレミヨ」、地域お別れ会の予行練習で歌えない「オーソレミヨ」、ここまでは劉父さんたちが見守っている。お別れ会本番でずぶ濡れで歌う「オーソレミヨ」、引越の別れ間際少年から阿明に渡される「オーソレミヨ」のカセットデッキ(ウオークマンか?)、取り壊し寸前のお湯が抜かれた風呂場で阿明が歌う「オーソレミヨ」。銭湯のそれぞれのシーンで「オーソレミヨ」が歌われている。物語の展開と共に次第に切なくなってくる。それに従い次第に心に沁み込んでいく過程となった。人々にとって「太陽」とは掛け替えのない「銭湯」だったのではないだろうか。そんな気がしてならない。
一言で言えば、切ない映画だった。それぞれの人にとっての「太陽」が「銭湯」であったはずなのに再開発でその場を追われちりぢりにならざるを得ない現実。その突きつけられる現実を前にしてなおも人々は自分の心に刻みつけるように銭湯の湯船に身を置く。最後に取り壊された風景をビデオに収める銭湯常連の二老人の姿が何故か痛々しく思えてならなかった。本来人間と切っても切れない関係であるはずの水(湯)を近代化という形で容赦なく変形せざるを得ない現代の一景なのだろう。
最初、邦訳を見てもっと良い訳があるのでは思っていた(例えば「北京銭湯物語」とか「北京の湯けむり」とか「北京の太陽」とか、みんな北京付けてるなぁ。ん〜合ってないかな?)。見終わってみてなおも別訳に拘りたいけど、これはこれでまたいいかな――還好ってとこか――と思えてきた。