1) 云 崗 石 窟 (山西省大同)


 河北省の隣りに、黄河の東側・太行山脈の西側に位置する南北に長い山西省(太行山脈の西ということから省名がついたらしい)がある。その省都太原から北へ200km程、北京から西へ200km程――列車で7〜8時間位――のところにかつて南北朝時代、494年に洛陽に遷都するまでの約100年間北魏の都(古称:平城)があった大同がある。夜遅く寝台で北京を発ち、早朝大同に着いた。駅近くのホテル(飛天賓館だったかな?)で朝食を済ませ、早々に―これで何度目だろうか―雲崗に向かった。雲崗に行く途中ではよく石炭トラックを見かけた。世界遺産雲崗石窟の大同と今の石炭産地の大同とが過去と現在の大同の姿を現しているかのようだった。道すがらすれ違う数珠繋ぎのトラックも道路もみな黒っぽく、青い空だけが妙にくっきりとしていたような………。

 大同から西へ16kmほどの武州河北岸の武州山南麓、ここは北魏の旧都盛楽(内蒙古ホリンゴル)と都平城(大同)との道筋にあたる場所で、東西約1kmにわたって開鑿された石窟が中国三大石窟或いは四大石窟の一つ雲崗石窟。東部に第1窟から第4窟、中央部に第5窟から第13窟、西部東半分に第14窟から第20窟、西半分に第21窟から第53窟、他に小龕が1千百程あり大小5万1千体以上の仏像があると言う。售票処を抜け東部から西部へと順番に、目眩く北魏仏にいざなわれつつ時間は過ぎていった。太武帝の廃仏後、文成帝が仏教復興を命ずると帝に願い出て460年に開鑿をしたと言う曇曜の五窟(第16窟〜第20窟)から始まり、それから孝文帝が洛陽に遷都するまでの間主要な造営が続けられたと言われている(その後も造営されていたそうだが、某ガイドブックには遼・金代まで続けられたとあった)。中国にはスケールの大きなものが多いが、ここ雲崗もその一つ。よくぞここまで造営したもんだと、しみじみ思ってしまう。

 東の第1窟第2窟は中心柱のある北魏窟、第3窟が二つの仏塔が彫られた幅約50mの最大の石窟で、遷都により未完成だったのが後代に前室に弥勒像・後室(主室)に阿弥陀と弥勒と大勢至の三尊像が彫られている。特に約10mの阿弥陀倚坐像は唐代初期のものでふくよかな美しさに溢れていた。

 中央の第5窟第6窟は曇曜窟に次ぐ古さ(ある本には第7〜第10窟が曇曜窟に次ぐ古さとあった)で2窟1組の設計だそうで窟前には清代の木造楼閣がある。第5窟は雲崗最大の約17mの大仏のいる大仏窟となっていて窟内いっぱいの仏龕や仏・菩薩・飛天が彫られていた。圧巻の一言しか出てこなかった。第6窟は中心柱窟で上下2層の大仏龕に坐仏と2菩薩がおり他壁には仏龕・仏・菩薩・飛天が彫られ塔柱下面には仏伝図が彫られていた。よ〜く目を凝らして見ると順に奏楽天人・花飾りを持つ化生・坐仏小龕・蓮弁文帯・立仏像・蓮弁文帯の上層部と坐仏大龕・唐草文様・仏伝彫刻・瓦葺屋根の下層部からなっていて、方柱にも上層に4隅9層塔に立仏像、下層に4仏龕が配されている見事な造りとなっていた(間違っていたらすんまそん)。
同じく2窟1組の第7窟第8窟は前室が隧道で結ばれ窟前には木造楼閣の跡があった。第7窟には交脚弥勒菩薩、第8窟には釈尊をそれぞれ主尊とし、共に主室北壁の上下2層の龕内にその本尊を置き他の3面に仏龕を配していた。
第9窟第10窟では主尊を後室後部中央に安置し、隧道が設えられている。天井には蓮華と飛天があり4壁に仏・菩薩が彫られている。この4窟(第7窟〜第10窟)とも門神を彫っているが、特に第8窟には東壁に牛に乗るシヴァ神と西壁にガルーダ鳥に乗るヴィシュヌ神のインドの神像が彫られ、第10窟には翼のある冠をつけた金剛力士像にギリシャ風の面影があった(気がする)。
そうこうしながらこの五華洞(第9窟〜第13窟)を順に見つつ、ようやく曇曜の五窟に到った。

 西部の内、第16窟から第20窟までが曇曜の五窟と呼ばれる北魏皇帝5人(道武帝・明元帝・太武帝・晃穆帝・文成帝)に準えて彫られたと伝えられる仏像のある窟で、何れも13m以上ある仏たちだった。第16窟に立仏像、第17窟に交脚菩薩像、第18窟に中尊の立仏像と東西立仏像に脇侍菩薩像、第19窟は雲崗第2の約16.8mの釈尊坐像に周壁の千仏・東南と西南両角上部に立仏像・東西の脇窟に仏倚坐像、前壁が崩れて全貌が現れている第20窟に主尊の坐仏像や立仏像が彫られていた。何れもガンダーラ、中インド、中央アジアの影響を受けていると言われているだけのことはあり、顔の造りが今まで見慣れていた仏像とやや趣を異にしている風に感じられた――雲崗そのものが鮮卑族の拓跋が作らしただけに諸式が混ざってるといやそうなんだけど、特に曇曜のはそう思われる――。
お約束というか、露坐となっている第20窟前での写真。内外の観光客が必ず撮るポイントとなっていて、いったい何人の人たちのシャッターを切ってあげたことか。。。。。やはりカップルはいいもんだなぁ〜〜、わたしも縁があればそうしたいと思った仏像前だった。もちろん撮ってもらったことは言うまでもないんだけど………

 西部の第21窟から第53窟までの西端諸窟は洛陽遷都後に造営されたそうで、規模もう〜んとちいちゃくなり、第35窟入り口東壁には延昌4年(515)と最後の紀年銘が発見されていると聞く。


 どことなくエキゾチックさを醸しだし見る者をして飽きさせず、一通り眺めてまたお目当ての窟に足が向いていた。どれくらい経ったのだろう、もうお昼はとっくにまわっていたのだろうか。お腹が先ほどから空いていて、現実に引き戻される。大同に戻ってご飯食べようっと。




2) 善 化 寺 九龍壁 (山西省大同)


 太行山脈の西側に位置する南北に長い山西省(太行山脈の西ということからの省名)の省都太原から北へ200km程、北京から西へ200km程――列車で7〜8時間位――のところに大同市がある。その大同へ雲崗石窟から戻る。大同駅の南側に旧城壁が残されており往時の大同を彷彿とさせるようだ。城壁内は東西南北に大東街・大西街・南門街(大南街)・大北街の大通りが縦貫しており、その南門街を北へ向かって移動し城壁の南門を入ると直ぐ西側に善化寺(南寺)がある――別に大北街から大南街へ抜け南門の手前で右手に入ってもいいんだけど――。唐の玄宗の開元年間(713〜742)創建と伝えられている寺で、唐時代一州ごとに開元寺一寺を設置していたために当初は開元寺と称されていたらしい。その後、五代の後晋時に大普恩寺、明の英宗の正統10年(1445)に善化寺と改称されている。
 ただし遼代末(1122年)に兵火に遭い金代初期、円満によって再建され天会6年(1128)・皇統3年(1143)の二度修復されているため遼・金の非漢族系の寺院とも言える。今は山門、三聖殿、大雄宝殿等が残されているだけで、最大の大雄宝殿も同じ時期の金の天会・皇統年間(1123〜1149)に重修されている。今ではディテールは覚えていないが、主に金代に作られた塑像や壁画(清の康煕年間(1661〜1722)に手を入れている)は素晴らしかった。
 その足で寺域庭園内を散策していると、興国寺から移された(←某ガイドブック)と言われている五龍壁があった。五彩の五龍は、これはこれで見事な龍たちだった。

五龍壁と言えば、大同には他に九龍壁や三龍壁もあると聞いている。ここの九龍壁と北京の故宮・北海公園にある九龍壁と合わせて三大九龍壁と言われている。大南街から十字路口を右折して大東街に入ると直ぐに九龍壁がある。中国では寺や大邸宅の門前に遮蔽や装飾のために照壁・影壁と称される壁が作られる。明の太祖朱元璋の十三子朱桂が1392年に大同に封じられ、彼の邸宅前に作られたのがこの九龍壁。明末の兵火で邸宅は焼失したが九龍壁だけは残り、その後区画整理等によって南へ28mほど移されて現在の地に置かれている。門票を払い中に入ると、その一角は学校の運動場を思い起こすような整地されただけの地面、その向こう側に九龍壁だけが立っていた。全長45.5m、厚さ2m、総高8m、高さ2.09mの須弥座の上に高さ3.72mの壁身があり、そこに黄・緑・朱・紫・藍の五彩の磚(瑠璃瓦)を積み重ねて九匹の龍が描かれ、更に上には屋根が設えられている。他に何もないところに壁だけがすっくと立っているので、壁の偉容さと大きさは見事に強調されており、その五彩の鮮やかさが眩しかった。



3) 華 嚴 寺 (山西省大同)


 太行山脈の西側に位置する南北に長い山西省(太行山脈の西ということからの省名)に、北京から西へ200km程――列車で7〜8時間位――のところに大同市がある。大同駅の南側には旧城壁が残され、城壁内は東西南北に大東街・大西街・南門街(大南街)・大北街の大通りが縦貫している。南門街・小南街を北へ進み(別に大北街を南へ下り鼓楼を潜って馬市角でもいいし大西街からでもいんだけど……)馬市角を左折して賜福街へ到ると華嚴寺があった。唐代創建と伝える説もあるようだが、遼代まで遡り元代に焼失したものが明の宣宗の宣徳年間(1426〜1435)に再建されたと言われている。上下二つの華嚴寺からなっていて、明代中期15世紀末に分けられ(某書)今日に至っている。
 上華嚴寺は山門、前後両院、回廊、大雄宝殿、念仏堂等々よく整えられていて、中でも大雄宝殿は遼の清寧8年(1062)創建と伝えられ1600uの大きさを誇っていたけど遼末金初の1122年に兵火に遭い金の天眷3年(1140)に再建され今に至ると言われている。正面約54m、奥行き約27m、1477u、遼・金代のものでは最大規模の建物と言われ、中には明代の五仏の塑像や二十諸天像が安置されいるそうだ。前回――といっても大分前のことだけどその時は修理前だったんじゃないかな〜――は見られたような微かな記憶(記憶違い?)があるが、だが今回訪れたときには修理中のため上華嚴寺自体よく見ることができなかった(書いている今はどうなんだろう?)。
 下華嚴寺は上華嚴寺の東南にあり、前後両院が残されている。遼の重煕7年(1038)創建と伝えられている薄伽教蔵殿には、遼代の塑像群の脇侍菩薩像が安置されていて「東洋のヴィーナス」と言われ、何でも中国仏教美術を代表して切手のデザインにも使われたそうで、これは実に美しい群像だった。ただ中は暗くすべて見ることができない(照明欲しい〜)。金網の柵越しにぴったりとくっつき目を凝らして少しでも堂内を見回そうとするわたしたちに、静まり返った堂内の塑像たちがこちらに微笑みかけるような気がした――錯覚と言われれば錯覚ですね――。こうして時折訪れる衆生たちを慈愛の眼差しで迎えてくれる、それだけで来てよかったと思わずにはいられなかった。何百年分(数十年かも)の埃だろうか、その間の様々な歴史を見続けてきたのだろうか、全身に纏った埃からは否応なしに時の過ぎゆくさまを感じさせながら、今またわたしが訪れていることもすぐさま過ぎ去ってゆくのだろう――ここに来ると柄にもなくこんなことを考えてしまう――。



4) 懸 空 寺 (山西省渾源県)


 山西省北部の町大同より東南に60kmほどのところに中国五岳の一つ北岳(明以前は河北省曲陽県西北の太茂山)の恒山がある。渾源県から東南へ5km、恒山の主峰(東の天峰嶺、西の翠屏峰)天峰嶺渓谷下金龍口西崖に懸空寺がある。車を降り、道から伺うと川向こう、ダムの横に寺が見えている。よくぞこのようなところに建立したものだ。かつては急流だった川を渡り川沿いの露店を冷やかしながら進むと、ダムを左に見て右を向くと谷底から約26mの断崖上に山腹に張り付くように北魏末の6世紀に建立された(金・明・清代に重修)懸空寺が目に入ってくる。崖に穴を穿ち梁を差し込み土台を組んで建てられた大小の楼閣同士を上へ下へ右へ左へ曲がりくねった桟道で結び、真ん中の危楼という3層楼閣が各層に回廊を巡らせ南北の壁に懸かっていて全体を引き締めているように感じられた。山門を抜け鐘・鼓楼から道教の神を祀る三宮殿や釈尊を主尊とする三聖殿、最も高い所には位置する三教殿には釈尊・老子・孔子の塑像が祀られていた。三教殿の外から辺りを見回すと、右手のダム、そこからの瀧、左手の山々、それ以外には何もなく月並みの言葉だけど「奇観」というに足る寺の一つだった。それにしてもこのような場所に建立する人たちの気概を見る思いがした……。
テレビで見ただけで行ったことはないけど日本の三仏寺(山陰だったかな?)の投げ入れ堂も規模こそ違えど崖に建立されていて、奇観という言葉が似合う。方や修験の寺、方や三教混淆。山岳の地で道教や孔子なども祀られているところに面白みがあるような。



5) 仏 宮 寺 (山西省應県)


 山西省北部の町大同より南へ約72kmの応県に仏宮寺(木塔寺)がある。寺内の釈迦塔(木塔)は応県で一番高い建物だけではなく、中国で最古・最高・最大の木製建造物として有名である。さすが天柱と言われることだけのことはあるもんだ。塔身は全て木製で斗〔木共〕と梁を組み合わせ内部は二本の柱が並び二重の筒形の構造をしている。
 遼の清寧2年(1056)に創建されて以来、今日まで約千年余りその地にすっくと立ち続け、元代の地震にも他の建物が崩れる中、木塔だけはびくともせず凌いだという。
 高さ67.31mの塔は、平面八角形、2層約4mの台基上に外観5層・各層間に外から見えない暗層の計八角九層から成っていて、一番上には鉄製の覆鉢・相輪・露盤からなる塔刹が聳えている。各層の塔心部には塑像が安置されており、第一層には高さ11mの釈尊の塑像がわたしたち訪問者を迎え入れてくれた。第三層で四方仏に会い、第五層では釈尊坐像に八大菩薩が今や遅しと待っていた。上に昇るにつれ周りは全て平屋の家々が広がり、その向こうには荒涼たると言ってもいいような大地が広がっていた。何度来ても周りの風景は変わらず、都会での急変と言ってもいいくらいの変貌ぶりと比べて実にゆったりとした刻の進み方に悠久の中国の面影を見ずにはいられなかったものだ(書いている今はどうだろう?)。きっと周りに誰もいなかったら場違いだけど「ヤッホー」と叫んていたかも知れない―何でやねん―。
 また清の光緒年間(1875〜1908)に降ってきたという隕石が、木塔の前に無造作に雨ざらし状態で置かれているのも「置く場所違うんと違うの」と思いながらも野趣溢れていて感じがよかった記憶がある―でもこっそり削ったろぉとは思わなかった―。




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