北海道の鉄道史については、多くの文献で紹介されているのと、本文中のデータシートに各路線の歴史概略を[○○線の歴史について]で記述していますので、ここでは北海道で最初に敷設された、二つの路線創成史について紹介することに致します。
◆ 日本で最初の軌道と三番目の鉄道
元々、十八世紀半ばに手工業から機械工業への変革をもたらした、イギリスの産業革命に端を発する鉄道誕生は、その機械工業の動力源となる石炭需要の運搬手段として、一八一三年(日本では文久十年)イギリス人「ジョージ・スチーブンソン」が発明した蒸気機関車から始まります。
日本では、この年の九月二十六日に北海道(この当時は北蝦夷)の国後島に、ロシア軍艦ディアナ号で上陸して捕まっていた艦長ゴロウニンを、淡路の商人「高田屋嘉兵衛」の取り持ちで釈放したことにより、ロシアとの関係が改善された年で、北海道各地の漁港は近来稀に見る鰊の大漁で賑わっていた頃です。
世界で最初に鉄道が敷設され列車が走ったのは、イギリスのスチーブンソンが発明した「ロケット号」が「リバプール」〜「マンチェスター」間を走った一八二五年(日本では文政八年)で、日本はと言うと、これから数えて四十七年後の明治五年(一八七二年)十月十四日に、「汽笛一声新橋を」で知られる、新橋停車場〜横浜停車場間に列車が走ったことが始まりです。世の中はまだ丁髷を結って、二本差しの人が往来を行き来していました。
鉄の箱が二本の鉄棒の上を、牛馬なしで火煙を吐きながら走る姿に驚き、それでも興味のあるハイカラな人は、入り口で履物を脱いで乗車したので、出発地点に履物だけが並んでいたそうです。この人達は到着してからどうしたのでしょう。
更に、その頃の北海道はと言うと、箱館戦争が明治二年五月十八日に終結し、八月十五日に蝦夷から北海道に改称してから三年後となります。明治二年の十一月十日には開拓使は北海道本府を札幌に決定しています。
日本に最初の鉄道が走ったのは、明治五年ですが、これから遡ること十八年、安政元年(一八五四年)に下田沖に再来した黒船に乗ったペリー提督が、徳川幕府との間で取交した日米和親条約により、箱館港などの開港を許可したことまで戻らないと、日本の鉄道史は語れません。
この条約締結後にも、イギリスやロシアとの条約も取交され、条約の大判振舞いがなされた時期で、幕府は外威に低頭して、攘夷を訴える天皇そっちのけの条約締結は、攘夷も鎖国も消し飛びました。
開港された箱館港は、俄かに外国船の入港ラッシュとなり、これらの船に物資補給を行なっていました。しかし、この頃の外国船は帆船への物資だけではなく、石炭燃焼による蒸気式外輪船も増え始め、石炭補給も幕府に要求してきましたが、北海道ではまだ石炭採掘は行なわれていなかったため、箱館奉行が安政二年(一八五五年)七月に「お触書」を出して、石炭の発見に努めました。
石炭の発見は安政三年(一八五六年)四月十二日に、茅ノ澗村(現在の泊村茅沼)の漁師忠蔵が漁具の材料を伐採するため、山に入っての帰り道の沢で、黒光りする石炭の塊を拾い、箱館奉行所に届け出たことから北海道のいや、日本の鉄道史が始まります。
早速、箱館奉行「村垣淡路守範正」直々に村まで来て、検分を行いました。
万延元年(一八六〇年)に奉行所から派遣された、箱館奉行所手付の「栗原善八」が人夫をつれて炭山を試掘し、岩内経由で箱館まで石炭を運びました。topへ
世の中には、金になりそうな話には飛びつく者がつきもので、箱館奉行が検分や調査採掘を試みていることを聞き付けた岩内場所請負人「佐藤仁左衛門」は、自分でも石炭
を採掘できるのではと考え、試掘したところ上手く採取できたので、箱館奉行所に百石につき三十七両で買い上げを請願してきました。
文久二年(一八六二年)に幕府が招いたアメリカ人地質鉱山師ウィリア・B・ブレークとライハル・パンペリーが北海道の鉱山地質を調査した結果、茅沼の炭山は良質であり、調査した他の炭山より箱館に近いため、最も有力な炭山であることを報告しました。また、火薬による採掘方法についても、随行した箱館奉行所「大嶋惣左衛門」に教え、元治元年(一八六四年)から鉱夫を雇入れ、採掘を始め、正式に茅沼炭山を開きました。
ところが、石炭は良質であっても、軟弱地盤の坑道は落盤に困難を極めた上に、石炭搬出にも手間がかかり、経費が高すぎるという理由により、わずか一年後の慶応元年(一八六五年)に採掘中止となりました。
しかし、増え続ける外国船からの箱館奉行所に対する石炭要求は強くなる一方で、弱り果てた奉行の「杉浦兵庫頭勝静」は、慶応二年(一八六六年)十一月、今度はアメリカ人技師を諦め、幕府を通じてイギリス公使パークスに茅沼炭山の調査と石炭運搬方法について依頼したところ、パークスは幕府お抱えのイギリス人鉱山技師「エラスムス・H・M・ガワー」が箱館に在留していたので、彼を紹介してきました。ガワーは箱館イギリス領事ガワーの兄にあたる人物で、早速、茅沼炭山に入り、調査を行ないました。十二月には奉行がガワーより鉱山学・小銃調練・分離学・測量学等の伝習を受けるべく、取り計らっています。
ガワーが調査後に箱館奉行所に提出した報告書によりますと、茅沼炭山における石炭採掘や搬出方法をイギリスの技術と資材を用いることができれば、人夫二十名程を雇うことで可能とありました。箱館奉行「杉浦兵庫頭勝静」は早速、西蝦夷地岩内炭山(茅沼炭山)の石炭を同地にて外国人へ直売すべき伺い書を幕府に提出し、慶応三年(一八六七年)三月二十六日幕府はこれを許可しました。
当時の幕府は、ヨーロッパで建造された西洋式軍艦もあり、五月にはオランダより購入した軍艦「開陽」も横浜に到着する予定で、勝海舟を海軍奉行とする海軍伝習所が長崎や神戸にできていて、幕府は石炭の必要性を十分理解していたのでしょう。
同年六月には勘定奉行調役の蛯原庫太郎を派遣し、ガワーや機械技師のスコットと共に茅沼炭山入りして、坑夫五人と土工夫十数名を雇い、石炭搬出用の道路作りからスタートしました。
茅沼海岸から山間に入った二マイルの地点まで、橋梁や石炭庫それに木製のレールが敷設されました。茅沼海岸からこの軌道に沿って半マイル程の場所に、ガワーの西洋風木造住宅も建てられていました。
炭山山際からは急坂となり、軌道を敷設するには時間がかかるため、当初は坑口からロクロ式の索道(ロープウェイ)が設けられ、櫓が組まれている地点までこれを使用しました。その櫓の下に牛力による軌道車を置き、石炭を積み替える方法としました。本書の主旨である駅舎は、この櫓が本来の駅となるのでしょうが、この当時「駅逓」はありましたが、軌道の駅と言う概念は当然ありません。
これらの工事は秋までに完成し、坑夫も増やし、開坑の準備も整いましたが、慶応四年(一八六八年)一月三日に「鳥羽・伏見の戦い」に端を発した「戊辰の役」により、石炭採掘はまたしても中止となりました。しかし、採掘は中止となっても、軌道敷設の工事は細々と続けられていました。
幕府は崩壊し、慶応四年も九月八日には元号を明治と改元した同日、イギリス公使パークスの指示により通訳官アーネスト・サトウはアダムズと同行し、ロシアが北蝦夷に進出している情報の調査と茅沼炭山への輸入資材運搬のため、イギリス軍艦ラットラー号で岩内港に到着し、ここで石炭の補給をしています。輸入資材の中には、茅沼炭山で使用する軌道用の鉄帯やトロッコ、鉱山採掘用機材も含まれ、茅沼炭山もガワーの案内で視察したことが萩原延壽の「遠い崖」(アーネスト・サトウ日記抄)に記述されています。
この後、軍艦ラットラー号は途中で嵐に会って難破し、サトウは命からがらフランス軍艦に救助されています。明治維新の最中においても、これらの輸入資材で着々と軌道敷設は進められていました。topへ
新政府が誕生して、採掘が中断していた茅沼炭山は「箱館裁判所生産係所管」となり、明治二年(一八六九年)に開拓使は「岩内御用所」を茅沼に設け、鈴木金吾を主任とし柴田金作らを茅沼炭山に派遣し、ガワーやスコットのイギリス人技師による採掘を継続することになりました。
茅沼炭山の採掘も火薬による発破技術を用いることで、以前より出炭量も増え、既に敷設されていた木製レール軌条に鉄帯を張り、九月には鉄軌道が完成しています。これにより、徳川幕府時代から明治初期にかけて敷設された、滑車と牛力によるトロッコ式軌道の運転が始まりました。これが日本における最古の鉄軌道で、新橋・横浜間に鉄道が敷設される三年前のことです。
茅沼炭山の石炭は、茅沼の港から船で箱館まで運ばれ、外国の蒸気船に供給されていました。
以降は茅沼鉄道開通後の記事ですから、毎年の出来事を箇条書きのように記述しています。
明治四年(一八七一年)九月には、開拓使顧問として来日していた「ホーレス・ケプロン」の指示で、助手の地質・鉱山調査担当の「トマス・アンチセル」が茅沼炭山と石炭積出し港の調査を行ない、その報告書には石炭積出し港の不備を指摘しています。
明治五年(一八七二年)九月には、箱館戦争の罪を黒田清隆の懇願で減放免され、開拓使四等出仕で「鉱山検査巡回」の肩書きを持つ「榎本釜次郎(後に武揚)」が茅沼炭鉱調査を実施しました。
明治六年(一八七三年)六月ケプロンの指示で、三月に解雇されていたアンチセルに替わり、今度は地質・鉱山担当のアメリカ人「ベンジャミン・スミス・ライマン」が茅沼炭山入りして調査した結果、アンチセルと同様に積出し港の不備を指摘しています。
明治七年四月と八年五月にもライマンの調査が実施され、九年に開拓使に提出した調書では、茅沼附近には数個の鉱区もあり、推定三千八百万トン程の石炭量があると報告しています。
明治七年(一八七四年)に開拓使権中主典伊知地季雅が茅沼炭山の主任となり、改良工事に乗り出し、道路の開削やライマンの報告に基づく新しい坑道を開採するなど努力しました。
明治八年(一八七五年)二月十七日、開拓使は開拓使所轄の汽船・蒸気機関は、今後において全て茅沼産石炭を使用するよう通達を出しました。
明治九年(一八七六年)に茅沼炭山は開拓使物産局の所属となり、新坑の開採や石炭の価格適正化を図るなどして需要を高めるための改良・改善を行ないました。
明治十年(一八七七年)十二月になって、開拓使はアンチセルやライマンが指摘した石炭積出し港を茅沼港から隣接する渋井港への移設や軌道の改良と、この当時新たに発見された幌内炭山の開採費用を合わせて政府に要請し、明治十一年三月に別途交付も要請しています。
茅沼炭山は明治十一年(一八七八年)十月二十三日に「開拓使媒田開採事務係」の所管となりました。
開拓使は東京府御用掛であった「松本荘一郎」を開拓使御用掛に選任し、改良工事に関する実施調査に当らせることにしました。topへ


英国人機械技師
スコット
スコット69歳の写真
明治39年9月撮影
(北大附属図書館所蔵)
新橋〜横浜間開通時の鶴見停車場
明治5年(北大附属図書館所蔵)
次いで、明治十二年三月には、アメリカ人鉱山採掘責任者として「L・C・オルネ・コージョー」らも茅沼入りして、今度は採掘方法や港湾改良を画策し、開拓使に改良内容を提言しています。改良工事は開拓使から承認され、この時に茅沼炭山は石炭採掘方法から石炭運送方法それに港湾改良など進められました。
同年九月に媒田開採事務係の事務長である「山内堤雲」と、前年の十二月にアメリカ公使の吉田清成の推薦で開拓使顧問になっていた「ジョセフ・U・クロフォード」と共に茅沼炭山入りし、視察を行ないました。視察後クロフォードは茅沼炭山からの石炭運送延長ルートについて、岩内方面それに余市から小樽方面への調査を行ないました。
また、同時期、榎本釜次郎案による幌内炭山水運ルート開削調査のために雇われた、オランダ人水利技師「ヨハン・ゴダルト・ファン・ゲント」も石炭積出し港について渋井湾を調査しましたが、暗礁が多く危険であることが判ったので、元の茅沼港改良による計画に戻しています。
この牛車軌道も明治十四年頃には、元の木製軌条が朽ちてきたので鉄製のレールに改良されました。
明治十五年になると、次に紹介する幌内炭山の発見で、採掘された石炭を運ぶために敷設した、本格的な蒸気機関車を持つ幌内鉄道が全通した年に当り、政府は石炭運搬量が比較にならない程多い、幌内炭山開採に力を移し、茅沼鉄道は明治十七年四月に、民間会社に払い下げられました。
昭和二年には小型蒸気機関車も導入し、昭和二十一年十月二十七日には国鉄岩内駅までの六.四キロメートルの専用線が敷設されています。

茅ノ澗石炭積出図
(北大図書館所蔵)
茅沼港の積み出しを描いた掛け軸。港には日本帆船と蒸気汽船が往来し、賑わっている様子が判ります。
この絵が描かれた時期は、積み出し桟橋まで鉄道がありますが、牛ではなく馬が石炭車を引いているように描かれています。
日本も明治五年十月になると、日本で最初の本格的な蒸気機関車を動力とする「新橋」〜「横浜」間の鉄道が開通し、二番目は明治七年五月の「神戸」〜「大阪」間の開通で、明治十年二月には「京都」まで延長しています。三番目となるのが、北海道で開通した「幌内鉄道」と言うことになっていますが、それではこの「幌内鉄道」が開通するまでの歴史を紹介いたします。topへ
(はじめに― 茅沼鉄道と幌内鉄道の創成時期は、茅沼鉄道が幕末から明治初期にかけて敷設され、幌内鉄道は明治初期に敷設されています。両鉄道共、敷設目的は炭山開採による石炭運送にあり、明治初期には深く開拓使とお雇外国人が関わっていて、登場人物は両鉄道共殆ど同じです。本書においては、其々の鉄道歴史を分けて年代順に紹介している関係上、彼らは幌内鉄道でも再び登場し、紹介が重複しています。予めご了承下さい。)明治3年5月9日
開拓使次官となった
黒田清隆
明治7年8月2日に
は開拓使長官となる。
(北大附属図書館所蔵)




アメリカから開拓使顧問としてやってきたケプロンとその助手達 左からJ.クラーク、H.ケプロン、T.アンチセル、A.Gワーフィールド、S.エルドリッジ (北大附属図書館所蔵)
アンチセルの後任となったライマンと日本人補助手
(後方に測量機が見える)(北大附属図書館所蔵)

また、助手の一人「トマス・アンチセル」はケプロンに比べると学歴が遥かに高く、ケプロンを見下していたことによる確執が災いし、途中でケプロンから解雇となっていますが、明治政府に取り入って雇われ、ケプロンからの執拗な抗議をよそに、契約期限まで開拓使に残っています。こちらは学歴こそ高かったようですが、プライドはそれほど無かったようです。
最もひどかったのは「A・G・ワーフィールド」で、彼は測量と道路建設を担当していましたが、目立った学歴はなく、当初は道路工事の監督を務め、真面目に働いていたようです。ケプロンの北海道視察の際にも、彼の働きぶりと道路の仕上がり状態を見て感激したことが、ケプロン日誌にも記述されています。しかし、酒癖が悪く、酒を飲んでは問題を起していたようで、最後には流血騒ぎまで引起し、途中で解雇となっていま
す。
さらにもう一人の助手で、秘書兼医師の「スチュアート・エルドリッジ」に至って
は、自分の要望が満たされなかったとして、ケプロンに対して恩を仇で返したような、卑劣な中傷を周囲の人に洩らし、ケプロンから名誉毀損で告訴され、開拓使からも解雇されています。しかし、エルドリッジは日本人に対しては親切で、横浜で死亡するまで日本に留まり、医師として日本人の医学指導を行なっていますが、癖の強いアメリカ人であったようです。
個性が強く癖のある助手達でしたが、ケプロンが彼らを使用できたのは、単に「年の功」や「農務長官」という役職だけではなかったようです。利権目的があったとしても、この御一行様による産業・文化・園芸等に対する技術指導があって、北海道の発展がなし得たのですから、後に、明治天皇よりその功績を称え、ケプロンに勲二等旭日章が与えられたことは不思議ではありません。
明治六年(一八七三年)黒田開拓使次官から、幌内炭山の調査を依頼されたケプロンは、本来、地質・鉱物調査を担当していたトマス・アンチセルを幌内に派遣することになったのでしょうが、前年の三月にケプロンとアンチセルの対立があり、地質・鉱物担当の座を解任されていましたので、後任には、前年の十二月から東京で日本語を自ら勉強しながら、茅沼炭山の調査も行ない、日本人助手に測量方法・地質鉱物学・地図作成等を伝習していた「ベンジャミン・スミス・ライマン」に担当させることになりました。ライマンは助手のマンローや日本人補助手を率いて、今度は幌内炭山の調査にやって来ました。
自分の学歴を誇る傲慢なアンチセルに対し、正義感の強いライマンも個性派であり、物事をたてまえのみで運び、融通のきかない開拓使と度々衝突を招いたようですが、日本人補助手からは大変慕われ尊敬されていたようです。topへ
ともあれ、三十八歳のライマンは幌内炭山について精力的に調査を行ない、ケプロン
に調査報告書が提出されました。
ケプロンはそれを纏め、七月二十三日に黒田開拓使次官に提出を行ないました。一方、榎本も明治六年八月に早川長十郎を供に幌内炭山を調査し、続いて石狩川を上り、空知川も調査した結果、空知川沿岸イクシベツ(現在の幾春別)にも相当量の炭層があることを発見しています。
ケプロンの調査報告に戻って、これによりますと、「其ノ量、実ニ無数ニシテ、コレ
ヲ開採セバ其利ノ大ナル想知スベシ」又、他に「コノ石炭ヲ市場ニ輸出スルニ二道アリ」と、石炭輸送ルートまで纏められていました。一つは幌内炭山から石狩川支流の幾春別川と幌内川の合流地点にある、幌内太(現在の三笠市)まで鉄道を敷き、続いて舟に積替え川を下り、石狩湾に出て小樽港に行く方法と、もう一つは、幌内炭山から室蘭まで鉄道を敷き、運搬する方法でした。
二つのルート案を提出していますが、ケプロンは幌内炭山から直接室蘭に至るルートを「室蘭ニ由ルノ便利タル豪モ疑ヲ容レザルナリ」と強く主張しています。
これは、石狩川および小樽港は冬期間氷結で使用できないことや、陸海便の使用は積替えもあり、経費が高くつくので、メリットが無いとしています。理論的には誰にも正論のように聞こえますが、実際にはアメリカからの外資導入の多い鉄路を主張することで、アメリカの利権の確保と開拓使顧問として、ヨーロッパ諸国や開拓使に主導権を渡さないとする、ケプロンのプライドが見え隠れしているように感じます。これは私だけの穿った感じ方ではないと思いますが、真意のほどは今となっては判りません。
それを裏付ける法律が明治六年七月に発布されています。それは「日本坑法」で、「日本ノ臣籍タル者ニ非ザレバ、試掘ヲナシ、坑山ヲ借リ、坑物ヲ採製スル事業ノ本主或ヒハ組合人トナルコトヲ得ズ」となっていて、外国からの外資導入を明治政府主導にして、植民地化を防ぐ規定となっています。従って、政府お抱えの開拓使顧問と言えども、この法律を遵守せざるを得ないため、アメリカ資本導入を露骨に表現するわけにもいかないので、調査報告書において頼まれてもいない必要以上の石炭運搬ルートまで言葉を替えて、開拓使が他の諸国からの案を受け入れさせないためにも、早めに上申しておいたのではないのでしょうか。
炭山開採における植民地化防止の殖産興業思案は、黒田開拓使次官の「鉱山局」案に
現れています。それは、炭山開採目的とした「鉱山局」を開拓使本庁に設け、その総裁に開拓使四等出仕の榎本を据えて、その下にライマンや外国人鉱山技師を配置すると言った政府主導の考えでした。
榎本は幌内炭山の経営は官営にすることを主張していて、明治政府の目指す「殖産興業」の考え方に合致していました。また、榎本自身、旧幕府時代から何度も北海道に渡り、何年間も住んで調査にも加わっていた経験もあり、北海道の地形や風土を把握していることや、オランダ留学で水利学も学んでいる自負も働いていたのでしょう。石炭運搬ルートに関してケプロン案とは正反対の「石狩川水運ルート」を提案しています。
しかし、この黒田開拓使次官の「鉱山局」案は、横浜居留地の外字新聞ヘラルド紙に、明治六年六月三日付けでスッパ抜かれて、各国から非難されたことで鉱山局案は潰え、榎本も開拓使を去り、明治七年一月にはロシアの日本公使に移動させられました。
この明治六年は、開拓使が緊縮財政を引いた時期でもあり、明治政府の打ち立てる富
国強兵と殖産興業政策の板ばさみの中で、炭山開採を急がねばならないという強烈なジレンマになった黒田開拓使次官は、結局、外資導入の是非をケプロンに相談せざるを得なくなっています。
榎本が去った明治七年(一八七四年)四月には、ライマンが幌内炭山の再調査を実施し、七月二十三日にケプロンは再び黒田開拓使次官に、幌内炭山から室蘭港間の鉄道敷設を外資導入により行なうことで、政府財政難に関係なく炭山開採と鉄道敷設が実施できる可能性を説いています。
そうした中、明治八年(一八七五年)四月、遂に明治政府からの通達があり、「全道
所在ノ鉱物調査略終リ、従前ノ開採略則ヲ廃シ、自今日本坑法ニ準拠スベキ禀裁ヲ経、本庁ニ於テ全道鉱山ヲ総轄ス」は結局、黒田開拓使次官のジレンマやケプロンの外資導入の思惑も何事もなかったかのように、政府は北海道の炭山開採と経営は官営によることを打ち立てたのです。topへ
開拓使の要請で、三度幌内炭山の調査を行なっていたライマンも助手を連れて、一時
東京に帰ってしまいました。そして明治八年五月二十三日に、四年間に及ぶケプロンとの契約も終了し、七十歳を向かえようとしての帰国に当り、ケプロンは開拓使長官に就
任しいた黒田清隆に、「炭山開採において調査に基づく私の提案を聞き入れていたならば、北海道の開拓は今よりもっと満足できる成果となっていた」と嘆き、開拓における仕事は十分ではなかったことを伝えましたが、総じて自分の専門とする農業と酪農の分野における成果は果たされたと自認し、日本を後にしています。
明治八年六月に黒田開拓使長官自ら幌内炭山を視察し、石炭の運搬ルートは幌内炭山
から先ず幌向太(現在の幌向)に至る道路造りを決定しました。
明治九年(一八七六年)六月には開拓使本庁の松本十郎大判官が、石狩川沿岸巡回の途中、幌内炭山も視察して、石炭量の豊富さに驚きを示しています。
八月には伊藤博文と山形有朋の両参議が、幌内炭山を天皇に代わって巡検しました。彼らが驚いたのは、豊富な石炭量と共に、開採に膨大な費用が必要となることでした。
六月に北海道に戻っていたライマンは、九月に幌内炭山の埋蔵量や炭層範囲を、調査を基に報告しています。それによりますと、埋蔵量は一億トンとあり、幌内炭山周辺にも炭山があり、採掘が可能であることを伝えています。これは榎本が明治六年に独自で調査して発見した、「空知川沿岸のイクシベツ炭山」のことでした。
そのライマンも明治八年十二月に、一旦開拓使との契約が切れた後、内務省に籍が移ってからの報告となっていますので、ケプロン御一行様の開拓使での役割はここに終結しました。
明治十年始めまで、幌内炭山開採に関する動きは影を潜めていました。その年の一月
三十日に鹿児島の私学校生徒による火薬局・海軍造船所等を襲撃する事件が発端になり、西南戦争へと進みましたが、九月に西郷隆盛の自刃で終結しました。しかし、九州一円を戦火に巻き込んだこの戦いで、高島炭・三池炭が著しい出炭減を招いています。
西南戦争後の明治十一年(一八七九年)五月一日に、政府は財政建て直し政策として、大蔵省が千二百五十万円の大型起業公債証書発行条例を発布し、黒田開拓使長官は早速、幌内炭山開採費と岩内炭山改良工事費を作成し、政府に要請しました。九州炭坑が落ち込んでいた時期でもあり、この予算案が直ちに起業公債募集をもって下付されることになりました。これでようやく、ケプロン御一行様と開拓使間の確執を生んだ、幌内炭山開採と鉄道敷設資金の目途が一気に付きました。要は、政府に資金さえあれば外資導入の心配もなく、欧米諸国に主導権を渡すことなく、技術提供のみで開拓使主導を取れることができるのです。但し、ケプロン流に言うと、「開拓使の役人が技術者に相談も無く、余計な動きをして、無駄な出費をしなければ」の条件付きでしょう。

十月二十三日には開拓使本庁に「媒田開採事務係」を設け、ライマンの助手であった開拓大書記官の山内堤雲を事務長に、副長には御用係の松本荘一郎を任命しました。
黒田開拓使長官は、ライマンの調査とケプロンの報告を基に、鉄道敷設のルート決定を行なうべく、石狩川水運ルートを主張するロシア公使の榎本武揚と陸路案に基づくルートについては、アメリカ公使の吉田清成の両者に連絡を取り、それぞれに技術者の人選を依頼しました。
これは明治七年から対立していた、ケプロンと榎本の代理競争の始まりでもありました。
アメリカ公使吉田が推薦したのはジョセフ・U・クロフォードで、ペンシルベニア大学とフィアデルフィア工学院で土木工学を学び、鉄道技師として豊富な経験を持った人物でした。
一方、ロシア公使の榎本が推薦したのは、オランダ人の水利技師ヨハン・ゴダルト・ファン・ゲントという人物でした。オランダは海抜が低く、河口開削や埠頭建設の水利工学が進んだ国であり、榎本自身留学していた頃に水利学を学んだ経験があるので、優れた技師を推薦してきたものと思われます。topへ
ライマンの書簡
1902年6月
フィアデルフィアから札幌の小野崎氏(漢字不詳)に送られてきたもの。解任後に帰国し、明治35年に助手に宛てたものと思われます。
(北大附属図書館所蔵)


クロフォードがアメリカから連れてきた技術者と日本人助手(北大附属図書館所蔵)


明治12年11月小樽〜銭函間の馬車道竣工
張碓村から小樽方向を見た写真
(北大附属図書館所蔵)
明治12年5月5日小樽〜銭函間の馬車道開削
熊碓の神威古潭岸壁改良築造実験し区間開通した
馬車道とクロフォード(北大附属図書館所蔵)

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