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時間の無駄だわ、と暗い練習用ホールの客席の片隅で、織姫は大きなあくびをした。藤枝かえでの反対を押し切ってまで入学したサンタ=チェチーリア音楽院だったが、彼女は他の学生の才能のなさに、落胆していた。これでイタリア屈指の音楽大学というのだから。織姫は、もう一度これみよがしのあくびをした。退屈という極太のゴシック体で塗りつぶされた彼女の学生生活は、実のところ、まだ始まって二月しかたっていなかったのだが。
ソレッタ・織姫、十五歳。高等教育までを飛び級制度で一蹴し、ローマの音大に単身入学していた。専攻はピアノ。
少数精鋭で、指導教授一人に対して学生が三人。月に一度は附属のホールで発表会(これも授業の一環であるが)がある。失礼にも、今は他の学生の演奏中である。
イタリアの学校は九月から新しい学年が始まるが、二月後の今、もう織姫は退学を考えていた。
(こんなことなら、レニと同じ学校に留学すれば良かったかも。でも、あの制服じゃね・・・)
元星組の盟友はかえでのお膳立て通り、ドイツの私立女学校に『おとなしく』通っているのだそうだ。この夏のバカンツァを一緒に過ごした折、制服を見せてもらった。開襟の白いパフスリーブシャツに胸元には紺色のリボン、チェックのミニプリーツスカートにベレー帽という、織姫に言わせれば少女趣味すぎて気に入らない服を、二つ年下の少女は不平も言わずに着ていた。もっとも、レニは何に対しても文句を言わない。あまり生活の些末事に関心がないらしいのだ。
それに、レニと同じミュンヘンの聖アンゲリカに転入したところで、また寄宿舎生活を余儀なくされるのに変わりはない。一週間前に入った、全然荷物の片付いていない寮の自室を思いついて、織姫は暗澹たる気持ちになった。
(それもこれも、かえでがっ! 私の部屋に男なんか連れ込むからいけないのよ! しかもニッポンの趣味サイテー男を!)
サンタ=チェチーリアに入学が決まっても、母カリーノは独り暮らしを許してくれなかった。貴女は帝撃に預けた身の上なんだから、という建て前が半分、一般的にイタリアン・マンマは子供の独立を好まないという過保護な気持ち半分で、星組時代の隊長である、藤枝かえでと同居するならということでようやく許しを得たのだ。
ところが、かえでの故郷の極東の島国で、とある重大事が持ち上がったとかで、二人で暮らすことになっていたローマ市内のアパートに、白いスーツに真っ赤なシャツ、牛柄ネクタイという服装センス皆無の若い男が日本から派遣されて乗り込んで来た。仕事の方はできるのか、すぐにかえでのパートナー役に納まり、遅くまで話し込んだり調査にも同行するようになったが、訳あって日本人男性が虫酸の走るほど嫌いな織姫は、ほとんどその男と言葉を交す間もなく、アパートを飛び出して来たのだった。学生の身分、しかも実家は遠いナポリとなれば、駆けこむ先は学院の寄宿舎しかなかったのだ。
(舎則? 門限? あ〜あ、うざったい。私にふさわしい優雅な生活はどこにあるのよ)
狭い寄宿の部屋に収まり切らなかった荷物の始末を考えあぐねていると、まるで、無駄なことはおよしなさい、という警句のような鐘の音が響いた。授業の終わりである。やれやれ、と伸びを一つして織姫は立ち上がった。お昼をゆっくり取りながら、家具の配置から考え直そう。
音楽大学のただ一つの良い点は、食堂が混むことがない、ということである。声楽科は、歌う前に胃に負担をかけられないとかで、午後の授業前に食べる人はいないし、楽器科は練習室の順番待ちで、我先に並び始めるから、食堂はいつもがらがらだ。この暗黙のルールにのらないのは、練習に重きを感じない天才肌の織姫くらいのものなのだ。
だが、織姫は壇上から下りてきた同級生達に呼び止められた。
「これ、次回のレッスンの譜面ですから」
「ふうん・・・」
「さすがに余裕でらっしゃることね。そういえば、貴女が練習室に篭っているところは見たことがないわね」
「授業で意見を求められても、おとなしくしてらっしゃるし。やっぱり、飛び級で上がってらして、戸惑ってらっしゃるのかしら?」
「身の程をわきまえる分別はあるということ? 感心ね」
ちくりちくりと嫌味ったらしい、年上の同級生に呆れ果てて織姫はつい言い返した。
「別に指さえ暖まってるなら、この程度の曲は弾けるし、今の授業レベルだったら、批評も必要のない範囲だと思うけど?」
表情を変えたのは、最後にピアノを演奏していた学生だ。名前は、覚える気がないから覚えていない。
「名門貴族のお嬢さんは、下々の演奏などお聞きになれないという訳ね」
「そう卑屈にならなくてもいいわ。私が軽蔑しているのは品性の卑しさであって、生まれ育ちではないから」
「───なんですって! もう一度いってごらん!!」
「こんなにはっきりと発音してあげてるのに聞き返さなければならないなんて、そんな耳しか持っていないのなら、音楽家なんて諦めたら?」
こんなべたべたな挑発に乗る人もいるのねー、と織姫は醒めきって言った。どうせ指が大事だから、平手打ちすら出来ないくせに。案の定、実力行使には至らず、こめかみはひくついているのに、言葉も出てこないようだ。
「いつまでここにいる気かね、君達。声楽科が使用するから早く出なさい」
隅にひとかたまりになっている織姫達に、声がかかった。
織姫に詰めよっていた学生達は、教授の声に慌ててホールを出て行った。古い徒弟制度の残る音楽界では、上の人間に睨まれることだけはあってはならない。どんな場合でも品行方正を装わなければならない。
ご苦労なことね、と皮肉な眼で織姫は見送った。もちろん、この大学を出た誰もが音楽家として通用する訳ではない。才能で遅れをとる者は誰かに引き立てられるか、誰かを蹴落とすかして、生存競争に勝たねばならない。そんながつがつした雰囲気も、ここを好きになれない理由の一つだった。
織姫はただ、奇麗な音楽を求めてやって来ただけだったのだ。
(良く考えたら、お腹も減ってない)
織姫は譜面を隣の椅子に投げ出して座り直した。
(考えたら、ここですることって、ないのよねえ・・・)
以前は退屈を感じることも少なかった。織姫は10歳にも満たない内から、少女にあるまじき戦闘訓練にあけくれていたのだ。周囲は彼女と同じ特殊な能力を持っている人間ばかり。模擬戦闘だけではなく、それらの人々と接すること自体、刺激に満ちていた。けれども、ここでは凡人ばかりが群れを成している。そして織姫自身、するべきことを見つけられない苛立ちが募っていた。
(・・・やっぱり、辞めちゃおうかな。そして、ママと二人、世界一周旅行なんていいかもしれない。・・・そうだ、秋のコートをねだるのを忘れてたわ)
そろそろ織姫にも、社交界デビューの話が持ち上がっている。「赤い貴族」の名を馳せた名門ソレッタ家の一人娘だ、おそらく一週間くらいは御披露目の宴が続くことになるだろう。となれば、7枚の夜会用ドレスが必要になる。
(・・・私は、ママに似て、腰が細いのが、自慢なんだから・・・)
いつのまにか織姫はまどろんでいた。
くるりくるりと輪を描いてワルツを踊り、ドレスの裾を翻す自分を、雲の上から眺めてでもいるようだった。
(相手は誰かしら。ヴェッラガンピ家のあばた面の次男坊じゃなきゃいいけど。あ、でも、アンブロジーニ家のもやし男はもっと嫌! 整髪料がぷんぷん匂うし。ああ、馬鹿ね織姫。私にふさわしい男がそこら辺に転がってる訳ないじゃないの・・・)
夢の中の織姫は、踊るのをやめた。その代わり、上座に陣取り、隣に母を座らせて、次々と訪れダンスを申し込む同年代の若者達を、片っ端から品定めし始めた。
(襟元が開きすぎよ。パス───髭の形が嫌。パス───ああ、かっこいい男性が来たらすぐに奇麗なワルツを演奏してもらいましょう。それまでは、音は控えめにして、運命の瞬間は劇的に盛り上げて・・・、ちょっと控えめって言ってるでしょ? うるさすぎよ、聞こえないの!?)
織姫はお抱えの伴奏家達に文句を言ってやろうと飛び起きた。
が、そこはソレッタ家の大広間ではなく、サンタ=チェチーリアのコンサートホールだった。
「・・・なんだ」
控えめとはいえない音量の元は、既に始まっていた声楽科の発表だったようだ。
ソプラノが入れ替わり立ち替わり、舞台の中央に立って同じ歌を披露している。
「ジャンニ=スキッキ」。フィレンツェを舞台にした、プッチーニのオペラである。
『彼とポルタロッサの街に、指輪を買いにいかせてちょうだい。
結婚を許してちょうだいな。
さもなきゃヴェッキオ橋からアルノ河に、身を投げて死んじゃうから』
「パパにお願い」という、お願いというよりは脅迫のアリアである。
(パパ、ね・・・)
織姫は、父親に何か願いを叶えてもらったことなど、一度もない。
物心付く前に、彼はカリーノと織姫を捨てて、自分の故国へ帰っていったのだ。そこで織姫ははっと気付いた。
(なんで、あんなヤツのことを思いださなきゃならないの! 気分悪いったら!!)
織姫は憤然と立ち上がり、ホールから退出しようとした。
そこでソプラノがまたまた入れ替わり、澄んだ歌声が織姫を引き留めた。
恋人に会える純粋な喜び。浮き立つような期待感が、アリアに込められている。ジャンニ=スキッキの娘、ラウレッタの心が素直に伝わってくる。
その歌唱が終わった時、ホールの後ろから、織姫は盛大に手を叩いた。ホールの教授、学生達が一斉に織姫を振り返った。まさか部外者が授業で拍手をするとは考えなかったのだろう。咳を一つして、教授は次の学生に歌うよう指示した。
織姫はホールの最後部の席にもう一度腰を下ろして、授業が終わるのを待った。あのソプラノと話をしてみたいと思ったのだ。
果たして、授業の終了を告げる鐘と同時に、目的のソプラノ歌手が織姫に近づいて来た。
「先刻は、拍手をありがとう」
「どういたしまして。素晴しい歌に敬意を表するのは音楽家を志すものとして当然のことよ」
「───この授業が何の為だか、知ってる?」
「いいえ?」
織姫よりすべて一回りは上回った体格の、色の白い娘は清々しく笑った。
「そう。なら別にいいの」
織姫は肩をすくめて言った。
「私、織姫・ソレッタ。ピアノ科なの」
「ラバーン・プロヴァローニよ。貴女のこと知ってるわ、織姫。サンタ=チェチーリア始まって以来の天才って騒がれてたもの」
「そう」
織姫は受け流した。賛辞には慣れている。それに、
「貴女もでしょう? ラバーン。聞いていた中で、貴女だけが本物だったわ」
真顔で問い返した。ラバーンは微笑んで、
「ありがとう。でも、私二度もここの試験落ちているのよ。今年やっと入学出来たの」
「ふーん。ここの教授連って大したことないのね」
織姫は真顔で返した。ラバーンが噴き出した。
「はっきりいうわね。せいせいするくらい。ところで織姫。どうしてピアノ科の貴女がここに?」
「ああ、それよ。昼御飯を食べようかどうか迷っている内に、つい寝てしまったよの。おかげで迷う必要もなくなったわ。食堂はしまっちゃったんだもの」
当然の帰結と言わんばかりに胸をはる織姫に、ラバーンがお腹を抱えた。
「あんたっていいわ、織姫。お近づきのしるしに一緒にバールでも行かない? 私もお腹がぺこぺこなのよ」
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