中央区郷土史同好会

講演会

第69回

日 時   平成13年(2001)11月17日(土) 午後6時30分〜8時
場 所   中央区立女性センター 「ブーケ21」 3階
テーマ   歴史散歩「“山”をキーワードにして中央区を見る」
講 師   手島 宗太郎 先生(郷土史研究家)


  • 講演のあらまし

《講演会》歴史散歩「山」をキーワードにして中央区を見る

概要

  1. 鉄砲洲富士と銀座八丁の神々――鉄砲洲稲荷神社と銀座12社の由緒
  2. 星ノ山・山王日枝神社と茅場町富士・御旅所――山王日枝神社のある丘は星の山。茅場町御旅所に富士塚があった。日枝神社の史実と伝承を探る。
  3. 清水山・柳森神社富士塚と日本橋繊維問屋街――神田川畔の柳森神社に富士塚があった。江戸時代の古着事情、柳原土手の古着市と今日の大繊維問屋街との関係を調べる。

 

1.鉄砲洲富士と銀座八丁の神々

◆鉄砲洲稲荷神社

神社の創建は、由緒によると承和8年(841)である。[(参考)822年最澄没、835年空海没、903年菅原道真没]
場所は転々とした。

@当初、日比谷入江の奥深い所にあり、船乗りの敬うところとなった。
Aその後、埋め立ての進行にともなって京橋の辺りへ移る。
B室町末期の大永年中(1521-27)に、新京橋(旧京橋川と昭和通りの交差点)の近くに移転して、八町堀稲荷と称した。『江戸名所図会』は桜川上流の南八丁堀1丁目(新富1丁目)にあったとしている。
C埋め立てはさらに進行し、南八丁堀と鉄砲洲が地続きになって、寛永元年(1624)桜川河口の稲荷橋南詰め東(湊1-8)に移転。
D明治2年(1869)現在地に落ち着いた。関東大震災後の区画整理で境内は縮小された。

同『図会』の挿し絵は、稲荷橋際にあったころの風景で、本殿の後ろ、亀島川を背にして富士塚がそびえている。対岸には船の出入りを改める監船所があった。この辺り、はしけが盛んに往来した「江戸湊の銀座通り」で、その賑わいを「廻船入津の湊にして、諸国の商い船、普くここに運び、碇を下ろして、この社の前にて、積むところの品をことごとく問屋へ運送す」と描いている。神社は別名波除稲荷といわれ、海上安全の守護となった。

◆富士塚

塚の脇に歴史を刻んだ副碑がある。原文は昭和3年(1928)に書かれ、同11年(1939)に補足されている。それによると、富士塚が出来たのは寛政2年(1790)である(「由緒書」では元年)。その後明治7年(1874)、同18年(1885)、昭和3年(1928)、同11年(1935)にどこへ移設されたかが克明に記録されている。そのたびに変形を重ねたが、中央区唯一の富士塚で区民民俗文化財に指定されている。

◆氏子の範囲

例大祭に示される氏子の範囲は銀座八丁(東)、新富、入船、湊、明石町、新川である。

神輿渡御順路図によると、銀座1丁目の水谷橋公園が神社の旧地となっていて、そこから旧三十間堀の東を一直線に8丁目へ縦断する。埋め立てられた三十間堀が渡御順路図に示されているのが面白い。

三十間堀は2代秀忠の慶長17年(1612)開削の30間幅の運河で、8代吉宗の享保年間(1716-35)、16間に狭められた。戦災(太平洋戦争)での瓦礫で埋め立てられ、昭和24年(1949)までになくなり、40年(1965)には道路敷きとなりビルで埋められた。8丁目御門通り南側の公衆トイレ際に三十間堀の説明板と護岸に使われた石が6個置かれている。

◆銀座の神々

「大銀座まつり」が経費がかかりすぎるという理由で中止になったと思ったら平成13年(2001)10月、「銀座アキュイユ」(おもてなしの意)という名で復活した。その1イベント「銀座八丁神社めぐり」が継承されている。全部が鉄砲洲稲荷神社の氏子ではないが、ショッピングとは違った視点で銀座に触れられるのも面白いので11社(大銀座まつりでは12社)を回ってみた。

石井研二著『銀座の神々〜都市に溶け込む宗教』を参考にした。著者の平成5年(1993)の実地調査によると、銀座には神社・教会が37ある。小さな祠なのでもともと記録が少ないのに加えて、明治2年(1869)12月、同5年(1872)2月の2度の大火、関東大震災、戦災(太平洋戦争)を被り、由緒がはっきりしない。文明開化の煉瓦街建設により、住人、生活習慣が激変して江戸時代とのつながりが断絶したにもかかわらず、由緒は江戸時代からの連続性を主張している。歴史を反映して防火、商売繁盛がご利益の代表なのだそうだ。

ビルのすきまの横町や路地の奥に小さなお稲荷さんが鎮座し、町の守護神としてきちんと祭祀が執り行なわれ、半ば伝説の由緒が語り継がれていることを知って驚いた。

  1. 幸稲荷神社(1-5、並木通り銀一ビル斜め前)

    由緒1――江戸時代に甲(かぶと)商を営んでいた大地主の敷地内にあった。
    由緒2――刀剣商の多い南紺屋町北河岸にあり、太刀売稲荷とも呼ばれた。

    切り絵図に位置が示されている。伏見稲荷から勧請したといわれるが詳細は不明。明治の大火でどうなったか不明。震災。戦災を罹災、昭和21年(1951)再建。荒らされるのを防ぐため堅固な金網に包まれている。

  2. 銀座稲荷神社(2-6、越後屋屋上)

    由緒1――越後屋8代目永井甚右衛門の「由来記」によると、家康の入府にしたがって駿府から移住した人々によってもたらされた稲荷社で、社称は地名の由来となった銀座がここ2丁目に置かれたことによる。はじめは、今はなくなった銀盛堂の裏通りにあったが、昭和30年(1955)ごろ裏通りがなくなったので越後屋の空き地に置かれ、同40年(1965)ごろビルの7階に、同61年(1986)から屋上に台座を設けて鎮座した。

    由緒2――明治43年(1910)、春木屋惨事犠牲者慰霊のため、あるいは、明治末期、江戸橋の土蔵崩壊犠牲者慰霊として三河国豊川稲荷から分祀したと言われるが、両事故とも文献で確認はできない。

    大銀座まつり期間中だけ、ビル入り口に仮遷座して一般の参拝ができる。

  3. 龍光不動尊(3-6-1、銀座松屋屋上)

    松屋の鎮護。銀座出店は大正14年(1925)で、高野山龍光院に700年前の鎌倉時代からあったとされる不動明王像を昭和4年に念じ仏として迎え、屋上に安置して龍光不動尊と称えた。高野山から移った経緯は不明。

    松屋は戦後、占領軍に接収され昭和27年(1952)に解除、同39年(1964)大改築して現在の姿になったが、このとき、1階の天井四隅に四天王(広目天・増長天・多聞天・持国天)の梵字がオブジェのように取り付けられた。2代目古屋徳兵衛は何事も一級品好みで、由緒碑、社殿の作りがご自慢。龍光が「流行」に通じ、ファッションに関してご利益があるという。

  4. 朝日稲荷神社(3-8-10、大広朝日ビル角)

    古来から当地に鎮座していたが、安政2年(1855)の大地震で三十間堀に沈んだ。大正6年(1917)の暴風雨で銀座が大津波(*1)に教われ、石積みの改修工事の際に出現したので、建築業の館岡某が当地に安置した。大地震で壊滅し、社地は東京市に公収された。3丁目町会は市に社地の下付を願い出たが許されず、沈黙すると言う、粋な計らいになった(昭和33年(1958)、払い下げ)。戦災で全焼。

    昭和27年(1952)宗教法人となり、同58年隣りの大広ビル改築のおり、共同の大広朝日ビルが建築されその角に2階吹き抜けの拝殿ができた。本殿は屋上に置かれ、パイプで1階の拝殿と連結し、参拝者の拍手とお賽銭の音が届く仕掛けになっている。

    切り絵図で三十間堀を背にした位置にあったことが分かる。商売繁盛、家内安全。銀座七福神のうち寿老人。

    (*1)池田弥三郎『銀座十二章』(一の章「四丁目の角」)によると、「大正6年(1917)10月1日、風速40mの台風の中心が東京を通過、満潮と重なり、歌舞伎座前でもひざ下まで水が来たと言う」

  5. 銀座出世地蔵尊(4-6-16、三越屋上)

    由緒1――『郵便報知』明治9年(1876)7月22日付に「銀座三丁目の横町に此程流行する地蔵尊ハ去る文久元酉年(1861)7月18日三十間堀壱丁目地先古土蔵取締の節鳶頭田中善太郎が土中より掘出し……」という記事があるが、詳しいことは不明。
    鳶頭は三越裏4-7の空地に安置したところ、地元の人や通行人が花や団子を供え、やがて開運、出世、延命、商売繁盛にご利益があると言われるようになり、小屋から木造のお堂に建て替えられた。縁日には露店が出て、これが銀座八町露店の起源となり、明治から昭和の初期にかけて銀座を代表する風俗として文学にも描かれた。地蔵像は当時の面影を伝えるものとして中央区有形民俗文化財(*2)に登録されている。

    (*2)2mの石造のお地蔵様ではなくて、隣りの堂内の60cmほどの像。銀座七福神のうち「弁財天」。

    由緒2――明治の初め、三十軒堀界隈に住む石工の弟子が供養のためにお地蔵様を彫りたいと願っていた。親方の留守に許しを得ないままに彫り上げ、見つかると叱られると思って堀に埋めてしまった。しばらくすると弟子の夢枕にお地蔵様が立つようになった。訳を親方に打ち明けたところ、親方はお堂をこしらえて花を供えて手厚く祀ってくれた。

    由緒3――堀に埋めるまでは由緒2と同じだが、その後が違う。弟子が像を堀を埋めた後、護岸工事をやっても同じところが壊れるので、堀を浚ったところお地蔵様が現れた。増上寺の住職に預けたが、住職が浅草西方寺に招かれたので返却され、4丁目の空き地(三越裏)に安置した。堀からお地蔵様を引き揚げたのは「天金」に出入りしていた<ぜんや>という鳶だという。

    震災で焼失、再建。戦災で一時行方不明だったが旧堂跡から発掘した。その後、銀座発展の功労者・保坂家からキャバレー美松を経て、三越が立体駐車場にするため美松から買収した時に三越屋上に移すことが決まり、昭和47年(1958)遷座。同50年(1975)2mの出世地蔵尊開眼。同55年(1980)浜口蔵之助作詞作曲「ぎんざのお地蔵さん音頭」。1階入り口右側の看板、各エレベータ内案内板、各界案内パンフレットに「銀座出世地蔵尊」が見える。

    池田弥三郎『銀座十二章』に出世地蔵と縁日が書かれている。
    「このお地蔵さんは、銀座界隈のかしらの一人で、わたしのうちの初代の曾祖父にかわいがられていた「ぜんがしら」(善何という名前であろう)という人が、三十間堀川から拾い上げたもので、それを界隈の人たちで、祀ったのであった」
    「銀座の思い出を語る人は、たいていこの縁日のことに触れている……三原橋の袂に出ようとする手前に露地があって、その奥に、お地蔵様があった。露地はそこで直角に曲がって、豊玉河岸へ抜けていた。そして抜け出たところから縁日の夜店が始まっていた。夜店は河岸通りを、三原橋のところから、次の朝日橋の袂をすぎ、その次の豊玉橋までの両側と、朝日橋のたもとでこれとクロッス(クロス=交差)する松屋の横丁とに、十の字型にならんでいた」(6の章「橋と水の物語・下」から)

    隣りに並ぶ三囲神社は向島の三囲神社の末社で、三井家が江戸進出のおり、三にあやかって守護神とした。三越本支店の屋上に祭られている。また三囲神社には三越関係者による寄進の歌碑、句碑、鳥居、狛犬がある。

  6. 宝童稲荷神社(4-3、服部時計店別館横小路入る)

    由緒1――江戸中期、城内に仕えた弥左衛門という侍が功なり年老いて屋敷を賜り、草分けの名主となって、この辺りを弥左衛門町と呼んだ。歴代の子が夭折するので城内紅葉山に子育てを祈願する宝童稲荷神社があった。弥左衛門はこの神霊の分祀を願い出て許され、これを町内の氏神とした。

    由緒2――弥左衛門は10代家治から11代家斉のころの人で城内に何かの縁があった人(一説に庭掃除)。そのころ各町内に祭った火防神の一つ。明治大火の罹災状況不明。戦災・戦災に罹災。昭和26年再建。

    弥左衛門には参勤交代の長道中で壊れたつづらや具足を修理する店が多く、昭和33年(1958)までつづら屋があった。北村透谷がここに住み(*3)、昭和33年(1958)まで「透谷筆洗いの井戸」という水清く水量豊かな井戸が並木通りの中央にあった。銀座七福神のうち、毘沙門天。
    (*3)『日本現代文学全集(9)北村透谷集』の色川大吉作成の年譜によると、明治14年(1881)、14歳小田原より京橋区弥左衛門町七番地へ移住、泰明小学校へ転入。明治23年(1890)芝公園地内38号に転居。

  7. あづま稲荷神社(5-9、あづま通り三原小路入る)

    戦後この近くに火災が続発した。調べたら、かって稲荷があったことが分かり、あづま通り商店会で伏見稲荷講を作り伏見稲荷を勧請した。以後火災はなくなった。

  8. ■[雨かんむりに鶴]護(かくご)稲荷神社(6-10-1、松坂屋屋上)

    文化12年(1815)伏見稲荷から根岸の里へ勧請。明治14年(1881)のある夜、神守の老爺が神殿付近で白狐を見かけ、その跡に三河豊川稲荷大明神像を描いた掛け軸1巻を発見したので、店主に告げ、社殿に神霊とともに祀った。

    松坂屋が名古屋から上野広小路に進出したのが明和5年(1768)だが、それから30年ほどの間に上野店が2回、名古屋本店、京都仕入れ店と火災にあったことが火防の神を祭った背景にあると考えられる。

    大震災及び大正14年(1925)の日暮里大火の時、神殿、松坂屋社宅すべて無事だったという。昭和4年(1929)、分霊して屋上に奉安した。

  9. 豊岩稲荷神社(7-8-14、ギンザ108ビル右横奥)

    明智光秀の家臣の子が主家の再建を願って祭ったという伝説がある。創立年不詳。元禄初年(元年=1688)再建、明治4年(1871)改築、大正3年(1914)本殿改築、震災炎上、同13年(1928)5丁目に仮殿再築、昭和8年(1933)再建。昭和初期から市村羽左衛門ほか芸能関係者の崇敬厚く、昭和3年(1928)から日枝神社の神職により祭祀が執行されている。平成5年(1993)、社殿造営、境内保全を行った。

    「縁起」に「大廈高楼の蔭に没し、その所在も明らかでないが……」とあるように、路地奥にあるため、2ヵ所の狭い入り口に案内の石碑が建つ。

    ミステリーにも登場する。加納一朗『怪談銀座稲荷』にビルの隙間のような路地奥に人知れずたたずんでいたころの寂しい小社が描かれている。密輸酒闇取り引きのメモの受け渡し場に使われている。

    梶龍雄『銀座連続殺人手帖』には小社のある路地の模様がこのように描かれた。
    「問題の小路は、道というよりは、建物と建物の間のわずかな隙間といったところ。十メートルも先になると、暗さがわだかまって、行く手ももうはっきりしなかった……都会のジャングルの踏み跡に入るような、いささかスリリングな気持ちで、そこが暗がりに歩み込む……よく見ると、むこうがわ正面に朱塗り鉄扉を立てて、その奥に鳥居をおいたお稲荷様だったのには驚き」

  10. 成功稲荷神社(7-5-5、資生堂本社ビル屋上)

    昭和2年、初代社長が豊川稲荷から成功稲荷を勧請したのが始まり。まつり期間中のみ入り口脇に仮遷座し、参拝可能。商売繁盛、ビジネス成功。

  11. 金春稲荷神社(8-6-3、新橋会館屋上)

    由緒1――昔この辺りにあった金春屋敷内にあった。400年前に京都深草の藤森神社より遷座したもの。森氏稲荷ともいわれた。金春太夫が秀吉から拝領した能面が御神体。芸事上達を約束。

    由緒2――伏見桃山城中に藤森神社あり。金春太夫が秀吉より神社を賜る。家康江戸入りに際し、日比谷の拝領屋敷に遷座、のち現在地に移転。金春屋敷は麹町に移転したが、社は震災前は金春湯の隣りにあった。震災で焼失、その後の社殿のゆくえは3説がある。63年改築の新橋会館屋上には以前から金春稲荷があり、震災前の神社と同じかどうかは確証がない。氏子間では同一性が保持されている。

    新橋会館は新橋芸者の見番。大銀座まつり期間中のみ入り口の仮安置所で参拝可能だったが、「銀座アキュイユ」には含まれていない。

  12. 八官神社(8-4-5)

    旧八官町の氏神で穀豊稲荷と称していたが、震災後の区画整理で町名がなくなることを嫌った町民が八官神社と改称して町名を残した。八官は元和のころ(1615-23)オランダ人ヤヨウス・ハチクワンに下賜された屋敷地に由来する。
    (注)『角川日本地名大辞典』では、八官は中国人の名。


    由緒1――裏店に住む大工が稲荷の絵像を祭っていたのが人々の信仰を集めるようになり、宝永4年(1707)町内火防鎮守とすることを願い出て許された。享保16年(31)正一位稲荷大明神の位を得た。年代については別の説もある。

    由緒2――大工が出入りしていた播州明石藩主邸に稲荷が2社あり、1社を廃絶することになったので貰い受けたところ種々奇跡が起こり、宝永4年鎮守とし、安永7年(1778)社を表通りに出して土蔵造りにした。

    由緒3――播州明石の明石稲荷の移転説。
    明治2年(1869)焼失、同5年(1871)再建。昭和12年(1937)鉄筋コンクリート造り。同57年(1982)ビル化。2階吹き抜けで、奥宮が最上階に遷座しパイプでつなぐ。銀座で神主がいる唯一の神社。宝くじファンにはお馴染みで、おみくじを引いてから買いにいく。

2.星の山・山王日枝神社と茅場町富士、御旅所

◆日枝神社の歴史〜史実と伝承〜

天正18年(1590)家康が江戸城に入ったとき、梅林坂上(現・東御苑書陵の辺り)に小社が2つあった。1社は歌人としての太田道灌が菅原道真を祭った天神社で、もう1社は山王社だった。以来山王社は「江戸城の鎮守」「徳川の産土神」「江戸の氏神」と崇敬されてきた。

城の整備増築に伴い、現・宮内庁庁舎裏手の紅葉山を経て、2代秀忠の慶長12年(1607)ころ、庶民も参詣できるようにと、半蔵門外濠端(現・半蔵門会館裏、警視庁隼町分館)に仮移転し、3代家光の寛永7年(1630)最高裁の場所に本社殿を落成した。切り絵図の半蔵門外や最高裁の場所に「元山王」の地名が見える。この社は4代家綱の明暦3年(1657)の大火、通称振り袖火事で焼失し、2年後の万治2年(1659)現在地に再建された。社殿は江戸初期の権現造りの代表的建築物として国宝に指定されたが、昭和20年(1945)の空襲で末社山王稲荷神社を残し全焼した。

ところで、山王社はいつから江戸城梅林坂上にあったのだろうか。神社の由緒は、文明10年(1487)太田道灌が川越仙波喜多院鎮守の山王社から江戸城に勧請したことに始まると伝えている。

『日枝神社史 全』(以下日枝神社史と略す)には、紀伊熊野那智大社蔵『米良文書』に「武蔵国豊嶋郡江戸郷山王宮」があり、太田道灌の100年以上前の南北朝、貞治元年(1362=足利尊氏が死んだころ)には、すでに存在しているとしている。

同書が示す神社の系譜は次のようになる。
……近江坂本の日吉神社から京都東山区の新(いま)日吉神社に分祀され、永暦2年(1161)武蔵国河越荘が新日吉神社社領になると、秩父氏末裔の川越氏が現・川越市西部の上戸(うわど)に新日吉山王宮を勧請した。つぎに秩父氏の末で川越氏ともつながりのある江戸氏が上戸の新日吉山王宮を江戸郷に勧請した。江戸氏衰退後、太田道灌が江戸に入り、山王宮を引き継いだ。

切り絵図にこの高台が「星ノ山」「星ケ丘」とあるのは、川越仙波の星野山喜多院の山号に由来しているが、これは太田道灌というネームバリューと、家康・秀忠・家光3代に仕えたブレーンの天海和尚が喜多院第27世住職だったことが結び付けられて作られた伝説であるという。

昭和53年(1978)、太田道灌勧請説の文明10年(1478)を計算の起点とした鎮座500年祭が営まれた。日枝神社史も、その一環として編さんされたものだが、序文で、学問的事実は事実として尊重するが、太田道灌創祀の由来もまた「不動の創建記録」だとしている。

◆茅場町の日枝神社 〜御旅所と富士塚〜

3代家光の寛永年間(1624-44)に御旅所に定められた。日枝神社史によると、川越上戸の日枝神社の分霊が江戸城梅林坂上に遷座したルートは、新河岸川から隅田川を下って(または入間川、荒川、隅田川経由)茅場町に上陸、河川の流れに沿って和田倉門から入った。ここを旅所にしたのは「江戸郷着御の記念地であったことを意義づけたものである」という。

境内のたたずまいは時代により移り変わりがある。

@『江戸名所図会』挿し絵

境内右側に山王宮と山王権現が並び(神主樹下氏持ちと山王の別当観理院持ち)、中央に薬師堂が建ち、左側にゑんま、役行者、いなり、地蔵が並ぶ。山王宮2社の奥にあるはずの天満宮は描かれていない。本文には天満宮のご神像は画幅で、家光・春日局・山王の神主・当社の社司へと伝わったもの、との説明がある。

A近江屋五平板「本八丁堀辺之絵図」嘉永7年(1854)

富士塚の印がある。山王宮2社、薬師堂、エンマがある。

B明治34年『風俗画報』(山本松谷画)

山王宮2社が日枝神社1社になり、奥に続いて倉のような1棟がある。その右に富士塚の頂きと浅間の小祠がわずかに覗ける(築造は文政年間、1818-29)。右奥に天満宮と翁稲荷、□□堂、左には薬師堂と弘法大師がある。

一の鳥居前に出世飴を売っている。周囲を義太夫・講談席の宮松亭、料亭の草津亭、弥生軒ほかが連なっている。

◆茅場町の住人 〜宝井其角と荻生徂徠〜

日本橋茅場町1-6-10に「其角住居跡」碑がある。其角終焉の地である。2年後、荻生徂徠が当地に開塾する。
  梅が香や隣は荻生惣右衛門
惣右衛門は徂徠の通称で、この句は俳諧に心得のある人が、いかにも其角の句であるかのように見せて、当地に住んだ二人の有名人を自慢に思って作ったものであろう。

宝井其角は町医師・竹下東順の子。堀江町(日本橋小舟町南辺り)生まれ。はじめは母方の姓である榎本を名乗る。10代半ばで蕉門入り、蕉門の筆頭として活躍した。元禄7年、上方旅行中に芭蕉の臨終に立ち会い、『枯尾花』2巻を編み、上巻の「芭蕉翁終焉記」を書き、下巻に門人の追悼句を収めた。

人となりを『日本古典文学大系』はこう描く。
「豪放な気質で、才知にも恵まれ、新奇壮観、洒脱巧妙な句風を発揮し、蕪村らの尊重も受けた。だが、権門富家にも出入りし、門下の勢力は強大となり、ために芭蕉没後は……享楽的技巧的な、いわゆる洒落風に傾き、江戸座一派の祖となった」。

よく知られている句に、

  鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春
  越後屋にきぬさく音や衣更
  鯛は花は江戸に生まれてけふの月(日本橋魚河岸の鯛、上野浅草の桜)
  夕立や田を見めぐりの神ならば
   (三囲神社、雨乞いするものに代わって奉納、翌日雨降る。大評判になる)
  十五から酒をのみ出てけふの月
  我雪とおもへば軽し笠のうへ(俗謡。わがものと思へば軽し傘の雪)

忠臣蔵の大高源吾と親交。討ち入りの前日に煤(すす)竹売りに変装した源吾と両国橋で出会う。零落を憐れんだ其角が

「年の瀬や水の流れも人の身も」と詠むと、「あした待たるるその宝船」とこたえた。

上野の清水観音堂横にある「秋色桜」のもとになった

  井戸ばたの桜あぶなし酒の酔

の作者であるお秋(菊后亭秋色)は其角の門弟。元禄四俳女の一。現在の桜は9代目と推定される。

荻生徂徠。字は茂卿、通称惣右衛門、号が徂徠。先祖が物部氏なので好んで物徂徠、物茂卿と称し、墓碑銘は「徂徠物先生之墓」。

寛文6年(1666)、5代綱吉がまだ館林藩主だったころの侍医荻生方庵の次男として生まれる。胎内にあったとき、母が正月の門松を立てる夢を見た、という奇瑞にちなみ幼名を双松(なべまつ)と名付けられた。7歳で幕府儒官林家に入門。14歳のとき父が綱吉の怒りに触れて江戸追放となり、母の実家、上総長柄郡本納村(現茂原市)に流され、辛苦の暮らしを送る。25歳(27歳説も)、父は許されて江戸に戻る。芝増上寺門前で貧窮の中に儒学を講ずる。このころの貧乏生活を物語る人情話「徂徠豆腐」がある。

元禄9年31歳のとき増上寺大僧正の推挙により綱吉の側近柳沢保明(元禄14年吉保に改名)に仕える。保明は低い身分から出世した人物だったので人材の登用には熱心で、学問好きの将軍にさっそく鼻高々で御目見えさせた。主人の栄達に平行するように15人扶持から始まり、200、300、350、400石と加増され、隠退後さらに100石を加えられる。『憲廟実録』(綱吉一代記)の編さん、綱吉から吉保けられた小姓衆の教育、政治の諮問に答えるなど綱吉の学問相手になった。赤穂浪士討ち入り事件の処分について吉保を通じて建言したのはこの時期にあたる。

44歳、綱吉没。吉保隠居により、400石の藩士の身分のまま藩邸を出て、茅場町の居宅に学塾けん園(けんえん)を開き一派を形成する。56歳、8代吉宗に認められ、下問に応じて政治改革を述べた『政談』をまとめる。吉宗から官儒登用を内命されたが辞退する。享保12年(1727)62歳、陪臣として破格の待遇により吉宗に拝謁。翌年没。三田4丁目長松寺に墓がある。寺は寛永12年(1635)、八丁堀から現在地に移転した。

3.清水山・柳森神社富士塚と日本橋繊維問屋街

◆柳原通り

太田道灌が江戸城の鬼門除けとして神田川下流に柳の森を作った。明暦の大火後の防火計画として、南岸に土手が築かれた。ここに8代吉宗が柳を植えた。それに沿った道は柳原通りといわれ、床店の古着市が立ち有名になった。土手は明治6年(1873)に取り壊されたが、古着屋は昭和10年代まで軒を連ねていたそうだ。「柳原物」といえば古着の代名詞で、現在このあたりに多い既製服・洋服生地問屋はその伝統を伝えたものである。

柳の森の鎮守、柳森神社のあたりは稲荷河岸といわれ、古着とキツネにかけたこんな歌がある。

  初午の稲荷河岸にも油揚のやうな布団のうれる古着や
  稲荷河岸ひさく古着の化かし物狐色なるもみの額うら

◆富沢町

日本橋富沢町は柳原土手下と並んで古着市の中心地だった。幕府は治安維持のため、密偵の情報網を作ねばならなかったので、盗賊の鳶沢某を逆利用するために古着問屋の元締めを許可した。元禄14年(1701)、鳶沢は仲間を集めて沼地を埋め立て造成し、古着市を開いたところ大いに賑わったので富沢に改名し、それが町名になったという。『江戸繁昌記』(天保3年(1832)刊)に「魚河岸に次ぐ繁昌ぶり」と書かれた。

柳原、富沢町に散在していた警視庁認可の古着商が集まって明治14年(1881)に岩本町で古着市場が開かれた。いま、和泉橋南詰め(岩本町3-2)に説明板「既製服問屋街発祥の地」が建っている。明治30年には組合員数400余名となり、現在の繊維街の基礎となった。繊維問屋街は岩本町、大伝馬町、小伝馬町、富沢町、久松町を含む広大な地域に広がり、かっての古着市の伝統を引き継いでいる。12月の初めに「大繊維祭り」が開かれる。富沢町に「織物通り」の標識が掲げられている。

◆江戸古着事情

古着の歴史を事典で引いてみた。書籍によって対象年代が違うのでそのまま引用する。

『江戸東京学事典』には、「5代将軍綱吉の元禄年間(1688-1704)浅草に貸衣装屋が出現した。文化文政期(1804-29)以降は柳原河岸のほか芝日蔭町、日本橋富沢町に古着屋が立ち並び、西南戦争(明治10年(1877))以後古洋服も扱うようになら、さらに既製服にも広がった。関東大震災で壊滅し、生活スタイルの変化に伴って、古着の世界も変わっていった。『絵本吾妻遊』の挿し絵が引用されていて、盛んだったころの柳原河岸の雰囲気が伝わってくる」

『世界大百科事典』では、「繊維製品は貴重品だから古着が商売になり、京・大坂・江戸に古着屋が軒を並べる地域が出現した。江戸では、慶安年間(1648-51)13人が古着問屋組合を作り、元禄期までに芝日蔭町、日本橋富沢町に古着屋街ができた。柳原では粗悪なものが売られ、夕方、床店が閉まると夜鷹が出る場所として有名になった」

芝日蔭町の古着市の模様を記録したこんな例がある。

徳冨蘆花は明治33年(1900)10月末、国民新聞の依頼で信州へ取材旅行することになった。『不如帰』『おもい出の記』『自然と人生』で作家としての地位を確立しつつあったころである。彼は着ていくものがなかった。普段着のみすぼらしい着流しのままでもあるまい。洋服は10年前に作った詰め襟が1着しかなく、小さくなってボタンも掛からない。蘆花は「こんな時の日蔭町だ」と旅行着を調達しに出掛ける。引用しよう。

「名にふさう芝のあの狭い通りには、古本刀剣色々あるが、就中洋服の古着店は三軒置きに鼻つき合わせ、一着三円五円の廉物から金モオル附大礼服の真新しい出物に到るまで、あらゆる種類を店先につるし、棚に積み、倉に蔵め、気に入るまでいくらでも出して来る。此店になければ、彼の店にはある。足一たび日蔭町に入れば、誰しも何か相応のものを見つける。店の片隅にミシンの二三台は据えて、ちょうっとした直しは瞬く間にやってくれる」

蘆花は背広と揃いの外套、それに靴、帽子、手袋、靴下、ワイシャツ、ネクタイを購入した。洋服は夫人が気に入り、出発の当日は「着るも着するも大騒ぎの後、兎も角も出陣の装成って車に乗る夫の凛とした姿を送り出す駒子は、うれしかった」と書く。(『蘆花全集第17巻「冨士」第3巻第2章信濃の秋』)。

獅子文六『ちんちん電車』から
「露月町の裏通りは日蔭町で、古着屋の町として有名だった。三田の学生も、親から外套を買う金を貰って、使い込むと、ここへセコハンを買いに来た」

 



 

メインページへ戻る

■Web制作:巻渕彰 2001/11/20