中央区郷土史同好会

講演会

第101回

日 時   平成16年(2004)9月18日(土) 午後6時30分〜8時
場 所   中央区立女性センター 「ブーケ21」 3階
テーマ   「日本橋に伝わる お竹大日如来伝説」
講 師   手島 宗太郎 先生(郷土史研究家)


  • 講演のあらまし

《講演会》日本橋に伝わる お竹大日如来伝説

日本橋の秋の風物詩べったら市が行われる宝田恵比寿神社の近く、小津本社ビルの壁面に「お竹大日如来井戸跡」があります。東京タワー下の心光院に「お竹大日堂」が、北区赤羽の善徳寺には「お竹の墓」があります。お竹大日如来とは何なのか。商家に勤めるお竹というお手伝いさんで、あまりにも働き者なので大日如来の化身だった、といわれました。

参考HP
 ・中央区観光協会HP   こちら>>
 ・小津産業「小津330年のあゆみ」 第6章 お竹大日如来のゆかり     こちら>>
 ・国際日本文化研究センター「於竹大日如来縁起絵巻」データベース  こちら>> 
 ・心光寺(港区東麻布1-1-5)      こちら>>
 ・善徳寺(北区赤羽西6-15-21)    こちら>>
 ・羽黒山正善院黄金堂(羽黒町)   こちら>>
 ・高野山文化財保存会「大日如来」  こちら>>



1.お竹大日如来とは
(写真上)於竹大日如来井戸跡、小津ビル脇 (下)馬込勘解由の碑、小津ビル前、昭和通り沿い植え込み

日本橋本町3丁目、昭和通りに面した小津本館ビル前に「馬込勘解由の碑(べったら市の由来)」がある。ここを東に入ると宝田恵比寿神社があり、10月の例大祭「べったら市」には参詣客やカメラを抱えた観光客で一帯はごった返す。大方は祭りの雑踏に心を奪われて、小津ビル北側にある「史蹟於竹大日如来井戸跡」には気がつかずに通り過ぎてしまうだろう。

私はさして興味を抱かなかったが、東京タワー下の心光院に「お竹大日堂」があり、巨大団地赤羽台のはずれ、赤羽西6丁目の善徳院という浅草から移ったお寺にお竹の墓があることを知ってから、「お竹大日如来」に興味を抱いた。

お竹大日如来のおおよそ、そのいわれは次のとおり……

江戸時代、日本橋の豪商佐久間家にお竹という出羽庄内出身の奉公人がいた。その行いは奇特で、お竹のいる台所からは後光が射した。あるとき、出羽の行者が佐久間家を訪れ、お竹を大日如来の化身といって拝んで帰った。4、5日後、お竹は屋上に紫雲たなびくうちに成仏した。主人は等身の大日如来像を作り供養した。この話が江戸中に広まり、如来像を拝もうとする人、数知れない有様となった。

佐久間家断絶後、信仰は親戚の馬込家に引き継がれ、その土地が小津商店所有になり、現在、本館ビルの片隅にお竹が使った井戸跡と称して庶民信仰の記録にとどめることになった。
東麻布の心光院は佐久間家の、赤羽の善徳寺は馬込家の菩提寺だった。しかし、佐久間家召使いのお竹の墓が心光院ではなく善徳寺にあるのはなぜなのだろうか? 不明なことも多い。

2.縁起絵巻より

京都にある国際日本文化研究センターが、代表的な民俗信仰の資料として『於竹大日如来縁起 3巻』(嘉永2年、山形県羽黒町正善院蔵)をホームページで公開している。その縁起をベースにしてお竹の物語を再現する……

2代秀忠・3代家光の元和・寛永のころ、武蔵国比企郡に乗蓮という行者がいた。生身の大日如来を拝むことを願って、出羽国羽黒山に参拝すること何年にも及んだ。ある夜、宿坊の玄良坊で不思議な夢をみた。誰ともなく
「汝わが尊容を拝せむと思はゞ、是より江戸に行て、さくま某が侍女竹女といふ者を拝すべし」
と告げた。行者は歓喜の涙を流し、夜の明けるのを待って宿坊の主、宣安(仙安とも)に語る。宣安もその瑞夢を喜び、連れ立って夜を日に継いで江戸に上った。

佐久間某は大伝馬町一丁目に大店を構え、こよなく富に栄えていた。二人は主人に対面してことの次第を語ったところ、佐久間夫妻も夢にお告げがあり、二人が訪れることを予期していたという。その夜、密かに竹女の部屋を伺い、二人に拝ませたところ
「ふしぎなるかな、平常よりも殊に容顔絶妙にして端正美麗いふばかりなく、全身よりは無量光明を放ち一室のうち赫奕(かくやく=光り輝く)たり」。
二人は望みが叶ったと何度も礼拝恭敬して、翌日名残り惜しげに羽黒山へ帰っていった。

さて、竹女は生国も父母の名も不明だったが、心遣い優しく、
「行住坐臥にほとけを念じ口に称名を唱へる時なし。さばかり富豪の家につかへて、いさゝか身にふそくなしといへども、かりそめにも五穀を捨ず、わが食を減じて乞食牛馬にほどこし、厨の水盤の水おとしには布のふくろをくゝりおきて、ながされすたる米粒のたぐひも」
無駄にしなかった。

この竹女、次の日から疲れたと主人に言って一間にこもり、4、5日ばかり念仏を唱えていたが、
「寛永15年3月21日の暁、にはかに屋上に紫雲たなびき室内に異香薫じて不変真如の形相をあらはし、速成仏心の本懐を遂をわりぬ。」

佐久間夫妻は過現未自他進福のため等身の大日如来像を造り、持仏堂に安置して日夜念誦して供養崇敬した。その後4代家綱の寛文6年、かかる尊容を江戸に置くのは憚りあることなので、由緒ある出羽国に移すことになり、羽黒山の麓黄金堂境内に3間半4面の仏像を造立して安置し、玄良坊を別当にした。
「されば、今の世にいたるまでも世間の人口に膾炙(*かいしゃ=世間に広く知れわたること)して、或ひはお竹大日とも、あるひは佐久間大日とも、挙りて称し奉るぞかし」


〔*HP編者注記=2004/9/18巻渕〕この絵巻の画は、9画面を9人の絵師が描いている。下巻第3段(最終段)の画は喜多武清で、八丁堀に住んでいた。喜多武清は谷文晁門下で、仙台の四大人に数えられた絵師。
安藤菊二著『八町堀襍記』には次の記載がある。画家、通称栄之助。字子慎。可庵と号した。文化12年版『諸家人名録』に八町堀地蔵橋通、天保7年版に八町堀竹島と註する。会日は49。始め業を谷文晁に受け、山水を善くし、菊花に妙を得た。



3.心光院〜佐久間家菩提寺〜(港区東麻布1-1-5)

増上寺の学寮として開設され、増上寺が貝塚(現・千代田区紀尾井町あたり)から現在地へ移転したときに、切り通しの涅槃門付近(現・芝高校あたり)に配置された。宝暦11年(1761)9代家重霊廟造営のため赤羽橋北詰西側に移転、昭和25年(1950)現在地に移った。本堂脇にお竹大日堂がある。

本堂には木造於竹大日如来坐像がある。また、綾布に包まれて葵紋の箱に入ったお竹使用の流し板の破片がある。箱は5代綱吉生母桂昌院がお竹の話を聞いて感動したと伝えられる。

  手と足はいそがしけれど南無阿弥陀仏 口と心のひまにまかせて   お竹の歌
  ありがたや光と共に行く先は 花のうてなに於竹大日         桂昌院の歌

【大日堂の由来】
本堂にある於竹大日如来像の写しがある。その大日堂は秋田から上京し、苦労した末に安穏の生活を得られた神保志保さんがそのお礼にと寄進したもの。志保さんは俳優・大坂志郎(日活)さんのお母さんで、蛇をめぐる因縁話で心光院と結縁した。その経緯は檀家の文集『心光院とともに〜私たちの思い出』の中の坂本淑子さんの一文に紹介されている。

志保さんは嫁ぎ先で蛇の夢をみた。それが気に係り、早起きして居間にいってみると夢のとおりにとぐろを巻いた蛇がいたので、庭に放してやった。

上京してからも夢枕に蛇が現れ、その都度種々助けられた経験をした。新宿で秋田屋という酒屋を営んだが、蛇が現れては店が繁盛した。しばらく現れないな、と思っていると、箪笥の引き出しに蛇のミイラを発見した。新宿に緑の多いところがなかったので、芝公園の大木の根元に埋めて回向した。のち、東京タワー建設が耳に入ったので、蛇を掘り出し、納骨先を探し始めた。ある夜、夢を見た。タワーそばのお寺の屋根を金色輝く蛇が這っていた。志保さんは翌日、そのお寺を探しに出かけ、たどり着いたのが心光院だった。

志保さんの因縁話を聞き終わった住職は、タワー建設のともなうお寺の移築工事のとき、やはり蛇が出てきて、工事人の嬲(なぶ)りものになりそうになったのを止めさせた、という話をして、「その蛇は成仏していませんなあ」といって、本堂で回向の読経をしてくれた。その後、志保さんの念願が聞き入れられて、玄関前に竜王堂が建てられた(心光院に『竜王堂縁起』がある)。

志保さんは檀徒になってからお竹大日如来の存在を知り、出身県も隣ということもあって、お竹との有縁に感じ入り、堂を寄進した。ご遺族は墓参りの折には大日堂はもちろん、公園内のお地蔵さんへもお参りしている、という話を大黒さんからお聞きした。

ここには当時の住職・戸松学瑛師作詞のお竹さんを讃える数え歌が伝えられている。

「一つとや 人の鏡と仰がれし、お竹如来をたたえよや……
十とや 年月へても今もなお、女子の鏡と仰がるる、お竹大日如来さま、お竹大日如来さま」

4.善徳寺〜馬込家菩提寺〜 (北区赤羽西6-15-21)

享徳2年(1453)に現・皇居吹上に浄土宗の念仏道場として草創された古寺。家康の入府により平川口に移転、その後、日本橋馬喰町から元浅草松葉町(現・松が谷1丁目、松葉小学校)へ移転し、大震災後の昭和2年(1927)現在地へ移転した。

佐久間家は元禄11年、善八の代で断絶したが、その娘が後妻として入った馬込家に祭祀は引き継がれ、墓石の一部も心光院から移したと考えられている。大震災で破壊された佐久間家の墓域から、さらにいくつかの墓石を善徳寺へ移したようだが、詳細は不明。

昭和年代作のへら型の木造於竹大日如来坐像とお竹の墓がある。墓はもと墓地内にあったが、山門を入って左側の塀際に移設された。墓に彫られた没年は延宝8年(1680)5月19日で、善徳寺は19日を縁日とし、命日にはお竹如来祈願会を行っている。また、門前の桐ヶ丘中央商店街にお竹如来奉賛会があって、町おこしを兼ねたイベントを行っている。

5.馬込家と宝田恵比寿神社

馬込家は遠江国馬込村出身の徳川譜代の家臣である。元和元年(1615)大坂落城後、浜松宿馬込橋に500人の人足を従えて出迎えたことを家康が喜び、馬込を家名として与えたと伝えられる。代々平八と称し、当主になると勘解由を名乗った。家康に従って江戸に出、城外宝田村(今の皇居外苑)に住んだが、江戸城拡張のため代地として与えられた日本橋に移転した。馬込家は大伝馬町の名主として街道の人馬継ぎ立てを管理運営した。その後、金銀為替、駅伝、水産運輸面に重要な役を務め、伊勢、駿河、遠江、美濃、尾張から商人を集めて、日本橋をあらゆる物資の大集積地とし、商業の中心として発展させた。

宝田恵比寿神社(日本橋本町3-10)は旧宝田村の鎮守。徳川家の繁栄を祈念して運慶が作ったといわれる恵比寿を授かり、これをご神体とした。例大祭が「べったら市」で、東京の晩秋の風物詩となった。
(注)板橋区桜川3丁目に宝田姓が多く、宝田村から移住した子孫といわれ、宝田稲荷を祭る。例大祭に大根を売ることと無関係か?

6.小津家とお竹大日如来

小津家は寛永2年(1625)伊勢松坂から江戸へ進出して木綿問屋を開業した。紙問屋の小津清左衛門店の創業は承応2年(1653)で、広重の「東都大伝馬街繁栄之図」にも描かれた紙商350年の老舗である。

「史蹟於竹大日如来井戸跡」のある小津本社ビルはかって馬込家の土地で、伝説を伝えるために史蹟於竹大日如来保存会を作り、敷地の一角を井戸跡として保存している。傍らの縁起では、お竹は寛永17年、18歳で佐久間家に奉公したとある。(善徳寺の延宝17年没説にあてはめると58歳になる)

小津家には昔から3尺の木像があり、毎月19日にお祭していたが、いつのころか中止になり、大震災で一切を消失し、昭和15年(1940)、羽黒山麓のお竹大日堂の本尊を模した5寸の白檀像を作った。昭和25年、地元連合町会長多賀氏の肝煎りで信者の要望に応えて女中姿の木造を作り、宝田恵比寿神社に合祀していたが、神社改築のため日本橋小伝馬町3、大安楽寺に仮安置し、そのままになっているという。

7.お竹大日如来 関連年表(●は出開帳)

西暦 和暦 事項
1638 寛永15 3/21 お竹没
『玉滴隠見』に寛永年間の出来事として「竹ト云下女叶仏力不思議事」
*『玉滴隠見』天正年間(1573-91)から延宝8年(1680)の記事収録
1666 寛文6 佐久間家、出羽国羽黒山麓(現・羽黒町手向、とうげ)黄金堂に大日堂を寄進、お竹供養の如来像を江戸から移す。
1679 延宝7 乗蓮と共に佐久間家にお竹を訪れた玄良坊宣安没
1680 延宝8 善徳寺のお竹墓石に5月19日没
1695 元禄中期頃 『金躰両夫大日御日記』丸屋九左衛門
1698 元禄11 佐久間家、善八で断絶。親戚の馬込家が祭祀を継ぐ
1705 宝暦2 桂昌院没(79歳。1627寛永4年生れ)
1740 元文5 ●江戸にて出開帳。『於竹大日如来略縁起』
1749 寛延2 『新著聞集』(佐久間の竹黄金宮に生ず…臨死体験譚)
1777 安永6 ●芝愛宕山・円福寺にて出開帳。『応現於竹大日如来略縁起』、『於竹大日利生記』
1810 文化7 『於竹大日忠孝鑑』式亭三馬、勝川春亭画
1815 文化12 ●浅草観音奥山念仏堂にて出開帳。『お竹大日如来稚絵解』十返舎一九、歌川国芳画。『藤岡屋日記』(春ごろのこと)、(大田南畝『一話一言』に安永6年か文化12年の開帳記事がある)
1821-41 文政4-天保12 『甲子夜話』(心光院霊物の水板の記事)
1825 文政8 『兎園小説』滝沢馬琴、八代弘賢、山崎美成(於竹大日如来縁起の弁)
1829 文政12 『田家茶話』
1834-36 天保5-7 『江戸名所図会』(心光院記事と竹女故事)
1837 天保8 『海録』(お竹大日如来并墓)
1849 嘉永2 ●お竹大日堂修理費調達のために回向院にて7月20日から60日間の出開帳
・寄付姓名録(出羽三山神社蔵)に、日本橋魚河岸中、芝居三座役者中、大伝馬町壱丁目若者中、西両国世話人中、浅草寺木魚講、江戸城奥女中衆、大名の子供達などが見える。
・奉納品に『お竹大日如来縁起3巻』一勇斎国芳画、『お竹大日如来昇天の図』(正善院蔵)。馬込勘解由、小津清左衛門寄進「赤地金襴水引壱帳」(現存せず)。ほかに『応現於竹物語』緑亭川柳作、国芳画。『於竹大日如来霊宝之語』、『於竹大日如来縁起絵巻』など。
・『斎藤月岑日記』(2月21日、4月25日条) この後、お竹の錦絵大流行。
1864 元治元 『双蝶色成曙』(ふたつちょうおいろのできあき)初演、河竹黙阿弥。第6-8場「孝女於竹」がのちに独立。
明治以降 明治? 玄良坊絶家。跡を農業芳賀家が継ぐ。
1876 明治9 ●お前立像が酒田出開帳失敗後、古物商に渡り畳師金野氏が購入して鶴岡市禅源寺に奉納。禅源寺は於竹堂を建て(今はない)、命日に講中が供養していたが、戦争で立ち消えになった。
1880 明治13 ●回向院にて出開帳
1883 明治16 「孝女於竹」が独立、『身光於竹功』として上演、河竹黙阿弥
1900 明治33 『新編修身教典』(おたけの行儀、親切、お金をお上に差し出す。竹女の名を転用)
1920 大正9 矢田挿雲『えどから東京へ 巻1』(アダムスとお竹如来)
1922 大正11 坪内逍遥、野外劇『お竹大日如来一代記』を桂昌院菩提寺増上寺で試演。
不明    野村胡堂『お竹大日如来』
1940 昭和15 小津家、羽黒町お竹大日堂本尊の模像を造る
1943 昭和18 鏑木清方、仏画として「阿竹大日如来」を描き文展に出品

8.伝説誕生の背景、ねらい、受け取り方

  1、流れ落ちる米を大切にする下女が善果を得る昔話
  1、下働きの女性が高い身分に到達する昔話
  1、湯殿山の賎女浄土転生信仰
など。
出羽三山、商家、下女の立場から。


◎参考文献
・板橋区立郷土資料館特別展図録『江戸の旅と流行佛〜お竹大日と出羽三山〜』平成4年
・『お竹大日如来』斎藤岩蔵、羽黒町観光協会、昭和40年
・『お竹大日如来』羽黒山叢書第一、羽黒山修験本宗大本山荒沢寺正善院
・国際日本文化研究センター ホームページ
・「ご老師様学瑛先生のお供して」坂本淑子(『心光院とともに〜私たちの思い出』所収、
 心光院、平成13年
・山形県東田川郡羽黒町役場東京事務所(鶴岡市東京事務所内)提供資料



  

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■制作:巻渕彰 2004/9/18■