|
「さすがに、北国だって気がするよ。もう四月も半ばなのに」
大神がはーっと白い息をはいた。手袋を口元に当てている。
マリアは微笑んで振り返った。
「隊長?───まだナホトカですよ? ここは暖かい方なのですから」
「ああ、判ってる。かえって大雪が降るほうが、気温は高いんだよな」
降魔、そしてサタンを退けた戦いから一ヶ月、大神とマリアはソヴィエト連邦
と名を変えたマリアの故郷へ降り立った。
帝都から翔鯨丸で新潟へ(カンナが米田を説得───ほとんど脅迫───し
て出してくれた)、そこから蒸気汽船で二日。
これからツンドラの大地を横断しなければならない。
この旅はマリアが、ロシア革命当時、「兄」と慕っていた隊長の墓を詣でるの
が目的だった。日本での役割も一段落したから、故郷に戻って心の整理を付けた
い、とマリアが言い出したのだ。
花組全員に与えられる長期休暇を利用しての国外旅行を、隊長である大神は条
件付きで許可した。
自分が同道すること、である。
「しかし、隊長が帝都を空けられては・・・」
マリアの心配をよそに、大神は自身の休暇も取り付けてしまった。
「本当によろしかったんですか?」
翔鯨丸や船の中で、マリアはしきりと問いかけた。三週間近く、大神を独占し
てしまう後ろめたさもあるようだ。
「勿論。帝撃の他の組や陸海軍だって、平常任務に戻ったんだしね。俺達二人が
抜けても何の支障もないさ」
「私が言うのは、そういうことでは・・・。あの、私なんかと一緒にいらして、
その・・・」
うつむくマリアの手を、安心させるように大神は手袋越しにきつく握った。
ソヴィエト国内を横断する「シベリア鉄道」。その始発駅はナホトカから目と
鼻の先のウラジオストクである。しかし、この街に大神達は入ることは出来なかった。
不凍港として、軍事基地の置かれているウラジオストクには、外国人の立ち入
りは許されていない。そもそも、革命以後、外国人の行動を激しく規制するよう
になったこの国では、シベリア鉄道でさえ、たった三駅しか、乗降を許されてい
ないのである。
日本人である大神と、日本に国籍を移したマリアは共に、ハバロフスクまで在
来線で西に向かわねばならなかった。
ハバロフスク駅で、シベリア鉄道の切符を買い求めていたマリアが、困惑の表
情を浮かべて大神を振り返った。
「隊長、あの、個室寝台が一部屋しかないそうなんですが・・・」
「───なら、俺は別の寝台でもかまわないよ」
「でも、そうすると他の乗客達と乗り合わせることになります。隊長は、ロシア
語をお出来にならないでしょう?」
「うっ、それは」
「私が、他の寝台に移ります」
「い、いや、それは駄目だ。男の乗客だっているんだろう?」
「大丈夫です。私も軍隊育ちですから、雑魚寝には慣れてます」
「そういう問題ではなくて・・・、ああ・・・」
まとまらない二人の会話に業をにやしたのか、売り場の駅員がなにやら早口に
喚いた。途端にマリアの顔が真っ赤になる。
「なんだって?」
「あの・・・、個室寝台の定員は二名だから、もめることはないと・・・」
「いいっ!?」
実に官僚的な駅員は、マリアの手に個室寝台の切符だけをおしつけて追い払っ
た。モスクワまでは一週間の道程だ。
(い、いっしゅうかん、おなじへやにねおきをするのかッ!?)
大神は顔を上げられなかった。何を想像していたのか、マリアに悟られる訳に
はいかなかった。
マリアもうつむいたまま。
部屋に通されてからしばらくの間、気まずい沈黙が漂った。
窓際に作り付けの小さなテーブルが一つ、それを挟んで座席が両側に作られて
いる。この席が夜は寝台になる訳である。
やがて車掌が改札に訪れ、マリアに何事か言い置いて去った。
「───大雪で、時間通りの運行は出来ないかもしれないそうです」
「そうか。そういえば、すごい牡丹雪だものね」
大神は、窓の外を見やる。地平線まで平坦な雪原であった。動くものとてない
白い死の世界だ。
「この辺りは穀倉地帯ですから。冬の間は雪しかありません」
「穀物か・・・。米じゃないよな。麦畑かな───秋にはきっと黄金色ですごい
んだろうな」
「・・・」
「どうかしたかい? マリア」
「私、そんな風にこの風景を眺めたことはありませんでした。転戦を重ねて、こ
の雪原も見たはずなのに。この大地が実りの時期を迎えている所を想像したこと
もありませんでした」
「・・・」
「見通しの良い平原では、常に地平線の影を見張りながら移動しましたから、地
形を見る余裕なんてありませんでしたし───私にとってこの北の大地は、ただ
人が争い死んでいくだけの土地でした」
マリアはそういって窓の外を眺めた。大神はそのながい睫毛と緑碧の瞳を見つ
める。彼女が思い起こしているのは、戦いの日々なのか、そこで出会った「あの
人」なのか。
大神は押し黙った。
「・・・隊長? どうかなさいましたか?」
「いや・・・、なんでもないよ」
「こうしていると思い出します。子供のころは、外を歩くのさえ怖かった。夜、
時折、脚を止めると、自分が地面に立っているのか、空に立っているのか、わか
らなくなるんです。だって、見渡す限り雪が白くて、空の方が闇に包まれている
んですもの」
「そうか───大晦日にはその雪原に向かって祈るんだったね」
「ええ」
大神は窓の外に眼を向けた。
そこは彼が知らない、マリアだけの世界だった。
列車はヤヴロノヴィ山脈と、バイカル湖を南方に迂回して、イルクーツクに入った。灰色の幹をさらした針葉樹は、先端の小枝が雪で白く染まっている。
白と薄墨色で彩られた町並をながめて、大神はため息をついた。
「・・・どうかなさいましたか?」
「いや・・・、昔ここに日本人が住んでいたはずだからさ、どんな所かと思って
たんだ」
「誰です?」
「大黒屋光太夫───マリアは知らないかな。江戸時代に嵐でシベリアに流され
て、確かエカテリーナ二世にも謁見してるはずだけど」
「さあ、わからないですね・・・。その人、日本に戻れたのですか?」
「うん、十年かけてね。でも、その後の人生は不遇だったみたいだ。日本では当
時鎖国というものをしていて、諸外国から戻った邦人を、歓迎してはいなかった
んだよ」
「そうですか───でも、いいですね。そうまでして、帰りたい故郷があって」
マリアも窓に顔を近づける。まだ湖面に氷の張っているバイカル湖では、氷上
で釣りを楽しむ家族連れが見えた。
「・・・俺達もこのまま帰れなくなったら日本が恋しくなるかな」
思いのほか真剣な声音に、マリアの視線が大神に向いた。
「何もせずに、こうして列車に乗っているだけの毎日だと、漂流者と変わらない
ような気がするからね」
大神は肩をすくめた。
「本当は、どこに向かっているんだろう、俺達」
まっすぐに大神に見つめかえされて、マリアは思わず眼を伏せた。頬がこころ
もち赤い。
「さあ・・・、もしかしたら、どこか知らない所に連れていかれるのかも、しれ
ませんね」
「だったらどうする?」
マリアが顔を上げた。
「───隊長だったら、どうされます?」
「そうだな・・・。それも良いかもしれないな。マリアと一緒なら」
昼のあいだ、彼らは多くのことを語り合った。
それだけ、お互いのことを知らないということに、二人とも苦笑せざるを得な
かった。
大神は、自分が生まれ育った故郷のこと、幼い日々のこと、家族や友人のこと、
海軍士官学校時代のことなど、履歴書的な話題が多かった。育ちについて、大神
が話すことに屈託はなかった。
一方のマリアは、大神が来る前の帝撃での話や、あやめのこと、ロシアの風物
が中心で、ほとんど自分の過去を話さなかった。
いつになく、二人が饒舌だった理由は一つだけ。
どちらも、毎夜の静寂を怖れていたからだ。
就寝の際には、寝台の脇に吊された白いカーテンを引く。
二枚の薄い壁。
その向こうの密やかな吐息が、やけに耳につく。
大神は寝付けなかった。
コンパートメントが一つしか取れなかった時から、この事態を予想はしていた。
どんな顔をすればいいのか、あれこれ迷っている内に、結局、無言でそれぞれの
寝台に引き取るという、気まずい雰囲気のままだった。
大神は寝返りをうって、マリアの寝台の方を窺う。
彼女は、俺がすぐ傍にいることを、どう思っているのだろう。
サタンや殺女との総力戦のさなか、確かに二人は心を一つにしていた。
だがその後、想いが通じ合った、とまでは言えない。
戦いの後も、帝撃としての難題は山積みであったし、大帝国劇場再建後は、ま
たトップスターとモギリに逆戻りだ。
お互いの気持ちを確かめられず、もどかしさを感じている内に、マリアが休暇
願いを出しにやってきたのだ。
(───でも、俺がついてくると言った時に、彼女は嫌だとは言わなかった)
大神は勢いを得て、寝台の上に起き上がった。
(もし、マリアが眠っていたら、俺も眠ろう)
(もし、マリアが起きていたら───)
大神はそっと、寝台から下りた。
忍び足で近寄り、カーテンに手をかけた。
「・・・マリア? 眠ったかい?」
答えはなかった。
大神はゆっくりとカーテンを開け、ベッドの端に腰を下ろした。
気配には人一倍敏感なマリアが、無垢な寝顔をさらしていた。
大神にすべてを委ねて、安心しきっていた。
戦いの中で生きてきた彼女にとって、それがどんなに大きな意味を持つのか、
大神にも判っていた。
大神は、しばしマリアの寝顔を見下ろしていた。
眠っている相手に、卑怯だ。そんな葛藤は、無理に頭から追い払った。
大神はマリアの瞼に唇をあてた。頬、耳、唇、そして鎖骨にそって指を這わせ
る。
抱きすくめて首筋に顔をうずめた。うなじから、かすかにいつもの香水の香り
がする。
大神は、そのままの姿勢でしばらくじっとしていた。
列車の振動にあわせて、ちからなく横たわるマリアの身体が揺れた。大神の耳
元で微かに金属性の耳障りな音がなる。大神は顔をあげた。
金色のロケット。
大神はまだ、その中身を見たことがなかった。ただ、彼女の想い人の写真が入っ
ているとだけ、聞いていた。
(お守りかい?)
(お守り・・・、お守りですか。ふふ、そうかもしれませんね)
初めて、マリアが「隊長」と呼びかけてくれた時。
それまでの努力を買ってくれたと素直に喜ぶ反面、なにかしら心に引っかかる
ものを感じた。
それが何なのか、大神自身も、つい半年ほど前までは判らなかった。
花組の初代隊長であり、自分などより遥かに実践経験も多いマリアには、実の
ところ、ライバル心さえ抱いていたこともあった。
(マリアを支えられるくらい、立派な隊長になる)
まだ出会ってまもなくの頃、そうマリアに告げたのは、軍人としても彼女を追
い越して見せる、という意味合いも含んでいた。
だが、彼女が帝撃を飛び出し、刹那の元に向かった、あの日。
あやめの口から告げられた、もう一人の「隊長」の取った行動は、大神を打ち
のめした。
命を賭けで彼女を守り通した男。
そんな人間と、比べられていたのだ。
しかも、形ばかり同じ上官の役職で。
(かなう訳がない)
相手は、すでに故人だ。マリアの心の中の刻印は、一生変わることがない。
そして、もう一人。
昨年の秋、マリア自身が打ち明けてくれた、アメリカでの恋。
その時、初めて自覚した。
これは、嫉妬、だと。
マリアの中で、大神一郎という存在が、別の男よりも小さいからこその苛立ち
なのだ、と。
(俺はたとえ死んでも、こんな物で君を縛ったりしない)
大神は金のロケットペンダントの鎖を指にからめた。
もしこれが訣別の旅だというのなら、俺はおとなしく見守っていよう。
(そう、あやめさんとの戦いでは、君に見守っていてもらったから───今度は
俺の番だ)
大神は表情を和らげて、彼女の顔半分を隠す前髪をかきあげた。
容貌が少し幼く見える。大神はその額に口づけて、マリアから離れた。
「・・・おやすみ」
頭上から、大神の気配が去った。衣擦れの音。しばらくして、彼の寝息が規則
正しいものに変わった。
マリアは薄く眼を開け、額に指を触れた。
大神の唇───。
わざと寝入った振りをしていた訳ではない。身体が動かなかったのだ。
(でも)
マリアはペンダントに指をかけた。
このロケットは、彼女自身が決めた、他人に心を許さないための枷だった。
誰にも本心を明かさないこと。マリア・タチバナという有能な人間を演じきる
こと。帝国華撃団にいるためには、心の弱さは圧し殺すしかないと信じていた彼
女の枷をはずしたのは、大神だった。
(人を大切だと思う気持ちがマリアを弱くするというのなら、いくらでも弱くな
ればいい。・・・君は・・・俺が守る)
たとえ、あの人との思い出にすがることが出来なくなっても。
たとえ、過去の罪に責めさいなまれる夜があっても。
(どんなに間違っても、私はこの人の元に帰ってこれるんだわ───)
だからもう、枷は必要ない。
(もし、あの人にこれを返せたら、笑って送ることができたら、私は・・・)
スヴェルドロフスクの駅を過ぎてしばらくすると、マリアが窓の外を指差した。
「隊長、ウラル山脈に入ったみたいですよ」
「え? だって傾斜が緩いようだけど・・・」
「山あいを縫って走ってますから、山のぼりをする訳ではないんですって」
「ふーん」
さすがに、西へ向かうにしたがって、タイガの森は少なくなり、乗り込んでく
る乗客の服装も、西欧風になってくる。世界最大の版図を持つこの国は、実にさ
まざまな人種、さまざまな民族を内に抱えているからだ。
「隊長、もうしばらくゆくと、最高地点に着くのですが・・・」
「うん?」
「オベリスクが建っているんです。私も話に聞いただけなのですが」
二人は廊下に出て、その地点にさしかかるのを待った。
他の個室からも、乗客が出てきて挨拶を交す。
「あ、見えて来ましたよ」
緩やかなカーブにかかり、乗客の誰もが窓の外を眺めているのが見えた。カー
ブの内側に、白大理石造りの大きな碑石が建っている。
『これより東、アジア。西、ヨーロッパ。』
大神は長いあいだ腕組みしたまま、オベリスクを見つめていた。その真剣な横
顔に、マリアはためらいがちに声をかけた。
「・・・隊長?」
はっと眼を見開いて、大神はマリアに向き直った。
「ああ、ごめんごめん。ちょっと考えこんじゃった」
照れ隠しに頭をかいた。
「何を、考えていたんです?」
「うん・・・。日本と違って地続きなのに、どうしてこんな碑石が必要なのかなって・・・」
大神はそれぞれの個室に引き上げつつある乗客達を見渡しながら言った。
「この人達だって、元々は違う国や民族の人達だろう。時の流れで、今は一つの
国だし、同じ人間だよね? それから俺達みたいに、極東の島国から来た人間だっ
て、こうしてちゃんと同じ列車に乗って、同じ旅をしている。なんか不思議なん
だ───同じ大地に住んでいるのに、ここからがヨーロッパ、ここからがアジアっ
て、分けて考えてどうするのかな」
マリアは唇をかみしめた。それが可能であったなら、マリアは一人残されるこ
とも、銃を手にすることも、おそらくなかったであろう。
「隊長・・・、帝撃が、特別なんですよ───誰もが国や民族の違いを乗り越え
て、理解し合えるなんて・・・」
嫌でも意識せざるを得ない、肌や髪の違い。好奇と嫌悪の視線。二十年前、彼
女の母親がこの国で置かれた立場と、現在のマリアに変わりはない。
だから「血」ではなく、「能力」を買ってくれる帝撃にしか、居場所がなかっ
たのだ。それ以上は望むべくもなかったのだ。
「そうだね・・・、でも」
大神はマリアの手を取った。そして、どこまでも真摯に続けた。
「理想論かもしれないけど、その『特別』がなくなった時が、本当の平和なのか
も、しれないよね? 俺はね、そういう世界を、帝撃から始められると思うんだ
よ───君と一緒に、ね」
モスクワで乗り換えてさらに西へと進むと、バルト海に突き当たる。
レニングラード、旧ペテルスブルク、ロシア革命が起こるまでは長くこの国の
首都だったところだ。
ホテルの部屋に荷物を置いた彼らは、街を散策することにした。
すでに陽が傾き始めている。墓碑は郊外に建てられているので、今からでは遅
すぎる。墓参はまた、明日へと延びた。
「隊長。私、行きたいところがあるんです」
マリアが思いがけず強い口調で訴えた。
「ああ、いいよ。ここは君の国なんだからさ。遠慮することはないよ」
「ありがとうございます」
硬い表情のまま、わずかに頭をさげると、大神を先導してレニングラードの通
りを歩いてゆく。
「石造りの街」という名の通り、東京とは比べ物にならないスケールの家並みが
続く。ドストエフスキーの「罪と罰」の舞台でもある。
「血の日曜日事件」の惨劇の場となった広場を抜け、さらに行くと、巨大な大理
石造りのバロック建築物があった。
端まで、二百メートルはあろうか。
「・・・マリア、ここは?」
「エルミタージュ美術館・・・、かつて『冬宮』と呼ばれていたところです」
マリアは中には入ろうとせずに、宮殿広場に背を向けてエルミタージュを見上
げた。大神もならってかつての宮殿を眺めた。
ロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ二世とその家族が住まいした所。
彼らは革命の翌年、1918年に銃殺刑に処され、その骨は硫酸で溶かされた。
万一にも反革命勢力に旗印を与えないためである。
軍人を目指していた当時の大神も、その話に鉛を飲んだような、暗い気持ちに
なったことを覚えている。「戦争」の容赦のなさ、理が情に勝る非人間らしさを
目の前につきつけられた思いだった。
その革命の真っただ中を、彼女はかいくぐってきたのだ───。
肩に軽く重みが加わった。
「・・・マリア?」
マリアは、大神の肩に額を押し付けていた。
「・・・すみません。少し、こうしていていいですか?」
顔を伏せたまま、マリアはかすれた声で尋ねる。
大神は時折大きく震えるマリアから視線をそらした。
そしてエルミタージュを見上げながら、ゆっくりと彼女を抱き寄せた。
荒野を走る橇が目的地へ近づくに従って、マリアの口数が少なくなった。
空の色は重かった。長い長い冬の間、決して晴れることのない、陰鬱な雪雲。
骨まで凍みる風が、大地の表面を覆った軽い新雪を巻上げ、マリアと大神の頬を
なぶった。
六年間、風雪にさらされていた碑文は消えかけていた。
マリアがひざまずいて、片時も離さなかった金のロケットを首からはずす。
古くなって、碑文の薄れかけた墓碑に手向ける。
そこに彫られた、「DEVOTED OTHER TWO GIRLS 」の文字。
彼が生前から言い残していたという碑文の意味を、大神は昨夜、教えられてい
た。
大神もマリアの背後で、そっと手を合わせる。
理想と恋に殉じて死んでいった男にではなく、眼の前で祈りを捧げる少女の過
去に。
彼女が初めて心を許した男は、彼女を守って死んだ。
次に彼女に手を差し伸べた男は、彼女を裏切って死んだ。
ある者は地に還り、ある者は天に還り、彼女は大切な人を次々と失って来た。
自分に出来ることといえば、生きて、彼女の傍にいることだけだ。
生きて彼女を守ることだけだ───。
マリアが祈りを終えて、大神を振り返った。
大神は、彼女の手を取ろうとした。雪に脚をとられたマリアが、大神の胸の中
に倒れ込んで来る。とっさに抱きしめると、マリアの顔が目の前にあった。
大神は、彼女の背を支えた腕に力を込めると、唇を重ねた。
折り重なる雲を圧して、光が降り注ぐ。
視界がひらける。二人は空を見上げた。
冬の、終わり。
幾条もの光の帯が、氷の大地を照らした。
「梯子・・・」
大神の腕のなかで、マリアがつぶやいた。
「え?」
「『ヤコブの梯子』と言うんですって、この光───迷える魂を天まで導く光の
梯子」
小さな墓碑の周囲が一段と明るくなった。まるで、そこから天に昇ってゆく魂
があるように。
「待っていてくれたんだよ・・・、きっと」
大神の口から、自然にその言葉がついて出た。
(光あれ、か・・・)
(俺の中のためらいや、迷いもすべて、この光の梯子と共に葬ります)
大神は寄りそうマリアの瞳を覗き込んだ。
彼女も同じ事を想っているのが判った。
帰り際、二人は橇の上から、もう一度だけ振り返った。
墓碑にかけられたペンダントが、天からの光を受けて、黄金の輝きを放っていた。
|