
| 中央区郷土史同好会
講演会 日 時 平成17年(2005)7月16日(土) 午後6時30分〜8時
〈お知らせ〉 10月15日に続編を開催します! 第113回講演会 こちら>> この110回講習会が好評で、時間の関係で詳しく触れられなかった事柄や写真紹介などについて、参加者から再度聴講したいというリクエストが多く寄せられました。つきましては芦原由紀夫先生から特別のご配慮、ご協力をいただき、来る10月15日(第3土曜日)に続編の第113回講演会を開催します。ご期待ください。[2005/9/1・巻渕] |
《講演会》近代東京を築いた人々
今回の講演では、『東京アーカイブス』(副題:よみがえる「近代東京」の軌跡)を軸に、近代東京の成り立ちをたどり、夢と理念を持って近代の実現に力を注いだ人物のつながりの一端を垣間見たいと思います。 講師著書:『東京アーカイブス よみがえる「近代東京」の軌跡』 現在の東京を築き上げた都市基盤生成の軌跡をひもとき、明治の古写真から近影150点を交えて、近代を描いた人々の想像力を振り返る。近代東京100年の「時の旅」に誘う本。この一冊を読めば、東京の成り立ちが見えてくる。 はじめに 関東大震災と太平洋戦争によって、東京は二度生まれ変わったといわれますが、過去たびたびの激震にさらされ、その度ごとに変化を呑み込んで、変わり続けてきたのが近代東京の姿です。明治新政府は、江戸から受け継いだ新都「東亰」を、近代的首都とする大改造を夢見ます。銀座煉瓦街計画や市区改正計画は、半ばで挫折したとはいえ、東京を大きく変えました。
今年は、日露戦勝の講和条約締結から100年、敗戦から60年を迎えました。遡れば、不平等条約に呻吟することとなった安政の和親条約締結から150年です。日本は黒船から50年で世界の列強に互し、それから40年で大都市のほとんどが廃墟と化しました。 東京にとっては、大震災からの復興を謳ってからわずか15年後の壊滅でした。明治という「偉大な時代」の遺産が潰え、震災復興が描いた東京も一旦は掻き消されたかに見えました。しかし、戦後経済の巨大な起伏をもかいくぐりながら、人々の営為が東京に注ぎ込まれてきました。道路・交通網、上下水道、電力・通信網のライフラインをはじめ、社会資本の整備は遅滞こそあれ連綿と続けられてきました。こうした基盤のうえに、私たちの生活が成立しています。 近代の記憶は、「世代」と結びついているがために、生々しすぎるという理由で振り返られなかったり、敗戦とともに封印されてしまった嫌いもあります。しかし近代こそ、いま私たちが生きている時代に直結した時代です。近代東京が形成されたのはどんな時代であったのか、どんな葛藤のなかで事物が形づくられてきたのかを振り返ることは、現在に在る私たちを確認する手立てでもあると思います。 こうした観点からまとめた拙著、『東京アーカイブス』(副題:よみがえる「近代東京」の軌跡)を軸に、近代東京の成り立ちをたどり、理念と情熱を持って「近代」の実現に力を注いだ人物を垣間見たいと思います。 〔編注〕以下のHP掲載写真は、いずれも講師著書『東京アーカイブス』から
1: 東京市区改正計画と日比谷官庁集中計画 上野の山に立ちこめる砲煙とともに、二世紀半にわたった「大君の都」は瓦解します。新都の体裁にはほど遠い東京で、明治5年(1872)2月26日(新暦4月3日)、皇居和田倉門内の兵部省添屋敷から出火。火は北西風にあおられ、瞬く間に京橋、銀座から築地まで34カ町・28万坪、2900戸を焼失、5万人を超える被災者をだす大火となりました。火元が政府機関でもあり、すでに民間に払い下げたとはいえ外国からの賓客用に整えた築地ホテルを全焼させてしまっただけに、政府は困惑します。
築地の梁山泊(参議大隈重信邸)を策源地とする大蔵派閥は、東京府を動かし、焼失した町々の再建に乗り出します。銀座から木挽町、築地一帯を手始めに、街路を拡幅・改良し、全市を煉瓦建築の街並みに改造する不燃化都市計画です。実のところ、大火がきれいさっぱりと地均しをしてくれたようなものです。為政者にすれば、旧都江戸に別れを告げ、西洋に追いつく恰好のチャンスとなるはずでした。 内容◆新都の揺籃・・・銀座煉瓦街/東京市区改正の胎動/帝都の荘厳か商都の繁栄か/膨張する市区改正計画/築港問題と中央貫通鉄道/バロック都市の夢・・・官庁集中計画/兜町ビジネス街の退潮/市区改正が生んだ首都2: 明治が描き、大正・昭和が形づくった東京の動脈 かつて「改正道路」と呼ばれた、まっすぐな道がありました。江戸の幹線街路は、江戸城を最後の守りとする市街戦に備えて、ことさら曲がりくねった道から成り立っていました。道幅も狭く、風が吹けば砂塵が舞い、雨が降ればたちまち泥濘と化す。それが新都の街路でした。 江戸の物流は水運が主役でした。明治に入って馬車輸送が普及するようになると、為政者にしても、陸上交通路の整備を緊急課題とせざるを得ません。しかし、そのための地割り、地均しは容易ではありません。鉄道という新たな交通機関への関心に比べて、道路整備にはなかなか熱が入らなかったというのが実情です。こうした道路軽視の傾向は明治・大正期を通じ、昭和の敗戦後まで続きました。 明治22年(1889)に着手された東京市区改正計画(旧設計)では、ほぼ現在の千代田・中央・港区および台東・墨田・江東区の一部に、316路線・延長560キロメートルに及ぶ膨大な街路改造が想定されますが、新設計では88路線へ縮小され、大正6年(1917)の事業完了時までには170キロメートルが改造・改修されたにとどまります。 しかし、舗装はわずかに砂利を敷いた程度でも、幅広い直線の街路は旧来の狭く折れ曲がった道にはない新鮮さがありました。これらの街路を人々が「改正道路」と呼んだ時、文明開化からの一本道をひた走る近代東京が実感されたことでしょう。 内容◆市区改正から都市計画へ/近代アスファルト舗装の出現/後藤新平「帝都百年の計」/昭和帝都の大動脈/未完の道路計画/戦後復興の挫折
1: 東京の20世紀を開いた、淀橋浄水場の水 日本で初めての近代水道は、明治20年、横浜で開通します。イギリス陸軍工兵中佐ヘンリー・パーマーが設計を主導し、相模川から取水、鉄管によって市内に配水しました。その後、函館、長崎、大阪、広島と近代水道の幕が開けていきます。 水質の悪化や井戸の枯渇に加え、近代水道を切実に要求したのはコレラの流行でした。明治10年代から日本各地で大流行を引き起こし、東京でも明治12年と15年の流行時には死者およそ5000人、19年には9254人もの死者を出します。多摩川上流でコレラ患者の汚物を流した、との噂が飛び交い、市民が震え上がったこともあります。 22年、東京市区改正委員会は「上水下水調査委員会」を設け、イギリス人衛生工師ウィリアム・バルトンを技術顧問に、内務省初代衛生局長の長与専斎、内務省二等技師の古市公威、大日本私立衛生会の永井久一郎、工部少技師原口要ら委員は、財政の制約からまず上水改良工事を優先し、内務大臣に設計報告を提出します。 内容◆コレラと近代水道/百年ノ長計ヲ誤ラザランコトヲ企図ス/東京水道拡張事業/利根川水系への進出/淀橋浄水場の記憶2: 都市下水と廃棄物、「東京静脈」の系譜 明治10年9月、長崎に入港した英国軍艦からコレラで死んだ水兵が密かに運び出され埋葬されました。西南戦争を終えて疲弊した兵士に感染し、帰郷する兵士とともにコレラ菌が北上します。明治10年代には相次いでコレラが流行し、12年と19年には全国でそれぞれ約16万人が罹患、死者10万人以上を数えるほど猖獗を極めます。 憂慮した内務省初代衛生局長の長与専斎は、近代的な上下水道施設と塵芥掃除による防疫対策の必要性を説きます。16年4月、内務卿山田顕義は東京府に「水道溝渠等改良ノ議」を示達します。5月、長与は大日本私立衛生会を設立し、翌年、太政官から補助金5万円が下されると、東京府知事芳川顕正とともに下水改良計画を主導し、日本初の近代下水道「神田下水」の建設を進めます。併せて、永井久一郎をロンドン万国衛生会議に派遣し、永井が推薦したバルトンを招聘します。 長与が明治20年に総理伊藤博文と内務大臣山県有朋に建議した「東京ニ衛生工事ヲ興スノ議」は、衛生局の突出を嫌った政府・省内の圧力によって閣議決定には至らなかったものの、上水道を優先させつつも上水を民営、下水を公営で整備することを提唱し、東京の上下水道事業と衛生環境整備の指針を唱えたものでした。 内容◆長与専斎と「衛生」/近代下水の導水路「神田下水」/下水処理の発祥「三河島汚水処分場」/水の静脈の120年/東京市深川塵芥処理工場/昭和48年のゴミ戦争
1: 近代を乗せてやって来た、東京私鉄の群像 明治5年に新橋-横浜間を開業した「官鉄」に対し、「民鉄」は、岩倉具視や渋沢栄一の音頭で公卿・諸侯が出資する第十五国立銀行が設立した日本鉄道が、16年に上野-熊谷間、18年には山手線の発祥となる品川線(品川-赤羽間)を開業します。22年には雨宮敬次郎ら甲州財閥が興した甲武鉄道が八王子-新宿間を結びます。全国各地で民鉄が開業し、明治30年代初期の民鉄は官鉄の3.4倍、43社・約4500キロメートルの路線を築いていました。 鉄道は人々の交通と流通の動脈であり、殖産興業の、そして国防の要路です。日清・日露の大戦を契機に、軍部は兵員物資輸送の要として鉄道体系の一元化を主張し、明治39年に「鉄道国有法」が公布されます。甲武鉄道、日本鉄道、山陽鉄道、総武鉄道、九州鉄道、関西鉄道など全国の有力民営鉄道17社、路線延長約4800キロメートルを買収。逓信省鉄道作業局所管の「国有鉄道」が誕生し、路線距離は一挙に3倍、約7300キロメートルに達しました。 明治40年頃の東京では、国鉄線には蒸気機関車が走っていました。山手線はいまだ東北線の貨物支線です。中央線は御茶ノ水と東京の間で途切れ、総武線はやっと両国まで通じたところです。一方で、市街電車と郊外電車が主役となって近代東京の基線を敷きます。それはまた、市区と郊外に電灯・電力を普及させる文化の配電線でもありました。 内容◆大師電気鉄道の発進/郊外に電灯を点す電気軌道/武蔵野台地の攻防/山手環状線の誕生と目蒲電鉄の繁盛2: 東京を語り継ぐ、人と街と汽笛の響き 当初は9月9日、重陽の節句の予定でしたが、悪天候で順延された明治5年9月12日、日本最初の鉄道開業式が明治天皇御臨幸のもと新橋停車場と横浜停車場で挙行されます。早朝5時から6時30分にかけて、3列車に分乗した800名の兵士が新橋発の汽車で横浜に着きます。代わって8時12分発の上りに乗り込んだ在留外国公使たちが、9時50分に新橋停車場に着き「ミカド」を迎えます。工部少輔山尾庸三と鉄道頭井上勝に先導され、太政大臣三条実美、参議西郷隆盛はじめ重臣、内外高官を従えて、お召し列車は午前10時に新橋を発ち、1時間後、横浜に到着。在留外国人代表や横浜住民代表らが祝辞を述べ、勅答を賜って横浜の式典を終えます。
正午、天皇は復路に就き、午後1時から新橋で盛大な開業式が挙行されました。しかし、維新から間もない頃のこと、蒸気船の大砲に脅かされて、無理強いに門戸をこじ開けられたうえ、「文明」なる夷狄の御旗を押しつけられるのを、誰もが歓迎していたわけではありません。鉄道用地に否応なく家屋や地所を買い上げられたり、芝浜では漁労や通船を妨げられ、沿線の反発もありました。さらに、交通の便宜よりも国防を優先し、新橋停車場の敷地を海軍基地にしようとしていた兵部省の抵抗が激しかった経緯もあります。 この鉄道開業の年は暦が太陽暦に改まった年です。駅は24時制の発信地であり近代の窓でした。山手線の駅の成立をたどると、拡大し、近代化していく東京が見えてきます。 内容◆駅の記憶・・・品川駅/新橋駅/上野駅/渋谷駅/新宿駅/東京駅3: 路線延長200キロ、都電が走ったあの頃、あの街 東京オリンピックを控え、空前の工事ラッシュに沸いていた昭和38年11月30日は、42年間走り続けた杉並線の最後の日です。都電の撤去第一号です。4年後には銀座通りから都電が消え、さらに5 年後、現在の荒川線を除いてすべての都電が廃止されました。もとをたどれば明治15年、新橋-日本橋間に開業した馬車鉄道に始まり、同36年、東京電車鉄道が品川-新橋間に東京で初めての路面電車を運行させてから60年、東京から路面電車が消えました。 東京馬車鉄道と品川馬車鉄道が合併したのは明治32年。36年には東京電車鉄道(東鉄線)と改称し、8月22日、既存の馬車鉄道の軌道に品川-新橋間の路面電車をスタートさせます。同年内に浅草、上野まで全通。午前5時半から翌日午前1時半まで運行し、三銭均一運賃とあって終日大盛況となりました。同じ年、東京市街鉄道(街鉄線)も数寄屋橋-神田橋、神田橋-両国を皮切りに開業、三田-本郷、青山-両国など路線を拡張し、市街電車で最大勢力を誇ることになります。翌年には東京電気鉄道が土橋(新橋)-御茶ノ水間に開業し、飯田橋、四谷見附、虎ノ門と外濠に沿って中央市区を循環したことから「外濠線」の名で呼ばれます。 明治39年、烈しい競合のすえ運賃値上げを機に電車三社は合併して東京鉄道会社となり、値上げ反対の怒号と投石騒ぎのなか、三社の併存時代は3年足らずで終わります。43年、東京市が市街電車を公営化し、東京市電気局が生まれます。 内容◆電車の時代/東鉄線・街鉄線・外濠線の東京/東京鉄道から東京市電気局へ/都電の栄光と翳り/都電杉並線の退場
1: 「公園制度」130 年、遊楽地から近代公園へ 都市の近代化・欧風化をめざす明治政府は、欧米に倣って「公園」も必要であろうと考えてはいました。しかし、将軍家縁故の土地や旧大名地を官省用地に振り向けたものの、あまりにも広大すぎて使い道に困っていた、というところが実情でしょう。徳川ゆかりの土地の使い方で政府の識見も試されます。たとえば、彰義隊が官軍に最後の一戦を構えてあえなく潰えた上野山内をめぐって、森を伐採して茶畑や桑畑に、いっそのこと跡形もなくしてしまえなどという暴論もありました。そんな折、文部省から大学東校と病院を移設する案が持ち上がります。「上野公園」の命脈も断ち切られるところでした。 かつて長崎医学校で教え、維新後に再来日して大阪医学校の教授をしていたオランダ人軍医アントニウス・ボードウィンが、帰国する途中、政府の要請で東京に滞在し、上野山内の医学校、病院計画などを知って驚きます。世界の都市ではわざわざ木を植えて公園をつくるのに、この自然をつぶして医学校や病院を建てるなど論外、と計画変更を訴えます。曲折はあったものの、おかげで上野山内の自然は消滅を免れました。 明治6年、太政官は私有地に課税する「地租改正」に先んじて、地主の切り売りや乱開発を防ぐ意味も込めて「公園」の設置を各府県に布達します。東京では上野、浅草を挙げて、わが国の公園制度が始まりました。 内容◆東京最初の五公園/市区改正計画と日比谷公園/公園と大正デモクラシー/神宮外苑の誕生/東京復興公園計画/東京緑地計画と防空緑地の戦後2: 装飾橋梁の時代 明治44年4月3日、神武天皇祭の日に、日本橋が開橋式を挙げます。構造設計は東京市橋梁課長の樺島正義の構想で、実施設計を米元晋一、装飾意匠設計は大蔵省臨時建築部の妻木頼黄が担当し、東京美術学校でブロンズ像を製作したという、土木家と建築家、美術家の共作です。帝都の中心を飾るこの日本橋が、近代東京を刻印する「装飾橋梁」の嚆矢となります。中央の電飾灯には「麒麟現ワルレバ聖人生マル」の翼を持った麒麟、親柱には東京市章を護持する「万獣ノ王」たる獅子。この威厳と象徴性に日本近代がめざしたデザインがありました。 内容◆水都東京・・・近代橋の開花/麒麟と獅子の表象/橋の風景と都市の記憶
3: 東京水景(歴史的建造物を通してみる水都の景観) 近代の都市計画を通して形づくられた東京の歴史的景観は、人々の営為を刻印する貴重な財産です。平成9年、東京都は景観条例に基づいて「東京都選定歴史的建造物」(平成17年3月現在は71 件)を指定しました。ほとんどを建築物が占めるなかで、土木構造物は9件、いずれも隅田川から東京港にかけて、水辺の景観を形づくる都市遺産です。
明治43年は事故や事件、天変地異が相次ぎました。1月、逗子開成中学の生徒らの鎌倉七里が浜沖遭難。3月、暴風雪のなか常総沖で千葉・茨城の漁船133艘が遭難、2000余人が溺死する大惨事となります。4月、山口県新湊沖で訓練中の海軍第6号潜水艇が沈没、佐久間艇長の「謹ンデ陛下ニ白ス、我ガ部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ワラン事ヲ、我ガ念頭ニ懸カルモノコレアルノミ」という遺書で有名です。5月、ハレー彗星の地球最接近に流言飛語が飛び交い、人々が不安におののくなか、「大逆事件」の大検挙が始まります。 そして8月8日、東海以東の太平洋側一帯を豪雨が襲い、各地に大洪水を起こして鉄道・通信は途絶。東京府の浸水家屋は19万5000戸に及びます。 前月、入院中の長与胃腸病院から、佐久間艇長の遺書を自然派作家が薬にすべき名文、と朝日新聞に書き送った夏目漱石は、8月24日、転地療養先の伊豆・修善寺で大吐血します。「修善寺の大患」です。 10月、「帰る日は立つ修善寺も雨、着く東京も雨であった」、漱石もずっと雨にたたられました。帰京してそのまま長与病院に再入院した漱石は、信頼していた長与弥吉院長が、自分の危篤状態とほぼ同じ時に容態が悪化し9月5日に亡くなったことを知ります。「考えると余が無事に東京まで帰れたのは天幸である。こうなるのが当り前のように思うのは、いまだに生きているからの悪度胸に過ぎない。生き延びた自分だけを頭に置かずに、命の綱を踏み外した人の有様も思い浮べて、幸福な自分と照らし合せて見ないと、わがありがたさも分らない、人の気の毒さも分らない」と粛然とした思いに浸ります。 東京は輪をかけた「大患」でした。豪雨につづく8月10日、11日の荒川氾濫で、東京市は大洪水に見舞われます。浅草・本所・小石川・下谷・深川を中心に、台地部を除く市域が浸水、数日後の内務省調べでは被災者80万人を数え、明治期最大の洪水となりました。これを契機に荒川大改修計画が立てられ、翌年、赤羽の岩淵に隅田川を分流する水門を設け、本流を東へ迂回させる荒川放水路工事が始まりました。 内容◆「赤水門」に始まる近代東京の水景/帝都のウォーターゲート/復興橋の数々/「品海築港」敗れたり/勝鬨橋の幻影
1: 郊外住宅地の誕生 「郊外住宅地」という概念は、近代によって発見、もしくは発明されたといっていいと思います。江戸の範囲が定まるのは、町奉行管轄の「朱引内」が設けられた幕末近く。明治11年の郡区町村編成による府下15区(麹町、神田、日本橋、京橋、芝、麻布、赤坂、四谷、牛込、小石川、本郷、下谷、浅草、本所、深川)がほぼこれに相当します。最盛期130万人の巨大都市を誇った江戸の住区(朱引内)のうち約60パーセントは武家地でした。町人地は15パーセント内外にすぎません。幕末維新、将軍は大政を奉還し、明治2年、版籍奉還した諸大名はいったん国許へ帰ります。「東亰」と改称した後に残ったのは住人のいない土地や屋敷でした。 新政府は将軍家の所有地を上地させ、大名・旗本の地所を接収したものの、優先して確保した軍用地など公用地を除いて利用方法にアテがあってのことではありません。しかし、新都警衛の面からも荒廃するまま放置しておくわけにもいきません。そこで、これら住人不在の武家地を桑畑または茶畑にするよう布告し、開墾者を募ります。6年頃には、その面積100万坪、上地させた土地の三分の一にも及びました。旧朱引内の人口約87万人の頃です。 内容◆山の手台地から郊外へ・・・本郷区駒込西片町/屋敷町「渡辺町」/岩崎家の「大和郷」/郊外電車がつなぐ「新町分譲地」/渋沢栄一最後の都市計画「田園都市」/「学園都市」の誕生/杉並井荻町と内田秀五郎/老舗鉄道の健康住宅地「常盤台」2: 集合住宅の「東京物語」 小津安二郎監督の『東京物語』が封切られたのは昭和28年です。尾道から上京した老夫婦(笠智衆・東山千栄子)を、戦争に行ったまま還らない次男の妻紀子(原節子)が遊覧バスに乗せて案内します。銀座松屋デパートの屋上展望塔に昇って四方を眺め、尋ねられて千住にある開業医の義兄(山村聡)の家や、浅草あたりで美容院を営む義姉(杉村春子)の家の方向を指さし、自分のアパートは反対方向、と示す先は城南の方向です。やがて両親をアパートへ誘い、出前の天丼と義父にはお銚子を振る舞います。 丸の内辺りの商社に勤める紀子の住所地は特定されていませんが、このアパートのシーンを撮影した場所は横浜の同潤会平沼町アパートメントだといいます。原節子が演じる「戦争未亡人」は、還らぬ夫と暮らした記憶が染み込む同潤会アパートに住んでいます。平沼町アパートであれば当時すでに築後25年。朝鮮戦争の特需景気を経て東京再生が進んでいたとはいえ、この時代、依然としてモダンな都市住宅の象徴が同潤会アパートにありました。 内容◆鉄筋コンクリートアパートの出現/財団法人同潤会の発足/中之郷から江戸川アパートメントまで/戦前戦後の鉄筋コンクリートアパート/同潤会アパートの行方
1: 1930年代、「建築の東京」
東京の1930年代はこうして幕を開けます。レビュー、オペラの興奮が浅草に巻き起こり、モボ・モガが銀座を闊歩、ムーラン・ルージュを中心に新宿文化が台頭し始めます。もう一つの特徴は、東京の代表的な近代建築の多くがこの30年代に建てられたことです。昭和10年、「大東京建築祭」が催され、東京市土木局内に置かれた都市美協会から写真集『建築の東京』が出版されています。 内容◆昭和戦前、近代建築と激動の時代/インターナショナル・スタイルの登場/アール・デコの建築/混沌に花咲く近代建築/新議事堂落成と「東京ラプソディ」2: 復興小学校の記憶 第一次世界大戦を境にして日本は農業国から工業国への階段を昇り始めます。大戦景気は工業生産を戦前の5 倍に拡大させ、外貨保有高も6倍の20億円となりました。こうした経済の拡大を背景に、都市像が新たな展望を持って現われます。後藤新平が心血を注いだ都市計画法が大正9年に施行され、同時に、わが国で初めての市街地建築法規が公布されます。 10年、東京市は8億円規模の「東京市政要綱」という東京改造計画を打ち上げます。翌年2月、東京市政調査会が設立され、3月には内務省の都市計画課が局に昇格します。3月から7月末にかけては、上野公園で平和記念東京博覧会が開催され、会期中に1100万人の入場者を記録。とくに「文化村」パビリオンに展示された14棟の「文化住宅」に人気が集まりました。生活様式の近代化、洋風化は市民の憧れとなり、東京の新たな生活像をふくらませます。そんな時を待ちかまえていたかように、関東大震災が襲いました。 下町では建物の倒壊が相次ぎ、さらに地震後に各所で発生した火は瞬く間に拡がり、烈風にあおられて3日間にわたって焼え続けました。30万戸が全焼、市内の死者は9万5000人。15区のうち牛込区を除く14区が火災に見舞われ、とくに日本橋、京橋、神田、浅草、本所の各区は面積の9割以上が灰燼に帰します。震災復興事業は、「東京市政要綱」を敷衍して街路、上下水道、土地区画整理、運河・橋梁、大小公園、教育施設など多岐にわたり、昭和5年に一応の完成を見た帝都復興は、「江戸・明治の東京」からの決別を告げました。 「震災前」という言葉があります。大震災を境に東京は激しく変化しました。とくに大きな被害を被った下町の人々にとって、震災前後の変化には切実な思いがあったに違いありません。しかし、打ちひしがれたなかに希望の明かりを灯すものもありました。子供たちの明日への希望をつなぎとめ、市民には新たな都市像をイメージさせた、「復興小学校」と呼ばれる一群の近代建築です。 内容◆東京市立小学校の117校が焼失/帝都復興とモダン鉄筋校舎/佐野利器の学校建築/昭和の終焉と過疎廃校/復興小学校の春秋3: 東京パースペクティブの出現 幕末維新の日本を写したフェリックス・ベアトの写真に、愛宕山から見渡したパノラマがあります。鈍色に光った武家屋敷の屋根瓦が美しい連なりを見せ、江戸空間を整然と画しています。明治中期には、建設中のニコライ堂の足場から、バルトンの撮影ともいわれる13枚の連続写真で、360度のパノラマが切り取られています。ベアトの写真に比べれば、雑然とした印象はありますが、あちこちに現われた洋館が甍の波に破調をもたらす市区改正初期の東京を一望することができます。愛宕塔や浅草凌雲閣が出現した頃の光景です。 かつて高台から眺める江戸空間は、西に富士、東に筑波の霊峰を結ぶ軸線のもとに意識づけられていました。灰色にくすんだ屋根の海には、江戸城や寛永寺、浅草寺、増上寺などの高塔や大寺の森などが、わずかに遠近を感じさせる目当てとなっていたことでしょう。江戸時代、物見が許された建築は江戸城だけです。寺院の塔も仰ぎ見るだけです。幕府は、寺院の塔を例外として、町人一般に対しては三階建て以上の建築を禁じていました。明治時代に入って、旧来からの都市空間に破調をもたらす高層建築が出現しますが、仰ぎ見る塔から、物見ができる塔が出現するまでにはまだしばらくの時が必要でした。 明治元年、高さ18メートルの築地ホテル館が建てられます。初めての望楼を頂いた擬洋風建築は人々の好奇の眼を集めました。これは銀座大火で焼失しますが、文明開化の足音とともにそびえ立った「塔」は、近代東京の景観に新たなパースペクティブをもたらします。 内容◆塔の風景、塔からの眺め/文明開化のランドマーク/時計塔の時代/東京パースペクティブの誕生/巨大建築の塔/高度成長と塔の都市 |
■Web制作:巻渕彰 2005/9/1■