帝国歌劇団・花組、十二月公演「第三天国」。
 年の瀬も押し迫った、その楽日も満席だった。
「これで、いい年が越せそうですよ」
 着換えを終えて楽屋を出てきたマリアに、通りすぎさまかすみが声をかける。
マリアも頷いて返した。
 この一年、とにかく慌ただしく大変だったが、平和のうちに終えることが出来
てなによりだった。
 打ち上げは明日、皆で舞台の大掃除を終えてから開くことになっていた。
 マリアは、上手舞台袖から、上部吹き抜けに通じる階段を昇っていった。
 誰にも内緒にしていたが、今回の公演中、彼女はたびたびここに昇って帝都を
見下ろしていた。
 大帝国劇場は二階建て。この吹き抜けに造られたキャットウォークだけが、彼
女の演じた男役「シコォ」の部屋と同じ、三階だったのだ。
 窓覆いをはずして開け放つと、師走の乾いた空気がなだれ込んでくる。
 いつも通りの銀座の喧騒も、今日だけは心地よいものに聞こえる。成功の内に
舞台を努め終えたことが、マリアの気分を高揚させていた。
「あれ? マリア?」
 下から声をかけられて、マリアは振り返った。
「どうしたの、こんなところで?」
 モップと、バケツを持った大神がやって来るところだった。
「隊長こそ」
 マリアは眼を丸くする。
「いや、支配人がさ、お前一足先に、吹き抜けの掃除してこいってさ。まったく
人使いが荒いよな」
 大神は苦い笑みを頬に浮かべて肩をすくめた。マリアもつられて笑う。
「そうでしたか───お手伝いしましょうか?」
「いいんだよ。マリアは舞台があって疲れてるんだから。それに・・・何か用が
あったんじゃないの?」
 普段、花組がこのキャットウォークを使用することはない。いぶかしむ大神の
様子が伝わってきた。
「い、いえ。もういいんです、終わりましたから」
「そう?」
 マリアは、モップで壁と天井の埃を払う大神の横で、窓のさんや手すりの雑巾
がけを手伝う。壁に沿って円形に作られたキャットウォークは、さほど広くはな
い。最後に、電球を新しい物に交換して、帝劇の「三階」は、新しい年を迎える
準備を済ませた。
「ありがとう、助かったよ、マリア」
 作業を終えて、ポケットを探る大神に、マリアは自分のハンカチを差し出した。
「ははっ、すまないな。借りるよ」
 手を拭いてから、大神はその紅茶色のハンカチを見つめた。
「TEIGEKI FLOWER TROUPE」とロゴが入っている。
 この秋から売店に並んでいるグッズの一つだ。
「これ、サロンで皆でデザインを考えたやつだね。思い出すなあ」
 かすみの提案で、「花組メンバーがデザインしたシリーズ」を作ることになっ
たのはいいが、六人がバラバラの意見を出し、まとまらずに喧嘩寸前になったの
だ。
 最後には、六種類の中から大神が選んだのだが、
「これ、結局、誰のデザインだったのかな?」
「・・・私のです」
「あれ? そうだったの」
 そこで、大神はくっと噴き出しそうになった。
「なんです? 急に」
「いや、春に初めて帝劇に来た時さ、君達のブロマイドを売っているのを見て、
驚いたんだよ。秘密部隊の隊員のブロマイドを売っているなんて・・・ってね。
それを思い出して」
「今では、ハンカチーフも香水も、ポスターも売っている・・・」
「慣れちゃって、生半可なことでは驚かなくなったよ。これって進歩かな、それ
とも堕落かな」
 二人は顔を見合わせて笑った。
「・・・良かった」
「え?」
「こんな風に、笑いあえる年の瀬で、さ。いろいろあったけど」
「・・・ええ」
 マリア個人にとっても、大神個人にとっても、この一年の変化は劇的だった。
特に拒絶から始まった二人にとっては、こうして笑いあっていることが不思議な
くらいの出会いだったのだ。
「帝都も平和になったし。こうやって公演に打ち込めるのも、平和だからこそだ
ね」
 マリアは窓の外を見やった。そろそろ、陽が傾き始め、高い銀座の建築物も、
長い影を落していた。
「・・・隊長」
「ん?」
「私、今回初めて、自分の役を好きになれたんです」
「へえ?」
 大神は、マリアの横顔を覗き込んだ。
「シコォ、だっけ」
「最初は戸惑ったんです。あまりにもポジティブな性格で、逆境にも明るく耐え
ることが出来て。なんて私と違うんだろうって」
 マリアは髪をかきあげて、大神にそっと笑いかけた。
「私、そのぅ・・・。ずっと過去に囚われてばかりでしたから。以前の私だった
ら、好きにはなれなかったかもしれないですね。こんなこと、隊長には笑われる
かもしれませんね」
「・・・いや。そんなことはないよ」
「私、この公演中、何度かここへ来てみたんです。帝劇の中で、ここだけが三階
になりますよね? シコォの部屋、つまり『第三天国』の雰囲気を掴みたくて─
──シコォも同じように人の営みやざわめきに囲まれながら、生きていることを
実感していたんじゃないか、と思って」
「そういえば、いつかもテラスで言っていたね。帝都の多くの人々が悲しみ、笑
い、怒り、喜び暮らしている、それをかけがえのないものだと思う、と」
「覚えて・・・らっしゃったのですか?」
「ああ、俺も以前、十二階に昇った時、そう思ったからね」
「・・・」
「───この下で生きている何千何万という家族を、この手で守れたら、と。帝
撃に配属にならなければ、ただの誇大妄想で終わっていた夢だ」
「隊長・・・、私達、帝都を守ることが出来たんですよね?」
 すがるようなまなざしに、大神は力強く頷き返した。
 それを受けて、マリアはほっと胸を撫で下ろした。
「少し、不安だったんです。隊長は、『第三天国』というのが、何を指すのか、
ご存じですか?」
「いや。天国がいくつもあるのか、不思議に思ってたけど」
「天国は七つに分かれているんです。そして、『第三天国』には、天国と地獄が
あるんです」
「・・・? 天国の中に地獄があるのかい?」
「ええ。人の死後、正しい行いをしたものは『第三天国』の南の豊かな土地で暮
らします。そして不信心者は、北の牢獄のような地獄で暮らすことになると言わ
れています」
「その辺の教えは仏教と一緒なんだな。で、それが?」
「シコォも健気に懸命に生きていたのに、結局は悲運に見舞われます。それと同
じく、平和だと思い込んでいた帝都にもとんでもない、どんでん返しが待ってい
るんじゃないかと」
「天国だと思っていたのに、実は地獄と隣り合せなんじゃないかって?」
「・・・ええ」
 マリアはそっと眼を伏せた。
「この半年間、楽しかった。今までの二十年が嘘みたいに・・・。だから私はこ
の平和を手放したくはない。臆病だといわれても、もう私は・・・」
 マリアは、かぶりを振った。
「・・・やっぱりダメですね、私って」
「そうやって卑下するものじゃないよ、マリア」
 大神は、きっぱりと否定した。マリアははっと眼を上げて、大神を見つめ返す。
「誰だって、不安にならない者はない。明日をも知れないのは、俺も同じことさ。
でも、信じるものがあるから何とか前を向いて生きていられる」
「・・・」
「俺には、キリスト教に出てくる信心なんてわからないけれど、どんな境遇でも
前向きに生きるってのは全世界に共通の教えじゃないのかな───そして、君は
もう過去には囚われないといったろう? ちゃんと前を向いているだろう?
 君も、なんらこの帝都に住む人達と変わるところはないんだよ。君の人生だっ
て、かけがえのない、守るべきものなんだ」
「隊長・・・」
「もしも、また、この街が危機にさらされることがあったなら───もう一度、
一緒に戦ってくれるだろう?」
「勿論です、大神隊長」
「ほら。俺は、君がそう言ってくれると信じてたよ。また一緒に歩き出してくれ
ることをさ」
 大神は眼を和ませた。
「自信を持つといいよ。君がここで感じたことは、間違っていないんだから」
「・・・はい」
「俺も時々ここに来ることにしようかな。初心を忘れそうになった時は、ね」 
 マリアはくすりと笑った。
 夕陽は石の帝都の影に沈み、キャットウォークの中にも銀座の色取り取りの灯
りが差し込み始めた。二人はその灯りを見下ろしながら、無言のまま並んで立っ
ていた。
 やがて、大神が優しく言った。
「───ここが、俺達の第三天国、だね」

                <了>



 太正12年の12月公演は、「第三天国」という演目でした。
「天国が2つも3つもあるんかいっ」とお思いの皆様、実は7つあります(笑)
 キリスト教の聖典に「エノク書」というのがありまして、それはエノクという男が天使の
案内で天国を見学した(笑)というものなのです。それによると天国は7つの階層に別れて
おり、それぞれ天使によって治められているそうです。
 その三番目、「第三天国」が「シェハキム」です。確か第四天国にエデンの園があり、
第七天国に神様がいるんだったかな? ちょっとうろ覚えですが。もっとも、この「エノク
書」は偽書とされています。
 この短編を書くにあたり、新紀元社から発行されている「天使」(真野隆也・著)を参考
にしました。

 この時期、花組は天海を倒してほっと一息、といったところでしょうか。
 ゲーム中では描かれなかった、「平和な帝劇」のワンシーンを目指してみました。