-涙-

軍手。
ほうきとちりとり。
東京都指定のゴミ袋。

差し出されたその品々に、私は目の前の男に挨拶することも忘れていた。

大変だとは思うけれど、しのぶさんが来ないことには始まらないから。
疲れたような、怒りを押し隠したような声で後藤さんが告げたのは朝の8時32分。
自宅の留守番電話だった。
母が聞かなかったのがまだしもだった。
だるい身体を引きずってスーツを着込むと、顔色の悪さをカバーするために化粧をする。朝食は摂らなかった。
正直に言えば、まだ後藤さんに会う心の準備は出来ていなかった。だが二課棟が武装ヘリの攻撃にさらされたのは聞いていたし、当直の隊員達や整備員達の動揺を思えば、課長代理たる私がたかが「心の整理がついていない」という理由で家に引きこもっているわけには行かなかった。
乾いた海風にさらされている二課棟は、ようやく崩壊を免れているといったありさまだった。よくぞ死人が出なかったものだと胸をなでおろす。

「ああ、来たね」
いつにもまして眠そうな眼で私を一瞥して、後藤さんがよこしたのが軍手やらゴミ袋やらだったのだ。
彼はレイバー隊の制服に同じく軍手をはめて、ドラム缶を転がしながら運んでいる途中だった。
「後藤さん、これ……」
「完膚なきまでにやられちゃってねえ。総出で片付けてもなかなか終わらないんだわ、これが」
しのぶさんが先頭に立って、喝いれてやってよ、とそのまま立ち去ろうとする。ごろごろとドラム缶が鈍い音をたてた。
「ちょ、ちょっと待って。これってどういうこと」
「見ればわかるでしょ?大掃除ですよ」
さも当然と云わんばかりの後藤さんに、怒っていいのか頷けばいいのか、本当に判らなかった。

九死に一生を得た当の隊員達は、そのまま昼夜二交代で二課棟に張り付いていたのだという。たとえ廃墟に近くなったとはいえ、警察機関であることに違いはなく、もぐりこもうとする不逞の輩が後を絶たなかったのだそうだ。
「まあ、ほとんどが警察マニアとか、備品をかっぱらいにきたとかで、助かりましたけどね」
頼りない、と思っていた現職の部下達も、成すべきことは成していたのだ。上からの指示も説明も無いまま守ってくれた彼らに頭を下げ、自分の不明を恥じた。
「あれ、南雲隊長。来てたんですか」
ハンガーに二階から覗きこんでいるのは篠原巡査だ。その隣からひょこっと泉巡査も顔を出す。
「貴方たちまで来ていたの。八王子には行かなくていいの?」
有給でーす、と二人は声を揃えた。この状況下でどこで休暇届が受理されたというのか。
「隊長、着替え持ってきてます?お貸ししましょうか」
「制服の替えがあるから着替えてくるわ」
「でも、隊長室は……」
いいかけた泉巡査を篠原巡査がひじでつつく。途端に泉巡査が口をつぐんだ。
「とりあえず行ってみるわ」

完膚なきまでに、という後藤さんの台詞の意味がようやく飲み込めた。隊長室にはわれわれ二人の机の他に簡易的に仕切った更衣室があったのだが、どれも原型を留めていない。床にはガラスと、机の残骸。もちろん、衣類の替えなど望めそうになかった。
「……呆れたわね」
攻撃するならレイバーだけにしてくれれば良かったのに。でなかったら、私や後藤さんが確実にしとめられる時間帯を狙うべきだ。いや、いくら攻撃して無駄なのだ。書き直せばすむ書類、いくらでも代わりのきく警察官。ここにあるのは、そんなものばかりなのだから。

泉巡査のジャージを借りて、とにかく身体を動かすことに専念する。
報告書類は三年から五年の間、保管が義務付けられている。形の残っているものはとりあえず段ボール箱にしまいこみ、後は処分することにした。後藤さんが先刻運んでいたドラム缶は、夏の間整備班で風呂として使っていたものだが、臨時の焼却炉にしたらしい。黒煙が海風に流されてゆく。ガラスやスチールの破片は泉巡査が掃いてまとめる。今の時点で埋立地に回収に来てくれる業者もないだろう。ダンボールとともに本庁に置いてくるつもりです、何せ警視庁の備品ですから勝手には出来ませんと篠原巡査は言った──ほとんど嫌がらせに近い。
燃えないごみ、といえば、シゲさんが溜め込んでいた趣味の玩具は、ほとんどが壊れてしまったのだそうだ。ぱんぱんに膨らんだゴミ袋に抱きついてすすり泣く彼に、誰も声をかけるものはいない。
窓の外からモーターのうなりが聞こえてきた。自家発電装置を洗濯機につないで朝からフル回転させている。詰めきりだったために着替えを取りに行く事もできず、電源をカットされたために洗濯することもできず、後から駆けつけた者に遠巻きにされていた面々もようやく清潔にすることができるのだ。
宿泊室の布団類は、ハンガーの一角に重ねられた。長年使い続けたためにぺちゃんこになってしまったし、銃撃でぼろぼろになったものも多い。用済みになって、ダンボールの緩衝材代わりとなっている。
「おやっさーん、そんな殺生なー」
そのハンガーから悲痛な叫びが聞こえてくる。
榊さんが両手に抱えてきたのは、整備班員私物のいかがわしい雑誌やビデオの類。榊さんは有無をいわせず、それらを炎の中に投げ込んだ。
「あああ……」
その場に崩れこむ彼らを、私は見て見ぬ振りをした。
裏手から時折あがる「そこへ直れ」だの「思い知らせてやる」だの穏やかでないわめきは太田巡査の物だ。相手は山崎巡査が飼育していた鶏。ここ数日で野生化したらしく、同じく野生児の太田巡査とは何を争っているのか知らないがそりが合わないらしい。

──なんというか、皆、たくましい。

私は肩をとんとんとこぶしで叩いて、こざっぱりとしてしまった隊長室を見渡した。
そして案外広かったのだと、初めて知った。

窓や扉がすべて破壊されているため、屋内も屋外もさほど気温に変わりはない。
焚き火を焚いている外の方がまだ暖かかった。
「南雲隊長、お疲れ様です。お昼持って来ました」
三角巾に白いエプロン、大きな身体を縮こまらせて山崎巡査がお盆を運んできた。
「寒いですから鮭のお茶漬けにしました。おしんこは榊さんからの差し入れです」
焚き火のそばに、適当に置かれた椅子に座り、私はお盆を受け取った。
「ありがとう」
お茶漬けといってもかつお出汁で薄めに作ってあった。
わさびがツンと鼻の奥を刺激する。とても熱かった。
そういえば朝から何も食べていなかったっけ。
意地汚く見えないように気をつけながら、夢中でレンゲを使った。久しぶりに食べ物の味がした。
「南雲さーん、お茶いかがですかあ?」
やかんを振り回しかねない勢いでやってきたのは泉さん。私が返事をするよりも先に来客用の湯呑に注いで渡してくれた。
「このお茶碗、奇跡的に助かってたんですよ」
礼を云って受け取ると、泉さんの眼差しに安堵の色が現れた。気を遣ってくれていたのだろう、年下の彼女に心配をかけていた自分が情けない。本来なら、私が泉さんだけではなくここに居る皆を励まさなければならないのに。
「こんなにしなくても、あと一月でなくなっちゃうのに」
隣に座った泉さんは、そうつぶやいた。
確かに、今年度いっぱいで特車二課は解隊され、大隊へと編入されることになっていた。場所も天王洲に移ることになっている。
「まあ、一足早い大掃除だと思うしかないですね」
こちらは愛妻弁当を抱え込んで食べている進士くん。慌しい本庁を、昼休みを使って抜けてきたそうだ。
「OB総動員の引越し作業かあ」
「余計な私物のほとんどはお前らの時代の物だろうが」
相変わらず、気配を感じさせずに後ろに立っていたのは、後藤さんだった。思わず身を硬くする。
「全部、可愛い後輩達にあげたんですよぅ」
「第一小隊はちゃんと始末していったでしょ。見習いなさいよ、ねえしのぶさん?」
「ええ……そうね」
やはり、まともに眼を見て話すことなど出来ない。今は、まだ。
「石和さん達だって置いてってましたよね。ひろみちゃんがビニールハウスで使っていたざるとか、ブルーベリーの苗とか、水泳キャップ1ダースとか。水泳キャップは後で古賀さんが引き取っていくそうですけれど」
それはいったい何に使うものなのか。
「初耳だわ」
「南雲さんには云えないものも結構あるんですよ」
ふふふ、と進士くんが眼鏡を光らせた。知らないほうがいいかもしれないが、あとで勇気を出して訊きだしておこう。もしかしたら第一小隊の歴史から抹殺しなければならなくなるかもしれない。
「しのぶさんも苦労するね」
「貴方には」
云われたくないわ、と後藤さんを振り向きかけて、ごく自然に返そうとした自分に戸惑う。
後藤さんは、止まってしまった私を見て、いつものからかい気味の苦笑を口元に浮かべて行ってしまった。

数時間後には二課棟はあらかた片付いてしまっていた。はかどらない、というのは後藤さんが私を引きずり出すための方便だったようだ。明日は本庁に書類とゴミの山を運ぶ作業が待っている。私はその役目を買って出た。
「場所がないと云われたら、海法総監の部屋にでも積み上げてくるわ」
軽口を叩けたのが自分でも不思議だった。
帰りがけ、泉さんが声をかけてくれた。
「南雲さん、夜は榊さん家でお鍋でもって話してたんですけれど、どうですか?」
「そうね。母が心配だから、いったん家に戻ってからうかがうわ」
誇りまみれの愛車に乗り込んで、岐路につく。陽がようやく暮れ掛けている。明日あたりには雪も融けるだろう。
最初のウインカーを出しながら、私は自分が笑っていることに気がついた。それと同時に泣いていることにも。


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