第1 過失について
1 平成7年10月9日午後8時14分以降の経緯
(1)トシは午後8時14分ころには,呼吸困難のために苦悶し,すでに顔面を含む全身にまで広がるチアノーゼを呈していた。その後,トシの呼吸困難は加速度的に増悪し,8時18分の時点では,意識レベルの低下とともに,循環動態が悪化してショック状態に陥った。そして,8時20分に救急部医師らが到着し,直ちに気管内挿管とボスミン投与を中心とする蘇生を試みたが,最終的にはトシは大脳機能を喪失することになった。本件では,この間にN医師らが行った対応に過失があったか否かが最大の争点である。
2 ボスミン投与の必要性ー午後8時18分
(1)ボスミンは血圧上昇作用と気管支拡張作用をもった薬剤であり,アナフィラキシーショックの第一選択薬であるだけでなく,喘息の治療薬としても適応がある(A鑑定医鑑定書14ページ)。ところで,被控訴人は,ボスミンは子宮血流量減少作用も有するために,妊婦に対する投与は慎重に行わなければならず,N医師らは,ボスミンが胎児死亡を引き起こす危険性を考慮して,敢えて8時20分の時点まで,トシに対してボスミンを投与しなかったと主張する。
(2)しかし,ボスミン投与を控えるのは,母体と胎児の両者を救命できることが前提でなければならない。両者の救命が両立しない場合には,胎児の救命を断念して,「母体救命への積極的方針で臨む」(B鑑定医尋問回答書「控訴人」4ページ)ことに異論はない。そして,どんなに遅くとも,トシがショック状態に陥った8時18分の時点では,そのような状況が訪れたのである。従って,N医師らは8時18分の時点までに,トシに対し,ボスミンを投与すべきであった。この点は,A鑑定医鑑定書(12ページ)のみならず,B鑑定医尋問回答書(「控訴人」6ページ)においても「この(註:8時18分)の時点でのボスミン選択については,鑑定書9頁の如く必要性を覚えます」と記載されており,両者の意見が一致するところである。
(3)N医師らが8時18分の時点でトシに対してボスミンを静脈内注射していれば,トシは大脳機能を喪失しなかった蓋然性は高い。この時点でのトシの収縮期血圧は,脳虚血症状出現域とされる40mmHg を上回っていた(N医師陳述書・乙第13号証4ページ及びA鑑定医鑑定書14ページ)からである。他方,B鑑定医尋問回答書(「被控訴人」2ページ)は,8時20分に救急部医師らによってボスミン投与が行われており,8時18分に投与した場合に,トシが大脳機能の喪失を免れた可能性の「差異の根拠は見出せません」と述べている。しかし,実際には8時20分の時点では,トシの静脈ルートは詰まっており(乙第9号証1ページの「左点滴ルートつまっていた」との記載),ボスミンの静脈内注射は不可能であった。従って上記B鑑定医回答はその前提において誤っている。なお,救急部の医療記録(乙第9号証)によれば,最初にボスミンの静脈内注射が成功したのは8時38分であり,トシに有効なボスミン投与がなされたのは8時20分の遥か後である。
(4)被控訴人は,救急部医師らは到着直後にトシに対してボスミンの皮下注射を行っており,これで一定の効果が挙げられたと主張する(準備書面(8)12ページ)。しかし,ショック状態から蘇生する際には,皮下注射を行っても,その効果は,「毛細血管に達し,徐々にほぼ等しい速度で吸収される」(甲第43号証)が,酸素欠乏時には重要臓器に血流が集められるために,毛細血管は極度に収縮しており,血中濃度の速やかな上昇はおよそ期待できないからである(なお,甲第43号証の図8はペニシリンに関するものであるが,静脈内注射と皮下注射で血中濃度の上昇に大きな差があることが読み取れる)。
本件の場合8時20分の時点で皮下注射が行われたとしても,トシの循環動態は破綻しており(5分以内に心停止状態に陥っている),毛細血管から中心静脈を経て,肺にたどり着く薬剤量はごくわずかである。まさにA鑑定医尋問回答書(6ページ)が「心停止状態でどのようにして効果を期待できようか」と述べる所以である。
これに対して,被控訴人は,心停止までの5分間は血液が循環していたのであり,ボスミンの効果は2,3分で現れるのだから,十分に作用できると主張するが,ショックに陥っているトシの血液が健常者と同様に循環していたはずもなく,詭弁に過ぎない。ボスミンは「循環動態が破綻していなければ」,「吸収されてから」2,3分で効果を発揮するのであり,本件ではその前提条件が満たされていない。
3 ボスミン投与の必要性ー午後8時16分
(1)N医師らは,救急部に応援を要請した8時16分の時点において,トシに対し,ボスミン 0.1mg の静脈内注射を行うべきであった。この時点では,トシは全身にチアノーゼを呈し,気管支喘息の高度の大発作を呈しており,しかもサルタノールの吸入も功を奏していなかった(A鑑定医鑑定書7ページ及び10ページ)。他方,ボスミンは強力なβ2受容体刺激作用を有し,その気管支拡張作用によって,100%酸素のアンビューバッグによる加圧補助呼吸の併用によって(ボスミンの追加投与が必要であったかもしれないが),大脳機能の喪失を免れたと考えられるのである(A鑑定医鑑定書10ページ)。
(2)これに対して,被控訴人は,この時点では母体と胎児の救命可能性がともにあり,胎児死亡を招く危険性が少なくないボスミン投与を控えた判断は適切であったと主張する。しかし,ボスミンを投与すれば,胎児死亡を招くという短絡的な発想自体が誤りである。B鑑定医鑑定書添付文献4の図21を見ても,ノルアドレナリン(ボスミンと同様のα受容体刺激作用を持った薬剤)の血中濃度と子宮動脈の張力は容量依存性に増加しており,少量の投与で一挙に子宮血流量が激減するという関係になってはいない。しかも,ボスミンは低濃度では気管支拡張作用を中心とするβ2受容体効果が前面に立つが,一定の濃度を超えると,血管収縮作用を中心とするα1受容体効果が優位になる(A鑑定医尋問回答書6ページ)。従って,ボスミンの少量投与は胎児死亡を招くものではない。
(3)これに対して,被控訴人は,喉頭浮腫の治療にはα1受容体効果が論じられるべきであり,低濃度でのβ2受容体効果を指摘するA鑑定医鑑定を批判する(被控訴人準備書面(8)10ページ)。しかし,気管支喘息は気管支攣縮を本態とし,重篤な攣縮の持続が喉頭浮腫を引き起こすのである。すなわち,8時16分の時点でβ2受容体効果によって気管支攣縮が抑制されれば喉頭浮腫にまでは至らなかったと考えられるし,仮に喉頭浮腫が存在しても,併存する気管支攣縮の抑制効果を期待することもできるのである。
4 気管内挿管の必要性
(1)N医師らは,救急部に応援を要請した8時16分の時点で気管内挿管の準備を開始し,速やかに行うべきであった(A鑑定医尋問回答書5ページ)。この段階ではマスクによる酸素吸入もサルタノールの吸入も功を奏さず,呼吸困難は加速度的に増悪していたのであるから,N医師らは次の肺換気のステップに移ることが求められたのである。しかるに,N医師は救急部医師らに任せ,その到着を漫然と待つばかりであった。
(2)被控訴人らは,サルタノールの吸入の効果判定には5〜10分を要し,8時16分の時点で8時12分の直前に行った吸入が功を奏していないと判断することはできないと主張する(準備書面(8)4ページ)。そもそもサルタノールの吸入が8時12分だったという事実に誤りがあることは,控訴人準備書面(5)1ページに記載したとおり(A鑑定医鑑定書3ページも同趣旨)である。仮に吸入時刻が被控訴人主張のとおりであったとしても,トシの呼吸困難は刻一刻と加速度的に増悪しているのであるから,効果が期待できないことは5〜10分の経過を待たずして一目瞭然である。
(3)被控訴人は,KA医師及びNA医師は病棟における挿管の経験がなかったこと及び病棟における挿管には熟練が必要であることから,すでに応援を要請してある救急部医師の到着を待って挿管を行うのが確実であると主張する(被控訴人準備書面(8)8ページ)。
しかし,被控訴人のこれらの主張は弁解以外の何ものでもない。経験が不足しているからという理由で,緊急事態において必要な処置を行わないことは,医療の現場では到底許されるべきことではない。産科病棟の医師らは,複数病室にいながら誰一人として,挿管を試みようともしなかった。被控訴人は挿管の準備としてN医師
らがトシのベッドの周りを整理し,ベッドを移動して頭上のスペースを確保し,さらにベッドの枠をはずすなどしていた(B鑑定医尋問事項「被控訴人」2ページ)とするが,そのような作業はその場にいた看護婦でも行えることであり,複数の医師らがその場に居合わせたのであるから,スペースを確保しながら,挿管することもできたはずである。
さらに言えば,一刻を争う事態であれば,準備よりもまず試みることが必要だったのである。被控訴人は,「本件は極めて特殊な症例であり」,「妊婦の生理,病態の特殊性に基づく,高度な産科専門的管理が要求される症例であった」と主張する(被控訴人準備書面(8)2ページ)。しかし,現実には,N医師らの対応はなすすべもなく救急部の到着を待っていたことに尽きるのである。
(4)ところで,B鑑定医は,N医師らの行った,アンビューバッグによる酸素吸入,母体体位,急速輸液につき,B鑑定医尋問回答書(「被控訴人」3ページ)で,「呼吸困難に対する緊急処置と考えます」と記載している。しかし,一方で同鑑定人は,「酸素吸入,母体体位,急速輸液はショック時の一般的処置であり,これのみによって呼吸困難の改善は期待できない」とも回答し(同回答書「控訴人」7ページ),更に,気管内へ挿管しない酸素吸入では「動脈血酸素飽和度の上昇効果はそれほど期待できない」とも回答している(同回答書「控訴人」8ページ)。
これらを総合すると,N医師らの対応は,呼吸困難に対する処置ではあるが,本件でのトシの呼吸困難の改善には不十分というのが同鑑定人の意見であると解される。
なお,B鑑定医は8時18分を気管内挿管適応の時期としている(鑑定書8ページ,尋問回答書「控訴人」7ページ)。
5 まとめ
(1)本件でトシの大脳機能喪失という悲惨な結果を招いたのは,N医師らの状況認識の甘さにある。目の前の患者の容態が急変することなど全く予想していなかったために,ナースコールで呼ばれたN医師は「いつもと違う」,「喘息の発作ではない」というトシの訴えに耳を傾けず,場当たり的な処置に終止することになったのである。
(2)N医師らが胎児の救命を図るためにボスミンの投与を敢えて控えたという弁解は全く信られじない。要するに,緊急事態についての訓練不足のために,トシの容態の急変を目の前にして,手も足も出なかっただけなのである。本件の事故直後は,産科の医師らはトシの病態をリンデロンによるアナフィラキシーショックと考えていた。だから,産科の医療記録(乙第10号証)の10月9日付の「Y病棟医長より夫へ外交」に記載されているように,控訴人に呈して,アナフィラキシーショックと説明したのである。さらに,18日付けの「#夫への説明」の欄には,上半身のむくみは「アナフィラキシーの影響」と説明したと記載されている。アナフィラキシーショックであれば第一選択薬はボスミンであり(A鑑定医鑑定6ページ),この程度の知識はN医師らも共有していたはずである。そうであれば,当然,控訴人に対して,「本来であればボスミンを使うべきところであるが,胎児のことを考えて敢えて控えた」という説明があって然るべきだからである。しかし,そのような説明が初めて登場するのは,本件提訴後の被告準備書面(1)においてである。
(3)被控訴人は,A鑑定医が「十分な臨床経験があるとは認められず,本件について臨床経験に基づいた適正な鑑定がなされたとは言いがたい」とする。しかし,昭和30年からの産婦人科医としての経験を有するB鑑定人ですら,重症の喘息妊婦の診療経験を有していないのであり(B鑑定医尋問回答書「控訴人」2ページ),同様の臨床経験を有さなければ適正な鑑定はできないという主張は裁判所の鑑定制度の理解を誤っている。
また,C医師意見書(乙第38号証)は,「A鑑定人は麻酔科の医師であり,手術室などの蘇生の理想的な環境で論点を述べて」おり,「病棟の現場での状況を理解していない」と非難する。その非難が的はずれであることは,A鑑定医尋問回答書2ページで述べられている同鑑定人の治療経験からも明らかである。
(4)そもそも,救命医療は全ての医師に求められる医療の原点であり,医師の使命である。本件はまさにその原点に立った診療が行われたか否かが問題であり,トシが(特殊な)妊婦であったこととは直接の関係がない。
第2 因果関係について
1 トシは,平成7年10月9日に,重篤な気管支喘息発作またはアナフィラキシー様ショック(以下,「本件事故」という)によって大脳機能を喪失し(いわゆる植物状態に陥り),平成12年12月29日に,全身衰弱に起因する呼吸循環不全によって死亡したものである。
2 大脳機能喪失(いわゆる植物状態)から全身衰弱をきたし死亡に至ることが典型的な経過であることは控訴人準備書面(7)でも述べているとおり明らかである(被控訴人準備書面(8)2ページも,一般論として「大脳喪失による寝たきり状態の自然的経過として全身衰弱状態に陥」ることを前提としている)。
そして,全身衰弱状態に起因する呼吸循環不全によりトシが死亡したこと及び本件事故以前にトシがMDSに罹患していないことは争いがない。
従って,MDSがトシの全身衰弱状態の原因の一つであったとしても,大脳機能喪失による全身衰弱を排除することにはならず,MDSによって,トシの本件事故による大脳機能喪失と死亡との間の因果関係の存否には何ら影響を及ぼすものではない。