全体地図 一覧 八丁堀 茅場町・兜町 新川 湊・入船・新富

日本橋茅場町・日本橋兜町 編

K001 町奉行所 馬場(ばば)
与力の調馬・訓練馬場だろうか。弘化3年(1846)に亀島川に注ぐ側堀を埋め立て、安政年中(1854-1860)に町奉行所調馬所となった、という。江戸末期の絵図には記載されていない。明治9年(1876)の地図には第1大区第15小区の北島町二丁目24〜36番地(欠番あり)先、岡崎町一丁目と道を挟んだ町境に「馬場」の表記がある。幕末の与力・原胤昭(1853-1942)は、ここで稽古したという。三村清三郎(号・竹清=1876-1953)は明治初期の話として「私の時代には借り馬があって、本当の馬場でした」と語っている。「馬場の薬屋」として、かって市中に知られた薬屋にその名が伝えられていた。現在地は特定できないが、中央区日本橋茅場町3-3あたりか。
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K002 寄席 菊松亭(きくまつてい)、寿亭(ことぶきてい)、聞楽亭(ぶんらくてい)
この付近の寄席は、関東大震災前に北島町(震災後は日本橋区日本橋茅場町三丁目)には「菊松亭」「寿」が、馬場の薬屋のあった通りを挟んだ岡崎町(震災後は京橋区西八丁堀一丁目)には「聞楽亭」があった。明治25年(1892)の寄席案内に「八丁堀旧馬場跡の聞楽亭、桃川三玉、伊東燕爾など出演」とある。八丁堀にはほかに、大ろじ亭や朝田亭(八丁堀寄席地図掲載)住吉亭などの寄席があった。最盛期には女義太夫が上演され人気を競ったそうだ。関東大震災後に残った寄席は、聞楽亭と住吉亭だったという。現在地は特定できないが、中央区日本橋茅場町3-2あたりに何軒かがあった。

◆聞楽亭の家で昭和7年(1932)に生まれた五十嵐明要氏(いがらし・あきとし=アルトサックス奏者)は、次のように語っている。

「席亭は市電岡崎町停留場のそばで、5代目まで続いた。私は7代目にあたる。戦前は講釈場といって、当亭以外では神田の橘亭、上野本牧亭があった。昼席はご隠居さんなどでのどかだった。阪本小学校に通い、6年生のときに大宮日進の寺へ40人が学童疎開した。12歳のとき、昭和20年(1945)3月10日未明の空襲ではB29が超低空で爆撃するのを目前にし、東京駅方面から風速25mほどのもの凄い強風にのって火が迫り、この付近は火の海となった。自宅も焼け、八重洲通りの防空壕に母らと避難したが、死ぬ思いだった。飛んできたトタン板にあたって死んだ人を目にして、ゾッとする恐ろしい光景で、もう絶対に戦争はいやだ。戦後は小間物屋やおもちゃ屋を営んだ」(2005/2/13、江戸博「進駐軍とジャズ60年」トークショーで)
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K003 地蔵橋(じぞうばし)
地蔵橋
地蔵橋 丸印に地蔵橋が描かれている。八丁堀組屋敷の中心部あたりに存在した。資料は、『江戸切絵図』「八町堀霊岸島日本橋南之絵図」文久3年(1863)。古地図ライブラリー1・人文社刊から
古名仁蔵橋。この付近には、加藤枝直・千蔭父子村田春海などの名が古地図に載っている。そして斎藤十郎兵衛の居宅もあって謎の東洲斎写楽ではないか? といわれているところでもある。絵図には火の見櫓や地蔵橋通りの記載もあり、組屋敷地の中心地として、ひとつのランドマークであったのだろうか。八丁堀の七不思議にも「地獄の中の地蔵橋」「地蔵の像なくして地蔵橋」などに引き合いされている。明治40年(1907)の地図には暗渠らしい形跡になっているので、すでに橋は撤去されていたようだ。永井荷風『断腸亭日乗』昭和10年(1935)の条に「近年埋立られし市中の溝渠…八丁堀地蔵橋の辺」とある。現在は存在していない。現在地は中央区日本橋茅場町2-4/同3-5付近の道路交差点あたりか。

幕末の与力・佐久間長敬(1839-1923)は『嘉永日記抄』で次のように記している。「組屋敷内に石の橋があった。旧与力・多賀仁蔵の門前に、すべて自分普請で架けた石橋で、「仁蔵橋」と称していたが、その家が潰れたあと、与力の共有にして「地蔵橋」と改称した。また昔、橋の際に小さな石地蔵があったが、大火のために焼き崩れた、ともいう」。

三村清三郎(号・竹清=1876-1953)は明治期の思い出として次のように語っている。「地蔵橋は反っていて車力が泣いて通らなかった。のちに平たくしたが」「馬場から地蔵橋まで行くところは大きな柳があって、暗くて淋しいところだった。茅場町薬師の縁日へ行くときなどは、背中の上で小さくなって通った。ちょっとそこへ行くにも提灯でした」。

化粧延命地蔵(けしょうえんみょうじぞう) 玉鳳寺(ぎょくほうじ) 東京都港区三田4-11-19

玉鳳寺は慶長4年(1599)に八丁堀に開創された寺院で、江戸城拡張工事に伴い三田が寺町として指定されたため、寛永12年(1635)にこの地に移転してきました。
山門左手にある地蔵堂に安置されたこの地蔵は、寺伝では、寺が移転する前の寛永年間に八丁堀の地蔵橋畔に捨てられたものを、当時の住職格翁宗逸和尚が修復し、白粉を塗って祀ったところ、和尚の顔面の痣〔あざ、ほくろ〕が綺麗〔きれい〕に消えたので、人々が自分の体の病気のあるところと同じ部分に白粉を塗って祈願するようになったといわれます。 今も病気平癒の祈願の為に白粉を塗る参詣者があり、信仰が続いています。 港区教育委員会『港区文化財のしおり』から

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K004 東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)=斎藤十郎兵衛?(さいとうじゅうろうべえ)
写楽画「三世大谷鬼次の奴江戸兵衛』
三世大谷鬼次の奴江戸兵衛
江戸時代の浮世絵師。生没年不詳。1794年(寛政6)5月から翌95年1月までの10カ月間を活躍時期として、役者絵、相撲絵の版画140余図という多くを発表。その後は浮世絵界との交渉をまったく断ってしまった謎の絵師。

《増補浮世絵類考》(1844年、齋藤月岑(さいとう・げっしん)編)に〈俗称斎藤十郎兵衛 居江戸八丁堀 阿波侯の能役者也 号東洲斎〉と記され、《諸家人名江戸方角分》には「写楽斎」と号する浮世絵師が八丁堀の地蔵橋辺りに居住していたとある。

1998年(平成10)、能役者・斎藤十郎兵衛の名の入った過去帳が埼玉県越谷市の法光寺で見つかった。過去帳には文政3年(1820)の欄に「辰三月七日 釈大乗院覚雲居士 八町堀地蔵橋 阿波殿御内 斎藤十良兵衛じ(吉の下に又)(事) 行年五十八歳 千住ニテ火葬」と記されていた。居住地は特定できない。

◆内田千鶴子さん講演会「写楽探求」中央区郷土史同好会第87回、平成15年(2003)6月21日  こちら>>

◆田中優子氏は、『江戸文化誌』西山松之助著(岩波現代文庫、2006/10/17第1刷)の「解説」の中で次のように著している。

…現在では写楽は、阿波藩・蜂須賀家の能役者、斎藤十郎兵衛であることがほぼ確定している。斎藤十郎兵衛は1762年に生まれ、1820年旧暦3月7日に58歳で死亡した。1794年5月から1795年1月までの10ヵ月のみ作画しているので、そのころは32-33歳であったこともわかっている。住まいは八丁堀地蔵橋で、千住で火葬された。江戸は地下潜行できるところだからこそ写楽の正体はわからないと、本書〔*江戸文化誌〕では述べているが、逆に、江戸時代という「記録の時代」は、何事も見逃さないのではないだろうか。そこが江戸時代研究のもうひとつの面白さで、どこかに必ず証拠がひそんでいる、と期待できるのである。

◆中野三敏著『写楽 江戸人としての実像』(中公文庫1886、2007/2/25発行)には、斎藤月岑『増補浮世絵類考』(天保15年=弘化元年)を出発点として、そこに著された、(1)江戸八丁堀住、(2)阿波藩能役者、(3)斎藤十郎兵衛――の3点セット情報を解明して月岑説を支持している。

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K005 村田春海(むらた・はるみ)邸
幕末期の絵図には村田春海の名が記載されている。現在地は特定できないが、中央区日本橋茅場町2-4あたりか。

◆1746〜1811(延享3〜文化8)江戸中期の歌人・和学者。名を宇兵衛,通称平四郎。字は士観(さちまろ),号を綿織斎・琴後翁,遊名を漁長(村田とは江戸十八通の一人、半助帆船)。若いころには阪大学または昌和ともいい,連歌師阪昌周の養子ともなる。父は春道,神の道を好める人,兄は春卿。その家業は日本橋小舟町干鰯問屋村田治兵衛蔵応。遊名は浄瑠璃にまで謡われたが,両替商,魚も売る。丁字屋の明山を落籍し妻とする。しかし遊蕩の結果破産のち八丁堀へ移る。彼は蕩尽型文人であったが,歴史律令文辞詞藻の文に長じ儒家に秀いで,歌人としては仮名文かきとして古今類い稀な文化人で,賀茂真淵の門人300名中四天王といわれたほどの人。加藤千蔭と共に江戸歌文派の中心人物である。平田篤胤とは江戸の文化市場争い,本居の後継者と称する平田篤胤より批判を学問的に受けた。春海と和泉真国と論争,本居大平らとの筆戦などは有名である。著書には『琴後集』『和学大概』『筆のさが』ほか多数,門人には清水浜臣・小山田与清らがいる。

◆書簡に「江戸南八丁堀五丁メ家主相模屋文次地面ノ内、北八丁堀地蔵橋ノ際○村田平四郎、春海」とあるそうだ。北八丁堀という地名はない。しかし南八丁堀の町名があったので、南八丁堀以外を総称して、「北」を付して呼称したようだ。この例は他にも見受けられる。地蔵橋も町名ではない。里俗地名で記したのであろう。
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K006 加藤枝直(かとう・えなお)・千蔭(ちかげ)父子 邸
加藤千蔭像
加藤千蔭像
幕末期の絵図には加藤の名が記載されている。現在地は特定できないが、中央区日本橋茅場町2-45たりか。

加藤枝直  本姓橘氏、初名為直、後に枝直と改めた。通称は又兵衛。伊勢に生まれ、能因法師の裔という。江戸町奉行大岡越前守に仕え、南方与力として北島町にいた。賀茂真淵が江戸に来るや国学、歌を問い、芳宜園の名あり。天明5年8月10日没。年94.墓所本所回向院。(『日本橋区史』から)

加藤千蔭  享保20(1735)3月9日〜文化5(1808)9月2日。号は芳宜園。本姓、橘千蔭。幕府与力で、父は加藤枝直。父の代に江戸に出たが、本来は松坂の人。枝直は賀茂真淵の有力な庇護者。千蔭も真淵に入門。職を退いてからは和歌や狂歌で活躍した。画にも優れていた。特に『万葉集略解(まんようしゅうりゃくげ)』は後世に大きな影響を及ぼした。同書執筆に際し、寛政4年(1792)、宣長に協力を要請。以後宣長と親密な手紙のやり取りが行われた。『万葉集略解』全巻が完成したのは宣長没後3年目の文化元年(1803)。同年9月に将軍に献進され、下賜された銀10枚の一部を千蔭は宣長の霊前に供えた。

◆江戸町奉行所与力を務めた。『略解』執筆開始は退職後57歳の時。寛政3年(1791)起稿、同12年浄書完了。編述にあたっては師の真淵説をはじめ、契沖、本居宣長、村田春海らの諸説が参照された。とりわけ宣長には稿本の成る毎に示して助言を請うている。全20巻30冊の出版が完了したのは没後の文化9年(1812)。万葉集全歌の平易な注釈書として近代まで広く用いられた。なお、自筆稿本は東京国立博物館等でも所蔵する。(国会図書館デジタル展示から)

◆加藤千蔭の墓が回向院(墨田区両国2-8-10)にあり、東京都教育庁の説明には以下の記載ある。
都指定旧跡。昭和18年5月指定。

加藤千蔭(橘千蔭)は、江戸時代中期の歌人・国学者・能書家です。歌人加藤枝直(えなお)の3男として、享保20年(1735)、江戸に生まれました。9歳のときから父に習って歌を詠み始め、10歳のときに賀茂真淵の門に入り、以後、26年間師事しました。千蔭は歌人として優れており、同門の村田春海(はるみ)とともに、古今・新古今風の優麗典雅な歌を詠み、世に江戸流と称され、寛政元年(1789)、55歳のときに『万葉集略解』の著述に着手し、十余年を経て完成させました。また、千蔭は書においても流麗な「かな」を得意とし、千蔭流と称され、多くの人がその書風を学んだそうです。文化5年(1808)、享年74歳で生涯を終えました。回向院にある加藤千蔭之墓の字は、生前自書して寺僧に渡しておいたものといわれています。

◆賀茂真淵、青木昆陽もこの屋敷地を借りていたといわれる。
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K006-01 賀茂真淵(かものまぶち)
賀茂真淵像
賀茂真淵像
賀茂真淵(1697-1769)は、江戸時代中期の国学者・歌人です。 遠江国敷智郡(ふちぐん)浜松の神官の家に生まれ、荷田春満(かだのあずままろ) に師事し、江戸に出て、八代将軍徳川吉宗の次男、田安宗武(たやすむねたけ)に仕えました。真淵は、「万葉集」を研究し、万葉風の和歌を復興しました。真淵は、契沖(けいちゅう)の実証性と春満の思想性を受け継いで、“国学”を樹立し、“国学の四大人(こくがくのしうし)”のひとりとして称えられています。真淵の著述は、『冠辞考(かんじこう)』、『万葉考』、『にひまなび』など、語学・古典研究・歌学・思想・歌文集・雑録など87部309巻もあります。また、真淵は本居宣長(もとおりなが)をはじめ、“県門の四天王”と呼ばれた、橘千蔭(たちばなのちかげ)、村田春海(むらたはるみ)、楫取魚彦(かとりなひこ)、加藤宇万伎(かとううまき)等、多くの優秀な門人を養成しました。
真淵は“県居翁(あがたいおう)”とも呼ばれ、そこから真淵の門人を指して“県門”と呼び慣わされています。真淵の門人は多く、340名を数えますが、そのうち三分の一は女性でした。

◆賀茂真淵県居(かものまぶちあがたい)の跡は中央区日本橋久松町9先、清洲橋通り久松町交差点近く、ナイガイ日本橋ビルの壁面に、平成元年7月、中央区教育委員会設置の説明板がある。

都指定、大正7年4月。所在地、中央区日本橋浜町1-4付近。
古歌をとおして、わが国の古典学の基礎を築いた賀茂真淵(1697-1769)は、現在の浜松市の出身で、はじめ京に出て荷田春満に入門し、元文2年(1737)江戸の下り、田安宗武(徳川三卿の一人)に迎えられ、和学を講じた。隠居後、浜町山伏井戸の東方に住み、県居の翁と称し、「万葉考」「歌意考」「祝詞考」等を著した。また歌会なども多く開き、その作品は今に伝えられている。
  あがた居の茅生(ちふ)の露原かきわけて 月見に来つる都人かも
その旧跡は、この地点の北東約100メートルのあたりである。
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K006-02 青木昆陽(あおき・こんよう)
青木昆陽像
青木昆陽像
青木昆陽 1698〜1769(元禄11〜明和6)江戸中期の儒者・蘭学者。名は教書(あつぶみ),通称文蔵,昆陽はその号である。江戸日本橋の魚問屋に生まれ,長じて京に遊学,伊藤東涯について古義学を学ぶ。1722年(享保7)ごろ江戸に帰り,私塾を開く。1733年,大岡越前守により,吉宗に推挙され,1735年,救荒食物としての甘藷栽培を奨めた『蕃薯考(ばんしょこう)』を上書した。のちに“甘藷先生”と称される。ついで,幕府書物方に任ぜられ,各地の古書・古文書の調査探訪にあたった。また,吉宗の命を受けて,医師野呂元丈とともに蘭語を学び,『和蘭(オランダ)文訳』『和蘭文字略考』などの辞書・入門書を著し,次代の蘭学興隆に寄与した。前野良沢は晩年の門下。著書に『経済纂要(さんよう)』『昆陽漫録』『草盧(そうろ)雑談』など。東京目黒区龍泉寺に墓碑がある。〔参考文献〕『日本思想大系64 洋学上』1976、岩波書店

◆目黒不動に青木昆陽の碑が建っている。撰文は大槻文彦、漢文で書かれている。
「(略)…学成って江戸に帰り、帷(とばり)を八丁堀に下して徒に授く。(中略)家は町奉行与力加藤枝直邸内に在り、枝直先生の篤行を視、具(つぶさ)に町奉行大岡忠相に状す。(略)」
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K007 与力 仁杉(ひとすぎ)家 邸
南町奉行所与力。五番組支配役。幕末期の絵図には仁杉の名が記載されている。現在地は特定できないが、中央区日本橋茅場町2-1あたりか。

◆仁杉氏、一杉氏は駿東郡仁杉村(御殿場市仁杉)から興った一族である。代々の家系は、(1)幸通−(2)幸高−(3)幸重−(4)幸勝−(5)幸次−(勝安)−(6)幸光−(7)幸計−(8)幸堅−(9)幸信
 7代幸計には嫡子がなく、八丁堀の医師宮地家から幸堅が養子に入った。 その幸堅には5人もの男子が生まれたがいずれも病弱で夭逝したため、与力の加藤家から定三郎が養子に入った。幸■
(木へん+長)と名乗らせ家督を継がせる予定だったが、その後生まれた幸信(幼名常松)が無事成長したため、幸堅は与力株を買って幸■(木へん+長)を分家させた。 ここに八右衛門家が成立し、幕末まで代々与力をつとめている。八右衛門幸■(木へん+長)−八右衛門幸雄−八右衛門幸昌−五郎八郎(英)(中央区郷土史同好会、第91回講演「仁杉家の与力たち」から)
 仁杉英(ひで)は明治期に東京府会議員、旧日本橋区長(明治30年8月〜明治35年5月)などの要職に就いた。
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K008 与力 佐久間長敬(さくま・おさひろ)・原胤昭(はら・たねあき)
文久2年(1862)の尾張屋版「八丁堀細見絵図」では、南町奉行所与力・佐久間は弥太吉、原は定太郎。両家とも代々与力役を世襲して、与力頭吟味方。弥太吉は佐久間長敬(おさひろ=天保10(1839)-大正12(1942))、定太郎は佐久間長敬の実弟で母方の原家に養子入りした原胤昭(たねあき=嘉永6(1853)-昭和17(1942))。明治維新後、佐久間長敬は明治政府への旧幕府引き継ぎに立ち会う。原胤昭は日本初のクリスマス開催、キリスト教女子学校(原女学校=現女子学院)創設、教誨師など社会教育福祉事業に関わった。両者とも著書多数。現在地は現永代通り道路敷になって特定できないが、中央区日本橋茅場町2-9あたりか。

◇千代田区教育委員会では、千代田区立四番町歴史民俗資料館所蔵の資料を基に『原胤昭旧蔵資料調査報告書−江戸町奉行所与力・同心関係史料』として、2010/6現在、(1)、(2)、(3)の3巻まで発行されている。

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K009 細川越中守(ほそかわえっちゅうのかみ) 屋敷
肥後熊本藩(54万石)、下屋敷。敷地面積約2900坪。現在は阪本小学校の地である。現在地は特定できないが、中央区日本橋兜町15あたりか。

◆安藤菊二著『八町堀襍記』には次の記載がある。

細川越中守――熊本藩54万石の大守である。熊本は名高い武将加藤清正の居城であったが、忠広の代に御家騒動が起きて改易となり、加藤家は出羽庄内1万石の大名に格下げされ、小倉39万石の細川忠利が代わって熊本城主となり、以後代々熊本を知行すこととなった。
上屋敷は大名小路にあり、中屋敷は白金と大崎にあった。元禄6年(1693)版「江戸大絵図」に、南八丁堀二丁目の町地の北側に「ホソ川エッ中 下」の記入があり、享保5年(1720)の「分間江戸大絵図」に、元禄図にあった越中守邸地は「キラ左京」と改まり、細川屋敷は、西側の本田遠江守屋敷の南に移って、面積も5分の1ほどに縮小されている。幕末安永6年になって、越中守屋敷は分割され、「藩邸沿革」に、菊間藩水野家と亀山藩石川家に分割されたことを記録する。
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K010 九鬼(くき)式部少輔屋敷跡
丹後綾部藩(19500石)。「九鬼の札切」といって、毎年正月元日から6日まで表門の松飾りに木札を掲げ、夕方に見物群衆が争い取り厄病除けとした。このあたりは慶長17年頃は船手屋敷として、向井将監、間宮虎之助、九鬼長門下屋敷、大浜民部、小笠原安芸などが名を連ねた、という。幕末期は九鬼式部少輔屋敷で、敷地面積約2900坪。明治期以降は坂本町公園になった。現在地は特定できないが、中央区日本橋兜町15あたりか。

◆安藤菊二著『八町堀襍記』には次の記載がある。

九鬼家――三田(さんだ)藩(摂州三田)九鬼長門守隆義 3万6千石。九鬼氏は大隈守嘉隆を以て中興の祖となす。隆良のとき志摩に移住し、嘉隆に至る。志摩を統一して鳥羽城を治む。嘉隆豊臣氏に属し、慶長4年嫡宗を子守隆に譲る。大坂の役守隆東軍に属し、嘉隆西軍に属し、乱平いて嘉隆自殺す。守隆故封3万6千石を全うし、1万石を加封された。
八町堀に屋敷を拝領していた九鬼氏は、三田(さんだ)藩九鬼家の分家で、丹波国何鹿(いかるが)郡で2万石を食む九鬼家であった。隆季よりして隆寛(のぶ)−隆貞−隆禎(よし)−隆郷(さと)−隆度−隆都(ひろ)−隆備(とも)と継いだ。
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K011 坂本町(さかもとちょう)公園
坂本町公園
坂本町公園 坂本町は日枝神社の門前町の地名。ここには九鬼屋敷があった。地域では比較的広い敷地の公園。
現在地は中央区日本橋兜町14。隣接して、南側に中央区立阪本小学校、北側に日本橋消防署、中央警察署がある。

◆当公園に設置されている説明板には次のように記されている。

坂本町公園は、1889年(明治22年)東京における最初の市街地小公園の先駆けとして、この地(旧日本橋区坂本町)に開園。当時は樹木うっそうとして風雅な涼亭を備えた和風庭園だったが、関東大震災によって全焼し、震災後避難民収容施設、仮校舎等の敷地に使用され、非常時における都市公園の機能が十分発揮された。その後復興事業により区画整理され、小学校と公園とが一帯に利用できる児童コーナーを設けた洋風の公園になった。太平洋戦争時、東京大空襲によって再び焼失。戦後、戦災者用の仮設住宅の敷地として使用され、その後児童公園として、さまざまな改良整備が行われ、現在の公園になる。

◆坂本町は元禄8年ごろ、御船手向井将監の屋敷跡を呉服師8人が拝領して、新しく坂本町が誕生した。名主は本材木町の多田内新助に決まったという。

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K012 阪本(さかもと)小学校
阪本小学校
阪本小学校
明治6年(1873)明治期の学制施行された。明治6年5月7日、第一大区十五小区坂本町二十八番地(現校地の一部)に創設し、坂本学校(第1大学区第1中学区第1番小学校)で生徒数は36人。この敷地は元熊本藩主細川家の下屋敷であったといわれる。
明治13年9月29日 従来の学制廃止され教育令発布。学区番号廃止。校名を公立阪本小学校、同女子小学校と称した。小説家谷崎潤一郎は南茅場町に住み明治25年(1892)入学し、明治34年(1901)卒業したことでも知られている。旧本校校舎は、大正12年9月1日の関東大震災に罹災、全焼。昭和3年3月15日、東京市臨時建設局学校建設課設計による鉄筋コンクリート3階建の現校舎が落成した。現在地は中央区日本橋兜町15-18。

「坂本」か「阪本」か――「坂本町公園」と「阪本小学校」、なぜ、「さか」の表記が異なるのか。江戸期の「大坂」伊勢「松坂」が、明治期以降「大阪」(明治10年)「松阪」になったのは知られている。「坂」は江戸期の、「阪」は近代以降の表記といえよう。「坂本町」の名は近江国比叡山延暦寺、日吉大社の門前町・坂本村からなぞられたという。坂本町は江戸末期の絵図では日枝神社御旅所門前に明記されている。「坂本町公園」の名称は歴史を踏襲しているようだ。「阪本小学校」は、当初は「坂本」だったが、当時の意向が反映されたものであろうか、のちに「阪本」になった。
こんな諸説がある。「坂」は傾き、転げ落ちるので縁起が悪い、よって「阪」に変えたとか、また、「坂」には「土に返る」ということで「消滅」につながり縁起が悪いので、「丘」「大きい」「多い」「豊か」「盛ん」の意味を表す「阜(フ)」をもとにした「こざとへん」の「阪」が当てられたとか、さらに、「坂」は「士が反く(武士が叛く)」から「阪」にした---など、さまざまで真偽のほどは不詳であるが、いずれも「縁起が悪い」が共通項のようだ。ちなみに「坂」は常用漢字で、小学3年生で習う学習漢字であるが、「阪」は常用漢字ではなく、「坂」の異体字とされる。
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K013 海運橋(かいうんばし)
海運橋親柱 向井将監屋敷
海運橋親柱 昭和2年架け替え前の親柱と説明板 向井将監屋敷 江戸初期の情景を描いた「江戸図屏風」の向井将監屋敷。橋が将監橋か、対岸は本材木町。
寛永以前に石橋だったが、その後、木橋になったという。別称は海賊橋、海盗橋、将監橋とも。明治8年、洋風の石橋に、昭和2年鉄橋になる。楓川(もみじがわ)に架かっていた。現在は撤去され、高速道路下の道路敷になっている。現在地は中央区日本橋1-10先/同区日本橋兜町3先。

◆江戸時代初期には高橋。橋の東詰に御船手頭向井将監忠勝の屋敷があったので海賊橋、将監橋といわれた。御船手頭は幕府の海軍で、海賊衆ともいわれた。明治元年に海運橋に改称。同8年にアーチ型の石橋に架け替えられた。文明開化期のこの周辺は、東京の金融の中心として繁栄し、橋詰にあった洋風建築の第一国立銀行とともに、新名所となった。石橋は関東大震災で破損し、昭和2年鉄橋に架け替えられた。このときの2基の石橋の親柱は区民有形文化財(建造物)に登録された。鉄橋は楓川の埋め立てによって昭和37年に撤去された。(平成6年3月中央区教育委員会設置の説明板から)。
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K014 摂社 日枝(ひえ)神社(御旅所)
日枝神社御旅所
日枝神社御旅所
赤坂日枝神社のお旅所。江戸天下祭として江戸時代から賑わう。かっては境内に富士信仰の富士塚があった。門前を坂本町と呼んだ。現在地は中央区日本橋茅場町1-6-16。

◆同神社の由緒書き(印刷物)には次のように記されている。

山王さん、御旅所、摂社と親しまれ、天正18年(1590)家康が江戸入城し、日枝大神を崇敬されて以来、御旅所の存する「八丁堀」北島(鎧島)祓い所まで神輿が船で神幸されることに始まる。寛永年間(1624-1643)この地を山王の御旅所に定め、江戸三大祭の山王祭(神幸祭)に際しては、御本社(山王日吉大権現=日枝神社)から3基の神輿が出て、半蔵門から江戸城内に入り、将軍は吹上で親拝、奉幣する。氏子の各町を巡行して、茅場町御旅所に着き、神事を営んで帰輿する。当時は1300坪余の境内地があったとされ、山王宮、山王権現と天満宮があり、薬師堂もあった。明治6年神仏分離令で薬師堂は敷地外へ分離された。明治4年無格社日枝神社と改称。大正4年摂社日枝神社となった。現在の社殿は、大正12年の大震災の後、昭和3年に造営され、境内の末社(北野神社・稲荷神社・浅間神社)を合祀。昭和20年3月大空襲で罹災、昭和41年11月屋根葺き替え、大修理をする。
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◆『江戸名所図会』には次の記載がある。

永田馬場山王御旅所(ながたばばさんのうおたびしょ)――茅場町にあり。遥拝の社二宇(う)並び建てり。寛永年間〔1624-44〕、この地を山王の御旅所に定めらるる、といへり(一宇は神主樹下氏(じゅげうじ)持ちなり。一宇は別当観理院(かんりいん)持ちなり)。隔年6月15日御例祭にて、永田馬場の御本社より、神輿(しんよ)3基、このところに神幸あり。仮に神殿を儲(もう)け、供御(くご)を献備し、別当は法楽を捧げ、神主は奉幣の式を行ひ、夜に入りて、帰輿(きよ)なり。その行装(ぎょうそう)、榊(さかき)・大幣(おおぬさ)・菅蓋(すげがさ)・錦蓋(にしきのかさ)、雲のごとく、社司・社僧は騎馬に跨(また)がり、あるいは輿(こし)に乗じ、前後にこじゅう扈従(こじゅう)す。諸侯よりは神馬(しんめ)・長柄(ながえ)の槍等を出されて、途中の供奉(ぐぶ)厳重なり。また、氏子の町々よりは、思ひ思ひに練物(ねりもの)、あるひは花屋台・車楽(だんじり)等に、金襴緞子(きんらんどんす)などのまん幕をうちはへ、おのおのその出立(いでたち)花やかに、羅綾(らりょう=*うすぎぬとあやぎぬ。〔ぜいたくな衣服の形容〕)の袂(たもと)、錦繍(きんしゅう)の裔(すそ)をひるがえし、粧(よそお)ひ巍々(ぎぎ=*〔山・建物などが〕高く大きいようす)堂々として、善美を尽くせり。この日、官府の御沙汰として、神輿通行の御道筋は、横の小路小路は矢来(やらい)を結(ゆ)はしめて、往来を禁じられる。まことに大江戸第一の大祀(たいし)にして、一時(いちじ)の壮観たり。
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K015 智泉院(ちせんいん=茅場町薬師)
智泉院
智泉院 茅場町の薬師。左右は江戸時代の手水鉢
寛永12年(1635)山王御旅所(日枝神社)を拡張して薬師如来が安置され医王山智泉院を建立、茅場町薬師と呼ばれた。縁日の植木市は「江戸名所図会」にある。現在も境内にある手水鉢は区有形民俗文化財。現在地は中央区日本橋茅場町1-5-13。

◆平成6年3月、中央区教育委員会設置の説明板は以下のとおり

智泉院――鎧島山(がいとうさん=のちに医王山)智泉院(天台宗)の本尊薬師如来は、平安中期の恵心僧都(えしんそうず=源信)作と伝えられ、山王御旅所(現・日枝神社)内にあった。明治時代の廃仏棄釈(きしゃく)などの影響もあって、現在、この薬師如来は川崎市の等覚院に安置されている。智泉院は「茅場町薬師」の名で広く知られた名刹で、縁日には植木市も開かれ、江戸庶民のあつい信仰を集めた。
瑠璃殿前の手水鉢は、天保12年(1841)に本尊が開帳されたのを記念し、奉納されたもので、銘には当時の坂本(現・兜町)という町名や町に住んでいた人々の名が刻まれている。鋳出した釜屋七右衛門は通称釜七といって、江戸では有名な鋳物師。この手水鉢は当時の賑わいを現在に伝えるものとして、中央区民文化財に登録されている。
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◆『江戸名所図会』には以下の記載がある。

薬師堂(やくしどう)――同じく御旅所の地にあり。本尊薬師如来は、恵心僧都(えしんそうず)〔源信、942-1017〕の作なり。山王権現の本地仏(ほんじぶつ)たるゆゑに、慈眼大師(じげんだいし)〔天海、1563-1643〕勧請したまふといへり。縁日は毎月8日・12日(正・5・9月20日には開帳あり)にして、門前2、3町の間、植木の市立てり。別当は医王山(いおうざん)智泉院(ちせんいん)と号す(もとは鎧島山(がいとうざん)と号(なづ)けしとなり)。本尊縁起に曰く、「恵心僧都は、その父母、大和国高尾寺(たかおでら)の薬師仏に祷(いの)りて設(もう)くるところの霊児なり。僧都、仏門に入りて後、法恩を謝(しゃ)せんがため、みづからこの本尊を彫刻ありて、高尾寺に安置せられしに、遥かの後、相州大場村(おおばむら)に遷し奉りたり。しかるに、慈眼大師、東叡山(とうえいざん)にうつし奉る。この地や大城(だいじょう)の東に位し、しかも山王の本地仏たるより、ここに安置なし奉る」となり。
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K016 植木店(うえきだな) 荻生徂徠(おぎゅう・そらい)居住の地
日枝神社、薬師堂門前の坂本町には植木市が開かれ店を並べた。『江戸名所図会』挿絵に「毎月8日・12日、薬師の縁日には植木を商うこと夥(おびただ)しく、参詣群集して賑はへり」とある。

◆『江戸名所図会』には次の記載がある。

徂徠(そらい)先生居宅の地――同所植木店なりといふ。先生〔荻生徂徠、1666-1728。儒者〕一号を■(草冠に言+爰)園〔かんえん=ふつうは「けんえん」〕といはれし。■(かん=前に同じ)は萱(かや)と同じ字義なれば、称せられしなり。よって、この地に住せられしこと知るべし。
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K017 渓斎英泉(けいさいえいせん)
1791-1848。浮世絵師。本名は池田善二郎。通称植木店、坂本町に住んでいたという。文化5年(1808)の地割絵図(奉行所の絵図)を基に、当時の八丁堀地区-現在の兜町・茅場町・八丁堀地区の名所旧跡を描いた「楓川鎧之渡古跡考」図がある。

◆寛政3年〜嘉永元年。江戸星ヶ岡に生まれる。士分の子。一時水野隠岐守に仕官るが、後に浪人になる。根津で遊女屋を経営、菊川英二宅に寄寓して浮世絵を描きはじめ、やがて美人画 に本領を発揮する。風景画にも技量を有し、洋風風景画に特色を示す。 画号は国春楼、小泉。戯作号に一筆庵可候、夭翁
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K018 鎧の渡し(よろいのわたし)跡  鎧橋
鎧の渡し跡
鎧の渡し跡 現在の鎧橋。手前左手には東京証券取引所があり、奥は日本橋小網町・蛎殻町方面
   
鎧の渡し小網町 『名所江戸百景』広重 日本橋川の両岸は船蔵が並ぶ。ツバメが飛び交うこの季節、差してる傘は日傘で、茅場町は傘の名産地だった。
鎧の渡 「江戸名所図会」 
現在は日本橋川に鎧橋が架けられ、兜町と日本橋小網町を結ぶ。
明治21年3月、原口要、倉田吉嗣設計のボウストリング・トラス橋、橋長31間(56.4m)、橋幅7間7尺(13.5m)。

◆平成16年3月、中央区教育委員会設置の説明板には次の記載がある。

鎧の渡しは、江戸時代の元禄年間(1688-1704)以来の切絵図や地誌類にも記される日本橋川の渡し場で、明治5年(1872)に鎧橋が掛けられるまで存続した。伝説では、平安の昔、源頼義が奥州平定の途中、ここで暴風逆浪にあい、鎧を海中に投げ入れて竜神に祈りを捧げたところ、無事に渡ることができたので、以来ここを鎧が淵と呼んだといわれている。また、平将門が兜と鎧を納めたところとも伝えられている。「江戸名所図会」や歌川(安藤)広重の「江戸名所百景」には、渡しの図が描かれ、このほか、この渡しを詠んだ俳句や狂歌なども知られている。「縁日に 買うてぞ帰る おもだかも 逆さにうつる 鎧のわたし」(和朝亭国盛)。

◆『江戸名所図会』には次の記載がある。

鎧の渡し(よろいのわたし)――茅場町牧野家の後ろをいふ。このところより小網町(こあみちょう)への舟渡しを、しか唱へたり。往古は大江(たいこう)なりしとなり。俚諺(りげん)にいふ。永承年間〔1046-53〕源義家(みなもとのよしいえ)朝臣(あそん)〔1039-1106〕、奥州征伐のとき、このところより下総国に渡らんとす。ときに暴風吹き発(おこ)り、逆浪(げきろう)天を浸(ひた)し、すでにその船覆(くつがえ)らんとす。義家朝臣、鎧一領(いちりょう)をとって海中に投じ、竜神に手向(たむ)けて、風波の難なからしめんことを祈請(きしょう)す。つひに、つつがなく下総国に着岸ありしより、このところを鎧が淵(よろいがふち)と呼べりとなり(元禄開板の『江戸鹿子』〔藤田理兵衛、1687〕に、「平将門〔?-940〕このところに兜・鎧を置く。兜は塚に築きて、牧野侯の庭中にあり」と記せり)。

◆鎧橋の説明板が南詰東側に設置されている。

鎧橋が最初に架かったのは明治5年(1872)で、当時の豪商が自費で架けたのが始まりです。橋が架けられたのと前後して米や油の取引所、銀行や株式取引所などが開業し、この地は大いに賑わいました。
その後、明治21年(1888)には鋼製のプラットトラス橋に架け替えられました。
その頃の様子を文豪・谷崎潤一郎は『幼少時代』でこんな風に書いています。

「鎧橋の欄干に顔を押しつけて、水の流れを見つめていると、この橋が動いているように見える……。
私は、渋沢邸のお伽のような建物を、いつも不思議な気持ちで飽かず見入ったものである……。
対岸の小網町には、土蔵の白壁が幾棟となく並んでいる。このあたりは、石版刷りの西洋風景画のように日本離れした空気をただよわせている。」

現在の橋は昭和32年(1957)7月の完成したもので、ゲルバー桁橋とよばれるものです。
橋の外側に間隔を置いて突き出ている鉄骨が、ごつごつした鎧を感じさせます。

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K019 銀行発祥の地(第一国立銀行跡)
第一国立銀行 銀行発祥の地
第一国立銀行 永嶋孟斎画「東京海運橋第一国立銀行の全図」から(部分) 銀行発祥の地
江戸期には牧野屋敷。明治期にわが国初の銀行、第一国立銀行が開設。政府は国の統制のもとに国立銀行を設置することにして明治5年(1872)8月、三井や小野などの財閥の手によってつくられた。開業は明治6年(1873)8月、総監役(後に頭取)は渋沢栄一で邸宅もここにあった。現在は近隣に、兜神社(兜塚)や東京証券取引所(東京アローズ)がある。記念プレートは、現在地の中央区日本橋兜町4-3、みずほ銀行兜町支店の店舗ビル壁面に埋め込まれている。
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K020 茅場河岸(かやばがし) 茅場橋(かやばばし)
茅場橋
茅場橋 この付近を茅場河岸と呼んだ
日本橋川上流の鎧橋から下流の霊岸橋までの川岸を茅場河岸と呼び、下り酒の酒造問屋、酒蔵が並んでいた。近くには千川屋敷の里俗地もあった。このあたりは南茅場町と呼ばれ、古くは茅職人がいて町名の由来となったともいうが、江戸末期ごろには傘がつくられ付近の門前市で売られたようだ。『江戸名所図会』「永田馬場山王御旅所・茅場町薬師堂」の画中に、「此辺傘屋多し」とあり何軒かの傘屋が描かれている。幕末期の八丁堀細見絵図には組屋敷に近かったためだろうか「大番屋」も見受けられる。

茅場橋は、関東大震災後の復興事業で新大橋通り(市場通り)が開通した昭和4年(1929)に架橋。日本橋川に架かり、新大橋通りを日本橋茅場町と日本橋蛎殻町・水天宮方面・新大橋とを結ぶ。
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K021 其角(きかく)住居跡
其角住居跡
其角住居跡
俳人榎本其角(1661-1707)の住居跡、宝永4年(1707)終焉の地、享年47歳。芭蕉門下の高弟。江戸に生まれ、元禄年間からこの地に住み、没した。「梅が香や隣は荻生惣右衛門」という句を詠んだというが不詳、また荻生徂徠の宅地が植木店だったこともわからない。昭和45年(1970)11月、日本勧業銀行の建立。現在地は中央区日本橋茅場町1-6-10、みずほ銀行茅場町出張所脇。東京都指定文化財(旧跡)。

◆宝井其角(たからい・きかく)1661(寛文元)・7・17〜1707(宝永4)・2・29(47歳ー江戸芝二本榎の上行寺)*・〔侃憲(ただのり)、通称源助・八十八。別号、螺舎(らしゃ)・麒角・普子・宝晋斉・六蔵庵・渉川・狂雷堂・善哉庵〕・江戸生・医師(順哲)・江戸の俳人・母方が「榎本」性だったので榎本其角とも称される・芭蕉の最初でまた異色の高弟・『虚栗(みなしぐり)』『五元集』『五元拾遺』『菊の香』・『雑談集』『枯尾花』『芭蕉終焉記』。*没年を1706・2・30とするもあり。
「名月や畳みの上に松の影」「有明の月に成りけり母の影」「鐘一ツ売れぬ日はなし江戸の春」「稲妻や昨日は東今日は西」
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◆『江戸名所図会』には以下の記述がある。

俳仙宝晋斎(ほうしんさい)其角翁の宿――茅場町薬師堂の辺りなりといひ伝ふ。元禄〔1688-1704〕の末、ここに住す。すなはち終焉の地なり。
 按ずるに、「梅が香や隣は荻生惣右衛門」といふ句は、其角翁〔榎本其角、1661-1707。俳人〕のすさびなる由(よし)、普(あまね)く人口に膾炙(かいしゃ)す。よってその可否はしらずといへども、ここに注して、その居宅の間近きをしるの一助たらしむのみ。
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K022 渋沢栄一(しぶさわ・えいいち)、澁澤倉庫
明治期の実業界発展の基礎を作った。この地域には関係した企業が多く、澁澤倉庫もその一つである。現在地は中央区日本橋茅場町1-13-16、澁澤シティプレイス。

渋沢栄一
渋沢栄一 写真は渋沢資料館HPから
◆渋沢史料館HPには、渋沢栄一について以下のように記述している。

渋沢栄一は1840(天保11)年2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島の農家に生まれました。家業の畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を手伝う一方、幼い頃から父に学問 の手解きを受け、従兄弟の尾高惇忠から本格的に「論語」などを学びます。郷里を離れた栄一は一橋慶喜に仕えることになり、一橋家の家政の改善などに実力を発揮し、次第に認められていきます。栄一は27歳の時、15代将軍となった徳川慶喜の実弟・後の水戸藩主、徳川昭武に随行しパリの万国博覧会を見学するほか欧州諸国の実情を見聞し、先進諸国の社会の内情に広く通ずることができました。明治維新となり欧州から帰国した栄一は、「商法会所」を静岡に設立、その後明治政府に招かれ大蔵省の一員として新しい国づくりに深く関わります。1873(明治6)年に大蔵省を辞した後、栄一は一民間経済人として活動しました。そのスタートは「第一国立銀行」の総監役(後に頭取)でした。栄一は第一国立銀行を拠点に、株式会社組織による企業の創設 ・育成に力を入れ、また、「道徳経済合一説」を説き続け、生涯に約500もの企業に関わったといわれています。栄一は、約600の教育機関 ・社会公共事業の支援並びに民間外交に尽力し、多くの人々に惜しまれながら1931(昭和6)年11月11日、91歳の生涯を閉じました。
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K023 霊岸橋(れいがんばし)
霊岸橋
霊岸橋
古くから架設されていたようで『江戸庄図』にもある。大正5年7月鉄橋〔橋長23間(41.8m)、橋幅10間(18.2m)〕に、昭和5年改架。茅場町から霊巌島へ渡るところから名付けられたのであろう。寛永元年(1624)霊巌上人が八丁堀東の海上を填築して霊巌寺を創建したことから霊巌島と名付けられたという。霊巌島は「こんにゃく島」とも呼ばれた。

幕末期、嘉永5年(1852)の番付『江戸前 大蒲焼』には西の大関筆頭に「霊巌島 大黒屋」、関脇に「茅場町 岡本」の店が載っている。明治期には橋のたもと富島町(現・新川)に、うなぎや「大國家」があり有名だったとある。「だいこくや」の漢字店名が異なるが読みから判断すると同じ店なのか。15代慶喜はこの店を指名したという逸話も伝わっている。江戸前とは、江戸湊で獲れた天然ウナギを指した。

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K024 伊能忠敬(いのう・ただたか) 住居・地図御用所(ちずごようしょ)跡
伊能忠敬像
伊能忠敬「地図御用所跡」 新大橋通りの東側、東京メトロ日比谷線「茅場町駅」1番出入口(八丁堀寄り)の脇に、2005年3月、説明板が設置された。 伊能忠敬像 千葉県佐原市の伊能忠敬旧居跡に建立されている。
1745-1818(延享2-文政1)。近代的日本地図作成の基礎を築いた人。上総国小関村、現在の千葉県九十九里沿岸の村に生まれた。江戸深川に住み高橋至時(よしとき)に師事して52歳のときから西洋天文学の勉学を始めた。第8回測量から帰ると、文化11年(1814)それまで深川にあった隠宅を八丁堀亀島町(〔注〕この地は武家地なので町名はないので、亀島町あたり)に移し、ここを地図御用所とし、「大日本沿海輿地全図」を作成した。文政元年(1818年)4月13日八丁堀亀島町で逝去した。

亡くなるまでの4年間を過ごし、地図御用所として最終図の制作にとりかかった八丁堀での居住地は北組与力・藤田(当時は藤田六郎左衛門、文久期は六左衛門)屋敷内を借りていた、といわれている。与力が拝領していた屋敷地は武家地なので町名はない。したがって跡地は、当時の亀島町の近くに位置していた。明治期に入りこの一帯は日本橋区亀島町に町名制定され、現在地は中央区日本橋茅場町2丁目12番先付近で、場所は新大橋通り東側の道路沿いあたり。近くに東京メトロ日比谷線茅場町駅1番出入口がある。

◆中央区教育委員会、平成17年3月設置の説明板には次の記載がある。

 地図御用所跡 所在地:中央区日本橋茅場町二丁目12番付近

地図御用所跡説明板  2005/3に設置された中央区教育委員会の説明板。ここに記述されている「大日本沿海與地全図」は誤りで、「大日本沿海輿地全図」が正しい。設置場所は新大橋通り東側、東京メトロ日比谷線茅場町駅1番出入口(八丁堀寄り)の脇

地図御用所は、実測による初めての日本全図を作製したことで知られる伊能忠敬(1745-1818)の住居に設けられていました。
伊能忠敬は、51歳の時に下総国佐原(現在の千葉県佐原市)から江戸深川黒江町(現在の東京都江東区)に居宅を移し、幕府天文方高橋至時の門に入って天文学を学び始めました。
寛政12年(1800)からは本格的に日本全国の測量をはじめ、以降17年間にわたって日本全国の沿岸を測量し、その総距離は約4万kmにも及んだといいます。
文化11年(1814)、九州地方の測量から帰った忠敬は、深川黒江町から八丁堀亀島町と呼ばれていた現在地付近へ転居しました。この屋敷の敷地は150坪ほどでしたが、忠敬の居住地としてだけではなく、測量図を作成するための地図御用所として利用されていました。
忠敬は地図が完成する前の文政元年(1818)に亀島町の居宅で死去してしまいましたが、その後も忠敬の居宅は地図御用所として使用され、文政4年(1821)門弟や天文方の下役らの手により「大日本沿海與地(「輿地」が正しい。下記注記参照)全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」が完成しました。

〔注〕説明板には、「大日本沿海與地全図」とあるが、與地は間違いで、正しくは「大日本沿海輿地全図」である。説明板の「與」は「与」の旧字で、「與地」では意味が異なる。正しい表記の「輿地」とは、輿(こし)のように万物をのせる地の意。大地、全地球、全世界(広辞苑)。

◆当会HP 下書き図「江戸・亀嶋町伊能忠敬住居付近」
  文化14年(1817)作成。佐原市・伊能忠敬記念館所蔵 こちら>>
◆当会HP 第112回講演会(2005/9/17)「江戸八丁堀亀嶋町『地図御用所』と伊能図』 こちら>>

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K025 同心・浅井竹蔵(あさい・たけぞう) 邸
樋口一葉の父・則義は慶応3年(1867)に同心・浅井竹蔵から同心株を譲り受けた。浅井は与力・仁杉支配の平同心だった。同年10月には大政奉還が布告された。現在地は特定できないが、中央区日本橋茅場町2-5あたりか。

◆台東区立一葉記念館発行の『樋口一葉・資料目録』(平成14年10月第4版)には次の資料が載っている。

慶応3年(1867)7月、八丁堀同心浅井竹蔵から役掌、扶持、町屋敷を引き継いだときの与力・仁杉八右衛門へ宛てた奉行所の通達書を本人が書き写した控え
      五番組
       仁杉八右衛門支配
         平同心
              浅井竹蔵
      撤兵
       西村熊次郎厄介弟
             樋口為之輔
 右竹蔵儀病気ニ付願之通御暇申渡候
 同人跡江為之輔御抱入申渡竹蔵取米
 三拾俵弐人扶持町屋敷共被下候間其段可
 被申渡候
   夘七月
父・則義(1830-1889)は天保元年(1830)、樋口八左衛門(農業)・ふさの長男として、甲斐国山梨郡中萩原村(現・塩山市)に出生。幼名大吉。後に八代吉、齋藤甚蔵、為之輔、為之助などと称した。
安政4年(1857)27歳、結婚を許されなかった則義は、当時身重だった「たき」(あやめ)を伴って出府。父八左衛門の友人で、当時幕府の蕃所調所勤番筆頭であった真下専之丞を頼った。その後苦節10年、慶応3年(1867)37歳で浅井竹蔵にかわって、30俵2人扶持の同心となった。

明治22年(1889)一葉が17歳のとき父則義は7月12日、59歳で死去。

樋口一葉は本名「奈津」(なつ)。小説家・歌人。明治5年(1872)3月25日、父則義・母たきの次女として幸橋御門内の旧郡山藩柳沢家の上屋敷を接収した東京府庁の構内にある武家屋敷の長屋(現・千代田区)で生まれた。父則義は、江戸南町奉行所支配下の同心であったが、維新後の当時は東京府庁に勤め、生活も当時では中流ぐらいの家庭に育った。
明治16年(1873)満11歳の暮れ、下谷元黒門町の私立青海(せいかい)小学高等科を首席で修了後退学。明治19年14歳のとき歌塾「萩の舎」(はぎのや)へ弟子入りし、和歌、書道、古典を学ぶ。明治21年、家督相続。明治22年(1889)17歳のとき父則義は7月12日、59歳で死去。明治24年18歳で半井桃水から小説の手ほどきをうけ、「うもれ木」が出世作となる。明治26年、下谷竜泉寺に移り小店を開くが、9ヵ月後に店を閉じ、本郷丸山福山町へ移る。「たけくらべ」「にごりえ」などを発表。明治29年(1896)11月23日、24歳で生涯を閉じた。葬儀は築地本願寺で行われ、墓は築地本願寺和田堀廟所にある。
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K026 同心・人見周介/周助(ひとみ・しゅうすけ) 四世 川柳
文久2年絵図では同心・人見周介とあり地蔵橋近くに住む。川柳・狂歌の4世だった。現在地は特定できないが、中央区日本橋茅場町3-4あたりか。
四世 川柳
四世 川柳

◆<活動>文政7(1824)年嗣号―天保8(1837)年譲位・以後柳翁となる。誹風柳多留34−70篇<号> 眠亭/賎丸(志津丸)/柳思庵/風梳(ふうしょ)庵。
 本名、人見周助。安永7(1778)年9月、江戸生れ。江戸南町奉行・筒井伊賀守二番組与力配下の物書同心。はじめ大塚に住み、文日堂礫川の折句連にあったが、文日堂の前句附復帰とともに二世川柳の門にいる。賎丸(志津丸)と称し、文化3年の「誹風柳多留」35篇に勝句8章が初見。 文日堂の推薦で評者となり,文化8年の「誹風柳多留」58篇は賎丸の単独撰で十返舎一九が序を書いている。この時の出題中に「狂句」の語が初めて見える。文政6年頃から八丁堀中之橋の自宅で月例会を催す。文政7年、3世川柳の短期引退で空位になっていた川柳号の4世を社中推薦により継ぐ。 文政9年8月28日、向島・木母寺境内に「東都俳風狂句元祖 川柳翁之碑」を建立、末広会を催す。自らを俳風狂句元祖と称する。天保8年勇退、柳翁を名乗る。天保15(1844)年2月5日没。法名:祟徳院仁興普山居士。赤坂の法安寺に葬られる。

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K027 純子(じゅんこ)稲荷神社  
純子稲荷神社
純子稲荷神社
◆『日本橋区史』には次の記載がある。

はじめ徳川氏入国後、町奉行所内の千代田稲荷の分霊を勧請し、岡崎町・亀島町の2カ町、組屋敷に居住せる与力同心の鎮守であったが、維新の際、純子稲荷一柱を届け出て以来、町内鎮守となった。

◆掲出されている由緒書きによると、鎮座は元和2年(由緒書きの末記には「元文2年(1737)」とある。どちらが正しいのか?)11月20日、再建立が昭和48年4月20日、神璽は伏見稲荷大社、神名純子大神、祭神豊受大神。神威は心身健全、家内安全、五穀豊穣、商売繁盛、福徳円満、芸能成就、往来安全。祭日は2月初午、4月、11月鎮座日。元文2年11月20日。

◆幕末期の絵図に載る。現在地は中央区日本橋茅場町3-13-6。隣接地の新亀島橋南西児童遊園には(関東)大震火災遭難者追悼碑と(太平洋戦争)戦災遭難死者慰霊碑が建っている。
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K028 新亀島橋(しんかめじまばし)
新亀島橋
新亀島橋
明治15年(1882)には木橋。関東大震災後、昭和5年鉄桁になる。亀島川に架かり、日本橋茅場町と新川を結ぶ。橋碑は西詰北側に設置されている。

◆新亀島橋が初めて架けられたのは、明治15年(1882)3月、長さ15間(約27m)、幅3間(約5.4m)の木橋であったと記録されている。その後、大正15年(1926)3月に関東大震災後の復興事業により鋼桁の近代橋として架け替えられ、幅も15mと3倍近くに広がった。新亀島橋の名前は、この橋の下流に位置し、元禄の時代から架かる亀島橋に対して新の字を冠し、新亀島橋と名付けられた。
茅場町側の橋詰付近は、昭和のはじめごろまで亀島町と呼ばれ、その昔、瓶を売るものが多かったことに由来し、瓶島町がその起こりといわれている。江戸時代には町奉行所配下の与力たちの屋敷が並び、また亀島川に臨む亀島町は水運を活用していたであろう米穀問屋が多い町だった。新川側は、菱垣廻船や樽廻船が往来し、上方から来る下り酒と呼ばれる酒を扱う酒問屋で賑わいを見せ「江戸新川は酒問屋をもって天下に知られ」といわれるほどだった。
時代は平成となり、亀島川の耐震護岸整備の一環として生まれ変わった新亀島橋は、地域と亀島川の歴史的なかかわりを基調として、「廻船」をモチーフにデザインされた。「歴史と文化を後世に伝える架け橋」として、江戸情緒をたっぷり取り入れ、各所に浮世絵風の意匠を凝らしている。建設は平成7年8月、橋長30.5m、幅員15.0m(車道9.0m、歩道3.0m×2、形式鋼床板ラーメン橋)(平成9年9月、中央区設置の解説碑から)
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K029 亀島河岸(かめじまがし) 
亀島河岸
亀島河岸 右側が亀島河岸、左は新川側で石河岸、越前堀河岸、解屋(とくや)河岸があった。亀島川を霊岸橋から新亀島橋方面への眺め
亀島川の霊岸橋から亀島橋までの現・茅場町側はかっては亀島町だったので、この岸を亀島河岸と呼んだ。幕末時には与力の知行地からの穀米が組屋敷に近い、この河岸に荷揚げされたようだ。ちなみに、同心の30俵の俸禄は浅草御蔵前の蔵米とのこと。
亀島川の現・新川側の河岸には、霊岸橋から下流に向って、石河岸、越前堀河岸、解屋(とくや)河岸、将監河岸とつづき、大川(隅田川)に出た。

◆新川に生まれた萩原久利氏は著書『江戸湊の残英』(1993/7/20、非売品)で、次のように紹介している。(p49)

岡本かの子は亀島河岸の冬の様子を昭和14年(1939)の小説『河明り』で、次のように書いている。「雪はほとんど小降りになったが、よく見ると鉛を張ったような都の曇り空と膠を流したような堀河の間を爪で掻き取った程の雲母の片が絶えず漂っている。………五大力の苫を葺いた舳が見え、厚く積もった雪の両端から馬の首のような氷柱を下げている。少し離れて団平船と伝馬船三艘とが井桁に歩び板を渡して、水上に高低の雪渓を拵えて蹲(うずくま)っている。水にひたひたとたたえた向う岸の際に、こんもりと雪のつもった処々を引っ掻いて木肌の出た筏が乗り捨ててあり、乗手と見える蓑笠の人間が、稲荷の垣根の近くまで焚火をしている。………河岸通りのこの家の娘は、この亀島川は一日の通船数が三百以上もあり、泊まり船は六十以上で、これを一町に割当てるとほぼ十艘づつになると言ったが、今日はそういう河容とはまるで違ったものに見える」と。僕の想い出よりもっと昔の亀島川は、行き交う船で賑やかだったにちがいない。

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K030 新場(しんば)、新場橋(しんばばし)
新場橋
新場橋 明治期には現在の位置より北側(現新場橋区民館あたり)にあった。東側には日本煉瓦製造会社がある。
日本橋魚市場と並んで楓川の旧材木町側の河岸に新しい魚市場を作ったので「新場」と呼ばれた。開設は延宝2年(1674)とのこと。沿岸の漁場からの運搬には、押送り船と呼ばれる、速度の速い船が使われた。楓川の西側は本材木河岸、東側を楓河岸と呼んだ。
現在は高速道路の上に架かる「新場橋」が名残りをとどめている。新場橋は、別称、中の橋、楓橋とも。享和年間の架橋のようだが不詳。

◆『日本橋区史』には次の記載がある。

本小田原町の市場とは交代に幕府へ納魚した。上旬は新場、中下旬は本小田原町で、これを輪番といった。

◆明治期の近代東京の歴史遺産として建築物に使われた煉瓦を製造した「日本煉瓦製造会社」が現新場橋の東側、日本橋兜町17-1にある。同社のHPによると、明治20年(1887)10月25日、渋沢栄一、諸井恒平らにより設立され、同22年(1889)渋沢の出身地に近い深谷の上敷免に近代的な機械式大量生産の工場が完成。竣工実績として、1893年碓氷峠アーチ橋、1895年司法省、1909年赤坂離宮(現迎賓館)、1914年東京駅など--とある。

◆埼玉県深谷市HPには「レンガのまち深谷」として紹介している。(抜粋)

明治政府は明治19年(1886)井上馨総裁の臨時建築局をつくり、ドイツ人建築技師ウイルヘルム・ベックマンが指導して大官庁街建設を計画した。このため煉瓦を大量に生産する必要があり、機械式の煉瓦工場建設が計画された。財政面から官営がむずかしいため、いまの深谷市血洗島出身の渋沢栄一に相談し、ふるさとの大里、幡羅、榛沢郡の利根川流域一帯が古くから瓦製造がさかんで、上質な粘土が堆積していることから、埼玉県榛沢郡上敷免と新井村にまたがる地区(現・深谷市大字上敷免と大字新井)が工場の最適地であると選定した。明治20年(1887)10月25日、資本金20万円で日本煉瓦製造会社が設立された。
工場地に「日本煉瓦史料館」がある。所在地=深谷市大字上敷免89。開館時間=10:00-16:00。休館日=土・日・祝日、夏期、年末年始。入館料=大人200円、学生100円。交通=JR高崎線深谷駅から約4km(タクシー約10分)。

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K031 千代田橋(ちよだばし) 
千代田橋
千代田橋 橋上には高速道路が通っている
大正15年の震災復興事業で建設された永代通り開通時に架橋されたようだ。かっての楓川、現在の高速道路の橋下に架かる。永代橋から呉服橋を通る永代通り、日本橋兜町と日本橋を結ぶ。








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K032 兜(かぶと)神社、兜塚(かぶとづか) 
兜神社・兜塚
兜神社・兜塚 牧野家屋敷内にあったいわれる。社殿の左に兜塚がある。商売の神様として信仰がある。
◆兜神社の由来(兜神社世話人会発行の印刷物による)は次のとおり。

社号は兜神社。主なる祭神は商業の守護神とたたえまつる倉稲魂命(うかのみたまのみこと=稲荷神の別名)。合祀の神は右に大国主命(おおくにぬしのみこと=大黒様)、左に事代主命(ことしろぬしのみこと=恵比寿様)をまつる。鎮座地は中央区日本橋兜町1-8。祭儀は毎年4月1日に例大祭(以前は10月1日)。神体は神石(京都伏見稲荷の神体山の神石)。神札は太政大臣三条実美公(太政大臣在任期間、明治4年〜明治18年)の御社号を染筆した神札が奉納されている。

沿革は、江戸時代、弘化2年(1845)版の「楓川鎧の渡古跡考」の絵図に、牧野邸の東北隅の鎧の渡し付近に鎧稲荷(平将門を祭ったのが起源ともいわれている)と兜塚が描かれており、このころすでに当地の鎮守として、また魚河岸へ出入りする漁民により信仰を集めていた。明治4年(1871)、東京商社(三井物産の前身にあたる商事会社)の移転にともない、鎧稲荷と兜塚は鎧の渡しと兜橋の中間に遷された。この時、兜塚として祭られていた源義家公の御神霊を、兜神社として社を創建して祀り、さらにこの神社は鎧稲荷と合併して、新たに兜町の鎮守・兜神社として定められた。明治7年(1874)、お祀りする祭神に変更があって、祭神源義家公の祭祀を廃止して、新たに三井家(兜町一丁目の土地を所有する地主)の信仰していた三囲(みめぐり)稲荷神社(墨田区向島二丁目に鎮座)の境内摂社である福神社より大国主命と事代主命の御分霊を勧請して合祀した。明治11年(1878)、東京株式取引所の設立にともない、当取引所が兜神社の氏子総代となり、以来証券界からの信仰を集めるようになった。昭和2年(1927)、日本橋川と楓川の分岐点の角地・兜橋東詰北側の62坪の敷地(現在の場所)に再度移転し、鉄筋コンクリート造りの社殿を造営した。昭和46年(1971)、高速道路の建設にともない旧社殿を解体し、現在の鉄筋コンクリート、一間社流造(いっけんしゃながれづくり)・向拝(ごはい)付きの社殿を造営し、現在に至る。

兜岩の由来――現在、社(やしろ)の前左にある兜岩の由来には、諸説があるが、その裏付けとなるものは何も残っていない。
  1. 源義家が奥州から凱旋の際、東夷鎮定のため、兜を楓川のほとりに埋め一塊の塚となし、これを兜塚と言った。
  2. 前九年の役のころ、源義家が東征のみぎり、岩に兜を懸けて戦勝を祈願したことから、この岩を兜岩と呼ぶようになった。
  3. 俵藤太秀郷(藤原秀郷(ふじわらひでさと))、平親王(平将門の尊称、天慶3年(940)2月4日戦死)の首を討って兜を添えてこれまで持ち来れるが、兜をここに埋めて塚となし、兜山と言う。
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◆『江戸名所図会』には次の記載がある。

兜塚(かぶとづか)――同所海賊橋(かいぞくばし)の東詰、牧野家の庭中にあり。源義家朝臣(あそん)〔1039-1106〕、奥州征伐凱陣のとき、先の報賽(ほうさい)のため、かつは東夷鎮護のためとして、日本武尊(やまとたけのみこと)の古き例(ためし)に準(なら)ひ、みづからの兜を一堆(いったい)の塚に築(つ)き籠(こ)めたまひとなり。いまその傍(かたわ)らに、義家朝臣の霊を鎮(まつ)る小祠(こみや)あり(『紫の一本(ひともと)』〔戸田茂睡、1683〕といへる双紙に、「甲山(かぶとやま)とありて、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)〔俵藤太、10世紀中頃〕、平将門〔?-940〕を討ち、その首を冑(かぶと)とともに持ち添へきたりしが、冑をばこの地に埋めたる」とあり)
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K033 電燈供給発祥の地(でんとうきょうきゅうはっしょう) 東京電燈 第二電灯局
電燈供給発祥の地碑
日本最初の火力発電所(第二電燈局)が南茅場町に設置され、電灯線による電力供給がここからはじまった。現在地は大震災後の区画整理で特定できないが、中央区日本橋茅場町1-4-5先の新大橋通りと永代通りの交差点あたりか。第三電燈局は京橋区新肴町15番地(現・中央区銀座3-3-18東京電力銀座支社の場所か)。

「電燈供給発祥の地」碑が中央区日本橋茅場町1-3-10、ホテル「トレスト イン 日本橋」(東電不動産経営)の南側に建っている。

◆「電燈供給発祥の地」碑には次の記載がある。

明治20年(1887)11月21日、東京電燈会社がこの地にわが国初の発電所を建設し、同月29日から付近の日本郵船会社、今村銀行、東京郵便局などのお客様に電燈の供給を開始しました。これが、わが国における配電線による最初の電燈供給でありまして、その発電設備は直立汽缶と、30馬力の横置汽機を据付け、25キロワットエジソン式直流発電機1台を運転したもので、配電方式は電圧210ボルト直流3線式であります。

◆『東京電力30年史』(昭和58年(1983)3月25日発行)から要旨を記載する。

わが国最初の電気事業者である東京電燈(本社、京橋区富島町4=現・新川1-2)は明治16年(1883)2月15日設立許可、同19年(1886)7月5日に営業開始した。これは英米の電気事業の開始からわずか2ヵ年の遅れにすぎなかった。

架線によって白熱電灯を東京市内に一般供給するため火力発電所(当初は電燈局と呼び、明治25年以降発電所と称した)を市内5ヵ所で進めた。

明治20年(1887)11月、日本橋区南茅場町50番地の第二電燈局に発電機を仮据付し、対応した。同電灯局は、直立汽缶、30馬力の横置汽機、25KWエジソン式直流発電機1台を運転し、電圧210V直流3線式の架空電線により、付近の日本郵船、今村銀行、東京郵便局などへ屋内灯・屋外灯の一般供給を開始、わが国初の架空配線による電気供給である。
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K034 鳥居稲荷神社(とりいいなりじんじゃ) 
鳥居稲荷神社
鳥居稲荷神社 清楚に整備された社殿
◆宗教法人鳥居稲荷神社崇敬会が平成13年(2001)5月に掲出した由来書には以下の記載がある。
所在地:中央区日本橋兜町20-3。東側に隣接して日本ペンクラブ社屋がある。

当神社の祭神は倉稲魂命(うがのみたまのみこと)を主神に豊受姫神(とようけひまのかみ)が合祀されていますが、鎮座の年代は不詳です。
東京市史稿によれば享保2年(1717)、この地に鳥居丹波守忠瞭(下野壬生(しもつけみぶ)藩主)の上屋敷があり、神社はその庭に祀られ代々厚く信仰されていました。

享保6年(1721)の大火により類焼し、跡地は神田塗師(ぬし)町・新銀(しんしろがね)町・松下町の代地として町家街となりました。この3か町から引き移った人々も当社の奇瑞(きずい=めでたいことの起こる不思議な前兆)多く、かつ神徳顕著なことを聞き、ともに力をあわせ社殿を造営し、鳥居家の邸内に鎮座されていたことによって鳥居稲荷神社と崇め維持、営繕、祭典などに力を尽くしました。

昭和20年(1945)3月10日の空襲で社殿を焼失、昭和28年(1953)8月に宗教法人として登記、昭和44年(1969)3月に町内有志の尽力により鳥居稲荷神社崇敬会を発足し、昭和52年(1977)社殿を改築、現在に至っております。
なお、隔月に月次(つきなみ)祭、毎年1月1日に元旦祭、5月15日ごろには例大祭が行なわれています。

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K035 大原稲荷神社(おおはらいなりじんじゃ) 
大原稲荷神社
大原稲荷神社 由来などは不明。中央警察署の斜前にあり、向って左隣りは大原会館ビル。祠の背面は首都高速道路
由緒書や縁起書などの掲出がないので不詳。

所在地:中央区日本橋兜町11-3











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K036 都立紅葉川高校跡(もみじがわこうこう あと) 
都立紅葉川高校跡
都立紅葉川高校跡 かつての地であった中央警察署敷地内の正面北側に記念碑がある
◆中央警察署敷地内に平成6年3月設置の記念碑プレートには次の記載がある。所在地:中央区日本橋兜町14-2

東京都立紅葉川高等学校は昭和3年4月、当地にあった日本橋女子高等小学校内に、東京市日本橋区楓川専修女学校として発足した。当時、日本橋地区の女子教育の充実、発展を切望する地域の要請を請けて、設立されたものである。
以来、戦前・戦後を通じて全日制課程9300余名、定時制課程2400余名もの多くの有為な人材を社会に送り出してきた。
校名の由来は、皇居内の紅葉山を水源とする「もみじ川」と「日本橋川」の合流地点に位置した当地に因み、楓川の名が用いられたものである。
昭和59年に着手された都立紅葉川高等学校の江戸川区内への移転・改築事業の完了にあたり、創立以来66年の長期にわたり、本校の充実・発展に尽力された多くの関係者、地域の人々に感謝の意を表し記念碑を設置する。

沿革
昭和3年4月
昭和6年3月
昭和15年3月
昭和21年4月
昭和23年4月
昭和23年5月
昭和25年1月
平成6年3月
東京市日本橋区楓川専修女学校創立
東京市日本橋家政女学校
東京市立日本橋高等家政女学校と改称
東京都立紅葉川高等女学校と改称
東京都立紅葉川新制高等学校と改称
同定時制課程併設
東京都立紅葉川高等学校と改称
東京都立紅葉川高等学校中央校舎閉校
東京都江戸川区臨海町2-1-1に移転

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K037 小西酒造(こにししゅぞう)
白雪ビル(小西酒造) 北側に富士山の壁画がある。新大橋通りの蛎殻町側から茅場橋の南詰西側を望む
「山は富士 酒は白雪」で知られる小西酒造の創業は天文19年(1550)で、清酒メーカーでは最古の歴史とされる。現在の東京支店は、元禄7年(1694)酒問屋を江戸に出店した場所である。所在地:中央区日本橋茅場町1-1-3白雪ビル

◇同社のHPに次の記載がある。

同社の沿革は、天文19年(1550)摂津国伊丹で、始祖の薬種商小西新右衛門が濁り酒造りをはじめた。慶長17年(1612ごろ)清酒業を本業とするようになり、江戸へ駄送りを開始する。寛永12年(1635ごろ)、小西家2代目宗宅が江戸へ酒樽を運ぶ途中、雪をいただいた富士の気高さに感動して銘柄に「白雪」と名付けた。元禄7年(1694)生産者の出店としてはじめて酒問屋を江戸・茅場町に開業した。このころ江戸十組問屋が結成される。近年では、昭和49年(1974)東京支店の新社屋および倉庫完成。平成元年(1989)茅場町に「白雪ビル」竣工。平成12年(2000)創業450周年を迎える。

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K038 東京証券取引所(とうきょうしょうけんとりひきじょ)
東京証券取引所 昭和63年(1988)竣工。平成12年(2001)に立会所が閉鎖され、現在は「東京アローズ」として証券史料ホールや内部が一般見学できる。
ニューヨークのウォール街、ロンドンのシティと並んで世界の3大証券市場として知られる日本橋兜町。金融・証券の発祥地であるとともに、現在も中心地である。地域の核となるのが東京証券取引所(東証)で、創立時から戦前までは東京株式取引所であった。英文名、TOKYO STOCK EXCHANGE(TSE)。中央区日本橋兜町2-1。http://www.tse.or.jp/

◇その歴史と現状を東証が発行する冊子、『この一品に歴史あり 東京証券取引所〜証券史料ホールから〜(2002/8)』と『東京証券取引所のご案内Guide to TSE(2007/2)』から見てみよう。

明治11年(1878)5月10日渋沢栄一、三井養之助、三野村利助、福地源一郎らが帳合米取引制度を取り入れた株式取引所設立を出願し、同月15日に設立された。初取引は6月1日で伊藤博文、大隈重信らが出席した。当初の上場証券は明治政府が旧藩債務継承のために発行した公債と秩禄処分のための秩禄公債の3銘柄。同年7月15日にわが国初めて上場された株式は東京株式取引所(東株)。ついで、9月には第一国立銀行の株券が上場された。同行は明治6年(1873)設立で、株主の有限責任や利益計算に基づく配当の実施などから、わが国最初に株式会社といわれる。
明治23年(1890)、東京・横浜間に電話サービス開始時点には既に取引所に2本の電話が架設された。大正7年(1918)2代目取引所竣工。昭和6年(1931)、横河民輔設計の古代ギリシャ様式の旧本館3代目が竣工。昭和18年(1943)6月、戦時体制下で東株66年の幕を下ろした。6月30日に全国11株式取引所を統合した日本証券取引所に統制されて、長崎原爆投下の昭和20年(1945)8月6日に至り、「当分休会」を宣言し、事実上閉鎖された。

敗戦後立会場は、昭和23年(1948)1月まで米軍に接収されていた。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)政策で昭和24年(1949)4月20日に「証券取引三原則」が提出され、(1)店頭仕切り売買を禁止し、取引所集中の公正価格形成 (2)売買時間の記録 (3)清算取引を禁止し、実物取引で健全化――で、わが国の証券取引制度の根本的改革を意味するものであった。昭和24年(1949)5月15日、東京証券取引所として新たな出発をした。昭和36年(1961)10月2日、市場第2部開設。昭和49年(1974)9月24日、相場報道システム稼動。昭和63年(1988)現在の4代目取引所建物竣工。昭和63年(1988)9月TOPIX(東証株価指数)先物市場開設、10月TOPIXオプション市場開設。平成11年(1999)4月30日、株券売買立会所の閉鎖。10月1日には売買委託手数料の完全自由化が実施。11月11日新興企業市場マザーズ市場開設。平成12年(2000)5月、売買のコンピュータ化にともなって閉鎖された旧立会所は情報発信基地「東証アローズ」として誕生。平成13年(2001)11月1日、これまでは会員組織の法人だったが、証券取引法の改正で株式会社となる。

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全体地図 一覧 八丁堀 茅場町・兜町 新川 湊・入船・新富

楓川 八重洲通り・新大橋通り 松平越中守屋敷跡 久安橋

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   八丁堀二丁目東町会50周年記念誌 

●中央区郷土史同好会[八丁堀周辺歴史案内]/制作:巻渕彰/更新2005/5/14●