2002年3月、映画『the Lord of the Rings』(邦題は『ロードオブザリング』)の日本公開が始まります。映画『ハリー・ポッターと賢者の石』との観客の食い合いを嫌って3月に公開が延ばされた(日本以外の多くの国では2001年12月に公開されています)ことや違和感溢れる邦題を筆頭に、何かと不安を感じさせるエピソードが満載ですが、TV・ラジオ等の情報を見るに、日本でもなかなかの盛り上がりを見せつつあるようです。これを機会に『指輪物語』を読む人が増えれば…と考えてしまうのは、大きなお世話ではありますがファンとしての偽らざる本音でもあります。
ただここで立ちふさがるのが「『指輪物語』は読むに難い」という現実です。「指輪挫折組」という表現が何の違和感も疑問もなくまかり通る世の中なのです。ファンとして「挫折した。」「つまらない。」と言われるほど口惜しいことはありません。そこでここでは、『指輪物語』の挫折しそうな部分を解説し、一人でも多くの方に読了していただくための解説コーナーを設けてみました。自分の好きな小説が貶されるのを恐れるあまり、ネタバレも辞さない解説を行うというのもどうかとは思いますが、『指輪物語』は挫折するにはあまりに惜しい物語なのです。ついでに、弱者はしばしば加害者に転じる事実を、免罪符として指摘しておきましょう。
さて、『指輪物語』の挫折ポイントは、私の考えでは2点あります。
1.退屈である。
2.訳が分らない
ファンになってしまえば、どちらも感じなくなるポイントなのですが、確かにこういう面は「ある」と言わざるを得ません。前者については「退屈なら読み飛ばしなさい。」と古典的なアドバイスすることにして、問題は後者です。何の予備知識も無い所にいきなり、
(前略)ふたたび乙女は逃げたが、男は早かった。
ティヌヴィエルよ!ティヌヴィエル!
エルフの名で呼ぶ男の声に、
乙女は足をとめて、耳をかたむけた。
その声にこもる魔力で
立ちつくす時の間に、ベレンは来た。
かくてティヌヴィエルに運命はくだり、
ベレンの腕にかがやかしくよこたわった。(後略)
『新版指輪物語2 旅の仲間上2』評論社、P209
と詩を吟じられても混乱するだけでしょう(人間の英雄とエルフの姫が運命的な出会いを果たしたシーンなのですが、悪の魔法使いに姫が誘拐されたシーンに見えなくもありません)。この吟唱の直後には、詩の内容を解説するシーンが続くのですが、初出の固有名詞の連続でしかもそれが『指輪物語』の内容とは直接関係ないとあっては混乱もひとしおです。実の所このエピソードは、『指輪物語』の背景となる歴史(それも遥か昔の歴史!)を解説しているに過ぎないのです。このような物語に関係の無いエピソードや固有名詞は、ここ以外にも頻出します。しかも言語学者であった作者は言葉に強いこだわりを持っており、一つの物事を表現する言葉が、時代や種族によって異なったりするのです(例えば、『西方人』『ドゥネダイン』『ヌメノーリアン』『西方の純血』は皆同じ意味の言葉です)。この本編と関係無いエピソードと固有名詞の洪水が「挫折ポイント」の正体です。
では、なぜ指輪ファンは混乱しないのか?と聞かれれば、それこそつまり「予備知識があるから大丈夫」なのです。それどころか、作者が仕掛けた様々なエピソードを読み解くのが楽しくなるのです。正にその歴史的にも地理的にもぎっしり詰まった深い設定、しかもそれが実に興味深く興をそそるという点が『指輪物語』の魅力(のひとつ)であり、凡百なファンタジーとの差でもあるのです。
この講は、その予備知識の解説を目的としています。従ってある程度『指輪物語』と、その前編『ホビットの冒険』、そして壮大な神話である『シルマリルの物語』の内容に触れざるを得ません。『指輪物語』『ホビットの冒険』及び『シルマリルの物語』を独力で読み込みたいという方は、この先を読まないようになさって下さい。正直に言うと、一度判らなくてもいいですから『指輪物語』をお読みになってから、この先や色々な解説書/サイトをご覧になる方が良いとは思うのですが…。
『指輪物語』の背景となる世界は中つ国といい、その歴史は第1紀から第4紀に分かれています(ちなみに『指輪物語』の舞台となるのは第3紀の終わりです)。順にそれぞれの時代を解説しましょう。
いわゆる「神話」の時代です。この時代、未だ中つ国は存在していません。
ここに登場するのは“唯一の存在”ことエル、またの名をイルーヴァタールとも呼ばれる存在です。いわゆる「神」と考えると分りやすいでしょう。エルは自らをサポートする存在として、多くの精霊を作り出しました。エルを「神」とするならば、この精霊達は「半神」です。その中でも最も優れていた13体の精霊はヴァラ(複数形はヴァラール)と呼ばれ、それ以外の精霊達はマイア(複数形はマイアール)と呼ばれました。
次にエルは音楽の主題を示し、精霊達に奏でさせました。ここでひとつハプニングが起こります。最も優れたヴァラであるメルコールが、音楽に独自の解釈を盛り込み始めたのです。これによってエルの音楽に不協和音が生じましたが、エルは新たな主題を示しメルコールの不協和音を打ち消しました。これを“創生の音楽”といい、音楽が終わると虚空に球形の世界(“アルダ”と呼ばれています)が誕生しました。
エルは続いて、この世界の中心に大きな島を作りました。これが中つ国です。中つ国には多くの動植物と共に、エルフが住まわされました。エルフはこの世界に登場した者達の中で、最初の“言葉を話す種族”であったため、話す者という意味のクェンディという名でも呼ばれました。また、エルフが中つ国に誕生した時、空に星が輝いていたため、エルダール(星の民の意)とも呼ばれました。エルはエルフに、美しい外見と美を生み出す力、病気や寿命で倒れることの無い不死の生命を与えました。こうしてエルフは、この世の美や多くの悲しい記憶を積み重ねながら、決して(自然には)死ぬこともなく、ひたすら高く生き続けることとなったのです。
エルフの登場と共に、中つ国の第1紀が始まります。
この美しい中つ国を見て、我欲に囚われた者がいました。ヴァラのメルコールです。彼は中つ国を独占しようと、戦を仕掛けてきたのです。メルコールは他の精霊達や中つ国の動物を堕落させ、己が尖兵としました。(この時、メルコールの副官となったマイアにサウロンがいます。このサウロンこそ『指輪物語』最大の敵役である冥王その人なのですが、この時代にはメルコールの下僕でした。また強暴な竜、そして恐るべき怪物であるバルログもこの時代に生まれました。)戦いは甚大な被害をもたらし、美しかった中つ国は地形すら変化してしまいます。そこでヴァラールは中つ国に住む事をあきらめ、遥か西方の新たな島に移り住みました。この島をアマン、別名“至福の島”といい、ここには精霊達が住むことになりました。この住まいはヴァリノールといい、そこには輝く2本の木テルぺリオンとラウレリンがあり、この光がアマンを照らしていました(この時代は未だ太陽も月もありませんでした)。戦いの末にメルコールは敗北し、虜囚の身となり、アマンに幽囚されました。またエルフ達もメルコ―ルの悪意によって危険な土地となった中つ国を離れ、アマンに住むよう招請されました。多くのエルフがこれに応じましたが、一部のエルフは中つ国に留まることを選びました。
中つ国に残ったエルフの中に、シンゴル王という人物がいます。彼は中つ国でマイアのメリアンと恋に落ち、この地で共に暮らす事を選んだのです。後にこの2人を通して、マイアの血が中つ国に広がっていく事になります。(『指輪物語』の登場人物の中では、エルロンドの一家とアラゴルンの一党が彼女の血筋です。)
アマンに渡ったエルフ達はヴァラールの指導を受け、様々な美を生み出していきました。中でもフェアノールというエルフの王子は、最も熟練した技の持ち主でした。彼が持てる知識と技の全てを尽くして作り上げたのが、3つの宝玉・シルマリルです。シルマリルはもはや、ただの宝玉を越えた至宝でした。エルフにせよヴァラールにせよ、シルマリルを見て賛嘆の念に囚われない者は無かったのです。そして賛嘆を通り越し、渇望と垂涎の思いに身を焦がす者もいたのです。それは、幽閉を解かれたメルコ―ルでした。
欲望に取りつかれたメルコ―ルは大蜘蛛ウンゴリアントと共に、2本の木テルぺリオンとラウレリンを枯死させ、暗闇に乗じてシルマリルを強奪すると中つ国へと逃走したのです。フェアノールは激怒し、メルコ―ルを“暗黒の敵”という意味のモルゴスと名付けました。これ以降、メルコ―ルの名は捨てられ、モルゴスこそがこの堕ちたヴァラを表す名となりました。またフェアノールは、“シルマリルを奪う者、シルマリルを所有する者は全て復讐と憎悪をもって追跡する”という恐るべき誓言を立て、一族を率いて中つ国へと向いました。この時、道行きを急ぐ彼らは、船の提供を拒んだ海岸のエルフの一族と戦闘を起こし、滅ぼしてしまいます。この時、彼らを待つ運命が悲嘆と悔恨に満ちたものとなることが決まったとも言われています。
中つ国に帰還したモルゴスは、かつての居城アングバンド(“鉄の城”の意味です)を再建し、己が鉄の王冠にシルマリルをはめ込み、“世界の王”を名乗っていました。一方、中つ国に残っていたエルフ王シンゴルとメリアンは、ドリアスという国を興しました。この国はメリアンの魔法帯によって外敵から守られており、外部の者は一切入って来れないようになっていました。なお、2人の間にはルシアンという娘が生まれています。さらに中つ国にはエルフ以外の“言葉を話す種族”であるドワーフも現われ、シンゴル王との間に交流を持つようになりました。
一方アマンでは、枯れたテルぺリオンとラウレリンが、銀の花と金の果実を生じ、ヴァラールはこれを祝福して太陽と月を生み出しました。太陽が最初に昇った時が、“人間”が始めて中つ国に現れた時でもありました。人間は有限の命しか持たず、恐怖や激動に耐える力もエルフより劣っていました。その代わり、エルの創世の音楽を越えて、独自に運命を切り開く力が与えられていました。
さて、中つ国に辿りついたフェアノールの一行は、早速モルゴスの軍勢と戦端を開きました。エルフ達の力は強大で、モルゴスの軍勢を相手に大勝を収めました。しかし敵を深追いしたフェアノールはバルログの包囲を受け、命を落としてしまいます。フェアノールの誓言は息子達に引き継がれることになりました。その後数百年に渡って、エルフはアングバンドを囲んでいくつもの国を興し、モルゴスの動きを封じました。しかし、シルマリルの奪還は成されないままでした。
エルフとモルゴスの戦いは膠着期を迎えました。この数百年の間、エルフ達は己が国をしっかりと固め、その中で武器や様々な美を生み出す事に専念していました。アングバンドの包囲が解かれることはもちろんありませんでしたが、現状に満足し、あえて戦端を開くことに消極的な態度を示す者も多かったのです。一方この時代は人間がエルフと始めて接触した時代でもあります。自分達の領分に見知らぬ“人間”が入り込む事に良い顔をしなかったエルフも多かったのですが、両者はおおむね平和的な共存の道を歩み始めました。この時、エルフの友となった人間の部族はエダインと呼ばれるようになりました。多少の曲折はあったにせよ、この時代は均衡を保った数百年と言えます。
この450年近い均衡を破ったのはモルゴスの側でした。彼の憎しみの念は単にエルフに向けられるだけでなく、エルフが作り上げた美しい国、その国土そのものにも向けられており、彼はこれらを破壊し蹂躙し尽くす欲望を押さえられなくなったのです。モルゴスの憎悪は、炎の河となってエルフの草原を焼き尽くしました。それに続くのは大竜にバルログ、そして雲霞のごときオークの群れでした。この戦いでエルフ王の一人フィンゴルフィンはモルゴスその人と剣を交え、帰らぬ人となりました。彼の死は、エルフの間に衝撃と悲嘆をもたらしました。それ以外にも、多くのエルフや人間が命を落としたのです。この混乱の中から次なる物語が生まれます。その舞台はドリアス。王妃メリアンの魔法帯に守られたこの国に、エダインの英雄ベレンが逃れてきた事が、その物語の発端でした。
ベレンが、いかなる方法でメリアンの魔法帯を潜り抜けたのかは知られていません。彼には大いなる運命に守られていたのだとも言われています。疲弊し、恐怖に苛まれたベレンは、よろめくようにドリアスに入ったと伝えられています。彼はこの夏のドリアスの森で、シンゴル王とメリアンの娘、ルシアンと出会ったのです。ルシアンを一目見るや、ベレンの心から苦しみの記憶は拭い去られました。彼は魂を奪われたような呆然自失のまま、彼女をティヌヴィエルと呼びました。ティヌヴィエルとは小夜啼鳥の意味ですが、彼はかの乙女の名を知らず、また他に相応しい名を思いつかなかったのです。彼のその声は森中にこだまし、ルシアンはベレンを見ました。そして彼女の運命は定まり、彼女は彼を愛するようになりました。
ルシアンの決断はシンゴル王の心を乱し、激怒を招きました。王はいかなるエルフの貴人であれ、娘の夫としては相応しくないと考えていたのです。まして死すべき人間となど。王はベレンを己が前に引き出し、シルマリルの1つをモルゴスの王冠から奪ってくることが、婚約の条件であると告げました。これは死を与えられるも同然の条件でしたが、ベレンは笑って承諾し、ドリアスを離れました。
もちろん、ベレンの試練は苦難に満ちたものとなりました。シルマリルへの誓言“シルマリルを奪う者、シルマリルを所有する者は全て復讐と憎悪をもって追跡する”に縛られたフェアノールの息子達の悪意、途中の砦を守るサウロンの牢獄、モルゴスが手ずから餌を与え育てた巨狼カルハロス、そして要塞アングバンドとモルゴスその人。ベレンは幾度と無く窮地に追い込まれましたが、これを救ったのは、ドリアスに幽閉の身となっていたもののそこを脱出したルシアン、そしてルシアンに共感した至福の島で生まれた猟犬ファンでした。幾多の試練を潜り抜け、彼等はついにモルゴスとまみえました。モルゴスはルシアンの限りなく美しい歌声に、まどろみの中に落ち込み、ベレンは短剣をかざし、王冠からシルマリルを切り取りました。
ベレンに求められていた条件はシルマリルの1つを奪うことだけでした。しかし眼前の誘惑に屈したベレンは2つめのシルマリルに手を伸ばしてしまいます。しかしそれはシルマリルの運命ではなく、ベレンの短剣は折れ、切っ先がモルゴスの顔に刺さり、彼の目を開かせました。続く逃避行の中で、ベレンはシルマリルを掴んだ手を巨狼カルハロスに食いちぎられてしまいます。シルマリルはかの狼の体内で炎を上げ、巨狼は苦痛のあまり狂乱しました。そのおかげでカルハロスの顎を逃れたベレンは、ルシアンと共にドリアスに帰還しました。シルマリルを持ちかえりこそしなかったものの、ベレンの勲にシンゴル王も心を動かされ、2人の婚約を認めました。
その時、狂乱治まらぬカルハロスがドリアスに侵入したとの報がもたらされます。ベレン、ファン、そしてシンゴル王は用意を整え、カルハロスと対峙しました。シンゴル王に飛びかかった巨狼をベレンが防ぎ、倒れたベレンに変わってファンがこの猛虐の狼と死闘を繰り広げました。至福の島の猟犬とモルゴスの狼の戦いは凄惨を極め、終に両者の相打ちで幕を降ろしました。彼の猟犬の最期を看取ったベレンでしたが、彼自身も胸に重症を負っており、カルハロスの体内から取り返したシルマリルを掲げ、探索の成就を告げると、もはや二度と口を開くことはありませんでした。
ベレンの魂は肉体を離れ、大海を越え、死と魂を司るヴァラであるマンドスの元に留まっていました。魂が不帰路を辿るには、彼は中つ国に思いを残し過ぎていたのです。一方、悲嘆に暮れるルシアンの魂もまた、身体を離れベレンを追いました。かくして大海の果て、マンドスの館にて2人の魂は相出会いました。この時ルシアンはマンドスの前で歌を歌いました。2つの種族の悲嘆を歌ったこの歌は、ヴァラの耳にすら堪え様もなく美しく、また悲しく響いたということです。かくして心動かされたマンドスは、ヴァラの首座であるマンウェと共に、ルシアンに2つの選択を示しました。一つは至福の島で悲しみを癒し、清められて永遠に生きる道。ただしこの道にベレンは同行することはできませんでした。死は人間に与えられた賜物であったからです。もう一つの道はルシアンとベレンが今一度中つ国に戻り暮らす道。ただしこの場合、ルシアンはエルフとしての生を捨て、人間のように不確実な運命と死を賜らなくてはなりませんでした。
ルシアンは後者を選択し、かくしてあらゆるエルフの中でルシアン・ティヌヴィエルだけが、本当の意味での死を迎えることとなったのです。中つ国に戻った2人は、ドリアスを離れ旅立ち、後に一子をもうけました。美丈夫ディオルです。やがて彼等は人としての生を全うし、歴史の中へと姿を消しました。