
| 中央区郷土史同好会
講演会 日 時 平成16年(2004)9月18日(土) 午後6時30分〜8時 |
《講演会》日本橋に伝わる お竹大日如来伝説 1.お竹大日如来とは
日本橋本町3丁目、昭和通りに面した小津本館ビル前に「馬込勘解由の碑(べったら市の由来)」がある。ここを東に入ると宝田恵比寿神社があり、10月の例大祭「べったら市」には参詣客やカメラを抱えた観光客で一帯はごった返す。大方は祭りの雑踏に心を奪われて、小津ビル北側にある「史蹟於竹大日如来井戸跡」には気がつかずに通り過ぎてしまうだろう。 私はさして興味を抱かなかったが、東京タワー下の心光院に「お竹大日堂」があり、巨大団地赤羽台のはずれ、赤羽西6丁目の善徳院という浅草から移ったお寺にお竹の墓があることを知ってから、「お竹大日如来」に興味を抱いた。 お竹大日如来のおおよそ、そのいわれは次のとおり…… 江戸時代、日本橋の豪商佐久間家にお竹という出羽庄内出身の奉公人がいた。その行いは奇特で、お竹のいる台所からは後光が射した。あるとき、出羽の行者が佐久間家を訪れ、お竹を大日如来の化身といって拝んで帰った。4、5日後、お竹は屋上に紫雲たなびくうちに成仏した。主人は等身の大日如来像を作り供養した。この話が江戸中に広まり、如来像を拝もうとする人、数知れない有様となった。 佐久間家断絶後、信仰は親戚の馬込家に引き継がれ、その土地が小津商店所有になり、現在、本館ビルの片隅にお竹が使った井戸跡と称して庶民信仰の記録にとどめることになった。 東麻布の心光院は佐久間家の、赤羽の善徳寺は馬込家の菩提寺だった。しかし、佐久間家召使いのお竹の墓が心光院ではなく善徳寺にあるのはなぜなのだろうか? 不明なことも多い。 2.縁起絵巻より 京都にある国際日本文化研究センターが、代表的な民俗信仰の資料として『於竹大日如来縁起 3巻』(嘉永2年、山形県羽黒町正善院蔵)をホームページで公開している。その縁起をベースにしてお竹の物語を再現する…… 2代秀忠・3代家光の元和・寛永のころ、武蔵国比企郡に乗蓮という行者がいた。生身の大日如来を拝むことを願って、出羽国羽黒山に参拝すること何年にも及んだ。ある夜、宿坊の玄良坊で不思議な夢をみた。誰ともなく 「汝わが尊容を拝せむと思はゞ、是より江戸に行て、さくま某が侍女竹女といふ者を拝すべし」 と告げた。行者は歓喜の涙を流し、夜の明けるのを待って宿坊の主、宣安(仙安とも)に語る。宣安もその瑞夢を喜び、連れ立って夜を日に継いで江戸に上った。 佐久間某は大伝馬町一丁目に大店を構え、こよなく富に栄えていた。二人は主人に対面してことの次第を語ったところ、佐久間夫妻も夢にお告げがあり、二人が訪れることを予期していたという。その夜、密かに竹女の部屋を伺い、二人に拝ませたところ 「ふしぎなるかな、平常よりも殊に容顔絶妙にして端正美麗いふばかりなく、全身よりは無量光明を放ち一室のうち赫奕(かくやく=光り輝く)たり」。 二人は望みが叶ったと何度も礼拝恭敬して、翌日名残り惜しげに羽黒山へ帰っていった。 さて、竹女は生国も父母の名も不明だったが、心遣い優しく、 「行住坐臥にほとけを念じ口に称名を唱へる時なし。さばかり富豪の家につかへて、いさゝか身にふそくなしといへども、かりそめにも五穀を捨ず、わが食を減じて乞食牛馬にほどこし、厨の水盤の水おとしには布のふくろをくゝりおきて、ながされすたる米粒のたぐひも」 無駄にしなかった。 この竹女、次の日から疲れたと主人に言って一間にこもり、4、5日ばかり念仏を唱えていたが、 「寛永15年3月21日の暁、にはかに屋上に紫雲たなびき室内に異香薫じて不変真如の形相をあらはし、速成仏心の本懐を遂をわりぬ。」 佐久間夫妻は過現未自他進福のため等身の大日如来像を造り、持仏堂に安置して日夜念誦して供養崇敬した。その後4代家綱の寛文6年、かかる尊容を江戸に置くのは憚りあることなので、由緒ある出羽国に移すことになり、羽黒山の麓黄金堂境内に3間半4面の仏像を造立して安置し、玄良坊を別当にした。 「されば、今の世にいたるまでも世間の人口に膾炙(*かいしゃ=世間に広く知れわたること)して、或ひはお竹大日とも、あるひは佐久間大日とも、挙りて称し奉るぞかし」 〔*HP編者注記=2004/9/18巻渕〕この絵巻の画は、9画面を9人の絵師が描いている。下巻第3段(最終段)の画は喜多武清で、八丁堀に住んでいた。喜多武清は谷文晁門下で、仙台の四大人に数えられた絵師。 安藤菊二著『八町堀襍記』には次の記載がある。画家、通称栄之助。字子慎。可庵と号した。文化12年版『諸家人名録』に八町堀地蔵橋通、天保7年版に八町堀竹島と註する。会日は49。始め業を谷文晁に受け、山水を善くし、菊花に妙を得た。 3.心光院〜佐久間家菩提寺〜(港区東麻布1-1-5) 増上寺の学寮として開設され、増上寺が貝塚(現・千代田区紀尾井町あたり)から現在地へ移転したときに、切り通しの涅槃門付近(現・芝高校あたり)に配置された。宝暦11年(1761)9代家重霊廟造営のため赤羽橋北詰西側に移転、昭和25年(1950)現在地に移った。本堂脇にお竹大日堂がある。 本堂には木造於竹大日如来坐像がある。また、綾布に包まれて葵紋の箱に入ったお竹使用の流し板の破片がある。箱は5代綱吉生母桂昌院がお竹の話を聞いて感動したと伝えられる。 手と足はいそがしけれど南無阿弥陀仏 口と心のひまにまかせて お竹の歌 ありがたや光と共に行く先は 花のうてなに於竹大日 桂昌院の歌 【大日堂の由来】 本堂にある於竹大日如来像の写しがある。その大日堂は秋田から上京し、苦労した末に安穏の生活を得られた神保志保さんがそのお礼にと寄進したもの。志保さんは俳優・大坂志郎(日活)さんのお母さんで、蛇をめぐる因縁話で心光院と結縁した。その経緯は檀家の文集『心光院とともに〜私たちの思い出』の中の坂本淑子さんの一文に紹介されている。
ここには当時の住職・戸松学瑛師作詞のお竹さんを讃える数え歌が伝えられている。
4.善徳寺〜馬込家菩提寺〜 (北区赤羽西6-15-21) 享徳2年(1453)に現・皇居吹上に浄土宗の念仏道場として草創された古寺。家康の入府により平川口に移転、その後、日本橋馬喰町から元浅草松葉町(現・松が谷1丁目、松葉小学校)へ移転し、大震災後の昭和2年(1927)現在地へ移転した。 佐久間家は元禄11年、善八の代で断絶したが、その娘が後妻として入った馬込家に祭祀は引き継がれ、墓石の一部も心光院から移したと考えられている。大震災で破壊された佐久間家の墓域から、さらにいくつかの墓石を善徳寺へ移したようだが、詳細は不明。 昭和年代作のへら型の木造於竹大日如来坐像とお竹の墓がある。墓はもと墓地内にあったが、山門を入って左側の塀際に移設された。墓に彫られた没年は延宝8年(1680)5月19日で、善徳寺は19日を縁日とし、命日にはお竹如来祈願会を行っている。また、門前の桐ヶ丘中央商店街にお竹如来奉賛会があって、町おこしを兼ねたイベントを行っている。 5.馬込家と宝田恵比寿神社 馬込家は遠江国馬込村出身の徳川譜代の家臣である。元和元年(1615)大坂落城後、浜松宿馬込橋に500人の人足を従えて出迎えたことを家康が喜び、馬込を家名として与えたと伝えられる。代々平八と称し、当主になると勘解由を名乗った。家康に従って江戸に出、城外宝田村(今の皇居外苑)に住んだが、江戸城拡張のため代地として与えられた日本橋に移転した。馬込家は大伝馬町の名主として街道の人馬継ぎ立てを管理運営した。その後、金銀為替、駅伝、水産運輸面に重要な役を務め、伊勢、駿河、遠江、美濃、尾張から商人を集めて、日本橋をあらゆる物資の大集積地とし、商業の中心として発展させた。 宝田恵比寿神社(日本橋本町3-10)は旧宝田村の鎮守。徳川家の繁栄を祈念して運慶が作ったといわれる恵比寿を授かり、これをご神体とした。例大祭が「べったら市」で、東京の晩秋の風物詩となった。 (注)板橋区桜川3丁目に宝田姓が多く、宝田村から移住した子孫といわれ、宝田稲荷を祭る。例大祭に大根を売ることと無関係か? 6.小津家とお竹大日如来 小津家は寛永2年(1625)伊勢松坂から江戸へ進出して木綿問屋を開業した。紙問屋の小津清左衛門店の創業は承応2年(1653)で、広重の「東都大伝馬街繁栄之図」にも描かれた紙商350年の老舗である。 「史蹟於竹大日如来井戸跡」のある小津本社ビルはかって馬込家の土地で、伝説を伝えるために史蹟於竹大日如来保存会を作り、敷地の一角を井戸跡として保存している。傍らの縁起では、お竹は寛永17年、18歳で佐久間家に奉公したとある。(善徳寺の延宝17年没説にあてはめると58歳になる) 小津家には昔から3尺の木像があり、毎月19日にお祭していたが、いつのころか中止になり、大震災で一切を消失し、昭和15年(1940)、羽黒山麓のお竹大日堂の本尊を模した5寸の白檀像を作った。昭和25年、地元連合町会長多賀氏の肝煎りで信者の要望に応えて女中姿の木造を作り、宝田恵比寿神社に合祀していたが、神社改築のため日本橋小伝馬町3、大安楽寺に仮安置し、そのままになっているという。 7.お竹大日如来 関連年表(●は出開帳)
8.伝説誕生の背景、ねらい、受け取り方 1、流れ落ちる米を大切にする下女が善果を得る昔話 1、下働きの女性が高い身分に到達する昔話 1、湯殿山の賎女浄土転生信仰 など。 出羽三山、商家、下女の立場から。 ◎参考文献 ・板橋区立郷土資料館特別展図録『江戸の旅と流行佛〜お竹大日と出羽三山〜』平成4年 ・『お竹大日如来』斎藤岩蔵、羽黒町観光協会、昭和40年 ・『お竹大日如来』羽黒山叢書第一、羽黒山修験本宗大本山荒沢寺正善院 ・国際日本文化研究センター ホームページ ・「ご老師様学瑛先生のお供して」坂本淑子(『心光院とともに〜私たちの思い出』所収、 心光院、平成13年 ・山形県東田川郡羽黒町役場東京事務所(鶴岡市東京事務所内)提供資料 |
■制作:巻渕彰 2004/9/18■