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初めて降り立った母の祖国は、ニューヨークに比べると土の香りのする街だった。マリアは今し方まで乗っていた客船「オリエンタル丸」を振り返る。アメリカから3週間の旅程。疲れきった身体を休めたいと思う反面、腰を落ち着けたくない、妙な高揚感がある。
「マリア、少し待っててくれる?」
税関の職員と話していたあやめが、マリアを気づかってか声をかける。
「・・・何か、トラブルでも?」
「いいえ。ただ帝撃からの迎えがまだ到着していないそうなの。事務室で待たせてくださるそうよ」
彼女はまったく長旅の疲れを見せず、穏やかに微笑んだ。
「・・・いえ。その辺を歩いて来ていいですか。ずっと船の上だったので、地面を歩きたいんです」
「それは構わないけれど・・・」
「あまり遠くまではいきませんよ」
言い捨ててマリアはそのままあやめに背を向けた。本音を言えば、少し一人になりたかった。
「ここが横浜港、さすがにでかい客船ばかりだな」
両腕を振り回すように大きく延びをして、深呼吸をする。
「やっぱり瀬戸内海とは香りが違うよな。外海だからかな」
一人ぶつぶつを自問自答しているのは、金ボタンに白の詰め襟、帽子の正面と肩に碇の徽章のついた、一見して海軍士官とわかるいでたちの少年だった。もっとも見るものが見れば、まだ士官学校の学生である事が判っただろう。彼の襟には五枚の花弁の桜のバッジが付いていた。
少年は辺りを見回しながら歩いていたが、ふと外国からの大形客船に眼を止めた。
「『オリエンタル丸』・・・、アメリカからの船か」
少年はゆっくりとその船に近付いていった。
マリアは桟橋にじっと佇んで、波を見ていた。寄せてくるようで、引いてゆくようで、それでいて一ケ所にとどまる波。まるで私みたい、とマリアは思った。
ロシアを逃げてアメリカに渡った。アメリカから逃げて、日本に来た。同じことの繰り返し。どこまで行けば、果てがあるのだろう。今度はどこへ逃げればいいのだろう。
(───私はもう、ここから逃げることを考えている)
マリアは口元に、自嘲の笑みを浮かべた。
あやめには悪いが、おそらく長くはもたないだろうと思った。
どこにも属することの出来ない、どこにも地に根を張ることの出来ない自分。
(寂しいから)
根無し草の自分が、「己の居場所」で生きている人達を見続けるのは辛いから。だからきっと、逃げ出してしまう───。
いつしか、ひたり込むマリアの足許に一匹の野良犬がまとわりついてきた。
客船から出る残飯でも漁りに来たのだろうか。妙に人慣れした様子で、マリアを見上げてくんくん鳴いている。港がこの犬のテリトリーなのだろう、そう思うと、犬にさえ嫉妬めいた感情を覚える。
「私にかまうな・・・」
低くつぶやきが漏れた。まるで助けを求めるような、か細い声で。
少年は、客船を見上げたまま、桟橋の方へ歩いていった。
「すっげー・・・、乗ってみたいな・・・」
金があったら客として。そんな貧乏性なことを考えつつゆくと、目の前を一匹の野良犬が横切った。かん高い声で威嚇をする。
「番犬・・・じゃないよな。んなに吠えるなよっ、腹でも減ってんのか?」
少年は着替えやノートを放り込んだ旅行バックの中をかきまわした。
「ほら、昼の駅弁の残り。やるから」
犬は飛びついて弁当を平らげ、催促のように少年に向かって鳴いた。
「もうないっ」
すると犬は興味を失ったように反転し、去っていった。
野良犬は少年にもはや眼もくれずに、海に飛び込んだ。少年が慌てて近寄ると、野良犬はすいすいと泳いでいく。
「は・・・」
少年はその場に腰を下ろした。
「良い身分だよなあ・・・。食べたいだけ食べて、海で気持ち良く行水か」
犬は悩みがなくていいなあ、などと呑気なことを考えつつ、その後ろ姿を見るとはなしに見送る。
夏期休暇は明日で終わり。少年は休暇の間、栃木の実家で過ごしていたが、これからえっちらおっちら、広島県は江田島まで戻らねばならないのだ。
彼は、自分の襟のバッジをつまんでみた。桜のバッジ。これは海軍士官学校首席を表すものだ。入学以来、このバッジはずっと彼の物だった。
生まれ育った土地に海がないぶん、入学前は海軍に純粋な憧れを持っていた。だが、厳しい授業や鍛練の他に、同級生達の強烈なライバル意識にさらされると、時折このバッジを巡る果てしない攻防に嫌気がさすこともある。
(───海軍士官じゃなくても、例えばあんな客船の船員、なんてのも、良かったかも知れないな)
のんびりと波に揺られて。異国の情景に心をときめかせて。未知の冒険や一獲千金、アバンチュール・・・。
(いかんいかん。完璧に現実逃避に走っているらしいぞっ)
少年は丸坊主の頭をぶんぶんと振って、頬をぴしりと叩いた。
夏休みも家に戻らず勉強を続けている仲間達が聞いたら、さぞかし憤慨するであろう。
(桜井、神代、加山、あと栗山も居残り組だったな)
連中に対して失礼だよな、と彼は口の中でつぶやいた。
卒業できたら、嫌でも大半を海で過ごす人生が待っているのだ。ここで羨んでも仕方がない。
「・・・行くか」
少年は立ち上がって来た道を引き返す。途中、もう一度だけ「オリエンタル丸」を振り返る。その下の桟橋には、まだあの野良犬がいる。黒いコートに身を包んだ、金髪の麗人に今度は狙いを定めたようだった。
「・・・また来たのか」
海から突然はいあがってきた小柄な影は、先刻の野良犬だった。
「餌はもう貰ったのだろう? 少年にたかっているのを見たぞ」
バレたか、とでもいうように、野良犬はうなだれた。
何を話しかけているのか、とマリアはこっそり自分を笑った。かまうな、と言って追い払ったのは自分だったのに。こちらの言葉が判らないのか、単に遊ばれているのか、犬は鼻を鳴らしたまま、マリアの傍を離れようとはしなかった。
(あやめさん、みたい)
不謹慎な思いつきに、マリアは声をあげて笑った。
放っておいて、と何度言ったことか。
自分一人で生きてゆくから、と何度遠ざけようとしたことか。
けれど、彼女はつかず離れず、結局こうして日本へ───自分の手の内へマリアを連れて来てしまった。
(・・・逃げられないのかも、しれないな)
逃げ出してふと振り向いたら、困ったような顔のあやめが、そこに立っているのかもしれない。初めて、そう考えた。
(ありえそうだ───あの人なら)
マリアは笑いながら、手袋を脱いで、眦の涙を拭った。潤んだ視界は、先刻までとはちょっと違った世界を写し出している。
マリアは踵を返した。逃げ出す前に、辿り着かなくてはならない場所が在る。
「・・・じゃあな」
なんとなく一声かけなければ悪い気がして、野良犬を振り返る。
犬はしっぽを振って、そのままマリアを見送っていた。
「───えーと。アルタイル! ショコラ! フント! ダイ! ロン! 花丸! シロ! なんでもいいから、おいで!」
夏の緑にむせ返るほどの中庭で大声を張り上げるのは、モギリ服の青年だ。「大帝国劇場厨房特製・犬の餌」が入った皿を抱えている。
「なんです? その名は?」
後ろに控えていたマリアがくすくす笑って問いかける。先日まで、ニューヨークに出張していた彼女は、まだ新しく仲間入りした雑種の子犬を知らない。
大神は振り返って、ちょっと肩をすくめると、
「いや、だってね。みんながそれぞれ好き勝手な名前を付けて呼ぶから、なかなか一つに定まらないんだよ。ヤツも自分が本当はどういう名前なのか、知らないんじゃないかな?」
「ま」
マリアがまた華やかに笑った。この笑顔を見るのは三ヶ月ぶりだ。いや、あの時は彼女の出発が目前に控えていたから、やはりどこか寂しげな笑みだった。
「・・・おかえり」
「え?」
「なんだか、やっとマリアが帝劇に帰って来たんだって、気がして」
マリアは頬を染めて、消え入るような声で言った。
「・・・もう、どこにも行きません」
「うん、そうしてくれ」
真っ赤になって慌てて眼をそらすと、いつのまにやら待ちかねたような表情の子犬が、大神を見上げている。
「よし、食っていいぞ」
「それにしても名前が7つなんて、豪華なのか、不便なのか、判りませんね」
どう呼んでも返事をするヤツだから構わないのだが。大神はそう思いながら、マリアに訊いた。
「・・・マリアなら、どういう名前を付ける?」
「そうですねえ、私なら───『ジゼル』」
小首を傾げて、犬の顔を覗き込むマリア。子犬はまるで了承するように「わん」と鳴いた。マリアが受け入れられたようで、大神はわがことのように嬉しくなった。
「よし! 今日からお前の名前はジゼルだ!」
「あらあら。名前が8つになってしまいましたね」
しっぽを振る子犬を抱き上げて、マリアはその頭を撫でた。またも新しい名をもらった犬は、恥ずかしそうにその手をすり抜けて、庭を駆けてゆく。マリアがその後ろをゆっくりとついていった。
(───あれ?)
そのすらりとした後ろ姿。陽光にきらめくプラチナブロンド。彼女の足許で飛び跳ねる子犬。
(なんだか以前にも見たことがあるような───)
大神は一瞬、潮の香りをかいだような気がした。
デジャビュ、というやつだろうか。
「・・・どうかしましたか、隊長」
「え?・・・いや、何かもやもやと思い出しかけたような・・・、ダメだな。散ってしまった」
大神は額に手を当てながら、かんかん照りの夏空を見上げた。
夏。夏の日───?
「・・・まあ、思い出せないのなら、大したことじゃないんだろう。気にしないで」
「そうですか? 隊長のことだから、何か大切なことを忘れてらっしゃるんじゃないかしら?」
「おいおい、マリア・・・」
「冗談ですよ。それより、この子なんとかしてもらえませんか?」
見ると、子犬はマリアの手を猛烈に舐めて、じゃれついている。
「ああっ、こいつッ!」
大神はうらやむあまり、ついこぶしを振り上げる。
遠い日の記憶を振り払うかのように、彼は今そこにいる彼女の元へと向かった。
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