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狛犬について調査する場合、実際に社寺に足を運んで現地調査するのが、基本中の基本です。とはいえ、そこには壁もあります。空間と時間です。 空間というのは、要するに、日本全国に無数にある社寺を、一人の人間が完璧に調査し尽くすというのは無理がある、ということです。もっとも、この点については、狛犬の愛好家が増え、横の繋がりが出来ていけば、いつかは解消されていくことでしょう。 一方の時間ですが、これはつまり、現状は調査出来ても、過去はわからない、ということです。 人間が生きて生活している限り、街は時々刻々変化していきます。当然社寺も変化します。その変化の間隙に、真実が転げ落ちてしまっているとしても、後からやって来た者には、それを知ることは困難です。 関東在住で狛犬に興味のある人の中で、目黒不動尊に行ったことがないという人はいないでしょう。何しろ、都内最古の参道狛犬のある所ですから。そして、行った人なら必ず、仁王門前の山犬を目にしたはずです。
独特の先端の垂れた耳。「の」の字型に丸めた尻尾。共に子供を連れ、向かって右には乳首らしいものも見える。なかなか面白い一品です。台座の正面には桔梗の紋が刻まれ、裏には「文久二年正月/御手洗信七郎藤原正邦」(1862)と刻まれています。 さて、ここに一枚の絵葉書があります。製作年はわかりませんが、戦災を受ける前のものであることは間違いありません。 そう、目黒不動尊は、太平洋戦争の際に空襲に遭い、絵葉書にある仁王門も焼失しています。現在の門は再建されたものです。
絵葉書に写っている焼失前の仁王門に続く参道には、たくさんの灯篭と一緒に、2対の神獣像が見えます。手前の大きな灯篭の左側に見えているのが、いま問題にしている山犬です。 注目してほしいのは台座です。現在、山犬の置かれている一番上の段の台座には、桔梗の紋が刻まれていますが、この絵葉書では「奉納」の2文字が刻まれています。つまり、台座が今と違っているのです。 なぜ台座が違うのか、いくつか可能性を考えてみましょう。 1) 台座のみの再建 2) 別の台座の転用・誤用 3) よく似ているが別の山犬 1)ような例には、狛犬調査をしていると、よく出会います。ただ、その場合は、台座のどこかに再建であることと、再建にあたって寄付をした人や団体の名が刻まれているものです。この山犬にはそれがありません。ということは、1)の可能性は薄いと考えたほうが良いでしょう。 3)の可能性は皆無ではないでしょうが、独特の姿をした山犬であることを考えると、やはり可能性は薄いでしょう。 ということで、私は2)の考えが妥当だと思います。 おそらく、空襲で被災したのち、再建する際に、別のものの台座が誤って使用されたのでしょう。あるいは、意図的だったのかもしれません。つまり、この山犬は本体は無事だが台座を破損した。一方に台座は無事だが本体の破損した狛犬か神使があった。戦中戦後の混乱の中、再建もままならない。だったらいっそ、この山犬と、この台座を組み合わせてしまえ。いずれ、世の中が落ち着いたときに改めて直せばいい。ということだったのかもしれません。 寄進者本人にとっては、何を誰がいつ寄進したかは重要なことです。もちろん、狛犬・神使の愛好家にとっても、それは貴重な資料です。しかし、それ以外の人にとっては、格好がついていれば、あとはどうでもいいことでしかないのでしょう。 いずれにせよ、台座に刻まれた年号と寄進者をこの山犬のものとするわけにはいきません。 では、真実はどこにあるのでしょう。 『大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖』(2001年6月 平凡社)という本に、下のような写真が掲載されています。
この写真の神獣像の台座の上段には丸い感じの模様が見え、下段には「奉献」らしき文字が見えます。と言うことは、この台座は、どうやら、現在山犬がのっている台座と見て間違いなさそうです。 そうであるとするならば、私の推測通り、別のものの台座と入れ替わっていたのです。 その上に載っている神獣像は、少し俯いた独特の姿をしています。これはどうやら、初めに紹介した絵葉書の奥に写っていたものと同じもののようです。 境内を探すと、前不動堂という建物の前にあるものが、まさしくこれと同じ姿をしています。古い写真ではよくわかりませんでしたが、これも山犬のようです。
よく見ると、一度首が折れたものを補修しています。ということは、これまた推測通り、一方は台座を破損し、もう一方は本体が破損したので、残った無傷のもの同士を組み合わせたものと考えられます。 念のため二つの山犬の足台のサイズを測ってみると、門前の山犬は30×57cm、前不動堂前のものは30×58cmと、ほぼ同じ大きさです。このサイズが一つの規格になっていたのかもしれません。いずれにせよ、そのおかげで、入れ替えることが出来たわけです。 以上のことから、前不動堂前の山犬が文久二年のものということになります。 では、今、その台座に載っているものはどうなのでしょう。同じ写真にそれらしきものが写っているところを見ると、この写真の撮影時点では、既に存在したことになります。 ちなみに、この写真が撮影されたのは、遅くとも明治十四年(1881)と推定されていますから、それ以前ということになります。 実は、『江戸名所図会』を見ると、参道に既に何かあります。もしかすると、それが、この山犬なのかもしれません。そうすると、この山犬は、文久二年どころか、最低でも文化年間まで、その製作年がさかのぼることになります。しかし、それに関しては、確たる証拠はありません。 狛犬なら、形態での分期がある程度可能ですから、形態と台座の記載内容に隔たりがあれば、何かおかしいと気が付きますが、元々サンプル数の少ない山犬では、そうもいきません。 そういう諸々の要因の結果、真実がこぼれ落ちてしまった。そういう例です。
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