03−  2003年9月〜10月 雲南  

―― 一通の速達――



春城
 今年の春は“非典”の影響で渡航自粛令が出ていてどこにも行かしてもらえなかった。それが6月以降ようやく落ち着いてきたため、夏から秋にかけてちょっと行く心づもりをしていた。

 夏真っ盛りの時分、知人に江南へ行く話をしていたら何の前触れもなく一通の速達が届く。内容は、雲南日程表。「えっっ、何だっ、こりゃ!」と思っていると、早速複数のルートからやんわりと真綿にくるんだような、それでいて切実なお誘いを受けた。よほど人数が足りないんだろうと思っていたら、どうやらそのようだったが……。「義を見てせざるは勇なきなり」と言うわけでは断じてなく、うまい具合に初めて行く場所も含まれていたもんで、これも何かの縁なんだろうとこじつけて、積極的に活用することにした。江南の知人から全くがっかりされることもなく――これはこれでどうかなぁ。ちっと寂しい――、行き先を江南から雲南へと変更した。江から雲へと「南」つながりだけど、つながってないか〜〜――結局、江南へ行けなかったと言うことは、その意味では知人は予言者だったに違いない――。

 そんなこんなで、関係各方面と調整(>大袈裟でした!)しながら、9月に広州経由で昆明に行くこととなった。昆明と言えば、99年に開かれた花博前に行ったきりだったっけ。あることで現地入りに同行するというか参加するというか、仕事と言えば仕事のような勉強と言えば勉強のような観光と言えば観光のような、玉虫色。ただ内心は、また仏像を見られる〜という軽い気持だったが。。。


 当日朝、関空から日本の飛行機会社の便で出発――本当は中国系の飛行機に乗りたかった。だってキャビンアテンダントのみなさまの化粧が濃いィ〜いのなんて、そりゃもう。偶々と思いたかったけど帰りの昆明から直行便でもきっちしそうでした、――。

 機内時間はあっという間に過ぎ、通常ならいい頃合いでやや過ごしやすくなって来ている気候だけど、広州は当然のことながら“悶熱”。前回広州に来たときの、あの街中の空港、広州白雲空港だった。前回時点からすると、だいたい完成間近ではと思っていたら、見透かしたように広州ガイド氏が「“非典”の影響で工事が大幅に遅れ、1〜2年後に完成する」と言うことそうだ。空港内部はこぢんまりとしていながら雑多の人、人、人。ようやく中国を実感できる場所だ。国内便への乗り換えの都合で、まだ数時間あるため、ここで孫文を記念して建てられた「中山紀念堂」を見に行くことになった。前回の時には見ていない場所だった。柱のない一階座席部分に丸天井、破損したら修理の材がもうないというステンドグラス。正面舞台上には国慶節準備のための五星紅旗。見学は私たちを含めて12〜13人、閑散としているので余計に大きさが際だっていた感じがする。短い観光――観光と呼べないと言う声が聞こえてきそう――を終えて、再び空港に戻る。
 小さな待合い空間に手荷物いっぱいで思い思いの恰好をした人々、何なんだろうなぁ…。本屋で立ち読みしながら柄になく一首「めいっぱい音を奏でる“手機鈴声”方言混じる“候機庁”」さらにまた一首「黄金の時を競うか土産詰め視線の先は案内表示」(>お粗末でした! えっ? もういい?)が浮かんだ。


 昆明に着いたのは、夜の6時半過ぎ。北京から来るあるお偉い方を出迎えるため駐車場で待っていると、次から次へと中国人団体旅行者がバスに飲み込まれて行く。国内各地から昆明へと観光旅行に来る人々だ。数えたわけではないが、私の前を通っていった団体は少なく見積もっても7つや8つあったのではないだろうか――旗を持ったガイドさんに先導されていたので、それくらいの数だったような気が――。北京時間だけど、昆明は実際1〜2時間ずれているので、7時前の割にはまだ明るかった。だけど、待てど暮らせど、やって来ない。そうこうするうちに夕焼けから「薄暮」「誰そ彼」状態へと暗くなった来る。
結局、北京の方は、疲れたので先にホテルへ向かったというこで、お迎え終了。ホテルへ直行と相成った。


 昆明では他の人たちは毎日朝から夕方までずっと博物館詰め。博物館班と言ったところでしょうか(>お世話様です)。
 私っ、私は、お寺班(>そんなところでしょうか)で、博物館に半日居て、それ以降は昆明では全てお寺に行ってました。幾つも廻ることとなったんだけど、前回も訪れたことのある円通寺にちょうど居たとき、大勢の女性信者たちが大雄宝殿(本堂)に集まって法会が営まれている最中に出くわした。途中から雨が降り出してきて急いで大雄宝殿の方へ向かうと、そこには大雄宝殿内部と十重二十重に殿を取り囲む黒衣を纏った女性信者たちが、スピーカーから割れるような大きな声の昆明訛と思われる導師の発音(ほっとん)に合わせて、一心不乱に五体投地しながら仏名を唱えていた。見たところ「三千仏礼拝」のようだった。しばらくして休憩時間に入ったので、傍らにいた二人連れで参加しているお婆さんに尋ねてみた。すると女性のための五日程続く法要の最終日とのことで、三千仏の名を唱えているそうだ。満願成就の日なのだろう。気さくに話しに応じてくれて写真までも撮らせてくれた。とげとげしさや張りつめた雰囲気はなくとても穏やかで、遠方から来た私に親切に説明してくれていることが印象的だった。
 降る雨の中、ただ見学している一般参拝者――物珍しそうに眺めたり煙草を吸ったり――と熱心な信者とのコントラストが、今の中国の一面を現しているように思えたきた。ちょうど数年前見たチベット・拉薩の大昭寺前で「〔口奄〕麼〔才尼〕鉢訥銘吽」〈anmaniboneminghong〉(>たしかこれだったと)と唱えひたすら五体投地しているチベット人信者とそれを眺めている人たちの光景を思い出す。これとあれとでは背景も現状も全く異なるのは言うまでもないけど、円通寺の光景は、現代の一端を垣間見たような気がした。


 ある日、昆明○○○○に居たとき(>全員集合です)、一仕事(?)終えて三々五々セルフサービスのお茶を飲んでいて、ふっ〜と何気なく外に出てみると、2階通路に腰掛けた女性職員が日本語の勉強をしていた。話を聞いてみると、日本人に陶器展示物の説明をするため日本語に訳しているとこだと言う。説明原文を自分なりに簡略にしたものを訳すとこだと言うので、両方見せてもらった。これは前もって陶器の知識がないと一度聞いただけでは分からないだろうと思えたたものの、彼女の訳では全く意味が通じていなかったので結果的にその場で簡略説明文の訳を手伝うこととなった。互いにシュミレーションしてみたりしながら一応途中まで形になった。だが、今思い出してみもこれは恥ずかしい。辞書で確認が出来ていないので、別の日本人が見たらきっと笑える代物なんだろう。やっぱり恥ずかしい。




大理国
 大理へは夜間フライトだった。最終便で夜遅く大理に着いた。漆黒の中から急に点々とした灯りが見えてくる。真っ黒なキャンパスに無造作に赤・黄・橙・白の絵の具を飛ばしたようだ。その一角だけが妙に明るく、直ぐに下関(大理新市街)だと分かった。山の頂上を削って空港を作ったそうで、下関は下に広がっていた。
 北京からのお偉い方、うちお一人はどうしても切符が取れず、その日の昼に一足先にバスで大理へ出発していた。それもそのはず、当初は一人だけの予定で各種手配されていたものが、当日(>あの待ちぼうけさせられた日)もう一人分追加となったものだから、宿泊・交通手段等全て新たに取らなければならなかった。で、どうしても座席が確保できず、往復バス旅と相成ったそうだ。前回、私が大理へ行った時は、まだ飛行機も列車もない昆明花博前だったので、当然ながらバスだった。当時は“高速公路”すらなくガタガタ道を約6〜7時間揺られた記憶がある。あれはあれでいいもので、たっぷり時間のある時はああいう旅もしてみたい。あの頃より格段に道もよくなっているし、楽しめるだろう。
 それにしても色とりどりのネオンとオブジェに飾られた市街に、いささか「浦島太郎」化してしまっていた。花博以前にちらっと訪れたことのある下関だったが、まるで別の街を見ている気さえしてくる。さらに下関から大理古城へ向かう道、ここは何度か往復していた道なのに、まるで別の道みたいに感じる。単に自分の記憶が曖昧になっていただけなのかも知れないと思うものの、否、違うみたいだ。料金所がある、道幅は確実に拡張されている、灯りも多い、何なって走りやすい。車窓風景はすっかり変わっている。
 以前来た時、大理古城を見て「前よりも遥かに観光地化されている、前の方がよかった」と嘆いていた人がいた。もし、その人が今の古城を見たら何と言うだろうか。開発に邁進し観光地化されることによって失う何ものかと得る何ものか。利便と不便、旅人と生活者との意識のズレ、古くて新しい課題をここでも感じた。こんな奥地でも「変化」の二文字がぴったりとくる………。


 翌朝、大理から110〜120q程離れた剣川へ向かった。普段は車で約3時間だが、あいにくの雨に山あいを縫う道のため4時間程かかる。雲南に来てから毎日降ったり止んだり、むろん太陽は顔を覗かせてくれるが、この時期は雨期に当たっていて年末までこういう状態が続くと言う。まるで琵琶湖西岸を走っているような、延々と続く右手の〔さんずい偏+耳〕海〈Erhai〉を抜け、幾峠を越えただろうか、剣川へ向かう道の周りに田圃や煙草畑・玉蜀黍畑が続く。ちょうと刈り入れのシーズンで、あちらこちらの田圃では村人たちが家族単位(?)で刈り取り作業をしていた。稲を直接台に叩きつける脱穀作業があったかと思うと、刈り取った稲を小分けして田圃にそのまま寝かせていたり、その異なった刈り取り作業が目を惹いた。中には連日の雨で、そのまま放置されているのではないかと思わせるような寝かされたままぐっしょり濡れた稲束や玉蜀黍束があった。刈り取った次の工程と思いたかったが、果たして脱穀等できるんだろうか。みんなの意見では田畑の肥やしにするためとなったが真相はどうだろうか?


 剣川は大理の北に位置し雲南の独立した地方政権南詔国時代から大理国時代(9世紀〜13世紀)にかけての石窟が残る場所で、外国人はそうそう訪れず中国人でも他省の人間にはあまり知られていない土地。武侠小説の大家金庸が書いたという「南天福地」の石門――大理には金庸『天龍八部』の撮影場所がある――を抜け、石畳を歩いていくとお目当ての剣川石窟。石鐘寺・獅子関・沙登村の三ヶ所に、仏教・阿托力教から王族・俗人等々多様な像。特に石鐘寺石窟の八大明王像は、大理国時代の密教隆盛を今に伝えていて、精緻さと言い、躍動感と言い、実に圧巻だった(>い〜い仕事してますね〜)。
 いつしか雨も止み、石鐘寺から獅子関、沙登村を巡り、ちょっとしたハイキング気分。登ったり降りたりの繰り返しで、山間での修行場所にもってこいの場所ではないかという気がするくらい宗教的雰囲気のあるところだった。対面の沙登村辺りから見る石鐘寺附近は、緑の山々に寺が融け込み雄大な感じがした。ここから見る壮大な風景を大理の人々はどういう思いで見ていたのであろう。大理が元に滅ぼされた後は、開鑿は行われることもなく、ただ土地の人だけがひっそりと伝えてきたのだろうか。

 その夜、相部屋の人がマッサージを頼んだ。向こうから勝手に電話が掛かってくる怪しい類ではなく、健全なマッサージのほうだ。歳の頃なら30絡み、やや黒光りしたような日焼け顔に真ん中で分けた黒髪を無造作に後ろで括り、黒の上着にダークブルーのパンツという出で立ちで現れた。往々にして田舎で見かける地味な服装だが、立ち居振る舞いから誠実そうな感じがした。ホテルに前払いで2時間100元だったか(>?、少しど忘れ)で、実際彼女の手元にどれくらい行くのだろうか。大理から100qほど離れた田舎出身の彝族の人で、ご主人と2人の子供を残して出て来ていると言う。マッサージの間、風呂に入っていた自分は全ての行程を見ていたわけではないので何とも言えないが、相部屋の人曰くとてもよく疲れが取れるそうである。最終工程間近にタイガーバームのようなメンソレータムのような鼻につんと来るものを背中に塗り込み、身体を叩き始めた。非常に少ない自分のマッサージ体験に照らしてみても初めての光景、身体に塗り込むものはあるだろうが、匂いからするとどう見てもタイガーバームのようなものだったが……。


 大理では、博物館や寺々を巡る合間に、ちょこちょこ(>いやいやこちらの方が多かったかな)地元をあちこち廻った。ある日周城でお昼(白族料理)を済まして、近くの胡蝶泉の藍染めの工房を見に行くと、20歳前後か或いは過ぎであろうかジーパンにTシャツというラフな恰好で白族の女の子たちが臈纈染めの工程を見せてくれながら迎えてくれた。こういう場合は、普通民族衣装に身を包むというのが相場だが、こちらの勝手な予想を裏切られる格好になった。でも民族衣装で観光客を迎えている姿をいつもいつも見ていたので、何かこちらの方が自然で素朴な感じがする。
 藍染め樽では男性職人による藍染めの真っ最中、多分に観光客目当ての実演だろうが、濃い藍色樽とやや緑かかった藍色樽とで染め分けた藍染めは見事の一言に尽きる。藍染めTシャツやら藍染めタペストリーやらの売り子に早変わりしたその女の子たちの中で、肩ぐらいに切りそえられた髪、大きな瞳に鼻筋の通った女の子の持ち場にお客が集まっている。みんな一通り商品を見て回るが、さして広くない場所にどこも同じような商品陳列なのに、どうもその娘のところで買い物をしている。値段交渉に応じる姿が嬉々として、とっても嬉しそうだ。一つ売るたびに何がしかのマージンが入るのかどうかは知らないけど、電卓とペンとが激しく動く、動く先には彼女の笑顔での応対。その女の子はその瞬間キラキラと輝いていたように見えた。 




茸鍋
 今年はと言うか、数年ぶりでと言うか、中国ではと言うか、とにかく初めて松茸を食べた。帰国前のお昼に各種茸取り合わせの茸鍋を食べた。
 自分たちが勝手に手を出すのはダメで、店の女の子が順番に種類ごとの茸を入れてくれて、ほどよい時間になったら食べてもよいとゴーサインが出る。鍋に入れられては食べ、食べては鍋に入れられる。その繰り返しがどれほど続いたであろうか。味は美味かった。そもそも茸の鍋が存在するとは今まで知らなかった。ましてや椎茸・キクラゲ・エノキ・シメジ・ナメコくらいしか食べたことがない自分にとって、知らない茸が次から次へと出てくるとその数の多さにびっくり。スライスやらそのままやらがどっと鍋に浮かんでいる。松茸もスライスされて鍋の中に鎮座している。他では食べられない味と言われるだけあって、十分堪能させてもらった。茸尽くしが終わると、あとに残った鍋は日本でも普通に食べるような野菜と肉の鍋になったが、出汁には茸のエキスが残っていて、これはこれでいけた。
 雲南と言えば、過橋米線、汽鍋鶏、宜良焼鴨と言われているそうだが、茸鍋もそこに加えてもよさそうに思えたが。




     回到旅路