知ることの幸せ、知らないことの安心

また食がらみの話である。

実はずっと「らでぃっしゅぼーや(安全な食品の宅配)」をお休みしていた。お弁当が無くなって野菜を消費しきれなくなったことが一つ、らでぃっしゅ以外によいものをあちこちで見つけてしまい、必要性に迫られなくなったことが一つ。しかし、どうしても我慢できなくなったことがあった。牛乳である。いつも飲んでいた牛乳は、らでぃっしゅの宅配か高田の馬場のライフリーという店に行くしか手に入れる方法がない。

食のサイトもご覧になっていらっしゃる方には分かりやすい話だと思うが、幾つかの食材が他のものではダメな体になってしまっている。牛乳についてはラディッシュを取らなくなってから、「比較的まともな」ものをごくまれに買うだけで、ほとんど牛乳というものを飲まなくなってしまっていた。この牛乳に出会う前は、連れ合いはわりとどんな牛乳でも飲めていたらしい。知って以来は、「牛乳と偽牛乳」という区別 をしている(^ ^;; 我が家には最近「これじゃなきゃだめ」シリーズに加わった卵と豚肉も含め、バター、塩など、いくつかそのような食材がある。

今日のテーマは、「これっきゃない」というものを知ることが果たして幸せだろうか、という問いかけだ。久しぶりに朝の食卓に中洞さんの牛乳が上った。「やっぱり美味しいねぇ」と感慨しきりであった。それで、こんなことを書き始めたのである。

例えば、たまご。今食べている卵に出会って、卵というものに対する考え方が変わった。それは「新しい発見をしたよろこび」であり、「自分の味覚を満足させる充足度をはるかに高めてくれた」貴重な経験でもある。もちろん、素材だけではない。「よこ田」のてんぷらなどの料理にも言えることである。その時の幸せは、知らなかったときとは比べものにならない。しかし、それが手に入らないときの不安は、知る前にはなかった不幸である。

「子どもにそんな贅沢なものを食べさせちゃダメ」ということを言う人がいる。小さい頃から舌が肥えてしまって贅沢を覚えてはいけないから、という意味なのだと思う。その不安もわかるが、舌を鍛えることは、その子どもが安全に育っていくためには必要なことである。多くの人たちが失ってしまった体にとってよくないものを拒否する能力を育てるためには、「よいもの」を与えなくてはならないのだ。それに、「本物は旨い」のである。化学調味料だらけのものを食べさせていると、本物の味を知らないで育つ。そういう舌では、塩ややさいの味の議論は無意味である。

私の最高齢(50代後半)でお弟子さんになった方は、「よい音程」の体験がほとんどなかった。もともと「音感」はある方で、「素敵な音程」の話をして実演することで、すぐに音程の善し悪しが分かるようになってきた。(ここで言う「音感」は、巷で誤用されている「音高を判断する能力」という意味ではありません。)さて、実際に演奏家のコンサートを聴くと、音程の悪さがわかるようになって気になってしまうと言う。「そんなことを知らなければコンサートを楽しめたのに」と考えるか、「本当に美しいものを知ってこそ本当の楽しみがある」と考えるのか、というのが本題だ。私のサイトの他のページをお読みになって下さった方なら、私の結論はご存知ですよね。ここ読んだだけでもわかるか(^ ^;;

だからこそ、レイトスターターにはより正しいものを知って欲しいと思う。こう考えるのは少数派なんですね。最近、すごく寂しくなってきた・・・