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人物評


ここでは、わたしの思う人物評価をしてみます。断っておきますが、かなりわたしの主観が入っているので、そのつもりで読んでください。

足利義輝(1536-1565)は、室町13代将軍である。当時の幕府は、すでに有名無実。何の力もなかった。そんな幕府の力を回復しようといろいろやった結果、松永久秀らにけむたがられ殺されてしまった。剣豪将軍といわれるほど、剣術の腕前は確かで、襲い来る松永勢を畳に突き刺した刀をとっかえひっかえして切りまくったという。個人的には好きな人物である。

今川義元(1519-1560)は駿河の戦国大名であるが、桶狭間の戦いで信長に討たれたことで評価を落としているかわいそうな人である。実際、内政面ではかなりの功績もあり、外交面でも武田信玄、北条氏康と結んで上洛を目指すほど、野心も強かった。ただ、戦の才能はあまり、そういった武功の話が無いから、やはり今ひとつだったようにも思える。

上杉謙信(1530-1578)は、もともと長尾家に生まれ、家督も兄晴景が継いだので、出番は無いはずだった。しかし、その類まれなる才能から歴史の表舞台に出ることになる。幼少の体験(寺に入れられ、世俗を離れることが多かった)から、謙信には野心というものがあまり育たなかったようである。だから、多くの戦に出陣して勝利しているが、領土はそれほど増えていない。おまけに、政治面の才能はあまり無かったようで、征服した領土はもとより、家臣でもたびたび離反している。つまり、武将としては一流ではあるが、政治家としては三流だったということだ。ま、個人的には戦国最強の武将といえば上杉謙信、戦国最高の政治家は武田信玄と思う。

織田信長(1534−1582)は、尾張の一角から畿内を平定して戦国時代の幕引きを推進したことで有名である。独創的な発想と、先進的な考えを持っていたことは間違いないが、あまりに当時の人々とかけ離れた考え方をしたために、保守的な勢力に疎んじられ、結局家臣の明智光秀に殺された。
ちなみに、毛利家の外交僧だった安国寺恵瓊という人物が、秀吉に信長のことを「かれの天下は3年5年は続くだろう。しかし、その後高転びにあおのけにひっくり返るだろう」と予言しています。いみじくも、この予言は当たりました。つまり、当時から信長の評価はあったわけです。そして、信長の性格を宣教師フロイスも「短気ですぐ怒る」し、家臣の心を摑んでいないため、危機感を持っていました。そして松永久秀や荒木村重らも反乱しました。これらのことから、出るくいは打たれるのたとえどおり、信長は時代に疎まれて本能寺で死んだことはある意味、歴史の必然だったと思う。

武田信玄(1521−1573)は、戦国最強とよくいわれる。確かに、ほとんどの戦いで勝利を得ているし、領土を増やしてもいる。ただ、信玄のすごいところは戦争に勝つだけでなく、内政面にも手腕が発揮されていることだ。つまり、多くの戦国武将の中でも信玄は政治家であるということだ。よく、信玄と比較されるのが上杉謙信であるが、謙信の場合は軍人ではあっても政治家ではない。だから、あっちこっち出かけて勝利はするものの、領土は増えない。そういう意味で、信玄はすごいと思う。ただ、地理的条件で信長に不利だったことと、ちょっと早く生まれすぎたことが、天下を取れなかった原因か?と思う。

徳川家康(1542−1616)は律儀、忍耐の人と言われるが、結果的に天下を取ったからに過ぎない。若いころは短気であったというし、律儀ということについても、非常に怪しい。織田信長との同盟は、信長が死ぬまで続いたけど、それは、武田家の力が強く信長の助けが無いとどうしょうもなかっただけだし、嫡男の信康を殺したときも信長の勢力がすでに大きくなりすぎて、家康があそこで反抗してもどうにも出来なかったからやむを得ず処分しただけだ。秀吉の死後に、豊臣家を滅ぼしたのも律儀さがあったら出来なかったはずでしょう。

豊臣秀吉(1537−1598)は織田信長の後を受けて、天下を統一した。下層の身分から成り上がって関白、太閤となった秀吉は確かに偉大な人物ではあるが、私生活ではかわいそうな人だったと思う。信長が生きていたときは、まだ幸せだったと思うが、その後の秀吉を見ているとどうも人が変わったように思う。身内も犠牲にして天下をとって、何を考えたのか朝鮮出兵を強行したところなど、若いときの秀吉らしさがまったくなくなっている。 そして、最後は家康に秀頼のことを託している。

前田利家(1538−1599)は若いころ、荒くれ者で有名だった。人を殺して逃亡し、桶狭間の戦いなどで活躍してようやく織田家中に復帰する。秀吉とは、長い付き合いがあり、そのおかげで後に五大老に出世するし、利家はそういった意味では運が良かった。イメージ的にはがんこ親父だが、人の面倒見がいい、そんな感じだろうか。2002年度大河ドラマ「利家とまつ」でどういった利家が出てくるか楽しみである。

真田昌幸(1547−1611)は武田信玄に寵愛され、武藤氏を継いだが、長篠の戦で2人の兄を失い、真田氏の家督を継いだ。義理に厚く、智謀にすぐれ、武田氏の滅亡においても、勝頼を受け入れようとし、その後もうまく立ち回った。中でも、徳川家康の侵攻に2度も撃退した器量はさすがというべきである。しかし、その器量ゆえに豊臣秀吉に恐れられ、小大名に甘んじた。関ヶ原の戦いでも、徳川秀忠軍の足止めを十分に果たしたが、関ヶ原本戦の敗戦により、高野山に追放され、失意のうちに没した。

真田信繁(1567−1615)は幼いころは武田氏、上杉氏など人質生活を送った。当時の真田氏がまだまだ弱小で、大大名に囲まれていたので仕方が無かったかもしれないが。関ヶ原の戦いで西軍に属し、敗戦後は父昌幸とともに高野山に閑居する。後に、大阪の陣で大坂方につくが、これは徳川家康に遺恨があったということと、父の構想を試してみたいといった野心もあったものという。とにかく、家康から大封の申し出にもかかわらず、大坂城に入った信繁は数々の活躍をして、戦死した。このときの活躍で「真田日本一の兵」とたたえられた。ちなみに、幸村という名は講談で作られたものである。

伊達政宗(1567−1636)は幼い時に病で片目を失い、それゆえに実母(芳春院)に嫌われ、あるときは毒を盛られたという。だが、聡明な政宗は実母を実家に追放し、弟の小次郎を謀殺して家内を掌握した。小田原の陣に際しては、伊達振りをみせて豊臣秀吉の許しを得、その後は徳川家康に接近して、仙台藩の基礎を築いた。政宗いわく、 「あと10年早く生まれてくれば、天下はわしのものだったのに 」とはよく言ったもので、政宗の気概を表すよい言葉だと思う。ただ、だからといっても実際にそれだけ早く生まれてきても、天下統一は無理があったと思われる。なぜなら、奥州は京都から離れすぎており、政宗が上洛するまでには、北条氏や上杉氏を初めとして、並みいる強豪を排除して行くことは困難だからだ。当時はまだ衰えたとはいえ朝廷も幕府も健在で、その権威無しには天下に号令など出来るはずもなく、そういうことからも良くて奥州の覇者となれるぐらいであったろう。

毛利元就(1497−1571)は、安芸の弱小大名だったが、大内氏、尼子氏の間をうまく立ち回り、大大名に成り上がった。だが、その成り上がり方はどうもすっきりしない。ほとんどの場合、相手が強大だったので仕方の無い面もあるが。それにしても、戦国初期の成り上がり大名は、北条早雲といい、斎藤道三といい、大器晩成型が多い。

宮本武蔵(1584−1645)は剣豪として有名である。2003年度大河ドラマの主役でもある。が、素性も事績もはっきりしない。播磨の国人とも美作の浪人とも言われ、赤松氏の末裔だとも言われる。それはともかくとして、各地を放浪し、数々の試合を行って名声を高めつつも、仕官適わず、熊本の細川家客分として生涯を終えたことは間違いない。我々が知る「宮本武蔵」と言う人物は作家、吉川英治作「宮本武蔵」による影響が大きい。かの作品で作られた沢庵和尚との交流、関が原の参加などは、史実ではない。実際のところは、関が原当時は父、新免武仁とともに九州にいたし、佐々木小次郎との対決もいくつもの説があるが、実際のところ、細川家が疎ましくなった小次郎を武蔵に葬らせたのが真相らしい。大体、決闘などと言うものは、当時の情勢から考えておおっぴらに出来るわけもなく、細川家の剣術指南だった武蔵と小次郎が争えば、幕府から咎めを受けるのは明白だった。そこで、細川家の領地ではない船島(巌流島)を舞台に、小次郎を倒そうと考えられたものらしい。武蔵は、小次郎を倒したあと、隣国の木下家に逃避することになるが、木下家には父の新免武仁がいたので、それを頼ったものらしい。小次郎は、決闘のあと、息を吹き返したものの、武蔵の弟子たちによって打ち殺されている。蛇足だが、「宮本武蔵」は通称である。本当は「宮本武蔵掾(守)玄信」であり、武蔵掾は朝廷からもらった官位である。

山本勘助(?ー1561)晴幸は甲斐武田家の軍師として有名である。しかしながらその出自や存在自体、疑われてきたほど謎の人物である。近年、旧家から「山本菅助」の書状が見つかり、一応は実在と言うことになったが、それでも世間で言うような軍師ではなかったようだ。じゃ、どんな地位かというと、せいぜい侍大将レベル。「甲陽軍鑑」に載っている記事だけで、非常に業績がわかりにくい。とはいえ、後世に伝わる人物像というのは、多かれ少なかれ加色があるものだし、しょうがない。とりあえず、大河ドラマのような活躍はしてなかったと言うことだ。あ、余談だが勘助は右目が見えなかったはず。大河ドラマでは左目に眼帯をしていたが、さてさて。


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