夏空に白い飛行船が浮かんでいた。エッフェル塔を迂回したのち、徐々に高度を下げる。シャン・ド・マルス───『軍神が原』といういかめしい名の公園が、その下に広がっている。以前はフランス陸軍士官学校の馬場であり、巴里万博の開催地でもあったところだ。
 ラッパの合図が響きわたり、警官の誘導で、市民や観光客が避難してゆく。
 公園の敷地内から人影がなくなると、広場のナポレオン・ボナパルトの銅像が地下に沈んだ。と同時に地面が二つに裂け、空洞が出現する。誘導灯が待ち受けるその中に、飛行船は降下してゆく。
 花小路有恒がタラップを降りると、大日本帝国海軍の軍服に身を包んだ一人の青年が敬礼で出迎えた。フランス海軍省に留学中の大神一郎中尉である。
「お久しぶりです。花小路伯」
「うむ。一別以来だな、大神君」
 老人は破顔して答えた。
「どうかね、巴里での暮らしには慣れたかね」
「はい。こちらの賢人機関の方々にも、非常によくしていただいてます。お陰さまで何不自由なく」
「それはなにより。米田君も、だいぶ案じておったぞ」
「・・・そうですか。米田中将もお変わりなく?」
「うむ、ますます若くなった。この巴里にも一度来てみたいと言っていたよ」
「米田中将なら、あり得ます」
 大神は強く頷いた。
「立ち話もなんですから、どうぞ奥へ。休憩室を設けてありますので」
 この発着場は、欧州の賢人期間が持つ中継基地のひとつである。その会員である花小路には、好待遇が用意されている。
「待ちたまえ、大神中尉。実は同行者がいるのでね。紹介したいんだ」
「同行者?」
 花小路が飛行船の出口を指し示す。そこに眼をやった大神は軽くうなり声をあげた。
「・・・マリアッ」
 そこにいたのは、確かにマリア・タチバナだった。小ぶりの洒落たサングラスと、漆黒のノースリーブのワンピース、大きく開いた喉元には何連もの真珠のネックレス、という見なれない服装を差し引けば───。
 口を開けたまま微動だにしない大神を見て、花小路はくつくつと笑った。
「感激の再会とやらはしないのかい? 巴里仕込みの熱い抱擁でもどうだ? ん?」
 こつこつとヒールの音をたてて真直ぐ大神の前までやって来たマリアは、サングラスを外してエメラルド色の瞳で彼を見つめた。
「お久しぶりです、隊長。今回は・・・、米田支配人の代理で・・・」
「オペラ座の視察ということになっておるが、なに、君に逢いに来たんじゃよ」
「花小路伯!!」
 マリアが真っ赤になって悲鳴をあげた。
「はは、そう照れんでも良かろう。一年以上逢っていなかったのだろう?」
 高笑いの花小路と、俯いてしまったマリアを見比べて、大神は曖昧な笑みを浮かべた。
「大神くんには、マリアくんの護衛を頼みたい。なんといっても日本の誇る人気女優だからな。雑誌の取材なんかも入っているそうだから、心して頼むよ」
「は、はい!」
「間違っても、スクープ写真なんぞ取られないように。ま、花の巴里にそんな野暮は御法度かな」
 花小路はにやりとした。

 花小路が休憩室へと去り、大神とマリアは一足先にホテルへ向かうべく、地上へのエレベーターに乗った。マリアにしては珍しく、大きなトランクを抱えている。
「・・・なんだか、まだ実感がわかないよ」
「私もです・・・。隊長、少しお痩せになったんじゃないですか?」
「そうかい? 自分じゃちょっと判らないけど・・・」
「海軍省のお仕事はいかがですか?」
「うん。まるっきりのデスクワークだ。帝劇の事務局で鍛えられたことが役に立ってるよ」
「そうですか・・・」
 マリアは戸惑いがちに言葉を濁した。
「すみません、私、何を話していいか」
 大神も頷く。
「いいよ。おれも同じだから。もう少ししたら、嬉しくなってマリアに抱き着いてしまうかもしれないけどね」
「───隊長ったら」
「おっと、取材陣に見つかったらヤバイんだっけ。すっかり大スターなんだなあ。キネマの仕事の方は順調かい?」
「今度、3作目がクランクインするところです」
「そうか・・・、俺も見たいな、マリアのキネマ」
 エレベーターの上昇が止まり、扉が開くと、そこはバロック様式の美術館の中だった。出入りが目立たないよう、一般観覧の順路とは外れた場所に擬してあるのだ。
 宿泊先にはオテル・ド・クリヨンの最上階が彼女の為に用意されていた。テラスへ出て一望したマリアが歓声をあげた。
「すごい、ルーブル宮があんな近くに」
 にこにこしながらマリアを見つめていた大神は、ふと眼下を見やって考え込むような素振りを見せた。
「・・・マリア。取材の後は自由なんだよね」
「明日の夜までは大丈夫です」
「じゃあ、一緒に出かけよう。二人で巴里を散策しようじゃないか」
「本当ですか? 嬉しいです!」
 ドレスルームに飛び込むようにして、マリアは着替えを始めた。すぐにでも取材を終わらせようという勢いだった。大神は、その間にすぐ隣の海軍省へ戻って、一張羅に着替えることにした。髪を整えようと鏡を覗き込んで、口元が半月形になるほどの笑顔になっていることに気付いた。
 調子がいいと思いながら、鼻歌まじりでネクタイを締めた。

 マリアを連れて巴里の街に出ると、いつにも増してごったがえしていた。
「明日が何の日か知っているかい?」
「ええ、革命記念日ですよね? あのフランス革命の口火をきったバスチーユ監獄攻撃の日」
「そう、巴里祭といってお祭り騒ぎの日だよ。ちょうど、良い時にやって来たね」
「それは花小路伯が抜かりなく調整してくださったからです。最近、私や帝劇のみんなにも、何かと気を使ってくださることが多くて・・・。この間なんかは、かえでさんにお見合写真を持ち込んでらっしゃいましたし」
「かえでさんに?」
「ええ」
「・・・加山も気苦労が耐えないな」
「ええ。本当に」
 何を思い出したのか、マリアはくすくす笑った。
「どうしたの」
「本当に大変だったんです。月組総動員の阻止作戦だったんですから」
「公私混同だな、アイツ」
 大神も笑った。
「あら、隊長。隊長だって人のことはいえませんよ」
「なんで?」
「今日はデートじゃなくて、私の護衛だったんじゃありませんか?」
「それは・・・、いいじゃないか。花小路伯だってそのつもりだろうし」
「まあ」

 まずは、マリアが一度来てみたかったという、巴里のカフェでゆっくりと近況を語り合った。手紙やキネマトロンでは伝えられなかった細かな話題を、笑いながら交換し合った。
それから、今夜の予定や、大神の友人達にどうやって紹介するかの相談になり、ふとマリアが周りを見回して、こんなことを言った。
「・・・不思議だと思いませんか? 気兼ねなく、こんな風に普通の話ができるなんて、初めてじゃないでしょうか?」
「ああ・・・、そう言われると」
「巴里が平和で良かった。今、心からそう思います」