「ふわぁ・・・、良く寝た〜〜〜」
 ぱたぱたと軽い音をさせながら、サロンにアイリスが顔を出した。彼女が手を引っ張っているのは、同じようにパジャマ姿で眼をこすっているレニだ。思い思いの休日を過ごしている花組に代わって留守番役を引き受けたかえでは、くすりと笑いをもらしながら二人を迎え入れた。
「おはよう。良く眠れた?」
「うんっ。お布団ふかふかして気持ちよかったよ! かえでお姉ちゃんも今度一緒にお昼寝しようねっ」
「そうね───喉かわいたでしょう?」
 かえではそう言ってミルクパンを手に取った。サロンにはいつでもお茶が入れられるように、移動式の簡易コンロが置かれている。手際良くミルクを温めて、マグカップに注ぎ込む。アイリスが喜ぶように、動物の形にカットされた砂糖も用意する。そしてジャンポール用にも小さいカップに注いで、二人と一匹の前に差し出した。
「わあい、かえでお姉ちゃん、ありがとう」
「・・・」
 アイリスは喜んでマグカップを手に取ったが、隣にすとんと座ったレニは、一言も発しない。じっとかえでの手許を覗き込んでいる。
「・・・レニ? どうしたの?」
「かえでさんは、何を飲んでいるの?」
 香りの強いブラウンの液体に興味を示す。
「カプチーノよ。織姫にこの前教えてもらったの」
「カプチーノ・・・、コーヒー豆を圧縮蒸気で抽出し、泡立てたミルクを加えたイタリアの定番飲料・・・」
「ふうん、ねえねえ。それおいしい?」
 興味をそそられたのか、アイリスが身を乗り出す。かえでは苦笑した。
「・・・ボクもそれがいい」
「アイリスも!」
「じゃあ、いれてあげるけど・・・、ちょっと苦いわよ? お砂糖たくさん入れてね」
 かえでは改めてカップを2客取り出し、エスプレッソマシンを火にかけた。そして、ちょっと考えてからミルクの量を多めに泡立てた。量からいえば、フィルターに湯を注いで作るタイプより、遥かに少ない。
 いつもはすみれがもったいないと言って使わせない、薄いコーヒーカップだ。アイリスはそれだけで眼を輝かせた。ぐるぐるとかき回して、いざ、と口をつける。
「うえ・・・、苦いぃぃぃ」
「───だから言ったでしょ? 無理することないから、ミルクをお飲みなさい」
「うん・・・」 
 アイリスが唇を尖らせて、マグカップのミルクを飲むのを黙って見ていたレニは、やがてぽつりと言った。
「・・・かえでさんのより白い」
 やはりかえでの手許にあるカップと自分のカプチーノを比べている。かえではやや呆れてため息をついた。
「どうして、そんなに私の真似ばかりしたがるの? 今日のレニ、何か変よ?」
「そ、そんなことないよ」
 レニは慌てたように首を振って、カップに口をつけた───カプチーノの方に。
「・・・!」
「すごいすごーい! レニは苦いコーヒー飲めるんだぁ!」
「う、うん・・・。飲めないことはないよ・・・」
 言いながら、軽く咳き込むレニ。
「カフェインの刺激が強くて・・・えーと・・・」
 眼を白黒させているレニに、肩をすくめてかえでは言った。
「ともかく覚醒効果は、あったみたいね」
「うん、そ、そうだね・・・」
 
 その翌日の夕方。織姫の、「シエスタの時間が終わったで〜す」という言葉を合図に、かえではアイリスの部屋を訪れた。
 控えめにノックをすると、思ったよりもしっかりした返事があった。
「レニなの? 入るわよ」
 起きていたのはレニの方だけだった。
 アイリスはレニの膝を枕にし、ジャンポールをしっかり抱えて眠りこけていた。
「もう起きると思う。2時間経ってるから」
「・・・レニ、あなた2時間もそうしてたの?」
 膝が痺れるのじゃないかしら? と首を傾げながらかえでが問う。
「うん・・・。でもボクが動くとアイリスが眼を覚ますから。アイリスが眠っている間、ボクが見張っててあげないと、よくベットから落ちるんだ。あとジャンポールも宙に飛ばしちゃうし」
「アイリスのお昼寝仲間って、そういうイミだったの!?」
「そう。ボクも時々つられて寝てしまうけど」
 かえではこめかみを抑えた。
「レニ。あのね・・・」
「───待って。かえでさんの言いたいことは解る。でもこれはボクの意思なんだ。ボクがアイリスの笑顔を見ていたい。アイリスが眠っている間、守っていてあげたい。ボクがそう決めて、ここにいる」
「・・・どうして?」
「それは・・・、アイリスが、ボクより年下だから・・・」
「それだけ?」
「・・・ボク、隊長と約束したんだ」
「大神くんと?」
「ボクが水狐の術から覚めた後に、『守りたいものは見つかったかい?』って聞かれたんだ」
「・・・それで?」
「・・・その時、ボクの隣にはアイリスがいた。だからボク、アイリスを見ながら、頷いたんだ。ボクの初めての友達・・・。だから、心の中で約束したんだ。ボクがアイリスを守ってあげるよって。隊長がフランスに行っている間も、ボクがアイリスを守るよって」
「そう・・・」
 その誓いはレニの中で、今もっとも神聖なものなのだろう。
「なら何も言わないけど。でもレニ? 膝枕はやめといた方がいいわよ」
「どうして?」
「・・・アイリスが起きたら判るわ。そうね、三人で散歩に行きましょうか」
「今日は風が冷たいよ?」
「でも、梅が綺麗よ───」

 かえでさんが言ったこと判った、と脚を引きずりながらレニがうつむいた。やはり膝の感覚がなくなって、辛いのだろう。かえではレニを椅子に座らせて、とんとんと軽くこぶしで叩いてやった。
「かえでさんはどうして判るの?」
「え?」
「膝枕をするとこうなるって、どうして知ってるの? 経験則?」
「え!? えっと、なんとなく、判るじゃない? ね?」
 慌てて否定するかえでさんに、レニは上目遣いで疑う素振りを見せた。
「そ、それより、お散歩! お散歩行きましょう」

「やっぱり、まだコートがないと寒いわね」
 紺色のピーコートのポケットに手を突っ込んだまま、レニが頷く。ショール一枚で出てきた事を、かえではちょっと後悔した。
「アイリス、あまり離れると危ないよー!」
「だーいじょうぶー。レニも早くおいでよーー!」
 はるか向こうで腕をぶんぶん振り回すアイリスに苦笑しながら、かえではレニと顔を見合わせて笑った。
「すっかりアイリスのナイトなのね」
「だって・・・」
「───大神くんと約束したから、でしょう?」
「うん」
 銀座の裏小路を、二人はしばし無言で歩いた。
 やがてレニがぽつりと言った。
「もう、一年だね」
「───そうね」
 大神一郎がフランスへ発ってもうすぐ一年───。
「かえでさんはいいね」
「・・・どうして?」
「大人だから余裕があるんだね───ボク、不安なんだ」
 レニがふと立ち止まってかえでを見上げた。
「もし、隊長のいない間に、隊長のことを忘れてしまったらどうしよう───?」
「レニ・・・」
「だからボク、隊長がフランスへ行ってから、前よりも隊長のことを考えるようになった。隊長の言葉や行動の意味を。変だよね?」
 かえではレニの肩に優しく手をおいて、首を振った。
「いいえ、ちっとも」
「かえでさん?」
「ちっともおかしくないのよ、レニ。今ここに居ない人が、とても大事な人だったら───離れている間中、その人で頭がいっぱいになってしまうものなの。それが、好きってことなの」
「じゃあ・・・ボク、隊長のこと、好きなの?」
「あら、嫌い?」
「そうじゃないけど・・・、でも、アイリスやかえでさんも、おんなじくらい好きだよ」
「ふふっ、ありがとう。でも好きの中でも特別なのがあるのよ」
 レニは眉根を寄せて真剣に言った。
「難しいね」
「・・・そうね」
 かえではレニの髪をくしゃっと撫でた。
「でもね、それに気付くことが大事なのよ。レニが誰かを好きだと言う事。その気持ちに気付く事」
「気付いたら、どうなるの?」
「そしたら忘れても、もう大丈夫なのよ」
「───え?」
「忘れることも必要なの。大神くんでも、私でも、レニが無理している部分を全部預けちゃいなさい」
「でも」
「例えばアイリスはいつも早く大人になりたいと言っているけれど、同時に子供らしく甘える事を知っているわ。せっかく友達になったんだから、教えてもらいなさい。日本ではね、そういうの『下駄を預ける』というのよ」
「それ、誰の影響?」
「誰でもいいのっ」
「───少し、考えてみる」
 釈然としない表情ではあったが、レニが再び頷いた時、勢い良くかけ戻ってきたアイリスが彼女の袖を鷲掴みにした。
「レーニ! 何してるの? 早く行こうよぉ」
 アイリスは一本の満開の梅を指差す。
 銀座でも、もう表通りでは見られなくなってしまった立派な樹だった。時折ひとつふたつ、思い出したように花弁が降る。
 白く小さい花はきんきんに澄んだ空に、季節外れの雪のような彩りを添えていた。
「・・・どう?」
 声もなく見上げるレニに、かえではそっと尋ねた。
「・・・キレイだね」
 かえではくすっと笑ってレニの頭を撫でた。
「ボク、おかしなこと言った?」
「いいえ、それでいいのよ」



「そろそろ帰りましょうか。身体も冷えちゃったし。またカプチーノいれてあげるわ」
「・・・ホットミルクでいい」