120.九牛の一毛
(きゅうぎゅうのいちもう)

天漢二年(紀元前99)に漢の強敵、匈奴の討伐に出撃した李陵は善戦したものの、多勢に無勢、ついに捕虜になってしまった。しかし、匈奴は李陵を殺すどころか、この名将を厚く待遇した。これを伝え聞いた武帝は激怒し、李陵の一族を皆殺しにしようとした。一身の安全と利益をはかる郡臣たちは、みな李陵のために弁明をやらなかったが、歴史家の司馬遷だけは、事の真相を見抜いて、弁護をした。それを聞いて、ますます怒りをつのらせた武帝は、司馬遷を入獄させ、彼の男の微物たる肉体の一部を切りとらせる刑に処した。司馬遷はこの恥辱に苦しみもだえ、その「任安に報ずる書」(『漢書』所載)の中で、「世間では私の受刑のことなどは、九牛が一毛を失うぐらいにしか感じないだろう」と書いている。「九牛の一毛」は、文字どおり九匹の牛の毛の中の一本で、物の数にも入らない形容として使われる

119.符融の裁き
(ふゆうのさばき)

南北朝時代のこと。符融(ふゆう)という人が、ある州の州知事をしていた。そんなある日のこと。どっぷり日が暮れてあたりは真っ暗。路上でおばあさんが追いはぎにあいった。「助けて!誰か追いはぎを捕まえて!」たまたまそこへ通りかかった男、おばあさんの叫び声を聞くや否や、さっと身をひるがえし、追いはぎを追いかけて、見事取り押さえた。ところが、つかまった追いはぎは開き直り、追いかけてきた男に逆にさかねじをくわせて言った。「つかまえたぞ!!お前こそ追いはぎだ!!」
こうして、駆けつけてきた警察によって2人ともお縄をちょうだいし、2人そろって裁判にかかることになった。裁判の席で、2人ともお互いに相手が追いはぎだと言い張り、一歩も譲りません。しかし、真っ暗闇の中で起きた事件だったので、おばあさんにもどちらが犯人なのか分からずに、裁判官はほとほと困ってしまった。
これを聞いた符融、大声で笑ってから言った。「どちらが犯人かを見分けることなどいとも簡単。二人に駆け比べをさせて、先に城門を出たほうは犯人じゃない」皆は符融が何を言っているのかよく分かりませんでしたが、とりあえず2人を駆け比べさせてみた。そして符融は、後から城門を出てきたほうに厳しく言い渡した。「お前が追いはぎだ!人に罪を着せるなどもってのほか!50たたきの刑だ!」すると、追いはぎは神妙に罪を認めたのです。
いまだにわけが分からないのは裁判官たち。「駆け比べでどうして犯人が分かったのだろうか??」すると符融、ニヤリとして、「泥棒というものはいつもおっかなびっくりしているものだ。被害者に叫ばれたら必死で逃げ出すだろう。もし、いまの追いはぎが足が速ければ、追いかけた男が必死で逃げる追いはぎに追いつくはずがない。しかし、あいつは追いつかれた。よって、駆け比べで遅いほうが犯人であるのは一目瞭然」

118.牝牡驪黄(烈子・説符)
(ひんほれいおう)

秦の国の王様。ある時、駿馬を1頭手に入れたいと思い、目利きで知られている伯楽(はくらく=馬の鑑定士)を呼び出した。「王様、私はもう年を老いすぎて、駿馬を見分けるだけの自信がございません。私の友人はどうでしょうか?馬については、私よりも詳しい者です。必ずや駿馬を発見してくることでしょう」王様は伯楽の意見を取り入れ、伯楽の友人に依頼した。
そして3ヶ月たって、伯楽の友人が帰ってきたので、王様はさっそく会ってみた。「どうじゃ、いい馬は見つかったか?」「黄色い牝馬が見つかりました」王様はそれを聞きうれしくなってすぐに馬を見に行かせましたが、伯楽の友人が連れてきたのは、黄色い牝馬ではなく、黒毛の牡馬でした。王様はむっとして伯楽に言った。「おまえはなぜ、あんな馬鹿なやつを紹介したのだ。あいつは、馬の色やオスメスさえも区別がつかんようだぞ」「王様、それこそがあいつが優れているところです。あいつは馬を見るとき、あまりに馬の風格、品格などの本質ばかりを見るので、うわべのことなど気にしないのです。その証拠に、あいつの鑑定は完璧です」伯楽はそう言ったが、いまいち王様は信じられず、実際にその馬に乗ってみることにした。すると、その足は他の馬の何倍も速く、いくら乗り回しても疲れることを知らない、まさに名馬でした。このことがあってから、後の人々は『牝牡驪黄』ということわざを作り、本質とは離れた、物事のうわべをさすようになった。

117.一鼓作気(左伝)
(いっこさき)

中国、春秋時代と呼ばれるころ。強大な斉の国が、弱小の魯の国に侵攻した。早速、魯の国の荘公は、軍師の曹荊と大軍を率いて戦場へおもむいた。そこへ斉の大軍もちょうど到着し、両軍は距離を置いてにらみ合った。すると、まず斉の軍隊が太鼓を威勢良く鳴らして攻めてきた。荘公はすぐに反撃に出ようとしたが、曹荊はこれを制止し、もうしばらくお待ちください、と言った。そして、斉の太鼓が3度鳴り終わるのを聞いてから、自軍の太鼓を威勢良く鳴らして突撃するように、兵士たちに命じた。兵士たちがそのとおりにしてみると、はたして魯の軍隊は軽々と斉の軍隊を打ち破り、あっという間に勝利を収めた。荘公は不思議に思い、戦いの後で曹荊にたずねた。「これはいったいどうしたことだ。斉も魯も、同じように太鼓を打ち鳴らしたと言うのに、なぜこうも結果が違うのだ?」「荘公さま。戦にもっとも必要なものは、勇気です。兵士の士気は、1度目の太鼓には充実しますが、2度目には衰えて、3度目には消滅するものです。斉の兵士は3度にわたる突撃で、疲れきっていました。しかし、わが軍の士気は、1度目の太鼓によってあふれんばかりになっていました。それで、敵を一気に打ち破ることができたのです」
このことから『一鼓作気』という成語となり、何をするにしても、やる気が充実しているときに一気にやり遂げてしまうに限る、という意味で使われるようになった。

116.驚弓の鶏
(きょうきゅうのとり)

戦国時代。あるところに、更嬰(こうえい)という弓の名人がいた。ある日、更嬰が王様のそばにいたとき、鳥の群れがばたばたと空を飛んでいった。それをみた更嬰、「王様、矢を放たずに鳥を落としてご覧に入れましょう」と言った。驚いたのは王様、「いくら弓の名人更嬰といえども、それはできないだろう」しかし更嬰はにやりと笑い、「それでは、すぐにでもご覧に入れましょう」と豪語したのだった。更嬰が空を眺めていると、しばらくして一羽のガンが頭上を通りかかった。すると更嬰はさっと弓を取り、弓の弦をはじいて高い音を鳴らした。そうすると、どうしたことか、それだけでガンはハタハタと地上に落下してきたのです。この光景に王様はおおいに驚き、「まさかおぬしがこれほどの腕とは!!」と、やんやとはやし立てた。すると更嬰は、すました顔で答えた。「始めに鳥の群れが通り、その後に離れて1羽。あの鳥はおそらく、傷を負って群れから離され、たった1羽で飛んでいたのです。その心は、心細さから大いに弱り果てていたのでしょう。弦の音に驚き、高く舞い上がろうとしたところ、突然のことで傷に響き、あえなく落下してしまったのでございます」と。

115.聞鶏起舞晋書・祖逖伝
(ぶんけいきぶ)

あるところに、祖逖(そてき)という人がいた。祖逖は幼いころから劉昆(りゅうこん)と大変仲がよく、そしてこの二人は同じ夢を持っていた。それは、中国を他国の侵略から守り、晋王朝を復興し、平和な世の中を作ることだった。二人はその夢のためには、あらゆる努力を惜しまず、1分1秒をも惜しみ、明け方鶏の鳴き声を聞いて飛び起き、庭に出て剣舞を練習した。そしてそれは、1年中1日たりとも途切れることなく続いた。長い間の努力のかいあって、祖逖は優れた軍事的能力を身に付け、鎮西将軍に任じられ、軍隊を率いて中国から他国を追い払い、劉昆はたぐいまれな文才を発揮して、都督(地方行政の最高長官)に任じられ、三州の軍事を管轄させられた。
後の人々は、二人の絶え間ない努力に感動し、彼らが鶏の鳴き声とともに起きて剣舞を舞ったことを『聞鶏起聞』と言い、目標のために精神をふるって努力することを指すようになった。

114.釜中の魚資治通鑑
(ふちゅうのうお)

中国は後漢の順帝(在位126〜144)の時、反乱を起こした張嬰のアジ演説の一部。「諸君、われわれは目先のことを考えて生きのびようとしても、釜の中に入れられて泳いでいる魚と同じことだ。立って戦うほかに道はないのだ」。
このことから、先の短い生をたとえることばになった。

113.遼東の豕
りょうとうのいのこ

世間を知らないものが、自分だけが偉い者だと思っていい気になることのたとえ。遼東に住んでいた農民が、頭の白い豚が生まれたのを非常に珍しいものだと思って、献上に出かけたところ、河東の豚はどの豚もみんな頭が白かった。
これと同じで世間の狭いものは、世間の広いことを知らないから、少し何かすればとてつもなく偉いことをしたつもりでいるが、他人から見ればそれはなんでもないことで、誰でもそれぐらいのことはしているということの戒めです。

112.銅臭(後漢書)
どうしゅう

中国は後漢の霊帝の時、政治が乱れて、官位を金で売買するていたらく。崔烈(さいれつ)という男は五百万金で司徒(三公の一つで大臣級の役)になった。あるとき崔烈が息子の鈞(きん)にむかって、自分にたいする世間の評判をたずねた。すると鈞は、父上が司徒の位の
ついてからは、世間では失望しておりますと言った。烈がそのわけをたずねると、鈞は、父上に銅臭のあるのを嫌っているからです、と言った。
文字どおり、金銭のにおいという意味であり、そこから、すぐ金銭のことを口にするものを銅臭がすると言うようになった。

111.水至りて清ければ魚なし、人至りて察なければ徒なし
(宋名臣言行録)
(みずいたりてきよければうおなし、ひといたりてさつなければとなし)

太宗の言葉を聞いていた呂蒙正は、次のような賛意を表した。「水清けえれば魚住まずと言うように、人間もあまり厳格過ぎては人が寄って来ません。大体、小人どもの腹の内など君子には全て読めるもの、大きな度量を持って抱擁してやることで、万事はうまくおさまります。むかし,曹参が、牢獄と市場を特に慎重におさめよと言っております。その理由は、牢獄も市場も善悪正邪を合わせ受け入れるところ、その管理をあまりに厳しくすれば、姦人どもは身の置き所がなくなり、必ず反乱を起こすと言うのです。このたびも出来るだけ穏便に処理すべきです。陛下のお言葉は、無為自然の当地を理想とする”黄老の道”と合致するものです」
曹参は、漢の高祖劉邦の功臣、名宰相「蕭何」亡き後、その後任となった。蕭何の定めた法を遵守しさえすれば世の中はうまく治まるのだからといって、自身は何もせず、毎日酒を飲んですごしたと言う逸話もあるとか。

110.水滴石穿
(すいてきせきせん)

中国、宋の国。とある県知事のお話。
ある日、この県知事の男が、蔵番の役人が蔵から出てくるとき、1文銭をふところに入れるのを見てしまった。直ちに県知事が蔵番を逮捕し、厳しく取り調べたところ、蔵番はその1文銭を蔵から盗み出したことを認めた。そこで、県知事はこの蔵番を百叩きの刑に処すことに決めたが、蔵番はそれに不服を申し立てた。「たった1文銭盗んだだけで百叩きの刑とは、あまりに横暴がすぎる!」と。それを聞いた県知事は、さっと紙と筆をとり、次のようなことを書き付けた。「おまえは今日、蔵から1文銭を盗み出したにすぎぬ。しかし、お前が毎日それを続けてみろ。10日で10銭、千日では千銭となる。縄をノコギリがわりにしても、根気よく続ければ木も切り倒せるだろう。ぽたぽたと垂れる滴が石に穴をあけることだってあるのだ!」そして蔵番の男を、打ち首にするように命じた。
このことから、後の人々は『水滴石穿(点滴石を穿つ)』ということわざを作り、なにごともあきらめずに根気よく努力すれば、必ず成し遂げられる、という意味で使うようになった。

109馬耳東風(李白)
(ばじとうふう)

馬の耳に東風が吹くということ。馬の耳に風が吹いても馬がなんとも思わないように、人の意見や忠告を気にもとめずに聞き流すこと。何を言っても少しの反応もないたとえをいう。

108.孟母三遷(列女伝)
(もうぼさんせん)

子供の教育には環境が大切であるという教え。孟子の母が、わが子の教育に適した環境を求めて、三度も住居を移したという故事にもとづく。最初は墓地の近くに住んでいたが、孟子が葬式のまねごとをして遊んだので、母は心配して市場の近くへ引越した。すると今度は、商人のかけひきのまねをしたので、教育上好ましくないと学校の近くへ転居した。すると孟子は、礼儀作法のまねをした。母は、これこそふさわしい環境であると考え、居を定めた。


107.三寸の舌をふるう(史記:淮陰侯列伝)
(さんずんのしたをふるう)

楚の項羽に負けて韓信の幕舎へ飛び込んできた漢王の劉邦は、韓信の印符をとりあげ、「改めて2千の兵を与えるので、斉をとりつぶしてこい。」と命じた。韓信は門番をした弁舌のたつ、レキ食其(れきいき)という老人を漢の使者に仕立てて、斉の都の臨シ(りんし)へ派遣したが、斉の都に着く前に70余りある斉の小城をその弁舌で下してしまった。その後、レキ食其は弁舌豊かに斉王以下を説得し、斉を漢の見方につけることができた。斉の都に着く前に70余りある斉の小城をその弁舌で下してしまったことなどから、人々は「三寸の舌」というようになった。
『三寸の舌をふるう』とは、普段はあまりしゃべらなくても、いざとなれば一国を説き伏せるほどの舌力があればすばらしいというような意味です。勇弁なことは確かに優れた才能の一つだと思いますが、日本ではしゃべりすぎには注意が必要ですね。

106.井の中の蛙大海を知らず(荘子:秋水)
(いのなかのかわずたいかいをしらず)

狭い見識を全てだと思っていること。荘子の中の寓話。黄河の水神の河伯は、秋になると水かさを増し美しくなる黄河の流れを得意げに見渡しながら流れに身を任せてた。すると黄河は河伯を渤海へと運びました。河伯は渤海の広大さを見て驚くと共に、黄河の流れを得意に思っていた自分の見識の狭さを恥じた。河伯はそのことを包み隠さず渤海の神様に話した。すると渤海の神様は河伯にこう言った。
「井の中の蛙は海の事を話してもわからない。なぜなら蛙は自分の住む井戸の中を全てと思いこみ海を知ろうとしないからだ。しかし、自分の見識の狭さを知った君とは海のことについて語り合える。」

105.七たび縦ち七たび擒える(三国志:蜀志諸葛亮伝)
(ななたびはなちななたびとらえる)

三国時代、蜀の諸葛亮が、中国西南部を平定する際に、中国西南部の領主の一人である孟獲と戦い、7回捕らえて陣中を全て見せて7回釈放したところ、孟獲は蜀にはどんなことをしても勝てないと悟り、心から蜀に服従した。このことから、物わかりの悪い人にも根気よく対応すれば、納得させることができるという意味となった。

104.心合わざれば肝胆も楚越なり(孔子)
(こころ、あわざればかんたんもそえつなり)

互いに心が通わないと、同じ体の中にある肝臓と胆嚢のように密接な関係を持っているものでも、いつも紛争を繰り返した楚と越のように折り合いが悪く、背中を見せ合っているという意味。

103.泣いて馬謖を斬る(三国志:蜀志馬謖伝 )
(ないてばしょくをきる)

三国時代の蜀の諸葛亮が魏攻略のため北伐を開始した際に、主力軍を馬謖に預け街亭に布陣させた。このとき諸葛亮は、馬謖に山麓で陣を構えるように指示したが、馬謖は、己の才能をひけらかしたいがために不用な計略を用い、諸葛亮の指示を守らず、街亭の山上に布陣し、蜀の大敗の原因を作ってしまった。諸葛亮は大敗の原因を作った馬謖を処罰しなければ兵の志気に関わるが、才能あふれる馬謖をなんとか助けたいと悩んだ。しかし、馬謖は開き直ってしまった。そこで諸葛亮はやむなく馬謖を処刑することにした。諸葛亮は、馬謖の処刑前日は泣きはらし馬謖の才能を惜しみしつつ処刑した。
このことから、組織全体のために信頼している有能な部下をやむなく犠牲にすることを意味する言葉となった。

102.伯仲の間(魏文帝:典論)
(はくちゅうのかん)

兄弟を上から伯、仲、叔、李と分けると、一番上と一番下すなわち伯李の間は違いが大きいけれども、上と次すなわち伯仲の違いはそれほどではない。つまり、たがいに優劣がなく、ほとんど同じ程度だということをいう。

101.断機の戒め(列女伝)
(だんきのいましめ)

孟子が修行の途中で家に帰ってきたとき、孟子の母は織りかけていた機を断って戒め、師のもとに追い返した。その話から、学問を途中でやめることは、織りかけの機の糸を切るのと同じで、なんにもならないということをいうようになった。


100.圧巻
(あっかん)

最もすぐれた詩文、または催し物や書物などで、内容や場面の一番すぐれたところを言う。
昔、科挙(官吏登用試験)の試験答案のうち、最も優秀な答案を他の答案の上に乗せたことから、圧(押さえる)巻(答案)は最も優秀な詩や文章をさす言葉となった。

99.人間万事塞翁が馬准南子)
(にんげんばんじさいおうがうま)

中国の北方の辺境の要塞の近くに翁が住んでいた。その翁の馬がある日、逃げ出して北方の異民族の地にいってしまった。人々は気の毒がり翁に声をかけた。しかし、翁は「そうともいえんよ」とうそぶいていた。すると逃げ出した馬は北方から駿馬を連れて戻ってきた。人々は翁に良かったじゃないかと祝福しました。すると翁は同じように「そうともいえんよ」と答えた。北方から戻ってきた駿馬により翁の家は栄えたが、翁の息子は乗馬好きになり、仕事もせずに乗馬ばかりしするようになった。そんなある日翁の息子は落馬して足を骨折し一生足が不自由になってしまった。人々はかわいそうにと翁に声をかけますが、翁はまたまた「そうともいえんよ」と答えた。翌年翁の住む近くの要塞に北方の異民族が大挙して来襲し、その地域の若者のほとんどが戦死してしまうほどの激戦を繰り広げた。しかし、翁の息子は足が不自由なため戦闘には参加せず生き延びたからです。
この物語から准南子の著者劉安(りゅうあん)は、人生の幸不幸は、予測できないと解説した。


98.太公望 (史記:斉太公世家
(たいこうぼう)

周の文王の師で、兵法家の呂尚のこと。
あるとき、周の文王がイ水で釣りをしていた呂尚を見て、「呂尚こそは、亡き文王の父(太公)が待ち望んだ人物である」と言ったことから呂尚を太公望と呼んだ。この故事にちなんで魚釣りをする人、又は釣り好きを意味する言葉になった。


97.宋襄の仁 (春秋左氏伝)
(そうじょうのじん)

春秋時代、宋の襄公が楚の成王と泓水で戦った際、兵数の多さにものいわせて渡河してくる楚軍に対し、宋の宰相目夷が、河を渡ってる時や渡り終えた直後で態勢が整わないうちに攻撃をするように進言するが、宋の襄公は二度とも攻撃許可をせず、圧倒的な兵力差の前に自らも負傷するという大敗を喫した。なぜ、あの時攻撃許可をしなかったかと聞かれた宋の襄公は「君子たる者人の難儀につけいるようなことはしない」といった。宋の国の人々は、襄公の無用な仁者ぶりを責め、他国の人々はあざ笑った。それ以後、不必要な情けや憐れみをかけることをこういうようになった。

96.破天荒 (北夢瑣言)
(はてんこう)

天荒とは、天地がまだ混沌としていて、ひらけない状態のこと。このことから、科挙の試験に合格する者が出ないような土地のことを指して言うようになった。
唐の時代、荊州は天荒の地と言われていた。しかい、ついに劉蛻(りゅうぜい)という荊州出身者が科挙に合格し、破天荒と呼ばれた。これにより、今まで誰も出来なかったことを成し遂げる事を破天荒というようになった。

95.渇にのぞみて井を穿つ(説苑)
(かつにのぞみていをうがつ)

春秋時代。魯の国の昭公は、国をうまく治められず、いたたまれなくなって斉の国に逃げてしまいました。そんなある日、斉の国の景公が昭公にたずねました。「君主になって日も浅いというのに、どうして国をお捨てになったのです?」すると昭公、「私は、国にいる間、つまらない人物とばかり親しんで、有能な人物を遠ざけてしまったのです。そのため、人びとにそむかれ、見捨てられてしまいました」と素直に自分の非を認めたのです。そこで景公は、昭公はまだ若いし、今国へ帰れば再び国の危機を救うことができるかもれないと思い、斉の国一の策士、晏子に相談しました。「昭公を今帰国させたら、うまく国を治められるだろうか?」晏子はしばらく考えて、「だめでしょうな」と言いました。「なぜだ?本人も過ちに気付き、反省しているではないか」すると晏子、「水におぼれてからおぼれたわけを考え、道に迷ってから道を尋ねる。それはまるで、危険に直面してから武器を作り、のどが渇いてから井戸を掘るようなものでございます。もう手遅れ、ということです」その後、この出来事は、「渇にのぞみて井を穿つ(掘る)」と言うことわざになり、何の準備もせず、いざとなって慌てても何の役にも立たないことをさすようになりました。

94.牛耳る(左伝)
(ぎゅうじる)

春秋時代、楚の荘王が覇者となった後も争いは絶えず、諸侯はしだいに疲弊していった。そこで 宋の向戌(じょうじゅつ)の働きにより、和平の誓いがされることになり、晋・楚をはじめとして13の諸侯が宋で会盟した。しかし、ここで、晋・楚のいづれが盟主の儀式を執り行うかでいがみあった。そこで晋の家臣が晋の代表に、「諸侯が晋についてくるのは、盟主の儀式を行うからではなく、その徳によるものだから譲ってあげなさいませ」と耳打ちした。結局、より和平を望む晋が譲る形で和平の誓いが行われた。このときの盟主の儀式とは、牛の耳をそぎ落とし、その血をすすることだった。以来、会議の席上で主導権を握ることを牛の耳をとることから「牛耳る」と言われるようになった。

93.歯牙にもかけず(史記:叔孫通列伝)
(しがにもかけず)

秦の始皇帝が死んだ後、その子が始皇帝のあとを継いだ。しかし始皇帝の政治に不満を抱いていた者が反乱をおこしたとの連絡があり、皇帝は学者を集めて検討するよう宦官の趙高に指示した。趙高は不都合なことは一切皇帝に伝えなかったので、自分の政治の下で天下は安定していると思った皇帝は、学者の「反逆者は許すべきではなく、速やかに討伐軍を派遣すべき」との意見に怒った。
これを見ていた叔孫通(しょくそんとう)という学者が「他の学者の言うことは間違いです。反乱を企てるものはいません。これらはただの盗賊であり、歯牙の間に置く(問題にする)必要はありません。」と言った。皇帝はこれに喜び、叔孫通に褒美を与えた。
『歯牙にもかけず』とは、『歯牙の間(かん)に置く』(問題にする)という言葉から出て、問題にしない、相手にしないという意味です。

92.髀肉之嘆(蜀史)
(ひにくのたん)

三国時代の群雄のひとりである劉備は、曹操に敗れ、荊州の長官劉表のもとに身を寄せていた。あるとき宴席に招かれ、トイレにいったとき、腿の内側(髀肉)に贅肉がついてしまっていることに気がついた。以前は毎日のように馬上にあり、髀肉のつくひまなど無かったのに...劉表の庇護のもと、毎日安穏と時が過ぎてゆき、全く功名がたてられないことを焦って嘆いて言ったことば。
安楽な生活を送っている英雄が、平和が続くために功名をあげるチャンスが得られないのを嘆く意味にも、仕事や戦争をしたくてたまらないという意味にも使われます。

91.酒入れば舌出ず(説苑)
(さけいればしたず)

ある時斉の桓公が諸侯を招いて宴会を開いた。その時、ひとり管仲が宴席に遅れてやってきて杯の酒を半分だけ飲んで半分を捨ててしまった。それを見ていた桓公は管仲の態度を非難した。管仲は桓公の非難に答えて言った。「私は『酒が入った者は舌がでて多弁になる。』と聞いています。多弁になれば、失言して身を捨てることになります。身を捨てるよりは酒を捨てた方がましだと思います。」この答えを聞いた桓公はおおいに満足した。
酒を飲んで饒舌になり、余計なことをしゃべって身を滅ぼすことのないようにしたいものです。
※そういえば、酒が入らなくても失言する人がいましたね。(^_^;)

90.君子は器ならず(論語:為政篇)
(くんしはきならず)

器はそれぞれの用途で使い分けます。湯飲みではお茶を飲み、お茶碗にはご飯を盛り、花瓶には花をいけるといった感じです。逆にお茶碗に花を生けるわけにはいかないため、器は特定の役にしか立たないということにもなります。
論語では、君子は器のように特定の役にしか立たないようではダメだといっています。つまり一芸一能に偏ってはいけないということです。
器はもともとは「うつわ」という意味ですが、「器量」とか「働き」といった意味を持っています。この場合の器は「才能」、「用途」のような意味で使われています。 

89.父母その子を養いて教えざるは、これその子を愛せざるなり(古文真宝)
(ふぼそのこをやしないておしえざるは、これそのこをあいせざるなり)

宗の仁宗のときに、柳永が書いた「勧学文」の中に、「我が子を育てるだけで教育しないのは、その子を本当に愛しているとは言えない」とある。さらに「教育しても厳しさを欠くようでは、また本当に愛しているとは言えない」とある。
この教育とは、どちらかというと「しつけ」のことであり、いわば人間としての「教育」のことを指しています。
※教育どころか育てることもしない悲しい事件が続いてますね。

88.去る者は追わず、来る者は拒まず(孟子:尽心)
(さるものはおわず、きたるものはこばまず)

孟子が滕(とう)の迎賓館に泊まったとき、迎賓館の役人のわらじがなくなるという事件がおきた。役人はてっきり孟子の弟子が盗んだものと思って、孟子を非難したが、孟子は「仮に私の弟子達が盗んだにせよ、それは大したことではない。私は学問の意志さえあれば誰でも弟子にするし、去っていく者は追わない。これが私の主義だ。」といった。
人とつきあうときには淡々とした精神が大切であり、学ぼうとしてやってきた者はその過去にこだわることなく受け入れるべきであり、去っていく者は追ってもしかたがない。相手の自由意志にまかせ、自分は淡々とするのが一番良いということです。

87.盃中の蛇影(晋書:楽広伝)
(はいちゅうのだえい)

昔、中国で河南省の長官をしていた楽広という人物の友人が、盃の酒に、役所の壁にかけた弓が映るのをみて蛇だと思い込み、病にとりつかれてしまいました。しかし、楽広からその真実の説明を受けると、瞬く間に病気が治ったといいます。
 このことから、疑いをもっていれば、なんでもない事にまでもおびえるものだということをいいます。

86.李下に冠を正さず(文選)
(りかにかんむりをたださず)

原文 は「瓜田に履を納れず李下に冠を整えず」
瓜畑では履物が脱げても、うつむいて履物に足を入れない。瓜を盗んでいるような格好に見えるから。李(スモモ)の木の下では、帽子が曲がっても、手を上にあげてこれを直さない。李を取っているように見えるから。人から疑いを受けやすい行動は避けよ、初めからそんな嫌疑のかからないように気をつけよという意味です。

85.蜀犬日に吠ゆ(柳宗元文)
(しょっけんひにほゆ)

中国の蜀地方(現在の四川省)は、山が高くて霧の多い気候のために、めったに日がささない。まれに太陽が出ると、これを怪しんで犬がほえるという意味。
無知なためにあたりまえのことを怪しむたとえ。また、見識の低い人間が他人の優れた言行に疑いを抱くことのたとえにもいう。

84.覆水盆に帰らず(拾遺記)
(ふくすいぼんにかえらず)

一度してしまったことは取り返しがつかないというたとえ。
中国の周の時代、呂尚(太公望)が読書にばかりふけっているのに愛想を尽かした妻が離縁して去った。のちに呂尚が出世して斉に封ぜられると、別れた妻がやってきて復縁を願ったが、呂尚は盆から水をこぼし、この水を盆に戻せたら求めに応じようと言った。
この出来事から一度離婚した夫婦の仲は戻らない、または一度行った行動や発言はもとのようにできないと言う意味になりました。

83.快刀乱麻
(かいとうらんま)

中国、南北朝時代。東魏という国の大臣であった高歓は、3人の息子たちを試そうと、それぞれにクシャクシャになった麻の束を渡して、こう言った。「この麻の束を、もっとも早く整理したものに、褒美を与える」3人はさっそくとりかかったが、二人の兄たちは丁寧に手で1本1本ばらしたり、引き抜いたり、もつれたところをほどいたりして悪戦苦闘している。しかし、1番先に「できました!」と声を上げたのは、末っ子の高洋だった。父は大いに驚き、「もうできたのか!?」と言った。すると高洋、「はい、父上。面倒なところはすべて、刀で切ってしまいました」父はこれに大いに喜んで、「この子は、場合によって的確に判断する能力を持っている。将来きっと大人物になるに違いない!」と言ってほめた。実際、この高洋少年、のちに北斉の国の皇帝になった。
このことから、後の人々は『快刀乱麻』ということわざを作り、一見複雑な問題を、迅速に解決してしまう事を指すようになった。

※昔どこかの会社の入社試験で、きれいに包装した商品から中身をとりだすという課題があって、包装紙をビリビリ破いて一番に中身を出した人が合格したということがあった。快刀乱麻のテストの一種?

82.西施の顰みに倣う(荘子:天運)
(せいしのひそみにならう)

ひそみとは、眉間にしわを寄せて顔をしかめること。自分に考えもなく、むやみに人のうわべだけをまねることのたとえ。また、人にならってものごとをする場合の謙遜した言い方。
昔、中国の越の美人、西施が、病気になってその苦しみに眉をひそめていた姿がたいそう美しかったので、そうすれば美人に見えるのだと思った近隣の醜女がまねをして、しかめっつらをしたところ、かえって気味悪がられたという。

81.褒ジの一笑国を傾く(史記:周本紀)
(ほうじのいっしょうくにをかたむく)

褒ジとは古代中国の周の幽王の愛した美女の名前。褒ジのひと笑いが国を傾けるということ。美女のために国が滅びることをいう。
褒ジはめったに笑わない女性であったが、あるとき、手違いで上がったノロシのために、諸侯が慌てて参集するのを見て笑った。これを喜んだ幽王が、その後たびたびのろしを上げさせたので、本当の戦乱が起こったときに上げたのろしにはだれも集まらず、国が滅びたという故事から出たことば。

80.東家に食して西家に眠らん(太平御覧:人事・醜丈夫)
(とうかにしょくしてせいかにねむらん)

欲張ることのたとえ。
昔、中国に美女がおり、両隣の男性から求婚された。東の家の男は金持ちでブ男。西の家の男は貧乏で美男だったが、母親がどちらに嫁ぐのかと聞いたところ、美女は、昼間は東家で過ごし、夜は西家で過ごしたいと答えたという。

79.隗より始めよ(戦国策:燕策)
(かいよりはじめよ)

遠大な事業を起こすには手近なところから始めよ、ということ。また、ものごとを始めるには、まず言い出した者から始めるべきだという意味にも使う。
中国の戦国時代に、郭隗が燕の昭王から賢者を招く方法を相談されて「賢者を招きたいなら、まず私、隗を優遇してください。自分のようなあまり優秀でない者を優遇しているということになれば、さらに優れた賢者が次々と集まってくるでしょう」と答えたという。

78.錦を着て夜行くがごとし(漢書:項羽伝)
(にしきをきてよるゆくがごとし)

きらびやかな錦の衣装を着ていても夜では誰も見てくれない。せっかく立身出世したり成功したりしても、故郷に帰らなければ知人に知ってもらう機会もない、という不本意さをたとえていう。
楚の項羽が秦の都を陥落させたとき、都のある関中の地が新都としてふさわしいと説いた人に対して、故郷への想いを語った言葉。

77.轍鮒の急(荘子:外物)
(てっぷのきゅう)

車のわだちにたまったわずかな水の中であえいている鮒(フナ)のように、危機が差し迫った状態のたとえ。非常に困窮のたとえ。
貧乏な荘子が文侯に穀物を借りにいったとき、文侯が、近々税金を取り立てるから、そうしたら大金を貸そうと答えた。荘子は「ここへ来る途中で、わだちにはまったフナから助けを求められた。近々呉越に旅行するから、そのときに西江の水をこちらに流そうと答えたら、フナは怒って、いま必要なのはわずかな水なのに、あなたがそんな悠長なつもりでいるなら、いずれ乾物屋の店先でお目にかかるのが関の山だ、と言った」という話をして、窮状を理解しない相手をなじったという。

76.読書百遍、義自ずから見る(魏志:王粛伝)
(どくしょひゃっぺん、ぎおのずからあらわる)

書物を読んでいてわからないところがあっても、百回繰り返して読むうちには自然と意味が明らかになるという意味。書物は、とおりいっぺんの乱読多読をせずに、じっくりと読むのが大事だということ。

75.漱石(楚書:孫楚伝)
(そうせき)

こじつけていいのがれをすること。または負け惜しみを言うこと。
晋の孫楚が、隠遁(いんとん)しようと思って、親友の王済に「流れに漱ぎ(くちすすぎ)、石に枕す」と言わねばならないところを、うっかり、「石に漱ぎ、流れに枕す」と言ってしまった。王済が、すぐさま、「そんなことはできることではない」とつっこむと、孫楚は、「流れを枕にするというのは、つまらんことを聞いた時に、自分の耳を洗うためだ。また石で口をすすぐのは、歯を磨くためだ。」と、うまくこじつけて言い逃れたという話から出たことば。
(「流石」(さすが)も同じ話から出た)
夏目漱石という雅号は、「自分の意見や書くものは、すべてこじつけ、あるいは負け惜しみだ」という意味でつけたそうです。

74.白波(後漢書:霊帝紀
(しらなみ)

盗賊のこと。
後漢の末、霊帝のときに、張角を首領として「黄巾の賊」というのがおこり、やがて討伐されたが、その残党が、西河の白波谷(はくはこく)にたてこもり、当時世間では、それを「白波族」(はくはぞく)と呼んだ。日本ではこれを「しらなみぞく」と読み、さらに「白波(しらなみ)」と簡単にいい、後に、盗賊一般を言うようになった。

73.虞美人草(曾キョウ)
(ぐびじんそう)

ひなげしの別名。
「虞美人」とは、漢の高祖”劉邦”と天下を争った項羽の寵姫の名。項羽が垓下で、孤立無援に取り囲まれた時、決別の宴をはり、虞美人に歌を送り、彼女もそれに和し、最後に項羽の宝剣で自決して果てた。この血が土の上にしたたり、やがてめぐってきた春に、端麗な花が咲いた。その花は、虞姫のありし日の姿のように悲しげに風に揺れていた。人々はこの花を彼女の生まれ変わりと考え、その生涯をはかなんで虞美人草と名づけた。

72.英雄人を忌む(世説新語)
(えいゆうひとをいむ)

とかく英雄といわれるような人は、独裁的で、自尊心の強い傾向がある。だから、自分以上の力を持つ人を見ると、その人の存在を忌みきらうことが多いらしい。
三国時代の呉の孫権の兄、孫策が、名門の袁術を訪問しているとき、劉備の来訪が知らされた。袁術が、孫策に「劉備とあってみるか?」と聞くと、孫策は、「英雄は人を忌む」と避けて、東の階段から辞去したという話からでたことば。

71.白眉(蜀志:馬良伝)
(はくび)

兄弟の中ですぐれた者のこと。
三国時代、蜀の馬氏に五人の子どもがあり、みな、秀才ぞろいであった。中でも長兄の馬良が最もすぐれ、眉の中に白い毛が生えていたので、村人が、「馬氏の五人の中で、白い眉の人が最も良い」と言った。兄弟の中のすぐれものの意から、衆人の中でもっとも傑出している者をいう。

70.衣食足りて礼節を知る(管子)
(いしょくたりてれいせつをしる)

斉の宰相、管仲の名言。もともとは「倉凛(そうりん)実ちてすなわち礼節を知り、衣食足りてすなわち栄辱を知る」となっている。米倉がいっぱいになると礼節をわきまえるようになり、衣食が十分に足りるようになると栄誉恥辱を知るようになるという。つまり、生活にゆとりができさえすれば、道徳意識はおのずから高まるというのだ。二千数百年前の当時にあっては、きわめて先見性があったと言えるが、今の日本の現状からみると、あてはまらないかもしれない。

69.三十六策、走るをこれ上計とす(南斉書)
(さんじゅうろくさく、にぐるをこれじょうけいとす)

ふつう「三十六計、逃げるにしかず」と言いならわされているが、元をたどると、こういう表現であった。南北朝時代に活躍した壇道済という将軍の戦いぶりを評したことばだという。
三十六策(計)とは、たくさんの戦略戦術である。そのなかで、なぜ逃げるのが上計(もっとも上手な戦い方)とされるのか。勝てる見込みもないのに、当たって砕けたのでは、元も子もない。勝てぬと判断したら、さっさと撤退して戦力を温存する。そうすれば、勝てるチャンスはまたいくらでもめぐってくる、という発想に他ならない。中国人は昔からこういう戦い方を得意としてきた。

68.市に虎あり(韓非子:内儲説)
(いちにとらあり)

事実でないことでも、言う人が多いと聞く者もいつか信ずるようになるということ。
虎は普通、山にいるもので、町中などにはいない。けれども大勢の者が「いる」「いる」と言えば、まさかと思ってもいつか信じるようになる。どんなにありえないことでも、大勢の人が言い出すと真実になってしまうということにたとえる。

67.折檻(漢書・朱雲伝)
(せっかん)

前漢の成帝の頃、丞相兼師傅の張禹が外戚の王一族に取り入って権勢を振るい、王一族の専横を見て見ぬふりをしていたため、県の長官だった朱雲が張禹を排除するよう成帝に諫言しました。すると成帝は怒って朱雲を死刑するように命じました。捕縛されそうになった朱雲は宮殿の欄檻にしがみつき抵抗したため、宮殿の欄檻は折れてしまいました。
成帝は、直諫の士の記念に欄檻を折れたままにしました。この故事をを人々は折檻とよび強く諫めることを意味する言葉になりました。

66.苦肉の計・苦肉の策(三国志)
(くにくのけい)

三国時代、曹操の軍百万が東呉に迫ってきたとき、少ない兵でこれに対抗するためにしかけた策。味方から偽って内通させ、降ると見せた船団に枯れ草を積み、火計を仕掛けるしかない。だが、誰にこの過酷な役目を任せたものか・・・。悩む呉の都督”周瑜”に、呉三代に仕える老将・黄蓋が、自分が引き受けようと申し出る。黄蓋は、わざと周瑜と対立し、棒百杖の刑を受けた上で、偽って曹操に投降する。この、自らの身を犠牲にした計略は、参謀カン沢の機知や、"埋伏の毒"蔡和・蔡中らを逆に利用した策により、見事成功を収める。敵を欺く手段として自分の身を苦しめること、転じて、考えあぐね苦労した末に考えた策をいう。 今では、苦し紛れの策と、かなり意味が違って使われる。

65.虎の威を借る狐(戦国策:楚策)
(とらのいをかるきつね)

宣王は、北方の国々が楚の昭奚恤(しょうけいじゅつ)を恐れるのを不思議に思い、家来である江乙(こういつ)にたずねたところ、江乙は次の話をし、諸国が恐れているのは昭奚恤ではなく、楚の軍事力であるといった。
ずるがしこい狐が虎に捕まってしまい、なんとか逃げようとするが逃げることはできない。狐は虎に向かって「私は神の使いである。私を食べると命が縮まるぞ。嘘ではない。私の後についてくればわかる。」といって虎の前を歩いていった。すると出会った動物たちが皆逃げ出したので、虎は狐の話は本当だと思った。 
「虎の威を借る狐」とは、他の権勢を借りて威張り散らす小さい人間を指していう。この話は、魏の回し者である江乙が、楚の昭奚恤を陥れるために宣王に話した悪口の一つである。 

64.鼎の軽重を問う(左伝)
(かなえのけいちょうをとう)

しかるべき地位についている人物に対して、その資格を疑い、退任を迫ること。
昔、周の王室に、王位の象徴として鼎が伝えられていた。楚の荘王が紀元前606年に洛陽付近の異民族を討伐した際に洛陽近郊で閲兵式を行った。閲兵式は本来周王のみに許されているもので、怒った周の定王は使者に伝国の宝である鼎(かなえ)を持たせて閲兵式を行っている楚の荘王の元に使わしました。定王の使者は荘王に対し「伝国の宝である鼎を持たぬ王がなぜ閲兵式を行うのか?すぐに中止せよ」といいました。これに対し荘王は「鼎など楚の鉄屑を集めても作れる。鼎の軽重はそれを持つ王の徳によって決まるのだ。周の鼎の軽重はいかに?」と問いました。定王の使者はなにも答えることができず帰っていったそうです。

63.一旦の功、万世の功(史記:蕭相国世家)
(いったんのこう、ばんせいのこう)

劉邦は五年にわたる長い戦いの末、漢帝国を樹立した。そこで論功行賞にあたり、戦場に一度もでたことがない蕭何(しょうか)に一番大きな領土を与えた。
さらに宮中の席次を決めるときにも、劉邦は蕭何を第一位にしようとしたが、臣下たちは、最大の戦功をあげた曹参(そうしん)を第一位にすべきだと意見した。 劉邦が決めかねていると、臣下の一人である顎君(がくくん)が、「一同の考えはまちがっております。たしかに曹参は最大の戦功をあげましたが、それは『一旦の功』にすぎません。蕭何は戦場には行きませんでしたが、兵糧、兵器、兵士などを補給し戦闘の態勢を整えました。これこそ『万世の功』であり、『一旦の功』に勝ります。」と言った。劉邦はこの進言を入れ、蕭何を第一位、曹参を第二位に決めた。
「一旦の功、万世の功」とは、一時的な功績よりも、長期的な功績の方が勝るということである。

62.病、膏肓に入る(左伝)
(やまいこうこうにいる)

むかし、晋の景公が重い病に倒れたときのことである。隣国の秦から高緩(こうかん)という名医を呼んで診察を仰ぐことにした。その前の晩、景公は夢をみた。病が二人の童子の姿をかりてこんな話をしているのである。「秦から高緩がやってくるそうだ。いよいよおれたちも危ないな。いったいどこへ逃げたらよいのか。」「肓(横隔膜)の上、膏(心臓の下の薄い膜)の下なら安全だ。あそこへ逃げ込もう」
さて、翌日高緩がやってきて、さっそく診察にかかった。そして診おわると、「まことに申し上げにくいのですが、病は肓の上、膏の下に入り込んでおります。ここは鍼(はり)も薬も届かぬところ、もはや治療のしようがございません」と語った。景公は間もなく死んだという。病気だけではない。どんな仕事でも、病、膏肓に入らぬうちに、早目に手を打つことを心がけなければならない。

61.夜郎自大(史記)
(やろうじだい)

漢の時代、西南地方のはずれに夜郎という小さい国があった。あるとき、この国に漢の使者が立ち寄ったところ、夜郎の王様は、「わが国と貴国とでは、どちらが大きいか」とたずねたという。漢は中国全土を支配した大帝国である。これに対し、夜郎は、国とはいっても、幾つかの部落を合わせた程度のちっぽけな存在にすぎない。たとえてみれば、月とスッポンほどのちがいであった。そんなちがいもわきまえないで尊大に構えている王様を笑ったのが「夜郎自大」ということばである。
「夜郎自大」は、自他の位置関係を正確にはかれない視野の狭さから生まれてくる。たんにそれだけなら、まだご愛嬌ですまされるかもしれないが、まずいのは、それが尊大な態度に結びつくことだ。これでは、せっかく近づいてくる人まで遠ざけてしまう。

60.泰山は土壌を譲らず、故によくその大を成す(史記)
(たいざんはどじょうをゆずらず、ゆえによくそのだいをなす)

泰山は奇観に富み、中国を代表する名山として知られている。その泰山は、わずかな土くれも捨てないからこそ、あれだけの雄大な山容を形づくっているのだ、という意味。
秦の始皇帝がまだ秦王であったころの話である。重臣たちのなかから、「他国出身の人間は信用できないから、追放してしまえ」という論が持ちあがった。このとき、李斯(りし)という人物が上書して追放令を撤回させているが、その上書の中に、このことばが使われている。他国の出身であれ、積極的に人材を受け入れてこそ国を強大にすることができるのだという趣旨である。あいつは嫌い、こいつは使いにくいなどといっているようでは、ろくな働きはできないということだ。

59.法は三章のみ(史記)
(ほうはさんしょうのみ)

漢の高祖、劉邦が秦を滅ぼした直後、従来の煩雑な法令をすべて廃止し、法律は三カ条だけにとどめたという故事。略して「法三章」ともいう。
劉邦の軍団が漢中に入り、秦の都、咸陽(かんよう)をおとしいれた時のことである。劉邦は、周辺諸県の有力者を集めて、こう約束した。「諸兄は長い間、秦の苛酷な法に苦しめられてきた。ここでわしは諸兄に約束しよう。法は三章だけとする。人を殺した者は死刑、人を傷つけた者、盗みを働いた者は処罰するが、秦の定めたもろもろの法はすべて廃止する。」と。この布告が伝えられると、人々は歓呼して迎えたという。

58.世に伯楽あり、然る後に千里の馬あり(文章軌範)
(よにはくらくあり、しかるのちにせんりのうまあり)

「伯楽」とは、昔、中国にいたといわれる馬を鑑定する名人。「千里の馬」は、一日に千里も走るといわれた駿馬である。
ある男が駿馬を売ろうとして、三日も市(いち)に立ち続けたが、一人として目をとめる者がいない。男は、伯楽のところへ行って頼み込んだ。「どうか市においでになって、馬のまわりをまわってごらんになり、去りぎわにもう一度ふり返って見ていただけませんか。お礼はたっぷりとさせていただきますから。」
伯楽は、馬のまわりをまわりながら、つくづくと見つめ、去りぎわにふり返ってもう一度見つめた。すると馬の値段はたちまち十倍にもはね上がったという。
このように、千里の馬は伯楽がいてこそ見いだされるのである。人間も同じことだ。どんなに才能があっても、それを見いだしてくれる伯楽に出合わなかったら、世に出ることはむずかしい。

57.前車の覆るは後車の戒め(漢書)
(ぜんしゃのくつがえるはこうしゃのいましめ)

漢代の賈誼(かぎ)という学者が、時の文帝に献策した文章にこのことばが引用されている。当時から広く使われていたことばであるらしい。意味は、前の車がひっくり返るのを見たら、その二の舞をしないように気をつけなさい、ということである。このとき賈誼が「前車」になぞらえたのは、漢代のすぐ前の秦の失敗である。秦は始皇帝による強権政治の無理がたたって、わずか二代で滅びた。文帝は、よく秦の失敗に学び、みずから節倹を旨として政治に当たった。その結果、みごとな治績をあげ名君と称された。
唐の太宗についても同じことが言える。この人が名君と称されるのも、すぐ前の隋の煬帝の失敗を反面教師として、同じ失敗を繰り返すまいぞと心に言いきかせながら政治に取り組んだからである。前人の失敗は、記憶になまなましいだけに、これにまさる教訓はないといえる。

56.楽しみは極むべからず(礼記)
(たのしみはきわむべからず)

人生には楽しみが必要である。長寿に恵まれた堅物のお年寄りが「わたしのような生き方は、人様にはおすすめできませんな」と述懐していたとか。人生は短い。その短い人生に、これといった楽しみがなく、あくせく働くことだけで終わってしまうなら、なんのための人生ぞや、だ。せっかくの人生、せいぜい楽しむことを心がけたい。問題はその楽しみ方だ。たとえば、ゴルフに行ったとする。誰でも、「ああ、いいなぁ」と思い、できたら、ゴルフ三昧の生活を一週間も続けてみたいと願う。だが、ヒマを見つけて、たまに行くから楽しいのであって、毎日そんなことをしていれば、楽しみどころか、かえってあじけない思いがつのるだけかもしれない。楽しみごとは、のめり込めばかえって苦しみを増す。「楽しみは極むべからず」、ほどほどにしておきましょう。

55.百聞は一見に如かず(漢書:趙充国伝)
(ひゃくぶんはいっけんにしかず)

他人からどんなに詳しく聞いても、実際に自分の眼で見ることには及ばないということ。
西の辺境にいるキョウ族(チベット系の遊牧民)が漢の町を攻めたとき、漢の宣帝が将軍の趙充国に下問した時の彼のことば。
宣帝は、充国が70才をこえているので、心配して「誰を将軍にしたらよいか」と聞いた。充国は、「私を」と答えた。帝はさらに「兵は何人必要か」と聞いた。これに対して充国は、「兵を遠くから指揮するのは難しいですから、直接戦場へ行って作戦をたててからにしましょう。百聞は一見に如かず」と答えたという。

54.憤せずんば啓せず、ヒせずんば発せず(論語)
(ふんせずんばけいせず、ひせずんばはっせず)

「啓発」のもとになったことば。
孔子が自分の教育の仕方についてこう言った。「わかろうとして、いらだつようでなくては、指導しない。考えていることを言おうとして、言えずに口ごもっているのでなくては、はっきりと教えない。」
当人がどうしたらよいかと努力し、懸命に理解しようとする姿勢があって、はじめて指導助言するということ。相手の自発性、積極性を重視することを強調したものである。

53.人に事うるを知る者にして、然る後に以て人を使うべし(孔子)
(ひとにつかうるをしるものにして、しかるのちにもってひとをつかうべし)

人に仕えるということがわかっている者にして、はじめて人を使うことができるということ。これに続いて、「子為(た)るを知る者にして、然る後に以て父為るべし。人臣弟子を知る者にして、然る後に以って人君為るべし」とある

52.人事代謝有り、往来古今を為す(孟浩然)
(じんじたいしゃあり、おうらいここんをなす)

孟浩然の詩「与諸子登ケン山」の一節。
人の世のことがらには移り変わりがある。去るものと来るものがつみかさなって時の古今が形成されるのであるという意味。
「ケン山」は、湖北省にある山。孟浩然のこの詩も、自然の前での人生のうつろいを述べている。

51.同病相憐れみ、同憂相救う(呉越春秋)
(どうびょうあいあわれみ、どうゆうあいすくう)

同じ境遇で苦労している者は、お互いの心情がよくわかり、思いやり助け合うということ。
春秋時代、伍子胥(ゴシショ)が、伯ヒに言ったことば。伍子胥は、父と兄を楚に殺され、伯ヒは祖父を殺され、恨みを晴らすため、ともに呉に身をよせていた。
もともとは当時の俗謡の一節だったらしい。

50.人事を尽くして天命に聴う(説史管見)
(じんじをつくしててんめいにしたがう)

一般には「人事を尽くして天命を待つ」の形で用いられる。人間として、できる範囲のことを全力をあげてし、事の成否は運命にまかせるということ。「聴」は聞き入れてしたがうという意味。

49.弱肉強食(韓愈:送浮屠文暢師序)
(じゃくにくきょうしょく)

「弱の肉は強の食となる」から出たことばで、動物の世界と人間の世界の差をいう。
動物は弱肉強食であるが、人間の世界は文化があり、そのような強者が生き残るだけという状態にはならないというのが韓愈の考えである。

48.外寧ければ、必ず内に憂い有り(春秋左氏伝)
(そとやすければ、かならずうちにうれいあり)

「内憂外患」のもとになったことば
成公16年6月、晋軍と楚軍が遭遇したとき、晋の将の一人が、「国外が安寧だと必ず内憂を生ずる。楚と戦わず、外憂として残しておこう。」と言った。

47.好事門を出でず、悪事千里を行く(北夢瑣言)
(こうじもんをいでず、あくじせんりをいく)

「悪事千里を走る」の形でも用いられる。
善行をした評判は、なかなか広まらないのに対し、悪い評判は、みるみるうちに遠方まで伝わるという悪事を戒めることば。
五代の後晋の宰相”和凝”(わぎょう)は、若いころ、「曲子」(小唄のたぐいの俗曲)の歌詞を多く作り、それが都に流布していた。宰相になってからそれを回収して焼いたが、宰相としての威厳は、このために最後まで傷ついたままであった。

46.四時の序、功を成す者は去る(十八史略:春秋戦国)
(しじのじょ、こうをなすものはさる)

十八史略の春秋戦国に次の話がある。秦の昭襄王は、雇っていた范雎の献策を用いて、魏、趙、周、韓に武力を行使し、成功していた。しかし秦の名将白起は范雎と仲が悪く、それで王の反感をかったために自殺してしまった。范雎は、白起の死を残念がっている王を見て自分を恥じた。この様子を見た蔡沢は、范雎に「四時の序、功を成す者は去る」といい、范雎は病気との理由で職を退き、蔡沢が後任になった。
「四時の序、功を成す者は去る」とは、春夏秋冬のそれぞれの季節が、それぞれの役目を果たすと次へと代わるように、人も功名をあげたら交代するべきであるという意味である。

45.糟糠の妻は堂より下さず(五漢書)
(そうこうのつまはどうよりくださず)

若い頃、糟(かす)や糠(ぬか)を食って苦労を共にした古女房は、偉くなって金がたまっても、捨てたり粗末に扱ったりしてはならないということ。
堂というのは、門から入って、正面の建物の広い部屋のことで、奥の区切られた部屋は室という。ここから「堂に入る」とは相当なレベルまでいったという意味に使われる。また、「室に入る」は、最高のレベルにいったということ。

44.他山の石、以って玉を攻くべし詩経)
(たざんのいし、もってたまをみがくべし)

よその山から出た石ころでも、こちらの玉を研く材料とすることができる。つまり、つまらぬ他人の言動でも、自分を鍛える助けとして活用することができるということ。「人のふり見て、わがふり直せ」と同じ意味。

43.百里を行く者は九十を半ばとす(戦国策)
(ひゃくりをいくものは、きゅうじゅうをなかばとす)

百里の旅をする者は、九十里をもって、半分の行程だと心得なさいという意味。最終段階におけるツメの大切なことを語ったことば。
名君の誉れ高い唐の太宗も、政治の心構えについて、同じようなことを語っている。

42.愚公、山を移す(列子)
(ぐこう、やまをうつす)

むかし、愚公という老人がいた。家の前に太行、王屋という二つの山がそびえ立っていて、出入りに不便で仕方がない。あるとき、愚公は思い立って、山を切り崩しにかかった。息子と孫と三人ががりでモッコをかづぎ、北の海に土を捨てに行くのだが、一往復するのに半年もかかったという。
それを見て、近くに住む利口者が笑ったところ、愚公はこう答えた。
「わしが死んでも息子がいる。息子には孫ができる。子々孫々絶えることがない。一方、山はいま以上高くならない。平らにできないことがあるものか」
長期的な展望の上に立って、あせらず、あわてず、着実な前進を心がけることが、結局は成功の近道なのかもしれない。

41.漁夫の利(戦国策:燕策)
(ぎょふのり)

縦横家の蘇代は、燕を攻めるのをやめさせようと、趙の恵王に会いに行き、恵王に会うと、ここに来る途中の川で見た出来事を次のように話した。
一羽のシギが口を開けて、河原にいたカラス貝を食べようとしたところ、カラス貝は急に口を閉じてシギのくちばしをはさんでしまった。驚いたシギはカラス貝に、そうしているとそのうち干上がってしまうぞといい、カラス貝はシギに、そういうお前こそ飛び立てずに死んでしまうぞと返し、両者とも動けずにいた。そこに一人の漁夫が通りかかり、動けずにいるシギとカラス貝の両方をやすやすと手に入れてしまった。この話を聞いた恵王は、趙と燕はシギとカラス貝であり、このまま争っていると漁夫である秦に利を与えることにもなりかねないと燕を攻めることをやめた。
漁夫の利とは、利を求めて争っている当事者には関係ない第3者がその利を得ることをいいます。

40.刎頸の交わり(史記:廉頗藺相如列伝
(ふんけいのまじわり)

戦国時代のこと、趙の廉(れん)将軍は歴戦の勇将であり、同じ国で後から将軍になった藺(りん)将軍が頭角をあらわしてきたことがしゃくにさわっていて、今度会ったときにはとっちめてやろうと考えていた。ある日二人がばったりであったとき、藺将軍はとたんに逃げ出した。これを見ていた家臣たちが、「そんなに廉将軍が怖いですか、情けない」と申したところ、藺将軍は「秦王とも渡り合うこの私が、廉将軍など怖いわけはないだろう。我が国が安泰なのは、廉将軍と私がいるからだ。その2人が争ったら、国の安危に影響を与えることになるので、私は廉将軍を避けたのだ。」と言った。これを聞いた廉将軍は藺将軍に謝罪し、以降「刎頸の交わり」を結んだ。
刎頸の交わりとは、たとえ首をはねられても悔やまないほどの友好関係をいいます。

39.人を使うに心をもってす
(ひとをつかうにこころをもってす)

唐の太宗が即位したとき、地方官の張蘊古が上奏した天子の心得のなかに、「なだめたり、すかしたりしても人を動かすことはできるが、それだけでは人の自発性を引き出すことはできない。人を動かすときには、心を忘れてはならない。」という一節があった。さらに、「約束したことは必ず実行しないと、人の心をつかむことはできない。」とも書いてあった。
これを聞いた太宗は、力づくで天下を取っても庶民の心はつかめず、結果的にそんな天下は長続きしないことを知った。太宗は張蘊古を秘書にとりたてた。
部下の心をつかめない組織も長続きしませんね。

38.小人間居して不善をなす(大学:伝六章)
(しょうじんかんきょして、ふぜんをなす)

「大学」にの一節に、「つまらない人間は、暇をもてあますとどんな悪いことでもしかねない。」というのがある。人間は暇になると緊張がゆるみ、少しぐらい自由にしてもよいのではという気になり、悪いことだとわかっていても実行してしまうことがある。これがエスカレートすると、どんな悪事でも犯してしまうことになりかねないというものである。

37.四面楚歌(史記:項羽本紀)
(しめんそか)

楚の項羽は、漢王劉邦と天下を争ったが、しだいに劉邦に圧されて、ついに天下を二分してこれと講和した。項羽は戦いに敗れ、張良・陳平の策略により、まわりを漢軍に取り囲まれた垓下にたてこもることになったが、兵の数も少なく、食糧もつきていた。夜になると、まわりの漢軍の歌う歌が聞こえてきたが、みな楚の歌であることを知って、「これはどういうことだ。楚の兵はみな漢軍に降伏してしまったのか」と項羽はびっくりした。
四面楚歌とは、まわりがみな敵ばかりで孤立無援な状態にあることをいいます。

36.希貨おくべし(史記:呂不韋列伝)
(きかおくべし)

商人の呂不韋(りょふい)は、ある時、趙の都・邯鄲で、人質として邯鄲に送られた秦の庶出の王子である子楚に会い、子楚を商品になぞらえ、珍しいもの(希貨)は買っておくべきだと考えた。
その後、呂不韋は、今、一国の王を担ぎ出せば、その恩恵は孫の代まで報われるとして、子楚に対し、秦へ帰って王位を継げるように努力し、成功した。これより先に子楚に差し出した妾がいたが、実は呂不韋の隠し女であり、その女が生んだ後の始皇帝は呂不韋の子であるといわれた。
希貨おくべしとは、手元に置いておいて後日利用しようという意味。これから発展して、何かをもとに大儲けをはかろうという意味でも使われます。

35.年五十にして四十九年の非を知る(准南子)
(としごじゅうにしてしじゅうくねんのひをしる)

昔、衛の国の重臣にキョ伯玉(きょはくぎょく)という人物がいた。孔子と同時代の人で、よくできた人物であったらしい。「論語」の中で孔子は、「君子なるかなキョ伯玉」とたたえた。ふだんから自分の修養に意を用いた人物であったらしいが、その様子を端的に伝えているのが彼のこの言葉。
過去四十九年の生き方を全否定するほど、五十歳の現在をベストに生きたということ。よほど進歩向上心のある人にちがいない。

34.呉越同舟(孫子)
(ごえつどうしゅう)

現在ではたんに仲の悪い者同士が同じテーブルにつくことを意味するだけだが、原典の「孫子」の意味は、これとはだいぶ違う。呉の人間と越の人間は、むかしから憎みあっている。その彼らがもし同じ船に乗り合わせ、大シケにあって難破しそうになったらどうするか。助かりたい一心で、憎しみなど忘れて、一致協力するに違いないということ。組織の活性化をはかるのもこれと同じ要領だと、そのたとえとして「呉越同舟」が使われている。

33.国士無双(史記)
(こくしむそう)

「国士」とは国を背負って立つような大人物。「無双」とは二人とない、という意味。もともとは、漢の高祖「劉邦」に仕えた韓信という将軍を評した言葉である。
劉邦が南鄭(なんてい)に進軍しようとしたとき、諸将の逃亡が頻発し、韓信までが逃げ出した。丞相の蕭何は、どうでもよいものの逃亡は気にかけなかったが、韓信の逃亡にはびっくりし、あわてて後を追いかけたが、断りもなく飛び出したものだから、漢王は蕭何までもが逃げ出したと思ってしまった。戻った蕭何に対して、漢王がなぜ逃げたのかとたずねると、蕭何は、逃げたのではなく韓信を追いかけたのだと答え、逃げた大勢のうちなぜ韓信だけを追いかけたのかとたずねられると、蕭何は、「信(韓信)が如き者に至りては、国士無双なり」と答えた。
「国士無双」とは、他に並ぶもののいないような、一国の運命を左右するほどの大人物のことだが、今ではマージャン用語として残るのみになった。そういう人物がいなくなったということだろうか。

32.疑心、暗鬼を生ず(列子)
(ぎしんあんきをしょうず)

ある男がマサカリをなくした。隣の息子があやしいと思った。その息子の歩き方を見ると、どうも盗んだようだ。やることなすこと、みなマサカリを盗んだように見えてくる。
ところがその後、谷間を掘っていると、思いがけずマサカリが見つかった。それからは、隣の息子のやることなすこと、盗んだようには見えなかったという。自分の思い込みで罪のない者まで疑わしくみえたという「列子」にのっている話。
疑わしい目で見れば、すべてのことが疑わしく思われる。誤った予断や先入観によって、判断を惑わされる場合がある。自分の判断力でも、無条件の信頼を置かないほうがよいのかもしれない。

31.家に賢妻あれば丈夫は横事に遭わず(通俗編)
(いえにけんさいあればじょうふはおうじにあわず)

「丈夫」は夫、「横事」とは、思いがけない事故、アクシデント、または悪事に巻き込まれたりすること。家に賢妻がいれば安心感が大きく作用するのかも知れない。
もし悪妻が家に居座っていて留守中何をやらかすかわからないといった状態では、外へ出てもオチオチ仕事に打ち込めないだろう。また頭のどこかに不安感が残っているとミスにつながるかも知れない。家にかえってグチや不満ばかり聞かされていたのでは、仕事に立ち向かう姿勢にも影響してくるかもしれない。男を生かすも殺すも女房しだいということでしょうか。

30.その長ずる所を貴び、その短なる所を忘る(三国志)
(そのちょうずるところをたっとび、そのたんなるところをわする)

「三国志」の一方の雄である呉の孫権は、ライバルであった魏の曹操や蜀の劉備に比べると、もうひとつぱっとしない地味なリーダーであった。だがこの人の大きな長所は、部下の育て方がたくみで、彼の幕下からは有能な人物が育ち、孫権は彼らの活躍によって生き残れたということである。
その孫権のことば「部下の短所には目をつぶって、もっぱら長所を発揮できるように仕向けてやった」という意味。
人間というのは叱られるよりも、ほめられることによって、やる気も出るし成長する。

29.天下意の如くならざるも恒に十に七、八に居る(晋書)
(てんか、いのごとくならざるも、つねにじゅうにひちはちにおる)

晋代の羊コという将軍のことばで「この世の中には思い通りにならないことが七、八割ある」という意味。
羊コは征南大将軍として、呉に対する十分に成算のある進攻作戦を練り上げていた。だが、なんど政府に進言しても、進攻の許可がおりない。苦労して作戦計画を練り上げた羊コは、なんとも歯がゆかったに違いない。
この嘆きのことばは、現代の組織に生きる人間にもそっくりあてはまるに違いない。しかし、どんなに苦労しても報われないかもしれないが、そのことを肝に銘じながらも努力を怠らないことが肝心である。

28.上善は水の如し(老子)
(じょうぜんはみずのごとし)

上善とは、もっとも理想的な生き方。そういう生き方をしたいのなら水に学べということである。水には学ぶに足る特徴が3つある。
第一にきわめて柔軟であること。四角な器に入れれば四角になるし、丸い器に入れれば丸くなる。器なりに形をかえて少しも逆らわない。
第二に低いところに身を置くのは誰でもいやがることだが、水は人のいやがる低い所、低い所へと流れていく。すこぶる謙虚である。自分の能力や地位を誇示しようとしない。
第三に急流ともなれば岩をもくだくものすごいエネルギーを秘めている。
この水のように、柔軟・謙虚・秘めたるエネルギーを身につければ理想の生き方に近づけるだろう。

27.飽食終日、心を用うる所なきは、難きかな(論語)
(ほうしょくしゅうじつ、こころをもちうるところなきは、かたきかな)

孔子は「飲んで食べてごろごろして、さっぱり頭を使わない連中は困ったものだ」とこのことばを語ったあとで、次の一句を付け加えている。「博エキ(ばくえき)なるものあらずや、これをすなおに巳むに賢せり」つまり、何もしないでゴロゴロしてるよりは、マージャンやパチンコなんぞをやってたほうがまだましだという意味。
たとえそれがなんであれ、やる気を出し頭を使っていれば、そこに人間としての成長があり進歩がある。孔子も意外にさばけた一面を持っていたようだ。

26.宰相は細事に親しまず(漢書)
(さいしょうはさいじにしたしまず)

宰相とは文武百官のトップで、皇帝を補佐する最高の責任者である。そういう立場にある者は、細事、つまりこまごました業務はすべて部下にまかせて、自分は大所高所から、にらみをきかせていればそれでよいという考え方である。
漢代の丙吉という宰相が、車で都大路を巡回中、とある街角で乱闘事件にぶつかった。死者まで出るという騒ぎであったが、丙吉は目もくれないで通り過ぎる。あとでお供の書記官がわけをたずねたところ、「事件の取り締まりは警視総監の職責である。宰相は細事に親しまぬものじゃ」と語ったという。
トップみずからが、細かな仕事にまで首を突っ込んでいては、身体がいくつあっても足りないだろう。

25.五十歩百歩(孟子:梁恵王)
(ごじゅっぽひゃっぽ)

昔、ある戦いで、いざ戦闘というときに逃げ出した兵士がいた。一人は百歩後退したが、もう一人は五十歩だけ後退した。この後戦闘が終結し、あのとき五十歩後退した兵士が、百歩後退した兵士に対し臆病者だとあざけったが、その軍の上官は、「お前も五十歩だろうとも逃げたことには変わりはない。」といい、臆病の点では同じだといった。
五十歩百歩とは、多少の差はあっても本質的には変わりないことをいう。人類の歴史を顧みると、現代も古代も、五十歩百歩なのかもしれませんね。

24.われを尊しとおもいて、賢に傲り士を慢るなかれ(古文真宝)
(われをとうとしとおもいて、けんにおごり、しをあなどるなかれ)

唐の太宗が即位したとき、張蘊(ちょううん)が天子の心得を記した「大宝シン」にある名言。
自分が貴い身分だからと思って、傲慢になったり人を馬鹿にしてはいけないという意味。またこの後には、「自分が賢いと思って、人の進言を封じたり、うぬぼれてはならぬ。」という言葉が続く。 
現代の社会でも、自分の役職を自分の力と過信したり、自分の部下が自分以上の考えを出せないと、自分の頭の良さを喜んだりする人がいるが、大いに反省したい。

23.十羊九牧(隋書、唐書)
(じゅうようきゅうぼく)

唐代のこと、役人の楊尚希は、長い間中国各地を巡察して、ようやく都に帰ってきました。早速、李淵が、楊尚希にたずねました。
「なにか改善すべき問題点は見つかったかね?」すると楊尚希、「九人で十匹の羊を飼っていました」「ふうむ・・・。君の言うことはわけがわからん。いったい、どういう意味なのだね?」「今、わが国全土の郡県は、過去の数倍にも増え、百里四方にも満たないようなところが3県か4県に分かれ、千世帯にも満たないようなところが2郡または3郡に分かれています。役人の数も多すぎて、人民は誰の命令に従えばよいのか、悩んでいます。人民が少なく、役人が多すぎるのは、9人の羊飼いが10匹の羊を飼うようなことで、まったくおろかなことです」楊尚希はこう述べて、李淵を納得させ、たくさんの改善策を受け入れさせました。
このことから、『十羊九牧』という成語ができて、役人の数が多すぎること、命令がバラバラで、統率が取れていないことをさすようになりました。。

22.口に蜜あり、腹に剣あり(論語:微子篇)
(くちにみつあり、はらにけんあり)

新唐書の、唐の宰相李林甫の性格を説明したものに、この言葉がある。李林甫は腹黒い人間の代表といわれている。「口に蜜あり、腹に剣あり」とは、性格が陰険で、言うこととなす事が正反対であり、自分の友達かと思ったら自分を陥れる張本人であったりする人のことを指して言う。

21.備わらんことを一人に求むることなかれ(論語:微子篇)
(そなわらんことをひとりにもとむることなかれ

周王朝を創始した武王を補佐した周公旦の言葉。
「備わらんことを一人に求むることなかれ」とは、人に万能であることを求めてはならないという意味。誰にでも欠点の一つや二つはあるもので、完全無欠な人間なんていない。その人の長所を見つけ、それを引き延ばしてあげることがリーダーの役目ということ。

20.豹は死して皮を留め人は死して名を留む(新五代史:王彦章伝)
(ひょうはししてかわをとめ、ひとはししてなをとむ)

豹は死んだ後にも美しい毛皮を残す。人間も死んだ後には名を残さなくてはならない、という教え。人は死んだ後に何を残したいかということを考えたとき、人それぞれ違うと思いますが、昔の中国人は名声を残すべきだと考えたのですね。

19.鶏肋(三国志演義)
(けいろく)

曹操がある戦いで苦戦しているとき、都へ引き返えせば笑いものになるしどうしようかと考えながら食事をしていた。メニューは大好きな鶏のスープであり、ちょうど鶏の肋(あばら)の肉を食べていたところへ大将の一人がおふれを聞きに来たため、食事に熱中していた曹操は、思わず「鶏肋」とこたえてしまいました。大将は鶏肋の意味がわからず、そのまま「鶏肋、鶏肋」とふれて回ったため、誰も意味を理解できなかった。しかしただ一人だけ『近々、陣払いされそうなので荷物をまとめておくように』と自分の部下に命じた書記がいた。この書記は、『鶏の肋というのは、肉はないが、しゃぶっていれば味わいのあるものである。捨てるに忍びないところが目前の敵と同じ。しかし長期戦では食料不足になるため近いうちに陣払いがされる。』と読んだのである。曹操は自分の心をあまりにも的確に言い当てられたため、この書記を死刑にしてしまった。
「鶏肋」には、「主を越える才は身を滅ぼす」ということと、「才人、才に滅ぶ」ことを戒めている点がある。切れすぎる人は要注意です。

18.呉下の阿蒙にあらず(三国志:呉志)
(ごかのあもうにあらず)

呉の城下で、ケンカやたかりなど手のつけられない呂蒙(りょもう)という若者がいた。呂蒙は主君孫権のすすめで兵法などを学び、呉で有数の戦略家に成長した。あるとき呂蒙とその先輩の魯粛が戦略問題に関して討議をしたところ、呂蒙の見識が高く理論的でもあったために、呂蒙のことを学問や教養とは無縁だと思っていた魯粛はびっくりしてしまった。魯粛は呂蒙に対し、『もう呉の城下でたむろしている阿蒙ではないな。』と言った。
「呉下の阿蒙にあらず」とは、昔のように無学の徒のままではなく立派に成長した人のことをいう。人間は若いうちには馬鹿なこともするが、年を取ってそのあたりが変わらないと成長したとは言えませんね。なお阿蒙は、呂蒙につけられた愛称で、蒙ちゃんといったところでしょうか。

17.多岐亡羊(列子:説符)
(たきぼうよう

「列子」に、『大きな道では、分かれ道が多いと逃げた羊の行方がわからなくなる。同じように、学問をする人間は、多方面になりすぎると成果が得られなくなり、悪くすると命を失うこともある』とある。
「多岐亡羊」とは、方針が多すぎて思案に迷うことをいう。学問も仕事もそうだが、ささいなことばかりにこだわって、あれもこれもと手を出していると、何一つとして得るものがなくなってしまうおそれがある。何事にもその本質を見極め、根本の理だけを追求するようになりたいものです。

16.大器晩成(老子:四十一章)
(たいきばんせい)

「老子」に、『とても大きな四角は角が見えない。とても大きな器はできあがるのが遅い。とても大きな音は聞こえない。とても大きな形は何の形であるか判別できない。』とある。
「大器晩成」とは、後世になって出典とは意味が変わり、偉大な人は大成するのが遅いという意味で使われる。
本当によい器とはいろいろ手を加えて作ったものでなく、何も手を加えない素朴なものであり、同じように本当にできた人というのも、人為的に作り出した人ではなく、生まれたままの純粋で素朴な人格を持った人だと思います。

15.鶏鳴狗盗(史記:孟嘗君列伝)
(けいめいくとう)

ある男が斉の王の命令で、部下を引き連れ、狐のコートのみやげを持参して秦に行ったが、秦の王はその男を捕らえ監禁してしまった。その男が秦の王の愛妾に助けを求めたところ、王に献じた狐のコートをくれたら助けてやるといわれた。しかし、コートは秦の王のところにあるので困っていたら、部下の一人が秦の王からコートを盗み出し、牢屋からでることができた。(狗盗)
牢屋から抜け出ると急いで秦の都から逃げ出し、真夜中になってようやく国境の関所までたどり着いたが、門が閉まっているため通ることができない。後方からは追っ手が迫っているので困っていると、部下の一人がニワトリの鳴き声をまねした。すると、あたり一帯のニワトリが一斉に鳴き始めたため、関所の番人は夜が明けたと勘違いし、を開け男たちを通してしまった。(鶏鳴)
そして、男たちは、無事、秦をでることができた。
「鶏鳴狗盗」とは、ニワトリの鳴きまねをしたり、こそ泥のような卑しい人間のことをいうのだが、つまらない技能でも役に立つことがあるという例えに使われる。どんなにつまらないことでも、一芸に秀でていると、きっと役に立つときがあるんですね。

14.君子は豹変す(易経:革)
(くんしはひょうへんす)

「易経」の中に、『君子は外目にもはっきりとわかるように過ちを改めるが、小人は心から改めず顔つきだけを改める。』という言葉がある。「豹変」とは、豹の毛が秋に生え替わるように、外目にもはっきりと変化をすることをいう。
「君子は豹変す」とは、もともとは君子がはっきりと過ちを改めることをほめた言葉でしたが、今では急に態度を悪い方向へ変えるという意味で使われます。過ちを改めようとしている人に「豹変した」というのは失礼ですね。使用方法に注意が必要です。

13.将に将たる(史記:准陰侯列伝) 
(しょうにしょうたる

昔、戦国の時代に、劉邦が敵の将軍”韓信”を捕らえ、自分の仲間にした。劉邦は韓信に『私には何万の兵を率いる力があると思うか』とたずねたところ、『せいぜい十万ですね』と答えた。劉邦は『それならお前は何万の兵を統率できるのか』とたずねると、韓信は『私は兵が多ければ多いほどうまく統率できます。』と答えた。劉邦は『私よりお前の方が多くの兵を率いることができるのなら、なぜお前は私に捕らえられたのか』とたずねかえすと、韓信は『閣下は「兵に将たる」力はあまりありませんが、「将に将たる」力を持っていらっしゃいます。その力は誰でもが持っているものではありません。だから私は閣下に捕らえられたのです。』と答えた。
「将に将たる」とは、上の者をさらに統率する力をもっているといったような意味で、トップの中のトップをほめる言葉として使われます。

12.任重くして道遠し(論語:泰伯篇)
(にんおもくしてみちとおし

孔子の弟子の曹子が言いました。『士はゆったりとしていて、しかも強い意志を持つ必要がある。仁の社会を作るという使命(任)は重く、それを達成する道のりは遠い。しかも死ぬまで努力しなければならないことである。なんと遠い道のりであろうか。』
「任重くして道遠し」とは、上記曹子の言葉の一部が一人歩きしたものですが、責任ある仕事に就いた時に決意を表明する言葉として使われている。役職に就いたときの挨拶に、『任重くして道遠し』を入れると全体的に締まった挨拶になりますね。

11.逆鱗(韓非子:説難)
(げきりん)

昔、ある国におとなしいと評判の王様がいたが、王様に進言する際の注意として次のようなものがあった。『龍ののどの下には逆に生えた大きな鱗(うろこ)があり、これを逆鱗という。普段おとなしい龍も、この逆鱗に触られると怒り狂い、人をかみ殺す。王様にも逆鱗があり、進言するものはこれに触れないようにしなければならない。』
「逆鱗」とは、どんなにおとなしい人でも触れると思わずかっとなってしまうことがあるということ。人には、弱みや秘密などそっとしておきたいことなどがあるもの。人にとっての逆鱗は、人それぞれなので、人間関係で失敗しないためには、それとなくその人の逆鱗を察知することが必要ですね。

10.杞憂(列子:天瑞)
(きゆう)

昔、杞の国のある男が、天が崩れ落ちてくるのではないかと心配し、食事ものどを通らず、夜も眠れずにいた。それを心配した友人が、『天は気が固まってできているので、絶対に崩れることはない。』といって安心させようとした。しかし男は、『それなら月や星が落ちてきたらどうなるのだろうか』とまた心配するため、再び友人は『月や星も気が固まっているだけなので、落ちてきても怪我一つしない』と説明し、ようやく杞の国の男を安心させた。 
「杞憂」とは取り越し苦労をすること、無用の心配をすることをいい、杞人の憂(うれい)ともいいます。

9.矛盾(韓非子:難)
(むじゅん)

昔、ある国に矛(ほこ)と盾(たて)を売る商人がいた。商人は市場で盾を取りだし『この盾は世界一丈夫にできていて、どんなに鋭い矛で突いても突き通せない』と宣伝し、今度は矛を取り出して『この矛は世界一の鍛冶屋が造ったもので、どんな物でも突き通すことができる』と宣伝した。すると一人の男が『ではその矛でその盾を突いたらどうなるのか』と聞いたので、商人は困ってしまった。
「矛盾」とは2つの事柄が論理的に合わないこと、つじつまが合わないことをいいます。

8.縮地の法(三国志演義)
(しゅくちのほう)

昔、ある国の将軍が、良く実った膨大な麦畑を手に入れようとしたが、すでに敵国の大軍が占領していた。そこで将軍が普段使用している車と同じ物を4台用意し、それぞれに警護兵などを同じようにつけて四方に配置し、その後ろに多数の麦の刈り手を従えて敵陣へ向かった。将軍の車が敵陣に近づいたとき、将軍側の煙幕のために敵兵たちは将軍の車を見失なった。あわてた敵兵たちは将軍の車がいたあたりを捜しましたが見つからず、あきらめて引き上げたところ、近くの山の上に車を見つけたため、それが別の車だと知らない敵兵たちは驚いてしまった。敵兵たちは将軍の車を追いかけたが、追いつきそうになると見失い、また遠くにいる車を発見するということを一晩中繰り返し、翌朝になって膨大な麦が全て刈り取られていることを見つけ、将軍の縮地の法に惑わされたことを知った。
「縮地の法」とは、相手の目をごまかす、相手の目をそらすことをいいます。 

7.虎穴に入らずんば、虎子を得ず(後漢書:班超伝)
(こけつにいらずんばこじをえず)

昔、ある国では敵国との戦いを百年も続けていた。この討伐にすご腕の大将軍が何人も派遣されたがうまくいかず、その後、決断力に長けている者がリーダとして任命された。このリーダーが率いる一行が敵国の隣の国を訪れたとき、とてもあついもてなしを受けていたが、しばらくするとそのもてなしが手のひらを返すように冷たくなったため、敵国の使者が来たことがわかった。一行はたった36人でしたが、みすみす捕らえられるよりは『虎穴に入らずんば、虎子を得ず』と言って少人数で敵国の使者に対抗し、使者を皆殺しにしてしまった。
「虎穴に入らずんば、虎子を得ず」とは、身の安全ばかり考えず、思い切って危険を冒さなければ、功名を得ることはできないという例えです。

6.一挙両得(晋書)
(いっきょりょうとく)

敵対する西国と東国がありました。東国は稲を植えようとしたが、西国に水を止められて植え付けをする事ができず困っていた。そこにある男がやってきて、『私が西国に水を止めないよう交渉しましょう。』といって西国へ行きました。西国に来たその男は、『東国では今年は稲ではなく麦を植えています。だから水を止めても東国は困りません。逆に水を流して、麦を腐らせてやりましょう。』といって西国から東国へ水を流させた。こうしてその男は、西国、東国の両方から謝礼を受け取った。
「一挙両得」とは、1つのことをやって、2つの利を生むことをいう。同じ意味のことわざに「一石二鳥」というのがありますね。

5.鳴かず飛ばず(史記:楚世家)
(なかずとばず)

昔ある王様が、『いさめる者は死刑にする』と宣言し、3年間まったく仕事をせずに飲んだり食ったりと遊んでばかりいた。たまりかねた大臣が、それとなくたしなめるように、『丘の上に3年間も鳴かず飛ばずのままで木にとまっている鳥がいます。なんという鳥でしょう。』と言ったところ、王様は、『3年間鳴かず飛ばずでいたとしても、一度飛べば天までも飛ぶだろうし、一声鳴けば世を驚かすであろう。』といったまま、やはり仕事には戻らなかった。
そこで今度は、たまりかねた別の大臣が王様をはっきりといさめた。王様は、『いさめた者は死刑にすると言ったはずである。』といったが、その大臣は『死刑になっても王様が目を覚ましてくだされば本望です!』と、はっきり申し上げた。王様はその日から仕事に戻り、自分をいさめた2人の大臣を、優秀な部下として認め、より重要な仕事に就かせ、国をうまく治めていった。 
「鳴かず飛ばず」とは、何もせずじっとして観察し、自力を蓄えているようすをいう。今では本来の意味とちょっと違い、どちらかというと、あまりいい意味ではなく、『あいつはただじっとしているだけでぱっとしないやつだ』と言う意味で使われることが多いですね。

4.背水の陣(史記:准陰侯列伝) 
(はいすいのじん)

「漢の三賢」の一人、韓信が生み出した戦術。川や海を背にして陣を布くと、敵に攻められた場合、後ろに下がれないから不利になる。だからこのような陣立てはとらないのが常識ですが、あえてそういう陣を布くと、退路を絶たれた兵士たちは必死になって戦い、予想以上の力をだし、勝利をかちとることができたという。
「背水の陣」とは、退くに退かれないところに身をおいて、全力を発揮することをいいます。選択肢が多いと迷ってしまうが、これしかないとなれば『やるしかない』ということです。

3.蟷螂の斧(荘子:天地)
(とうろうのおの)

むかし、ある王が車で狩りに出かけたとき、一匹のかまきりが両方の前足をあげて車に向かってきたという話がある。
「蟷螂の斧」とは、弱くて小さいものが、おのれの力量を考えずに強くて大きいものに立ち向かっていくようなこと、つまり無謀な行いのことをいう。弱いものが強いものに立ち向かっていく姿は、勇気があってとても感動するが、ただの無謀な行動にならないようにしたいものです。

2.蛇足(戦国策:斉策、史記:楚世家)
(だそく)

むかしある所で、祭りに参加した男たちに酒がふるまわれることになったが、人数が多かったので地面に蛇の絵を描かせ、一番早く描いた者に酒を飲ませようということになった。
そしてある男が一番に蛇を描き上げたが、回りを見わたすと他の男たちはまだ描き上げていなかった。その男は、『それではこの蛇に足も描いてやろう』と蛇の絵に足を描き加えた。もう一人の男が蛇を描き上げ、一番に描いた男に『おまえの描いたのは蛇ではない。蛇には足なんかないぞ。』といい、酒を飲みほしてしまった。蛇に足を描いた男は、おかげで酒を飲みそこねてしまった。
「蛇足」とは、このようによけいなことをして損をすることをいう。日本にも「藪をつついて蛇を出す」というのがあるが、似てますね。親切心でやったことでも、やりすぎると仇になることがあるので注意が必要です。

1.朝三暮四(荘子:斉物論)
(ちょうさんぼし)

むかし、猿回しの親方が猿をたくさん飼っていて、猿たちに栃の実を朝3つ、夕方4つ与えていた。すると猿たちが、それでは足りないと文句を言いだしたので、今度は朝4つ、夕方3つというふうに与えると、猿たちは満足した。
「朝三暮四」とは、このように実質的には同じなのに、目先の違いにとらわれて本質を見誤ること、または小手先でごまかすことを言います。