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大津皇子

663年(天智二)〜686年(朱鳥元)天武天皇の妃・大田皇女が生んだ第二子。天武天皇のもうけた皇子中では3番目にあたる。天智天皇と常陸娘との間に生まれた山辺皇女を妃とした。「日本書紀」「懐風藻」が特記する伝によれば、大津皇子は文武において人並みに優れた才能を有していたらしい。「懐風藻」や「万葉集」に残る多くの作品もこれを裏付ける。血統的にも申し分なく、皇位継承の有力候補であったことは疑いない。しかし才能は非凡であっても、天武の皇后鵜野讃良皇女・うののさらら(持統天皇)の所生子であり1歳年長の草壁皇子の存在が、大津の運命を大きく決定づけた。683年(天武十二)2月、大津は22歳にして始めて朝政を聴いた。その2年前にすでに草壁皇子は「皇太子(ひつぎのみこ)」に立てられているにもかかわらず、ここに改めて大津皇子に「朝政を聴く」という職権が与えられたのである。このことから、この時期の朝廷内部には天武−大津、鵜野−草壁という2つの流れが存在したことが想定されている。もちろん、この2つの流れは「対立」というところまではいかなかったであろうが、生母をすでに亡くしていた大津皇子にとっては、天武天皇だけが唯一の拠り所であったらしく、天武天皇の死後わずか1ヶ月であっけなく葬り去られてしまう。すなわち、686年(朱鳥元)10月、大津皇子は新羅僧行心等のすすめに従って謀反を図ったとされ、川嶋皇子の密告により発覚して捕らえられ、翌日、訳語田(おさだ・奈良県桜井市)で処刑されたという。この処置が機敏なこと、共謀者とされる三十余名のものに対する処分が、それに比してあまりにも軽いことから、この事件は大津皇子を陥れるための陰謀であったとする見方が一般的である。

二上山雄岳頂上にある大津皇子の墓