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「おにーちゃん、早く早くぅ、おみずーーーーっ!」
「はいはい、ちょっと待ってくれよ」
如雨露に水を満たして、大神は中庭へと急いだ。アイリスがジャンポールを煉瓦の上にちょこんと置き、片手に小さなスコップを持って、地面を掘り返していた。
あやめに買ってもらったという朝顔の苗を植えるのだ。
二人で朝市までいった時に、鮮やかな青い花が咲く、という露店商にのせられて、アイリスが頼み込んだのだそうだ。もっとも、大神は「駄々をこねた」の間違いだろうと察しをつけていた。
「お。やってんな」
稽古を終えたばかりのカンナが、窓から顔をのぞかせた。
「カンナ、そこ踏んじゃダメだよ?」
「はいはい。ふーん、これが朝顔の苗かあ」
植木鉢の中に収まっている青葉に顔をよせて、くんくんとにおいを嗅ぐ。
「なんて種類?」
「んーとねー。『へぶんりい・ぶるー』って言うの!」
「ヘブンリー・ブルー? どういう意味だ?」
アイリスは笑顔のまま、大神に向き直った。
「おにいちゃん、どういう意味?」
「・・・『天国の青』、だね」
「ふーん。てんごくって、青いのー」
アイリスが妙な感心の仕方をした。カンナの方はもっと現実的である。
「朝顔なんかじゃなくてさ、トマトとか胡瓜とか、茄子とか植えたら良かったのに」
「カンナ、食べ物ばっかりー」
「・・・それって、菜園というんじゃないかな」
「ん? そうか?」
カンナがきょとんと大神を見返した。
そんな表情をすると、花組ではマリアに次いで年長だというのに、妙に幼く見える。普段から化粧っ気がまったくないせいもあるが、派手な造作がそう見せるのだろう。
「アタイの顔に、何かついてる?」
大神は笑ってごまかした。まさか、「みとれていた」とは恥ずかしくて言えない。
「もお、カンナはいつまでたっても子供ねえ」
アイリスが、つんと顎を上げていった。
「そんなんじゃ、アイリスがすーぐ追い抜いちゃうよ」
「ははーん。出来るもんならやってみなって」
カンナはにやにや笑いながら、少女を挑発する。
「だって、アイリスもうすぐ大人になるんだもーん。ちゃんとおにいちゃんの恋人になれるからねっ!」
朝顔に水をやりながら、堂々と宣言する。これには、大神の方が戸惑った。
「え? もうすぐ?」
「へへっ。五日までの内緒だよーん」
アイリスは胸をはった。
一階の楽屋では、舞台化粧をコールドクリームで念入りに落としたすみれが、身支度を整えていた。すみれが楽屋の鏡の前に陣取る時間はとにかく長い。
薄化粧を施した後に、鏡に向かって、唇を尖らせてみたり、目尻を延ばしてみたりする。
「・・・どうしたんですか?」
さくらが、後ろから、声をかけた。さくらの方は七月公演「愛はダイヤ」では、端役の娘役で、前半で出番が終わっているため、後は主演で出ずっぱりのすみれのフォローに回っている。
「───お宮を演じていると、つい、きつい顔だちになってしまうんですの。元に戻るようマッサージしてるんですわ」
「いつもと同じに見えますけど・・・」
「どういう意味ですの?」
「いいええ、あっはははは」
さくらのこめかみを冷や汗が一筋流れる。
「そ、そうそう。すみれさんに、手紙が届いていたんでしたっ」
慌てて、テーブルの上に置かれた白い封筒を取り上げる。
「またですよ。鹿沼子爵さまから。『シンデレラ』の感想じゃないでしょうか?」
「・・・またですの?」
途端にすみれの声が尖る。
「まあ、そんな事を言わずに。毎回すみれさんを見にいらっしゃる、大切な常連さんじゃありませんか。『椿姫の夕』の時なんか、すみれさんのポスターをありったけ買って帰られたとか・・・」
「───しょうがありませんわね。ま、あなたにモテる女の心境など縁がないでしょうから、お判りにはならないかもしれませんけど」
そういって、すみれは封筒を開けた。
中には、いつものように、びっしりと書き込まれた芝居の感想と、和歌が一首。
「春の野に すみれ摘みにし 来し我そ 野をなつかしみ 一夜寝にける」
(春の野に、すみれを摘もうとやって来ましたが、あまりに素晴しいのでみとれてしまい、とうとう夜を明かしてしまいました)
(すみれさんにみとれていたら、朝になってしまいました・・・)
文面から察するに、どうやら鹿沼子爵は、くだんのポスターを部屋に貼っているらしい。
「ふん。下手なかけ方ですこと。わたくしの美しさを誉めたたえるのなら、万葉集からの流用ではなくて、それ相応の歌をご自分で詠まれるべきですわ」
すみれは、そそくさと立ち上がった。
「わたくし、喉が乾いてしまいましたわ。一足先にサロンへいっておりますわね、おーっほほほほ」
「とかなんとか言っちゃって、しっかり懐の中にしまってますけど、手紙」
高笑いと共に去っていく主演女優の背中に、さくらはぼそっとつぶやいた。
口では文句ばかり言うものの、すみれが鹿沼子爵を気にしているのは、帝劇の誰もが知っている。すみれの立つ舞台を彼が見にやって来ない時は、彼女の機嫌は悪くなる。ただ、それが、少しは彼にこころひかれているゆえなのか、はっきりしたことは判らなかった。
自称「恋愛評論家」榊原由里女史によると、
「すみれさんは、あの通りの女王様的性格ですからね。崇拝されてる時はうっとうしがっても、いざ構ってもらえなくなると、寂しいんですよ、きっと。愛情とは違うんじゃないですかねー。だって、すみれさんが今、憎からず思っている相手って・・・」
それ以上は、にやりと笑って教えてはくれなかった。
「ふーんだ、モテなくて悪かったですねえ」
べえっと廊下に舌を突き出して、さくらは、化粧台に頬づえをついた。
「あたしは、すみれさんみたいに、何人も男性ファンや取りまきがいなくっても、いいんだけどなあ・・・」
たった一人の恋しい人が振り向いてくれれば、それでいい、と誰もいなくなった楽屋でつぶやいて、思わず顔を赤らめるさくらだった。
「やだ、あたしったら・・・」
マリアは桜木町の駅で京浜蒸気鉄道を降りると、知人の店まで円タクを使った。元町付近で降りて、時々メモした地図を確認しながらゆくと、目的のカフェはすぐに見つかった。
見覚えのある、手作りの看板にこっそり笑みを洩らす。
「ダドリーの店〜アニタとヴィク〜」
彼女と共にアメリカからやって来た若夫婦が開いた小さな店だ。この元町に場所を移してから、訪ねてくるのは初めてである。
扉を開けると、威勢の良い声が飛んできた。
「いらっしゃいませっ───まあ、マリア!」
白いエプロンをつけた豊かな黒髪の巻毛の女性が、マリアに飛びつこうとした。
「嬉しいっ! やっと来てくれたのね」
「ちょ、ちょっと、アニタ。やめなさいよっ」
店内の好奇の目に、マリアは真っ赤になった。いくら男役に慣れているとはいえ、女性に抱きつかれて喜ぶ趣味は、マリアにはない。
「何いってるのよう。マリアったら、薄情なんだもーん。ニホンでたった一人の友達だっていうのに、なかなか遊びに来てくれないしーーーーーーーーぃ」
「だから、いつも電話で謝ってるじゃないの。離れなさいってば」
「うーん、ケチぃ」
マリアの胸元に頬ずりしていたアニタは、ようやくカウンターの椅子を勧めてくれた。
ほっと息をつくと妙に自分に視線が集まっていることに気がついた。
隅の方で低めた声で「帝劇の女優だよ」と噂している者もいる。マリアはますます顔を赤らめた。
「ヴィク、お久しぶり」
太ったコックがうっそりと頭を下げる。
無愛想なようで、黙っていてもマリアの好きなロシア紅茶を煎れてくれる優しい主人でもある。気負わなくともすむ「友人」と呼べる存在は、マリアにとってこの夫婦だけだった。
「元気そうで安心したわ。歌劇団のラジオもなるべく聞くようにしてるんだけど、マリア、ほとんど出ないから」
「あら、買ったの? ラジオ」
「そうよ。どこかの、不義理なお嬢さんの近況を知るためにねっ」
アニタはそういって、マリアの額をこづくまねをした。
「髪の毛が赤くなったら、マリアのせいだからね」
マリアは、頬を膨らます三つ年上のアニタに思わず噴き出していった。
「何いってるの。『ラジオを聞くと髪が赤くなる』なんて、デマよ」
「え? そうなの?」
アニタは目を丸くした。その後、近況報告やよもやま話のあとで、彼女は満面の笑みを浮かべた。
「マリア、何かあったの?」
「・・・何も」
「ちょっと見ない間に、雰囲気が柔らかくなってるんだもん。ね、ヴィク?」
カウンターの向こうで、相変わらず無口な店主が頷く。
「・・・そう? 気のせいよ」
「おねーさんの眼は誤魔化せません。正直におっしゃい」
「───きっと、仕事がうまくいっているせいよ。大したことじゃないわ」
「仕事かあ。一度、マリアの女優ぶりも見にいきたいんだけど、貧乏ヒマなしでねえ。本当に貴女が舞台に上がってるのか、確かめに行こうとは思ってるんだけど。やっぱりこの眼で見るまでは信じらんないし」
「なあに、それ。───でも、そっちじゃないの。帝撃の方」
「あ、ミス・フジエダの・・・」
アニタは、アメリカで彼女があやめにスカウトされた経緯を知っている。マリアが『帝国華撃団』の隊員であることを知っている、数少ない民間人の一人だ。
「そう・・・。前に電話で少し話したでしょう? 新しく配属になった隊長が、やっと慣れてくれたのか、安心できることが多くなったから」
マリアの口調にどこか誇らしげな響きがある。
「ふーん」
アニタは、顎に人さし指をあてて、何事か考えこむ素振りをした。
「マリアがそんな風に、人を褒めるなんてねえ・・・」
「え?」
カップを持ったマリアの手が空中で止まった。
「ねえ・・・。その人、男の人よね」
アニタの瞳が輝き出す。「眼にお星様が浮かぶ」という表現がぴったりくるだろう。
「マリアが男の人に、心を許す日が来るなんて。私、日本に来て良かったわ!」
「ちょ、ちょっと待って。彼はそんなんじゃ・・・」
「一回、連れてらっしゃいよー。いやーん、マリアの新しい彼だってー。わくわくしちゃーうっ!」
「アニタ! 勝手に決めないで」
当惑の表情を浮かべてマリアは必死に首を振った。
「私は別に・・・」
「別に?」
「ただ、仕事ぶりを評価しているというだけよ。裏方の仕事も嫌がらずにやってくれるし、真面目だから、それで・・・」
「ふーん・・・」
「それだけなのよ。本当よっ」
「由里ーぃ。ちょっとええー?」
地下廊下を歩いていると、紅蘭の声が呼んだ。
「なあにい?」
ひょいと、格納庫に顔を出した由里の脇を、何かがものすごい勢いでかすめた。
「きゃあっ!」
思わず持っていた書類束を床に落す。
「あははは、堪忍。『ゼニガタくん』の感知器が由里はんの気配に反応してしもたんや」
「ぜ、ぜにがたぁ?」
由里が我に返って紅蘭の隣を見ると、着流しを着せた人型ロボットがテーブルの上に乗せられていた。腰に穴のあいた硬貨が巻きつけられ、左手に十手を持っているのが、何とも不気味だ。
「もしかして、今、その硬貨を私に投げつけたんじゃないでしょーねー?」
「ビンゴ! これは、ウチの最新発明品、岡っ引きロボ『ゼニガタくん』や。悪の気配を敏感に察知し、硬貨を投げつけて捕まえるんや。ゆくゆくは警視庁で量産してくれへんかな、と思うとるんやけど」
「だーれーがー、悪の気配なのよう、ええ?」
「ゆ、由里、いやな、それはその、言葉のアヤっちゅうやつで」
詰め寄る由里に、冷や汗の紅蘭。
「・・・今日のお三時、木村屋のあんぱん、おごりね!」
「はいはい。なーんでもいたしますぅ」
「で、何か用? まさか、こいつの的になれってんじゃ、ないでしょうね?」
「ちゃうちゃう。もうすぐ七夕やろ? 帝劇では、何ぞやるんかと思うてな。花やしきじゃ、多摩の方から笹をぎょうさん運んで、お祭りやるんやで」
由里は床に四散した書類は放りっぱなしで、腕組みして考えこんだ。
「うーん、七夕かあ。そういや、去年も企画はあがったんだけど、結局やってな
いわよねえ」
代わって書類を集めながら、紅蘭が問う。
「へ? なんでや」
「だって、ウチのお客さんがいる時間って、まだ、銀座中明るくて、天の川どころじゃないんだもの。ムードがないと嫌だって、かすみさんが・・・」
「妙にロマンチストなんやなあ、かすみはん。そんなんイベントや割り切ってもうたらええのに」
「ねえ」
二人は顔を見合わせた。
「───なんぞ特別な思い入れでも、あるんかいな?」
「うふふふふ。かすみさんの過去! 気になるぅ」
意地の悪い笑みで二人は、階段を昇り始めた。三時のおやつをぱくつきながら、かすみの噂話に花を咲かせるつもりだ。もちろん、奇麗さっぱり、「ゼニガタくん」と書類は、忘れ去られている。
その夜。
大神は明日提出する書類を一通り揃えると大きく伸びをした。もうすぐ見回りの時間だ。昨夜はすみれに捕まって泳がされ、一昨日は紅蘭のこいこいにつきあう羽目になったっけ・・・。
(そういえば、このところ花組の皆は夜更かししていることが多いな)
稽古期間中となると、こうだ。
身体が疲れているはずなのに、神経の方が高ぶってきているせいか、おとなしく休むというパターンは少ない。これが、「女優」という人種の気質なのかもしれないな、などと大神は一人で納得している。
ちょうどその時、ドアがノックされた。
「はーい、今あけます」
ドアの向こうには、一番意外な人物が立っていた。
「・・・隊長、今から見回りに出かけられるんですよね?」
少しはにかんだように顔をうつむけてマリアは続けた。
「もしよろしければ・・・ご一緒してもよろしいですか?」
「え・・・?」
「いえ、その、花組の皆が最近夜更かしをしているようなので・・・」
大神は頷いた。やはり彼女も心配していたらしい。花組のリーダーをもって任じているだけに、マリアが、他の隊員達に気を使っているのは知っていた。年長だから、というよりは、それが彼女の性格らしいのだが───。
(少しはマリアも息抜きすればいいのに)
「それより、俺の部屋にこないか? せっかくだから、今夜の見回りはお休みってことで・・・」
屈託なく、大神は笑いかけた。先月の築地での戦闘以来、やっと打ち解けて話せるようになったのだが、それでもまだ、他の隊員達と比べてプライベートでの交流が、マリアとは少ない。良い機会だ、と大神は思った。
だが、マリアは数瞬の沈黙の後、困ったように大神を見つめ返した。
「・・・隊長、ご冗談でしょう?」
声には恥じらうような響きがある。そこでやっと大神は、深夜に男の部屋に尋ねてくるというだけでも、マリアにとってはたいへんなことなのだと悟った。
「も、もちろん冗談だよ、マリア」
大神は慌てて手を振る。
マリアはふっと息をつくと、軽く微笑んだ。
「ふふふ・・・、本当ですか?」
「ほ、本当さ!」
「では行きましょう、隊長。ぐずぐずしていると、おいていきますよ」
「は、はい!」
<1> 99.4.15
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