HAPPY BIRTHDAY




 空を飛ぶのはあの日を限りにやめるつもりだった。
 だからこそ、退職を心に決めて帰国する為に乗った便は、勤めていた社ではなく龍神航空を選んだ。
 そこに運命があったなんて…運命の女神というものがいるのならば、それはまだ私を見放しては
いなかったようだ。

 折角の他社便。もう飛行機に乗る事もそうはあるまいと奮発して取ったファーストクラス。
 見慣れない制服の客室乗務員が立ち働く光景は、物珍しくもあったし、どこかまだ辞めてはいない
自社のクルー達と比べて見ている所があった。
 成田空港到着まではまだ8時間……。いい加減に観察にも飽きてぼんやりと雲しか見えない
窓外をつまらなそうに眺めた。
「橘さま……」
 柔らかな声音が間近で響き、振り向いた先に一人の客室乗務員が膝をついて微笑んでいた。
「何か?」
 機に乗った時から、その働きぶりに目を留めていた彼が突然話し掛けてきた事に驚きと共に、
小さく心が騒ぐ。
「本日…お誕生日でいらっしゃいますね?」
「え? ああ……そう…だったっけね」
 答えながら(チケットを予約するのに誕生日なんて…申告したかな?)と小さな疑問が頭をもたげる。
「おめでとうございます。こちらは当社からの心ばかりの記念でございます」
 彼はそう言って龍神航空のラベルが貼られたワインのミニボトルを差し出した。
「ありがとう…でも…どうして私が誕生日だと?」
「この業界で橘キャプテンを知らない者などいないのではありませんか?」
「自分がそんなに有名人だなんて今日まで知らなかったよ」
 ふふ…と微笑んで髪を掻き上げると、その彼は小さく首を傾げて問い掛けた。
「何かお飲み物でも? 外の風景など見慣れて面白味もありませんでしょう?」
「じゃあ、このワイン頂いてもいいかな?」
 先ほど渡された小さなボトルを手にすると
「同じ銘がございますので…赤と白どちらになさいますか?」
「では…白を…」
「かしこまりました」
(頭を下げる角度も完璧……だな)
 先ほど話をしながらチェックした名札の「藤原」という名前を脳裏に刻み付ける。
 爽やかな若木のような彼の後ろ姿を見て、ふと思う。
(彼のようなクルーが乗る便を操縦するのは……誇りだろうな…)
 おかしなものだ…と、小さな波が胸にさざめくのを感じながら、私は彼が再び現れるのを心待ちにしていた。
 程なく現れた彼は慣れた手つきでグラスにワインを注ぎ、私に勧める。
「美味しいよ。ありがとう」
「コクピットではなく、キャビンでお誕生日を迎えられる事は稀なのではありませんか?」
「ああ…初めてだね」
「あと8時間…どうぞお寛ぎ下さいませ。何かございましたらすぐにお呼び下さい」
 またも完璧な笑顔とお辞儀で去っていく彼を見ながら、ふと旧知の友の誘いを受けてみてもいいかも
知れない…と思い始めている自分に苦笑した。
(辞めようと思って乗った機で運命に出会うなんてね)
 そんな事を思いながら、胸から名刺入れを取り出し、「御門義人」とかかれた名刺を取り出して、ふふっと
小さく笑みをもらした。



「思い出し笑いなんて…キャプテンらしくないっすね」
 隣の席から副操縦士の森村が、何とも言えない表情で私を見ている。
「今日…何の日か知っている?」
「え〜と…6月…11日……なんだっけ……ん〜と…時の記念日!」
「それは昨日」
 私の言葉を聞いて、憮然と森村は計器を見やった。
「わからないです」
「わからないならいいよ」
「教えてくれないんですか?」
 明らかに不満げな声音を聞きながら、私はふふ…とただ笑うだけだった。
「…感じ悪ぃの…」
 その時、コクピットの扉が叩かれ、チーフCA藤原鷹通の柔らかな声が響いた。
「キャプテン、お待たせいたしました。お食事をお持ちしました」
「あれ?」
 森村は不審そうに運ばれたトレーと鷹通の顔を見比べた。
「藤原さん…何か…さっきの俺の飯と…このキャプテンのとじゃ…随分差がありません?」
「いいんですよ」
 鷹通は私の前に森村よりも二皿は多いトレーを置きにっこりと微笑んだ。
「キャプテン、お誕生日おめでとうございます」
「ありがとう」
 そのやり取りを聞いて森村は私と鷹通を見比べて「誕生日?!」と一言吠えた。
「森村、計器チェックを怠るな……You have?」
「I have」
 私の問いにぶっきらぼうに返事をする。
「藤原さん…今日がキャプテンの誕生日だって知ってたんですか?」
 キャビンへ戻ろうとする鷹通に、不思議そうに森村は尋ねた。
「ええ…もちろんです」
 そう言いながら、思い出したように鷹通は
「森村くんは4月2日ですね。同級生の中で一番にお兄さんになったわけですか」
 と微笑んで言いコクピットの扉を閉めた。
「へえ…藤原さんって、俺の誕生日も知ってるんだ」
 嬉しげな森村を見て、私は何故だかわからない不快な思いが胸を包むのを感じていた。
「…で、キャプテンはいくつになったんですか?」
「さあな」
「何怒ってるんですか? …ったくよぉ」
 森村の声を聞きながら、私は自分が今如何に大人気ない振る舞いをしているかくらいよくわかっていた。
(鷹通…誰にでも優しいのはね…時には罪なんだよ)
 ステイ先ではデートの約束は当然のように取り付けてある。
(さて…どうしてくれようかねえ)

 大人気ないキャプテンと誰にでも優しいチーフCAの彼がステイ先でどんな夜を過ごしたのかは
……また別のお話でという事にいたしましょうか。