マリアは新しい台本に眼を通し終えて、吐息をもらした。
 今回ばかりは、米田支配人を恨めしく思わずにいられない。
 五月公演の演目は「愛ゆえに」。
 フランス軍人と、街娘の悲恋物語だ。
帝劇の男役として、常にトップスターの地位にあるマリアは当然、主役のオンドレ役。
相手役は、新人の真宮寺さくら。歌曲もあがって来ていたが、セットの凝りようとい
い、帝劇始まって以来の力のいれようだ。
 だが、マリアにはこの配役は苦痛だった。
 軍人。報われぬ恋。
 これらは、マリアに辛い過去を思い出させる。彼女は知らず胸のロケットに触れて
いた。
 せめてカンナが戻って来ていたら。
 故郷に帰ったままの、もう一人の男役の親友を思った。彼女にこの役を譲ってしま
えたのではないだろうか。
 そこまで考えて、マリアは首を振った。
 これは仕事だ。
 帝国歌劇団としての、そして帝国華撃団としての。
 マリアはもう一度、台本を手に取った。

『たとえこの先、朝の光に立ち眩むことがあろうとも、夜の闇に惑わされることがあ
ろうとも、クレモンティーヌは、貴方をお慕いしております』
 舞台では、さくらが動きを取りながら、台本片手に台詞の練習中だった。
『オンドレ様・・・』
「はい、ここで、クレモンティーヌの独白は終わりですわ。次はわたくしとの絡みで
すわね」
 それまで、腕組みしたまま、白けたようにさくらの演技を見守っていたすみれが、
舞台の中央にまで進んで言った。
「いいですこと? 私はオンドレの上司である将軍の娘。彼の婚約者でもありますの
よ。わかりますわね、ここはわたくしの見・せ・場。ちゃんとわたくしを引き立てて
くださいな」
「・・・はぁーい」
「なんですの、そのお返事は!?」
「はーい!」
「まったく、最近の新人と来たら・・・」
 憤懣やるかたない、といった感じで、どすどすとすみれは上手に回った。
 今まで、帝劇のヒロインといえばすみれの独壇場だったのだ。おもしろかろうはず
がない。
「いきますわよ。
『おーほほほほほ。オンドレ様も、やっとわたくしの真実の愛に目覚めてくださった
のね。神様、ありがとうございます───今宵、世界で一番幸福な、この恋人達に祝
福を!』
 ここで、メイド1、2とともに、クレモンティーヌの登場ですわ」
「はい。『・・・お嬢様。ご婚約おめでとうございます』」
「・・・さっくらさん、そんなに真ん中に来ては、目立ってしょうがないことよ。も
う少し下がってくださらない?」
「・・・お言葉ですが、ここはクレモンティーヌが、オンドレとそっとお別れする、
良〜い場面なんですよ。お客様だって、クレモンティーヌの方を見たいんじゃないで
すか?」
「まあ、なんですって!あなた、先輩を立てるということをご存じないの!?」
「それとこれとは話が別です!」
「言ったわね、この田舎娘!」
「言いましたとも、イヤミ女!」

 帝劇ロビーの一角。受け付けで、先月公演の切符の半券を整理しているのは、新米
モギリの大神一郎と、花組の最年少、アイリスだった。
「くー、ダメだ、やっぱり合わない。おかしーなー」
「きゃは! おにいちゃん、せんとーの指揮は上手なのに、モギリはいつまでたって
もダメなんだねー」
「うっ・・・、ほっといてくれないか、アイリス」
「あー、おにいちゃん、拗ねてるぅ」
「アイリスッ!」
 その時。扉の向こうで、ひっくり返るような物音が響いた。
「な、なんだっ!?」
「おにいちゃん、舞台からだよっ!」
 裏から廻るのももどかし気に、大神とアイリスは客席に通じるドアを開け放った。
 そこにはくんずほぐれつ舞台から落下し、オーケストラピットに転がり込んでさく
らとすみれが伸びていた。

「まったく、なんてことなの・・・」
 アイリスの知らせで医務室まで呼び出されたマリアは嘆息した。
「舞台稽古で、けんかなんて」
「ま、まあ、マリア。怒らないでやってくれよ。練習熱心のあまり、なんだからさ」
 まったく関係ないはずの大神が、どういう訳かとりなす。
 マリアが怒ると充分に怖いことを、彼は身を持って知っているのだ。
「そ、それよりもすみれくんの怒りが、目覚めるまでに冷めていればいいけど」
 こちらの剣幕もかなりのものがある。
 仲介役など買いたくない、という意思がみえみえだ。
「アイリスだいじょうぶだと、思うよ」
 意外にも反論が挙がった。
「『つばきひめ』でねー、マリアがすみれにお金をたたきつけるところがあったんだ
けど、勢いつきすぎて、マリアすみれを殴っちゃったの」
「えええっ!? あの、すみれくんをかい?」
「うん。でも、すみれ、怒んないで、マリアを褒めたの」
「・・・?」
「『それでこそ、裏切られたアルマン。迫真の演技でしたわ』だって」
「なるほど。すみれくんらしいね」
「でしょー?」
「だったら、さほど心配せずともいいかな? 芝居に関することだしね」
 ちなみに、大神のこの認識が誤りであったことは、のちに夏の「西遊記」公演で立
証される。が、今はそれをさておく。
「ねえ、マリア?」
「・・・はい?」
「・・・聞いてなかったのかい?」
「あっ、すみません。なんでしょうか」
「マリア、先刻から元気ないよー。どうしちゃったの?」
「なんでもないのよ、アイリス・・・。根をつめて台本読みすぎたのね」
 弱々しく微笑むマリアを、大神は驚いて見返した。
 こんな弱音は、マリアには似つかわしくない。
「今度の役、そんなに難しいのかい?」
「難しい、という訳では・・・」
 マリアは瞳を閉じた。
「ただ・・・、こういう役は好きになれなくて」
 ためらいがちにマリアは答え、大神に背を向けた。



 帝国華撃団の中で、マリアだけが軍隊経験があった。
 彼女の故郷、露西亜に革命が起きたのは、つい数年前の事である。
 長年にわたる、ロマノフ王家の圧政に耐え兼ねた市民と軍人達を巻き込んだ戦争へ
発展するまで、さして時間はかからなかった。
 マリアもロシア人の父に倣い、革命軍へと身を投じた。
 優秀な戦果を示した彼女が配属された部隊には、武骨な男に束ねられていた。決し
て甘やかしはしなかったけれども、決して切り捨てようともしなかった。マリアが一
生懸命つくったボルシチを初めて「うまい」と、褒めてくれたのも、隊長だった。
 いつしかマリアは兄に対するような憧れを、彼に抱くようになっていた。

 隊長はいくら言ってもマリアを「マリーヤ」と露西亜風に発音することをやめなかっ
た。
「マリーヤという名は露西亜に多い名前じゃないか。どうして嫌がるんだ?」
 東に位置する島国から嫁いで来た母がそう決めたのだ、といっても、この頑固な男
はきかなかった。
 マリアも、最初こそ抵抗したものの、のちにはあきらめるしかなかった。なにより
も彼に「クワッサリー」などと非人間的なコードネームで呼ばれるよりは、ずっとマ
シだったのだ。
 あの人には、私の名を呼んでほしい。
 幼いマリアは、その頃まだ無邪気にそう思っていた。

 隊長の前身は、部隊内でも謎だった。
 革命軍に加わる以前は外国にいたともいい、実は帝国貴族であったとも言われた。
 だがマリアを始め、部隊の誰もが詮索しなかったのは、彼がまちがいなく有能な指
揮官であり、信頼できる人間であったからだった。

 一九一七年の初頭。
 小雪のちらつくペトログラードに、彼らはいた。
 この古い都はロマノフ王家が開いた首都で、以前はペテルスブルクといった。
 ペトログラードの冬は肺が凍るほどに寒い。厳冬期には港湾業務にも支障の出るほ
どである。
 政府軍が市街に散っているとの情報に、マリア達の部隊は、翌日の市街戦を想定し
て協議を重ねていた。こうした小競り合いが何度か続いている。
 ここで他の部隊から、冬宮(王宮)へも攻撃の人数を割いた方がよいとの案が出さ
れた。
 この時、隊長は、真っ向から反対した。
「・・・現在、ツァーリ(皇帝)は不在、冬宮の王族など女子供だけではないか。敵
主力をたたくのに、戦力を二分するのは下策だ」
 隊長の意見が通り、作戦は成功を収めるかにみえた。が、冬宮から、帝国の重鎮で
ある貴族達が数名逃げ延びたことが知れると、隊長の立場は一変した。
 当然、他の部隊から批判があがった。
 そしてなによりもマリアに衝撃を与えたのは一つのまことしやかな噂であった。
 隊長が、かつて王家冬宮の警備隊員であった、というのだ。
 捕虜が、そう口を割った、ということだった。
 冬宮を攻撃しなかったのが、その証拠だ。手心をくわえているのだ。
 主を裏切った男。
 いつまた、我々を裏切るやも知れない男。
 以前から、彼の活躍を快く思わなかった他の部隊長が、こぞって彼を攻撃した。
 隊長は査問会にかけられることになり、一人監視付きで部屋に軟禁されることになっ
た。ただ、捕虜の主張に信憑性がなく、捏造された可能性も多分にあるため、彼の評
価を下げるにとどめる茶番だ、というのが大方の見方であった。

 その日、マリアは無理を言って食事当番を代わってもらった。
 夕食を運んでいくと、ドアの前の監視役は眉をひそめたが、査問会の内実を知って
いるのか何も言わずに通してくれた。
 薄暗い部屋の中に、一声かけてマリアは入っていった。
「マリーヤか。どうした」
「隊長・・・」
 会いたくてたまらなかった。一言だけ「大丈夫だ」と言ってほしかった。
 だが彼は、マリアに背を向けたまま問うた。
「───お前は、俺をどう思うのだ?マリーヤ」
 マリアは答えを返せなかった。
 何事にも動ずることがないと思っていた人が、どんな困難をも、その腕と頭脳で乗
り越えて来た男の背中が、細かく震えていた。
 訪れてはいけなかったのだ。
 見てはいけなかったのだ。
 だが、振り返った彼はマリアに向かって、力強く微笑んで見せた。
「いいのだ、マリーヤ。なにも言わなくて、いいのだ」
 長い沈黙ののち、マリアはただ猛然と首を振って、そのまま隊長の部屋を飛び出し
た。




 翌日、照れながら舞台に戻ってきたさくらに、マリアは何もいわなかった。
 仕事だと思えば耐えられる、と思っていた。だが稽古の一分一秒が、彼女にとって
責め苦だった。
 マリアはこの芝居に過去を重ね合せ、辛い記憶から逃れられずにいた。
 マリアがさくらを見るその視線は、さくらを通り抜け、かつての彼女自身を見てい
た。
『・・・クレモンティーヌ。貴女は私に、裏切り者になれ、というのか』
『そこをまげて、どうか!どうか私と一緒にお逃げくださいっ』
 マリアの顔が苦痛に歪んだ。
 あの暗い小部屋が、あの人の背中が、まぶたの裏に蘇る。
(───お前は、俺をどう思うのだ?マリーヤ)
 裏切り者。
 裏切り者───。
(違うんです、隊長。私は決してそんなことは───)
 思ってもいなかった。
 でも、伝えられなかった。
(最後まで、私は・・・)
 私が見ていたのは、あの人の虚像か、それとも真の勇気か。
 声を震わせ、次の台詞をいうのが、限界だった。
『使命も部下も捨てて逃げ出す私など、もはや私ではない・・・』
 ばさり、と音を立ててマリアの白い指から台本が滑り落ちた。
「・・・マリアさん?」
 さくらが不審そうにマリアの顔を覗き込む。彼女の肌は白蝋のごとく青ざめてい
た。
「マリアさんッ!? どうしたんですかっ」
 さくらが悲鳴に近い声をあげた。
 マリアは音もなくそこにくずおれた。

「気がついたかい?」
 ぼんやりと白い視界に、男の影がちらついていた。
「・・・隊長」
「ん? なんだい、マリア」
 気づかうような優しい声にはっとなる。マリアは跳ね起きた。眼の前には慌てて
彼女を支えようとする、大神の姿があった。
「・・・少尉でしたか」
「え?」
「いえ、なんでもありません」
 マリアは心を閉ざした。
 そして、自分の来ている寝間着を見て、眉をひそめた。
「ああ、心配しなくていいよ。ここまで運んだのは俺だけど、着せ替えはかすみくん
に頼んだから」
 大神は多少、顔を赤らめていった。
「他の皆は練習に戻ったよ。マリアが戻るまで、完璧にしておくってさ」
「そうですか・・・、申し訳ありません」
「いや、謝ることはないんだよ───先月の『椿姫の夕』から、連投だもんな。少し
休むといいよ。支配人には俺から言っておく」
「・・・」
 腫物にでもさわるような態度だった。異性のあしらいがスマートとはいいかねる大
神であるが、今日は格別うろたえているようだ。
 大神の強ばった笑みに、マリアは内心舌打ちする。
 調子を崩している部下に対する配慮のつもりなのだろうが、そんな気づかいも、今
のマリアにはうっとうしいだけだった。
「少尉」
 マリアはそっけなく言った。
「お言葉に甘えて、少し休ませていただきます」
「う、うん。その方がいい」
 大神はわざとらしく、明るく振る舞いながら立ち上がった。
 何も心配しなくていい、と必要以上に強調して彼は出ていこうとした。が、
「あ、あの、マリア」
 彼はドアのあたりで振り返った。
「なんでしょう、少尉」
「いや・・・お大事に」
「・・・」
 大神はそそくさと立ち去った。ベットに起き上がったマリアはため息をついて、窓
の外をみやる。五月晴れの澄んだ青空。マリアの心の中は未だ吹雪だというのに。
 大神がさっき言わんとしたことが、マリアにはわかっていた。
 もし、心にかかることがあるのなら。
 もし、俺で気晴しになるのなら。
 甘い性格の、あの新米少尉はきっとそういうに違いない。
 なんでも相談してくれ、と。
 だが、彼に何がわかるというのか。
 私は一番大切な人を失ってしまった。あの人の命は、あの共に過ごした時は、どう
あがいても二度と戻らない。
 行き場を失った想いは、マリアの身体中を暴れまわり、傷つける。
「私の時間は、あの戦争で止まっている・・・」
 マリアはちからなくつぶやいた。
 緑柱石もかくやという美しい瞳は、長い睫毛の奥にかげって見えた。




「マリーヤ。任務だ」
 夜更けに、隊長がマリア一人をそっと呼び出した。
「誰にも悟られず、ここまで行くのだ。女がひとり、待っている」
 隊長は住所を記した紙をマリアに手渡した。
「女・・・、間諜ですか?」
「───いらぬ事は訊くものではない」
 冷たくはねのけられた。
「はっ、失礼しました」
 反射的に、マリアは直立不動の姿勢を取った。すると隊長は自分の態度を恥じたか
のように、苦笑してみせた。
「いや、これは俺が悪かった───実をいうと、これは戦況には特に関係ないのだ」
「・・・?」
「あえて言うなら、『お前に』行ってほしいのだよ、マリーヤ」

 釈然としないまま、マリアは指示された場所へ向かった。
 郊外の、昔は瀟洒な館だったであろう古屋の前で、マリアは周囲を確かめる。彼女
の鋭敏な感覚でも、誰かが潜んでいる様子は捕えられなかった。
 それでも注意を払って、小さく扉をたたく。
 扉の向こうから、しっとりとした女の声が問いかけてきた。
「・・・合言葉は?」
「───『メメント・モリ』」
 これまた指示された言葉を伝える。緊張の一瞬だった。
 すっと扉は開き、マリアは軽く身を滑り込ませた。
 扉を開けた女性は予想外に若く、争いごとには無縁に見えた。
 白磁でできたような透明な肌。手入れの行き届いた髪のつや。上物のマントにマフ。
どうやら貴族の娘らしかった。
 彼女はマリアをペチカの傍まで導いた。彼女の方は、まだ子供といってもいい年齢
のマリアが来たことを、特に不思議には思っていないようだ。
(この人は、隊長のなんなのだろう・・・)
 だが、尋ねる前に、相手が口を開いた。
「貴女がマリーヤ?」
「いえ、マリア・・・、マリアと発音してください」
「そう、ごめんなさいね。わたくしと同じ名を持つと聞いていたものだから」
 彼女はふっと笑った。どことなく寂しげだった。
「・・・市内の様子を聞かせてくれないかしら?」
 マリアは詮索は後回しにし、彼女に見てきたことを語って聞かせた。食事にすら事
欠く市民、家を失い凍死する者、今の露西亜国内はさながら地獄絵図であった。
 だから、元凶である王家を倒し、幸福な生活を手にするべく立ち上がるものは増え
る一方だ、と。
 女性はうつむいてマリアの話に耳を傾けていたが、ついに涙をこぼした。
「なんということ・・・」
 その指が首にかけられた十字架を求めて、胸元にのびる。
 彼女のかたわらの燭台の灯が、それに描かれた紋章をくっきりと浮かびあがらせた。
 マリアは思わず飛び上がった。
「その紋章・・・!」
 マリアは言葉を飲み込んだ。露西亜国民で、その紋章を知らぬものはない。
 双頭の鷲。
 マリア達、革命に身を投ずる者は、紛れもなくこの双頭の鷲を地上から抹殺するた
めに戦っていたのだ。
「私と同じ名・・・。貴様、まさかっ」
 女性は両手で顔を覆い隠した。
「ああ、お願い・・・どうか、その名を口にするのはやめて・・・」
「まさか・・・」
 マリアは愕然となった。
 マリーヤ・ニコラエヴナ・ロマノワ。
 彼女たちが打倒すべき、ロマノフ王家の第三皇女であった。

(そんな・・・。あの噂は本当だったのか?)
 隊長はかつて帝国側の人間だった───。
 そんな、信じられるはずがない───。
 マリアの頭の中に疑念と否定が渦を巻いた。
 彼女の逡巡を読み取ったかのように、マリーヤは顔をあげた。涙はとどまることな
く頬をつたっていったが、それでも濡れた瞳でマリアを直視した。
「・・・そう。私は貴女方からみれば、憎むべき敵。この国に不幸をもたらした張本
人ということになります」
 マリーヤは認めた。だが、すぐに言葉を接いで
「あの人が信頼している貴女なら、あの人の経歴も知っているのではなくて? あの
人は、この露西亜の有様を憂えて、冬宮から出奔して行った・・・。革命軍に加わる
つもりだと、あの人の口から聞きました」
 マリアは、眼の前にいる女性が「敵」だということを、信じられなかった。マリー
ヤ皇女は、おとなしそうな、優しそうな女性にすぎなかった。
 マリアが抱いていた「敵」のイメージは、無辜の民の命など、虫けらほどにしか感
じない悪鬼だった。こうして、血肉をそなえ涙まで流すなど、今まで想像だにしてい
なかったのである。
 マリアは戸惑った。
 王家は確かに憎い。でも、この女性をためらいもなく憎むことは出来ない───。
「マリア。私は死にます」
 マリーヤ皇女はきっぱりと言った。
「私はロマノフ王家の最後の皇女の一人として、死んでいきます。そう決めました。
私にはわかります。この国が、私たち王族や貴族のものであった時代は終わったのだ
と」
 皇女はマリアの手を取った。マリアは思わず手を引こうとしたが、結局皇女にゆだ
ねた。細く、銃など持ったことのない淑女の指だった。
「それを、気付かせてくれたのはあの人だった・・・」
 皇女は、真摯な瞳でマリアに訴えた。
「どうか、お願い。どうか、あの人に伝えて。
 どこにいようと、どんな身の上になろうと、お慕いしています、と。
 貴方の理想を築く日を、心密かに祈っています、と」
 この人は───。
 マリアは胸をつかれた。
 マリーヤ皇女は、隊長を愛している。
 マリーヤ。あの人は私をそう呼ぶ。
 あの人にとって一番大切であろう「名」を。
「・・・伝えます」
 マリアはそれだけいうと、館を出て帰途についた。一度振り返ると、館の前で、皇
女はいつまでもマリアを見送っていた。

 そしてマリアは部隊へ戻り、隊長へ皇女の言葉を伝えた。
 彼は、「ご苦労だった」とだけ答えた。

 翌日の夕方、マリアが自分の小銃を手入れしていると、隊長が近寄ってきて手を差
し出した。
「───俺からの、礼だ」
 隊長がマリアに押し付けてよこしたのは、金のロケットペンダントだった。
「・・・私は、何もしていません」
 マリアは、ロケットを突き返した。
 隊長は、静かな笑みを浮かべて言った。
「俺はただ、お前に逢ってほしかったんだ───あの人に。何の為に戦うのか、誰の
為に戦うのか・・・お前にも考えてほしかった」
 そういうと、彼はロケットを受け取らずに踵を返した。
 マリアには判ってしまった。彼が戦う理由はきっと誰のためでもない、あの皇女の
ため。
 身分違いの二人の恋のため。
 残されたマリアは一人、その小さい、隊長の手の温もりの残るロケットを胸に押し
当てた。
「隊長・・・。私は、あなたの為に・・・」



 ロシア皇帝ニコライ二世が家族もろとも銃殺されたのは、その翌年の夏。あのたお
やかな美しい人も、骨まで残らず処分されたのだという。
(どこにいようと、どんな身の上になろうと、お慕いしています)
 あれから一度もまみえることなく死んでいった二人の心を知るものは、マリアだけ
になった。
 日本に来て、少し学ぶ余裕が出来てから「メメント・モリ」の意味も知った。
「隊長・・・。もしや貴方も、叶わぬ恋に殉じたのですか・・・?」

 ドアがノックされた。追憶を破られ、はっとなったマリアはあわてて返事をした。
「はい?」
「たびたび申し訳ない。大神だけれど・・・」
 自信なさげな声が届いた。

「・・・少尉?」
 いぶかしんだマリアがドアを開けると、そこには白い薔薇の花束を抱えた大神が立っ
ていた。
「しょ、少尉。どうしたのです、この薔薇は・・・」
 マリアが絶句すると、大神は鼻の頭を掻きながら、
「いや、その、俺は女の子を元気づける言葉なんて、いえないし、でもマリアは元気
なさそうだったし・・・、そういう時には花を贈るのが一番喜ばれるんじゃないか、
デートにも花束を持って行くといちころだと言うし・・・、あ、俺じゃないよ、士官
学校の時の連中がね!・・・そのぅ」
 必死に言い訳をしている大神だが、次第にあやしいものになっていく。
 マリアは眼を見開いて、そんな大神を見つめていた。
「えーと、その、なんだ・・・まあいいや。はいっ!」
 白薔薇を勢いよく差し出す。
「わ、私に!?」
「うん。花のことなんて良くわからないから、取り敢えず花屋に飛び込んだんだけど、
これがマリアに一番似合っている気がしてさ」
 子供のように眼を輝かせて、大神は言った。
「ここまで来るのに、皆にみつかっちゃってさ。まいったよ」
 言われて見ると、角にさっと隠れた頭は、上からすみれ、さくら、それにアイリス
の大きなリボン。階段の途中で様子を伺っているらしいのは由里に、あろうことか米
田支配人らしい。
「みんな・・・」
「・・・心配してるんだ。俺も、みんなもね」
 そして、大神は真面目な顔に戻って言った。
「マリア。約束するよ」
「え?」
「俺は、マリアに比べて、人間としても軍人としても、どうしようもない未熟者だけ
ど・・・。でも、俺、頑張るから。マリアを支えられるくらい、ちゃんとした隊長に
なるから」
 そう誓ってみせる大神の表情は、まだ痛みや哀しみを知らない青年のものであった
けれど───。
 マリアにはわかった。
 あの人と同じにおいを持っている。
 心から信頼させる何かが、大神にはある。
 確かにこの時、マリアのなかに、新しい恋の種子が芽生えたのだ。
 彼女はおそるおそる問いかけた。
「この薔薇・・・。私に似合いますか・・・?」
「ああ、よく似合うよ」
 もちろん、大神は知らないだろう。
 あの人の愛した女性が、もうひとりの「マリーヤ」が「冬宮の白薔薇」と呼ばれて
いたことなど。
 ───きっと、彼の言葉は、お世辞なんかじゃない。
 マリアはそう信じた。
「・・・ありがとうございます」
 マリアはふわりと微笑んだ。
 途端に大神は顔を真っ赤にし、ぎくしゃくと挨拶するとマリアの前を辞した。
 マリアはドアを閉め、花束を抱きしめた。廊下では、大神が米田にひやかされてい
る。
 薔薇の薫りに包まれながら、マリアはつぶやいた。
「隊長・・・。今度の隊長も、良い人ですよ・・・。安心してください」
 幸せな気分で、マリアは白い薔薇に顔をうずめた。


 第一作ということで、妙に肩に力が入っていますね(笑)
 これは97年の2月頃、2日ほどで書いた物です。冷や汗ものですね(--;) 
後で史実を調べて、「こんなん絶対ないーっ」という内容 だったので、ちょこちょこ手を加えま
した。 タイトルの「memento mori」はラテン語だったと思いますが、「死の警告」や「やがて死
すべき運命」といったニュアンスで使われています。

 思えば「1」の第三話予告。いやにマリアの過去が重要そう・・・。
「そういえば、ロマノフ家の皇女にもマリアっていたよなー」
 四女アナスタシアが生きていたのでは?という逸話は有名ですし、もしやそのネタか!?(笑)
と勘違いしましたです、はい。
 結局すぐプレイして真相ははっきりしたのですが、膨らんだ妄想はとどまるところを知らず、
こんな短編になりました。