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「あ、マリアさん、やっぱりここにいらしたんですね」
目を上げると、藤井かすみの涼やかな笑顔があった。
「お電話です。いつもの横浜のお友達から」
「アニタから?」
しょうがない、と読みかけの雑誌とぱたりと閉じてマリアは立ち上がった。書庫の中は他の部屋にくらべて涼しく湿気も少ない。夏には自室より、ここにいることの方が多いマリアである。かすみも心得て、まっすぐここへ探しに来たらしかった。
そのかすみは、マリアの読んでいた雑誌に目を留め、あら、とつぶやいた。
「その雑誌、マリアさんが持っていってらっしゃったんですか」
「ええ、ごめんなさい」
「いえ、謝られることはないんです。でも、珍しいですね、マリアさんが、自分の記事を読むなんて」
「・・・そう?」
マリアは言及されるのを避けるように、すばやく雑誌を書棚に戻した。だが、めざといかすみにそんな誤魔化しは通じない。
「それって、あの婦人記者さんが取材に見えた・・・。『椿姫の夕』の時の対談ですよね?」
「ええ───そう」
「溌剌として、賢そうな方でしたね。波多野さんでしたっけ。あんな風に亡くなってしまわれるなんて、思いませんでしたわ」
「・・・」
「ご主人がいらっしゃるのに、別の殿方と心中なんて、何を考えているんでしょう。私にはわかりません───それもよりによって有島武郎先生となんてねえ」
「・・・でも、それが彼女にとって、真実の愛情だったのでしょう」
「え?」
「誰に誹られようと、止めようのないものでしょう? 真実というのは」
低く言い捨てると、マリアはかすみに背を向けて、立ち去った。冷たくあしらわれたかすみは、書棚の前でぽつんと言った。
「私、何か悪いこと、言ったかしら・・・?」
(どうして、あんな態度を取ったのかしら・・・)
廊下に出たマリアは、今の失言を早くも後悔していた。
(ずいぶん唐突だったわよね。かすみは、彼女のことを知らないのだし・・・)
何度も何度も読み返した「婦人公論」6月号。マリアは特別な思い入れを抱いていた。この時、マリアは一人の知己を得ていた。彼女が、帝撃以外でマリアの唯一親しい日本人だった。
「椿姫の夕」の取材で対談した雑誌記者、波多野秋子。
まだ肌寒い季節にあった職業婦人は、穏やかで理知的だった。マリアはインタビューの類が苦手で、どうしても「応援ありがとうございます」「公演を観にいらしてください」といった、いつも同じような話しかできなかったのだが、秋子は巧みに、花組の舞台の取り組み方やマリアの姿勢を引き出した。
そして揶揄することなく、最後まで聞き手にまわった。
マリアは常々、必要以上に自己を抑える日本人女性を疑問に思ってきたが、秋子の積極的な態度には好感を持った。日本人の血が半分入っているとはいえ、完全にスラブ系民族の外見を持つマリアは、帝劇以外の場所では、まったく日本社会に受け入れられているとは言い難い。そのため、自然と内にこもりがちになっていたのだが、秋子にはそんな色眼鏡で見るような態度が微塵も感じられなかったのだ。
また、障壁はマリアの心の中にもう一つ存在した。
マリアの半生において、別れは「死別」を意味している。幼い頃、暴力によって失われた母、革命に倒れた父、自分をかばって死んで行った隊長、そしてニューヨークで心魅かれた男・・・。そのすべてが今は亡い。
帝都に来て、別れを恐れることなく秋子との交友を育めるようになっていたことは、マリア自身にとっても驚きであった。
だが。
日付は7月5日。アイリスの誕生日だ。
新聞の一面を飾った醜聞を、マリアも知るところとなった。
『 軽井沢の別荘で、有島武郎氏心中 愛人たる、若い女性と 』
相手の女性の名は報道されなかった。
だが、密かに聞こえてきたその人の名は、まぎれもなく、新しい知人のものであった。
どうして、という疑問は浮かばなかった。やはり、と思った。
ただ腑に落ちたように、自分と他人との縁の薄さを「やはり」と思ったのだ。
どんなに親しくなろうとも、どんなに望んでも、相手にはマリア以上の特別な存在がある。マリアの手の届かないところへ去ってゆく。
マリアは常に一人だ。
秋子との短い付き合いは、それを確信に変えたのだった。
マリアが事務局脇の電話ボックスで、受話器をとるなり、耳元でアニタが叫んだ。
『マリア! 子供が出来たの!!』
思わず、受話器を遠ざけてから、おそるおそる問い返した。
「ほ、本当?」
『もっちろん。三か月だって!』
アニタの声はいつにもまして弾んでいた。マリアと共に日本に渡ってきて3年。夫婦仲が相変わらず良いのはいいが、なかなか子宝に恵まれないのが悩みだったのだ。
『ヴィクったら、いまからおろおろしちゃって仕込みに熱がはいらないんだよ。困っちゃうよねえ、稼がなきゃならない時に』
「眼にみえるようだわ。とにかく、おめでとう。アニタの念願だったものね」
『うん、つわりはひどいし、大変だけどさ。やっと家族が三人になるんだもんね』
マリアはくすりと笑った。実はアニタの家には既に、いつ子供が生まれてもいいように椅子や食器やベットなどが用意されているのだ。衣服だけは「産んでしまった後の楽しみも一つは残しておかなきゃなんないでしょ?」と、まだ買い込んではいないようだが。
「私もなんだか、ほっとしたわ」
『そう? なんで?』
「だって、アニタの気持ちが子供に逸れてくれると、おせっかいがなくなって助かるんですもの」
一抹の寂しさを押し殺してマリアは言った。アニタにも新しい家族が出来て、いつかマリアにかまけることもなくなる。判っていたことだった。
だが、アニタの答はまったく違っていた。
『まあっ! そんな心配しなくても大丈夫よ。私のマリアへの愛情は、子供が産まれたくらいでは目減りしませんからね』
妙に自信ありげに宣言され、かえってマリアはげんなりとした。
「あのねえ」
『ん? なーに?』
「私は、貴女のまだ産まれてもいない赤ちゃんと同列なの?」
『扱い方は似たよーなもんよぉ。放っとくと何するかわかんないし、すぐ拗ねちゃうし。まだまだ手のかかる駄々っ子って感じかしらね! でも、おしめ替えなくって済むとこだけが、マリアは偉いわよ』
「・・・もう、いいわ」
アニタのけしからぬ言い種が、かけねなしの本心だと判ってしまうのが、長い付き合いの怖さだ。うんざりとマリアは言った。
『うふっ。ねーえ、マリア?』
「・・・何」
『彼はお元気?』
「彼?」
『花組の隊長さん』
「大神隊長? いやだ、誰のことかと・・・。いつもと変わりないけど」
『んー、ねーマリア。私、その大神サンて人に会ってみたいなあ』
「どうして?」
『どうしてって・・・、もう。おニブさんよねえ、マリアは』
ほっほっほ、と蒸気電話の向こうから、心底ばかにしたようなお姉様笑いが聞こえる。どうも時々アニタの考えることはマリアの理解を越えている。これは決してマリアが鈍いからでも、駄々っ子だからでもない───とマリア自身は思っている。
『それはね、良い人なら邪魔をする楽しみが、悪い人なら撃退する楽しみがあるからよ』
「・・・隊長は良い人よ」
それも善し悪しなんだけど、と心の中でつけくわえる。
『そーお、良い人なの。まあ、いいわ。私、日本の言い伝えを確かめてみたかったの。カップルの恋路を邪魔すると馬に蹴られるってホントかしら? 町中でそうそう馬を見る機会なんてないのに、どっから馬が走ってくるのかしらねー?』
「悪いけど、何を言っているのかさっぱり判らないわ」
もう切るわよ、と言いかけた気配を察したか、アニタはそれまでのからかうようなトーンをおさめてマリアに訴えた。
『ねえ、マリア。冗談じゃなくて近いうちに、うちへ来れない?』
ふっとマリアは背中に冷たいものを感じた。久しくなかった感触。重大な危機を告げる彼女の本能だった。
「・・・どうしたの? 何かあったの?」
アニタに気取られぬよう、声の調子を変えずに問い返した。
『そういう訳じゃないんだけど・・・。なんとなく、会っておきたいような気がするの。嫌な感じがするの』
今のは気のせいだったろうか。マリアの勘の告げる警告は、一瞬の後には霧散していた。
『ダメ? 私がそっちへ行ければいいんだけど、ヴィクがお腹の子に万一のことがあったらいけないからって、帝都に行くことを許してくれないの』
「・・・もう、八月公演の稽古に入るのよ。だから、ちょっと無理よ」
『そっか・・・』
アニタが気を取り直したように、しっかりとした口調でマリアに言い聞かせた。
『じゃあ、マリア。これだけは、私からの注意だと思って気に留めていて。見えざる敵、に注意して』
「見えざる───敵?」
『お願いよ、マリア。また馬鹿にされるかもしれないけど、タロウ・カードがそういってるの』
「・・・」
これほど切羽詰まったアニタの声を、マリアは聞いたことがなかった。
電話を切った後も、マリアはしばらくそこにたたずんでいた。
(占い・・・か)
タロット占いは、アメリカ時代からのアニタの趣味だ。
確かにばかばかしいと聞き流してしまうのは簡単だったが、本気でマリアの身を案じて電話をかけてきたアニタの心情を思うと、一笑にふすのも悪い気がする。
(もしかしたら、子供のことで神経質になっているのかもしれないし)
アニタ夫婦は、アメリカに住んでいた時、子供を肺炎で亡くしている。店を持って共働きの二人は、雨に打たれて高熱を出したその子にまる一日気付かなかった。
そして、病院に連れて行った後も、貧しい移民であったために満足な治療も受けさせることが出来なかったのだという。
二人とも、今度こそは大切に育てたいと思い詰めているだろう。
(考えすぎよ。そう、私は手のかかる小さな子供じゃないんだし。振りかかる火の粉は自分一人で払えるわ。今までだって・・・)
マリアはきゅっと唇を噛んだ。
幼少の頃から、戦場をかいくぐって来たマリアには、己の才覚に対する信頼があった。
(そういえば、『見えざる敵』、というのは、何のカードなのか、聞かなかったわね───)
時、同じ頃。
大神は支配人室に呼び出され、そこでかの活動写真館が融資を受けられることになったと聞き、胸を撫で下ろしていた。
「申し訳ありませんでした」
改めて深々と頭を下げる大神に、米田は酒臭い息を吐きかけた。
「あいかわらず堅ぇ奴だな、おめえは。俺は別のおめえやアイリスのために骨折った訳じゃねえんだぜ。これも理事長の仕事ってやつよ」
「判っています」
「なら、頭なんか下げんじゃねえ」
「はあ・・・」
照れてそっぽを向いて杯を干す米田に、傍らについていたあやめはくすりと笑いを洩した。
「では、その話題はこれまで。八月公演の演目についてですが・・・」
彼女はさらりと切り替えて、持っていたファイルを開く。事務局のかすみ、由里両名によってまとめられたリクエストの集計結果、主に脚本家などの帝劇関係者による提案などが列記されている。
「観客のリクエストで一番多かったのが、活劇風のものをという声、ついで『愛ゆえに』の再演でした。女優でみれば、カンナとすみれを希望する人が多かったのですが、これは『愛はダイヤ』の客層からすれば当然ですわね」
「はあ〜ん。しかし、活劇風ってな、意外だな」
「・・・一言で言えば、カンナとすみれの乱闘がみたい、ということですわね」
三人は複雑な面持ちで顔を見合わせる。米田の口元は笑いを堪えるかのようにひくついている。
「まあ、なんだな、その気持ち判らんでもないが」
「最初から脚本にない、つかみ合いを期待されても困ります」
「いっそのこと、花組で女相撲でもうつか?」
「支配人!!」
「冗談、冗談だよ、あやめくんっ。そんなに怒らないでくれ」
眉根を寄せてあやめが釘をさす。
「もしその御提案をなさるのでしたら、支配人の口から花組におっしゃってくださいね。わたしは関わらないことにいたします」
「む・・・、悪かった」
「あ、あの───子供向けの活劇ではどうでしょう」
今度は大神が必死の面持ちで話題を変えた。
「先日、マリアと一緒に浅草の幻燈───いえ、科学技術館なるものを観てきたのですが」
大神はそこで、帝劇に子供の入りが少ないこと、これからちょうど夏休みの時期にあたることなどを話し合ったことを告げた。
「少年文学などから題材を取って、カンナとすみれくんに演じてもらうんです。受けると思うのですが」
「───そうね、着眼点は悪くないわね」
「ああ、悪くねえ。だが大神よ、これから題材を選んで脚本化してたら、とてもじゃねえが八月公演には間に合わねえぜ」
「いっそのこと、誰でも知っている物語をアレンジするというのはどうかしら」
あやめはそういってファイルをめくった。
「ほら、ここに。支配人、『西遊記』の脚本がリストに上がっています」
「ほう?」
「これを台詞を平易にして、動きを多くすれば、充分子供達にも伝わると思います」
「ふむ。孫悟空は、やはりカンナか」
「琉球空手を取り入れた殺陣、なんていいかもしれませんよ」
大神は自分の意見が通りそうなので、喜び勇んで答えた。
「どうせなら、すみれに敵役というのも一興かもな」
米田が早や、椅子にしなだれかかりながら言った。すでに決定と言った様子だ。
「では、さっそく演出の伊東先生にお願いをしておきます」
「ああ、そうしてくれ───ところで、大神」
「はい?」
「おめえもまた、隅におけねえ野郎だなあ。一体、何だってまたマリアの姉ちゃんと浅草見物と洒落こんだんだか」
「あ、あれは、米田支配人が・・・」
言いかけてふとあやめを見ると、悪戯っぽくウインクを送ってきた。
「まあ、いいじゃありませんか。大神くんもマリアも、よくやってくれていますもの。たまには休息も必要ですわ。さぼった分は、今後の労働でまかなってもらうことにして」
「いいっ!? そ、そんな・・・」
約束が違う、と声にならない声で大神は訴えたが、あやめの笑顔の前には無力であった。
「で、どんなデートコースだったの?」
「ち、違いますよ!」
弁解を試みたものの、いつのまにか誘い出す時の文句から、浅草で二人で食べたかき氷の味から、帰りの帝鉄での話題まで洗いざらい報告する羽目になっていた。大神は肩を落としつつ、あらかた話し終わり帝劇前での一件に触れた。麹町の分隊長に話が及んだとたんに米田が飛び上がった。
「あいつか・・・」
「支配人、ご存じなんですか?」
「ああ。おめえと同じで融通が利かねえのが玉にキズだがよ、なかなか骨のあるやつだ。東条や永田も買っとるらしい。あやめくんは面識は?」
「お噂だけ。確か今度、渋谷の憲兵隊長も兼任されるのではなかったでしょうか」
「ふん、相変わらずよく働く奴だ・・・都合良く助け船が入ったもんだな、大神」
「日比谷まで十五分ですか。計算の早い方ですわね」
「あ、あの、どういうことでしょう?」
「大尉殿、きっと貴方と同じことを考えたのよ。無抵抗の人間に憲兵が手を上げる、そんなことを不愉快に感じられる方なの。どんな場合でも秩序を重んじられる、と聞くわ。それにここからだと、日比谷の本部まで全速力で走って十五分で着けないこともないわね。つまり、その部下達をも一方的に罰する気もないということよ。優しい方のようね」
「や、優しい・・・?」
あれでも助けられたというのだろうか。いきなり怒鳴りつけられた限りでは、まったくそうは思えない。おそらくあの部下の憲兵達にも、その気づかいは伝わらないだろう。
「ま、取っ付きにくい奴ではあるな。たまに陸軍省なんかで顔会わせると、俺みてえな不良軍人は肩身が狭くていけねえ。良いも悪いも、真面目一辺倒な男さ」
米田はそういって、またぐびりとやる。あやめが横目でちらと見やった。米田は素知らぬ顔で続けた。
「実を言うとな、一度はこの帝撃に、と考えたことがある」
「そ、そうなんですか!?」
「ああ。だがな、いくら有能な人材でも、守るべきものを履き違えている奴ぁ、この帝撃には向かねえ」
「守るべきもの・・・?」
米田は、机を意味もなく睨み、やがて首を振った。
「おい、大神」
「はい」
「人間ほどほどが肝要だぞ。任務だ仕事だのと、始終しゃちほこばってることはねえやな。いざという時のために、全力ってだしきらずとっとくもんさ」
わざと話の流れを変えたことを察し、大神は逆らわず頷いた。
「では支配人」
あやめがにっこりと眼前に立ちはだかった。
「お酒もほどほどにしていただきましょうか。いざという時のために」
<3> 99.8.6
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