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| 全体地図 | 一覧 | 八丁堀 | 茅場町・兜町 | 新川 | 湊・入船・新富 |
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| S001 御船手組(おふなてぐみ)・河村瑞賢 地域歴史説明板 亀島橋東詰 | |||||||||
| 亀島橋の架け替えにともない東詰北側に、この橋の由来や新川側に関連した向井将監(むかい・しょうげん)の御船手組、河村瑞賢の解説がある。 ◆2002年(平成14)6月、中央区土木部設置の説明板には次のように書かれている。
河村瑞賢1618-99(元和4-元禄12)――江戸前期の商人で、治水・海運の功労者。伊勢国(現・三重県度会郡南島町(わたらいぐん・なんとうちょう))出身。土木業を営み幕府や諸大名の工事を請け負い治水事業に尽くすとともに、海運事業でも東廻り航路と西廻り航路を確立した。「新川」は現在の新川1丁目を東西に流れていた運河で、1660年(万治3年)瑞賢が開削したと伝えられ、1948年(昭和23年)に埋め立てられるまで重要な運河として栄えた。瑞賢は、運河に面して広大な屋敷を構えたこの地で没したといわれている。
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| S002 河村瑞賢(かわむら・ずいけん)屋敷跡 | |||||||||
◆平成15年3月、中央区教育委員会設置の説明板には次の記載がある。 この説明板は、中央区新川1-8-2、ホテル・ヴィラフォンテーヌ茅場町前の永代通り植え込みに設置されている。 川村瑞賢屋敷跡 所在地:新川1丁目8番地域。 江戸時代、この地域には幕府の御用商人として活躍していた河村瑞賢(1618-1699)の屋敷があった。 瑞賢(瑞軒、随見とも書く)は、伊勢国の農家に生まれ、江戸に出て材木商人となる。明暦3年(1657)の江戸大火の際には、木曽の材木を買い占めて財をなし、その後も幕府や諸大名の土木建築を請負い莫大な資産を築いた。また、その財力を基に海運や治水など多くの事業を行った。 瑞賢の業績の中でもとくに重要なのは、奥州や出羽の幕領米を江戸へ廻漕する廻米航路を開拓して輸送経費・期間の削減に成功したことや、淀川をはじめとする諸川を修治して畿内の治水に尽力したことが挙げられる。晩年にはその功績により旗本に列せられた。 斎藤月岑の『武江年表』によると、瑞賢は貞享年間(1684-1688)ころに南新堀1丁目(当該地域)に移り住み、屋敷は瓦葺の土蔵造りで、塩町(現在の新川1丁目23番地域)に入る南角から霊巌島半丁一円を占めていた、と記されている。表門はいまの永代通りに、裏門はかって新川1丁目7番・9番付近を流れていた新川に面し、日本橋川の河岸には土蔵4棟があり、広壮な屋敷を構えていたようだ。 『御府内沿革図書』延宝年間(1673-1681)の霊巌島地図を見ると、瑞賢が開削したとされる掘割に新川が流れ、その事業の一端を知ることができる。 ◆『江戸名所図会』には次の記載がある。 随見屋鋪(ずいけんやしき) 同所新川一の橋の北詰、塩町(しおちょう)の辺、その旧地なりといへり(このところに瀬戸物屋多く住せり。ゆゑに、茶碗鉢店(ちゃわんばちだな)とも号(なづ)く。あるいは、随見長屋(ずいけんながや)ともよべり)。川村随見〔河村瑞賢、1617-1699〕は、諸国の水土を考ふるに精(くわ)しうして、おほいに世に勲功あり。海を築き、川を掘り、田畑を開発す。河内国の水を落さんとして、摂泉の堺に大和川を掘り、淀川の溢るるを治めんとして、大坂に安治川(あじがわ)を鑿(ほ)り(随見みづから実名を、安治(やすはる)といふ。音に呼びて安治川といふとぞ)、その土砂をもって、川下に新たに山を築き、洪水のとき、高波を防ぎ除かんためをもつぱらとし、かつ、沖よりの目当とす(世に随見山と称せり。本名は波除山(なみよけやま)といへり)。その余の功、もっとも少なからず(菊岡沾涼(きくおかせんりょう)〔1680-1747。俳人〕云く、川村随見は御幕下(おんばくか)川村始祖なりと云々)。
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| S003 新川大神宮(しんかわだいじんぐう) | |||||||||
由来は伊勢内宮の社僧・慶光院所蔵古文書『慶光院由緒』ならびに江戸名所図会に詳しい。慶光院周清上人が寛永2年(1625)徳川2代将軍〔*秀忠〕から江戸代官町〔*現・北の丸公園〕に屋敷を賜り、邸内に伊勢両宮の遥拝所を設けられたのにはじまり、その後、明暦3年(1657)江戸の大火で類焼したので、この年、替地を霊巌島に賜り社殿を造営、以来実に300年を経た。当地は河村瑞軒が隅田川に通じる水路を開いて舟揖(せんゆう)の便に利するに至って新川と称し、当宮を中心として酒問屋櫛比(しっぴ)し殷賑(*いんしん=にぎやかなこと)を極め今日に至るまで酒類の一大市場となった。爾来、当宮は夙(つと)に当地産土神として庶民の崇敬を集め、とくに酒問屋の信仰篤く、毎年新酒が着くと、これが初穂(はつほ)を神前に献じ、然(しか)る後はじめて販売に供した。 明治維新により幕府の庇護が絶えてからは専(もっぱ)ら酒問屋の守護神として崇敬厚く奉齋しきったが、昭和20年(1945)3月9日の戦災に罹(かか)り社殿を烏有(うゆう)に帰した(*=何もなくなること)。その後、新川も戦災焦土で埋め旧態を失ったが、再び往時の繁栄を回復しつつあるのはまったく当宮御神威の賜ものである。 偶々(たまたま)昭和27年(1952)が講和条約発効独立回復の年にあたる故をもって、酒問屋有志は深く当宮の御神徳を景仰し感激措(お)く能(あた)わず、すなわち社殿の再建を発起し、洽(あまね)く協賛を全国同業者に求めて同年5月7日地鎮祭、9月5日上棟祭、10月17日竣工遷宮ならびに例大祭を執行、聊(いささ)か神慮に応え奉り、敬神崇祖の微衷を捧げた次第である。 ここに当宮再建の由来を記し、同業協賛の美挙を載せて後世に伝えるものである。 ---------------- ◆『江戸名所図会』には以下のように記されている。 伊勢大神宮(いせだいじんぐう)――同所四日市町(よっかいちまち)にあり。この地の産土神とす(このところを俗間に、新川と唱う。酒問屋多くありて繁昌の地なり)。伊勢内外(ないげ)皇太神宮を勧請し奉り、遥拝所とす。遷宮、伊勢と同年なり(『江戸鹿子』〔藤田理兵衛、1687〕には、寛永〔1624-44〕中草創とあり)。伊勢内宮の社僧、慶光院比丘尼(けいこういんびくに)、江戸参府の折から、旅亭の儲けのために、この地を給うとぞ(慶光院伊勢上人は、格式御門跡並に比せられ、紫衣(しえ)を賜わりて御朱印地なり。始祖の比丘尼は、内宮建立のときより連綿として社僧たり。よって内宮の御師(おんし)山本太夫(たいふ)は、始祖慶光院の子孫なるゆえに、いまも、かの寺の住持比丘尼は、代々この家より嗣ぎ侍るとなり)。
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| S004 酒問屋(さけどんや)、油問屋(あぶらどんや) | |||||||||
文政期の『江戸買物独案内』によると下り酒問屋37軒の70%が新川にあったそうだ。なかでも鹿島清兵衛や同利右衛門は江戸屈指の富豪として、幕末に御用金を命じられているという。また、万治3年(1660年)、霊巖島に「油仲間寄合所」が設立され、大坂からの下り油の売買所と定められた。東京油問屋市場の前身の誕生である。戦後でもバブル期前までは酒問屋、食料油問屋・商社が多かった。現在でも酒造、醸造、食料油などの関係企業が拠点を構えている。
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| S005 永代橋(えいたいばし) | |||||||||
現在の橋は震災後の復興事業として大正15年(1925)に架けられ、橋長184m、幅員25mで、当初の場所からは下流に移っている。 ◆豊海橋北詰東側には、平成元年(1989)4月中央区設置の案内板があり、次の記載がある。 永代橋は元禄11年(1698)に隅田川の第4番目の橋として、現在の永代橋の場所よりも上流約150mのこの付近に架けられていました。当時、橋の左岸を永代島と呼んでいたことから「永代橋」と名付けられましたが、一説には5代将軍綱吉の50歳を迎えた記念として、その名をつけられたとも伝えられています。 当時諸国の廻船が航行していたため、橋桁を十分高くとったので、「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総、限りなく見え渡り眺望よし』といわれるほどの橋上からの景観でした。 左図(略)は安藤(歌川)広重の天保前期の作品「江戸名所之内永代橋佃沖漁舟」であり、月下の沖合いに点々と白魚舟の篝火(かがりび)が明滅する夜の江戸を、詩情豊かに描き出しています。 永代橋が現在の場所に移されたのは明治30年(1897)のことで、わが国の道路橋としては初めての鉄橋に生まれ変わりました。その後、関東大震災で大破し、大正15年(1926)12月に現在の橋に架け替えられました。その姿は上流の清洲橋の女性的で優美な雰囲気とは対照的に、男性的で重量感にあふれており、隅田川の流れとともに広く都民に親しまれています。 ◆2000年に土木学会選奨土木遺産としての次の碑が西詰北側に設置されている。 帝都を飾るツイン・ゲイト(永代橋)――「復興は橋より」、これが関東大震災後の復興事業の合言葉でした。帝都を代表する隅田川の入口にあたる第一、第二橋梁は、筋骨隆々とした男性的なイメージ(永代橋)と優雅な下垂曲線を描く女性的なイメージ(清洲橋)で演出されました。これに加えて土木学会では、次のような理由から永代橋と清洲橋をワンセットにして、第1回選奨土木遺産に選定しました。 ・2つの橋は、近代橋梁技術の粋をあつめてつくられた震災復興橋梁群の中心的存在である。 ・永代橋は、わが国ではじめてスパン100mをこえた橋であり、しかも現存最古のタイド・アーチ橋である。 ◆江東区側の隅田川テラスには次の解説板がある。 元禄11年((1698)、幕府の命によって「深川の渡し」にかわる木橋が架けられた。永代橋の歴史はここに始まる。享保4年(1719)大破の折には一旦廃橋と決められたものの、両岸住民の熱意が実って民間維持の橋として再建し、以後、公用橋となって文明開化の時代を迎える。 明治30年(1897)鉄橋に改めた永代橋は、もとの橋から約150m下流の現在位置に移り、関東大震災により大破。今の橋は、詩人として知られた木下杢太郎の兄、太田円三の設計、大正15年(1926)完成したものである。 東岸永代島から下流をとらえたのが左の絵(略)である。船の停泊するのは佃島、橋の上の人々を見下ろすように、はるか品川御殿山も描かれている。 ◆『江戸名所図会』には次の記載がある。 永代橋(えいたいばし)――箱崎より深川佐賀町に掛(か)くる。元禄11年戌寅(1698)、はじめてこれ架せしめらる。永代島に架(わた)すゆゑに名とす。長さおよそ110間あり。このところは、諸国への廻船輻輳(ふくそう)の要津(ようしん)たるゆゑに、橋上至って高し(この橋のかからざりし已前(いぜん)は、深川の大渡りとて、船渡しなりといふ)。東南は蒼海(そうかい)にして、房総の翠巒(すいらん=青々とした山の峰。緑の連山)斜めに開け、芙蓉の白峰は、大城の西に峙(そばだ)ち、筑波の遠峰は墨水に臨んで朦朧(もうろう)たり。台嶺・金竜の宝閣は、緑樹の蔭に見えかくれて、おのずから丹青(たんせい)を施すに似て、風光さながら画中にあるがごとし。
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| S006 船員教育(せんいんきょういく)発祥の地 | |||||||||
◆昭和50年(1975)11月、中央区教育委員会設置の碑文は次のとおり 内務卿大久保利通は、明治政府の自主的な海運政策を進めるにあたり、船員教育の急務を提唱し、三菱会社長岩崎弥太郎に命じて、明治8年11月、この地に商船学校を開設させた。当初の教育はそのころ隅田川口であり、海上交通の要衝でもあった永代橋下流水域に成妙丸を繋留して校舎とし全員を船内に起居させて行われたが、これが近代的船員教育の嚆矢となった。爾来100年、ここに端を発した商戦教育の成果は、わが国近代化の礎となった海運の発展に大きく貢献してきたが、その歴史的使命は幾変遷をへた今日、江東区越中島にある現東京商船大学に継承されている。 昭和50年(1975)11月、東京商船大学100周年記念事業委員会。 ◇成妙丸は明治8年(1875)11月1日から三菱商船学校の校舎となった。文久2年(1862)イングランドで建造。383トン、54.9m。明治8年12月に霊岸島銀町沖停泊、翌明治9年1月20日から第1期生44人ではじまった。
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| S007 船宿かわせみ | |||||||||
平岩弓枝の小説『御宿かわせみ』の舞台「船宿かわせみ」は大川端、ここ永代橋付近か? 八丁堀組屋敷への行き交いにも近い。
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| S008 新川(しんかわ)の跡 | |||||||||
新川は、現在の新川1丁目3番から4番の間で亀島川から分岐し、この碑の付近で隅田川に合流する運河。規模は延長590m、川幅は約11mから約16mと、狭いところと広いところがあり、西から一の橋、二の橋、三の橋の3つの橋が架かっていた。 この新川は、豪商河村瑞賢(ずいけん)が諸国から船で江戸へと運ばれる物資の陸揚げの便宜を図るため、万治3年(1660)に開削したといわれ、一の橋の北詰には瑞賢が屋敷を構えていたと伝えられる。当時、この一帯は数多くの酒問屋が軒を連ね、河岸に建ち並ぶ酒蔵の風景は、数多くの挿絵や浮世絵などにも描かれた。 昭和23年(1948)、新川は埋め立てられたが、瑞賢の功績を後世に伝えるため、昭和28年(1953)に新川史跡保存会によって、「新川の碑」が建立された。
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| S009 霊巌島(れいがんじま) 碑 | |||||||||
当地区は、今から370-80年前、江戸の城下町が開拓されるころは、一面の沼地葭原であった。寛永元年(1624)に、雄誉霊巌上人が霊巌寺を創建して、土地開発の第一歩を踏み出し、同11年(1635)には、寺地の南方に、越前福井の藩主松平忠昌が27000余坪におよぶ浜屋敷を拝領した。邸の北、西、南3面に舟入堀が掘られて後に越前堀の地名の起こる原因となった。 明暦3年(1657)の江戸の大火で、霊巌寺は全焼して深川白河町に転じ、跡地は公儀用地となって市内の町々が替地として集団的に移ってきた。 明治大正年間には富島町、浜町、塩町、大川端町、川口町、長崎町、霊巌島町、銀町、東港町(東湊町の間違いであろう)、新船松町、越前堀、南新堀の13町に分かれ、多額納税者も多数居住して検潮観測所もあり、湾内海運の発着地、倉庫地帯として下町商業の中心地であった。大正の大震災により全部焦土と化し、昭和6年(1931)7月区画整理によって、ゆかり深い町名も新川1、2丁目・霊巌島1、2丁目・越前堀1、2、3丁目と改称され、さらに昭和46年(1971)住居表示制度の実施により新川1、2丁目となった。江戸時代からの歴史を象徴する懐かしい遺跡も消えつつあるのを憂慮してこの記念碑を建立する。 ---------- ◆『江戸名所図会』には下記の記述がある。 霊巌島(れいがんじま)――箱崎の南にあり(町数、いま18町ばかりあり)。昔雄誉(ゆうよ)霊巌(れいがん)和尚、この地の海汀(かいてい)を築(つ)き立てて梵宮(ぼんぐう)を営みて、霊巌寺と号(なづ)く(よって後世、霊巌島といふ地名起これり、初めは、江戸の中島とよびしとなり。『東海道名所記』〔浅井了意、1659〕に、「れいがん島も江戸の地をはなれて、東の海中へ築き出したる島なり〕と云々)。後世、寺を深川へ移されて、その跡を町家(まちや)となしたまふといへり。ゆゑに、このところの北の通りより茅場町へ渡る橋を、霊岸橋〔注:橋名は「霊巌」ではなく「霊岸」と記されている〕と号(なづ)けたり。 ◆現在の霊巌寺について、江東区のHPには次の記載がある。 江東区白河1-3-32。都営・大江戸線(東京メトロ・半蔵門線)「清澄白河」駅 徒歩3分 霊巖寺は、徳川家康・秀忠・家光の信頼のあった雄誉霊巖が寛永元年(1624)、霊岸島(中央区)に創立し、明暦の大火による焼失後、万治元年(1658)に海浜の低湿地を住職珂山とその弟子により埋立てられ、現在の地に移転しました。 境内には、「松平定信の墓」や都重宝「江戸六地蔵」の一つ「銅造地蔵菩薩坐像」があります。
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| S009-1 雄誉霊巌上人(ゆうよれいがんしょうにん) | |||||||||
| 霊巌(れいがん) 天文23年4月8日(1554年5月9日) − 寛永18年9月1日(1641年10月15日) 江戸時代前期の浄土宗の僧。字は雄誉。号は松風。駿河国の出身。 10代前半で浄運寺の増誉に師事して出家し、15歳のとき下総国生実(現在千葉市中央区)大巌寺の道誉貞把に従って修学した。その後大巌寺の住職となり、奈良霊巌院・山田霊巌寺など各地に浄土宗寺院を建立した。徳川家康の帰依を受け、霊巖寺を寛永元年(1624)霊岸島(中央区)に創建し、明暦の大火後の万治元年(1658)江戸深川に移転、のち関東十八檀林の一つとなった。1629年(寛永6年)には京都知恩院32世となり、知恩院が火災で焼失すると、家康の孫で3代将軍徳川家光の庇護の下、知恩院を再興した。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を修正 ◆霊巌寺 江東区白河1-3-32 都営・大江戸線(東京メトロ・半蔵門線)「清澄白河」駅 徒歩3分 霊巖寺は、徳川家康・秀忠・家光の信頼のあった雄誉霊巖が寛永元年(1624)、霊岸島(中央区)に創立し、明暦の大火による焼失後、万治元年(1658)に海浜の低湿地を住職珂山とその弟子により埋立てられ、現在の地に移転しました。 境内には、「松平定信の墓」や都重宝「江戸六地蔵」の一つ「銅造地蔵菩薩坐像」があります。 ◆知恩院の大梵鐘 高さ3.3メートル、口径2.8メートル、重さ約70トン。知恩院の梵鐘は、京都方広寺、奈良東大寺と並ぶ大鐘として知られています。 この大鐘は、寛永13年(1636)、知恩院第32世雄誉霊巌上人のときに鋳造されたものです。当初、この鐘を吊る環が、何度造り替えてもその重さに耐えかねていたところ、ある日、刀匠正宗・村正師弟が知恩院へ参詣の折り、この事を聞き師弟力をあわせて精魂込めて鋳造し、ついにこの大鐘を吊るすことができたとの言い伝えがあります。 ◆《館山市指定史跡》 雄誉上人墓(おうよしょうにんはか) 【市指定】昭和43年12月23日 【所在地】館山市大網398 大巌院 大巌院開山の霊巌(れいがん)上人(1554-1641)は字(あざな)は松風(しょうふう)、号を檀蓮社雄誉(だんれんじゃおうよ)といいます。駿河国〈静岡県〉で生まれ、初め沼津浄運寺の増誉上人について出家し、肇叡(じょうえい)と名乗ります。やがて下総国生実(おゆみ)〈千葉県〉の大巌寺に行き、貞把(ていは)上人に師事して霊巌と改名しました。 霊巌上人は諸国で数多くの寺院の建立や、布教をするなど大活躍をしました。皇室の親任が厚く参内(さんだい)して後水尾(ごみずのお)天皇に進講したり、また徳川家からも篤(あつ)く帰依(きえ)を受けて、家康、秀忠、家光に親しく法談を行っています。後に知恩院32世となった上人の遺骨は分骨され、大巌院をはじめ各地のゆかりの寺々に埋葬されています。 《千葉県県指定有形文化財 建造物》 大巌院四面石塔 附 石製水向(だいがんいんしめんせきとう つけたり せきせいみずむけ) 【県指定】昭和44年4月18日 【所在地】館山市大網398 大巌院 元和10年(1624)に雄誉霊巌(おうよれいがん)上人が建立した玄武岩製の四角柱の名号石塔(みょうごうせきとう)です。総高は219cmあります。東西南北の各面には、北面のインドの梵字(ぼんじ)に始まり、西面に中国の篆字(てんじ)、東面に朝鮮のハングル、南面に日本の和風漢字と、わが国まで仏教が伝来してきた国々の言葉で、「南無阿弥陀仏」と名号が刻まれています。 これは阿弥陀如来の救いの慈悲の光が遍く世界を照らしていることを表わしています。このなかでハングルは、李氏(りし)朝鮮第4代王世宗が1446年に公布した「訓民正音(くんみんせいおん)」という文字で書かれています。それは現在使用されているハングルのもととなった古い文字で、非常に短期間で消滅したため、本家の朝鮮でも近年までよくわからなかったものです。 ◆大巌寺(だいがんじ) 所在地 千葉市中央区大巌寺町180 天文(てんぶん)17年(1548)生実(おゆみ)城主原胤栄(はらたねあき)と夫人利貞禅尼(りていぜんに)が下総(しもうさ)国北相馬(きたそうま)郡の弘経寺(ぐきょうじ)(茨城県水海道(みつかいどう)市)の道誉上人貞把(どうよしょうにんじょうは)を招いて建立した。天正(てんしょう)18年(1590)原氏滅亡後は徳川家康(とくがわいえやす)の保護を受け、本山増上寺(ぞうじょうじ)(東京都港区)を筆頭とする関東18檀林(だんりん)(僧侶の学校)の一つに数えられ、多くの名僧がでた。 寺宝に開山(かいざん)道誉上人が成田山新勝寺(なりたさんしんしょうじ)の不動明王(ふどうみょうおう)から授けられた天国(あまくに)の宝剣、利貞禅尼所持の舎利塔(しゃりとう)、大巌寺古図、檀林関係文書、天正18年徳川家康の寺領100石寄進状などがあり、本堂には桃園(ももぞの)天皇・「大巌寺」の勅額(ちょくがく)、山門には後水尾(ごみずのお)天皇の「竜沢山(りゅうたくさん)」の額を掲げる。 なお境内はかつて河鵜(かわう)の棲息地「鵜の森」として知られ、昔は5万羽もいたと伝えるが、昭和47年ごろから全く姿を消した。(千葉市『千葉市の散歩道』より抜粋)
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| S009-2 越前堀跡(えちぜんぼりあと) | |||||||||
◆平成17年(2005)3月、中央区教育委員会設置の説明板が越前堀児童公園にあり、以下の記載がある。
所在地 中央区新川一丁目・二丁目 江戸時代、この辺りは越前福井藩主、松平越前守の屋敷地でした。屋敷は三方が入り堀に囲まれ、これが「越前堀」と通称されていました。越前堀の護岸は石積みで、今でも建築工事昼夜遺跡の調査中に、越前堀のものと見られる石垣石が出土することがあります。堀の幅は12〜15間(20〜30mほど)もあり、運河として用いられ、荷を積んだ小舟が通っていたようです。 明治になり、越前守の屋敷地が「越前堀」という町名になりましたが、堀は次第に埋め立てられていきます。大正12年(1923)の関東大震災以後、一部を残して大部分が埋め立てられ、わずかに残っていた隅田川に近い部分も、戦後完全に埋め立てられました。その後、町名が改められ「新川」となって現在に至っています。 今では往時をしのぶ「越前堀」の名は、ここの越前堀公園に見られるのみとなりました。 ◆越前堀児童公園内に、中央区土木部公園課が設置した説明板があり、以下の記載がある。(設置年月は未掲載) 石の由来 設置 中央区土木部公園課 この公園で使用した石は、昭和60年(1985)東京都が日本橋川右岸改修工事をした際に雉子橋(きじばし)付近から発生した石垣の一部です。 徳川幕府は慶長10年(1605)第二次江戸城建設にあたり、江戸城およびお濠の石垣採取輸送を中国、四国、九州の31大名に命じました。石の大部分は伊豆半島の東海岸から切り出され、江戸まで運ばれましたが、石の切り出し、海岸までの輸送、陸揚げ等一連の作業は困難をきわめ、たいへんなお金と労力と犠牲がはらわれています。 また石には、各大名、組頭、石工等のものと思われる紋や目印等が刻まれているものもあります。
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| S009-3 越前堀の石垣石(いしがきいし) | |||||||||
| 平成18年(2006)に出土した越前堀石垣の石が越前堀公園に展示されている。 ◆「出土した越前堀の石垣石」 平成20年3月、中央区教育委員会設置の説明板
江戸時代、この辺りは越前国福井藩主松平越前守の屋敷地でした。屋敷は三方が堀に囲まれ、これが「越前堀」と通称されていました。越前堀の護岸は石積で、今でも土木工事や遺跡の調査中に出土することがあります。堀の幅は12〜15間(20〜30mほど)もあり、運河としても利用され、荷を積んだ小舟が通っていたようです。 明治になり、屋敷の跡地が「越前堀」という町名となりましたが、堀は次第に埋め立てられていきます。大正12年(1923)の関東大震災以降、一部を残して大部分が埋め立てられ、わずかに残っていた隅田川に近い部分も、戦後完全に埋め立てられました。その後、町名が改められ「新川」となって現在に至ります。 今では往時をしのぶ「越前堀」の名は、この区立越前堀児童公園に見られるのみとなりました。 なお、この公園は関東大震災後につくられた「帝都復興小公園」の一つである「越前堀公園」から始まっています。
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| S010 松平越前守(まつだいらえちぜんのかみ) 屋敷 | |||||||||
| 幕末期は越前福井藩松平越前守慶永(よしなが)、32万石の屋敷があった。約3万坪。屋敷内には瘡神社があり信仰を集めたという。これから地名が越前堀と名付けられた。現在は新川。 ◆越前松平家は、越前国にあった松平氏の一支系で、親藩・御家門のひとつ。単に越前家ともいう。徳川家康の次男松平秀康を家祖とする福井藩の藩主家。秀康は、長兄信康自刃ののちは家康の庶長子であったが、はじめ豊臣秀吉の養子となって徳川家を離れ、のちに結城氏を継いでいたこともあって、将軍職を継がされず、関ヶ原の戦いののち越前国北庄に67万石を与えられた。晩年、名乗りを結城から「松平」に戻し、これにより越前松平家が成立する。 しかし、二代忠直は将軍家に反抗的で、妻の父でもある二代将軍秀忠の怒りを買い、1623年配流されてしまった。その跡に越後国高田藩主の弟忠昌が入り、北庄を福井と改めて福井藩を起こすが、所領は52万石に減ぜられた。さらにそれ以後も分封と家督相続の混乱を繰り返して所領は減りつづけ、1686年までにわずか25万石に減少してしまった。のち支藩の再統合と加増により、32万石まで復す。減封を繰り返した末、宗家は1749年断絶。以後は御三卿・将軍家から養子が入るようになった。中でも田安徳川家から入った松平慶永(春嶽)は名君として名高い。 ◆松平慶永(まつだいら よしなが) 号・春嶽(しゅんがく) 文政11年(1828)9月2日 〜明治23年(1890)6月2日、東京生まれ。幕末の福井藩主。父は徳川三卿田安家三代目の斉匡。福井藩主松平斉善の嗣子となる。中根雪江、横井小楠、橋本左内らを登用し、藩政改革を推進。当初攘夷派であったが、のち積極開国論に転じ、開明派の藩主として知られる。将軍継嗣問題で一橋慶喜を推し、安政の大獄で謹慎処分を受ける。文久2年(1862)政事総裁職に就任し、幕政改革にあたる。公武合体派として幕府と朝廷の間を調整。戊辰戦争時は徳川家擁護に尽力。新政府では議定、民部卿、大蔵卿、大学別当兼侍読等を歴任した。(国立国会図書館「近代日本人の肖像」HPから)
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| S011 於岩稲荷田宮神社(おいわいなりたみやじんじゃ) | |||||||||
◆平成11年、中央区教育委員会設置の説明板には以下の記載がある。 於岩稲荷田宮神社の鳥居・百度石 於岩稲荷田宮神社は、4代目鶴屋南北の戯曲で、文政8年(1825)に初演された「東海道四谷怪談」の主人公、お岩の伝承を持つ神社です。社地は歌舞伎俳優の初代市川左団次の所有地であったと伝えられ、花柳界や歌舞伎関係者などの人々の参詣で賑わいました。境内の本殿横にある石造の鳥居は明治30年(1897)1月に造立されました。花崗岩製のこの鳥居は、中央区に現存する中では2番目に古い鳥居です。鳥居の形式は「神明鳥居」に属し、柱下部には断面が花形の根巻と四角い台座が付いています。 鳥居の奥にある百度石は民間信仰である「お百度参り」のための石塔です。中央区内に現存する百度石のうちでは最古のものです。左側面には「大阪浪花座興行記念 四代目市川右団次]と刻しており、市川右団次がお岩の上演を記念して奉納したものです。戦前・戦後を経て、現在もこの百度石でお百度参りを祈願する人も少なくなく、庶民の信仰とともに生きています。 鳥居・百度石はともに中央区民有形文化財に登録されています。 ◆四谷於岩稲荷田宮神社のパンフレットに記載された第11代田宮均宮司が著した同神社の歴史 ・1636(寛永13年) 田宮岩没。お岩さまが信仰していた屋敷社が「お岩稲荷」と呼ばれるようになり、崇敬者が多数あった。 ・1717(享保2年) 「お岩稲荷」勧進、「於岩稲荷社」となる。 ・1825(文政8年) 祭神「於岩さま」が主人公の東海道四谷怪談(4世鶴屋南北作)が上演される。 ・1827(文政10年) 「文政町方書上」に「於岩稲荷社来由」が付される。 ・1870ごろ 「於岩稲荷田宮神社」と改称 ・1879(明治12年) 現中央区新川にも同神社できる。 ・1931(昭和6年) 四谷左門町の「於岩稲荷田宮神社」地が東京都史跡として指定される。 ・1998(平成10年) 中央区新川の神社境内の鳥居・百度石が中央区区民文化財に指定される。 ◆実在のお岩は、寛永13年(1636)2月22日、36歳で亡くなった。墓は豊島区巣鴨の妙行寺にある。戒名は得証妙念。この寺は当初、四谷の鮫河橋南町(さめがはしみなみちょう)にあったが、明治40年(1907)現在地に移転した。 ◆岸乃青柳著『東京の「お寺神社」謎とき散歩』(廣済堂出版)では、次のように紹介されている。同神社に四谷の同社を解説した印刷物が用意されている。 --- この神社の「於岩」というのは「お岩」という江戸時代の初期、江戸の四谷左門町で健気な一生を送った女性のことである。その女性の美徳を祀っているいるのが、この神社である。ところが、その「お岩」さんの死後二百年近く経ってから、図らずも芝居の主人公になった。「四谷怪談」である。しかし福を招き、商売繁盛のご利益があり、芸能の成功、興行の成功にはことさら霊験あらたか。さらに最近では交通安全、入学試験にも功徳がある、と言う。怨霊と「お岩」さんの関係は、いったいどうなっているのか。 脚色された於岩 ◇第一幕 時は江戸初期。 所は四谷左門町の武家屋敷の一角。 お岩は徳川家の御家人の田宮又左衛門の娘で、夫の田宮伊右衛門とは人も羨む仲のいい夫婦だった。 ところが三十俵三人扶持というから、年の棒給は一・六石足らず。台所はいつも火の車だった。 そこでお岩夫婦は家計を支えるため商家に奉公に出た。お岩が日頃から田宮家の庭にある屋敷社を信仰していた おかげで、夫婦の蓄えも増え、田宮家はかつての盛んな時代に戻ることができた。 お岩稲荷 信仰のおかげで田宮家は復活した、と言う話はたちまち評判になった。そして、近隣の人々はお岩の幸運にあやかろうとして、屋敷社を「お岩稲荷」と呼んで信仰するようになった。評判が高くなるにつれ、田宮家でも屋敷社のかたわらに小さな祠を造り、「お岩稲荷」と名付けて家中の者も信仰するようになった。そればかりでなく、毎日のように参拝に来る人々の要望を断り切れず、とうとう参拝も許可することになった。 それからは「於岩稲荷」「四谷稲荷」「左門町稲荷」などいろいろに呼ばれたが、家内安全、無病息災、商売繁盛、開運、さらに悪事や災難除けの神としてますます江戸の人気を集めるようになった。お岩という女性に怨霊のかけらもない。 ◇第二幕 時は江戸後期。 ところは、歌舞伎の作者。鶴屋南北の部屋。 鶴屋南北はかねてから、「於岩稲荷」のことを聞いていた。お岩という女性が死んでからもう二百年がたっている。それなのに今でも江戸で根強い人気かあることに注目した。人気のある「お岩」という名前を使って歌舞伎にすれば、大当たりは間違いない、と見当を つけた南北は台本書きに入った。 お岩があんな善人では面白くない。刺激の強い江戸の人間を呼ぶにはどぎついまでの脚色が必要だ。南北は「お岩稲荷」からは「お岩」の名前だけを拝借して、江戸で評判になったいろいろな事件を組み込んだ。密通のため戸板に釘付けされた男女の死体が神田川に浮かんだことがある。よし、これを使おう。 主人殺しの罪で処刑された事件もあった。あれも使える。姦通の相手にはめられて殺された俳優がいた。それも入れよう。四谷左門町の田宮家には怨霊がいたことにしよう。江戸の人間なら、だれでも記憶にある事件を作家の空想力で操り、脚本はできた。 しかし、四谷が舞台では露骨すぎる。「お岩」の名前だけ借りれば十分だ。南北が付けた題名は「東海道四谷怪談」。四谷の於岩稲荷の事実とは無関係な創作であることを示すことにした。天才的な劇作家が虚実取り混ぜて創作したのが、お岩の怨霊劇だった。 ◇第三幕 時は、文政八年(1825)。江戸文化が最も華やかで、文化爛熟といわれた時代。寛政から始まった幽霊物の読み本が最盛期を迎えていた。 果たせるかな、歌舞伎は大当たりした。お岩は三代目尾上菊五郎、伊右衛門は七代目市川団十郎の「東海道四谷怪談」は江戸中の話題をさらい、依頼、お岩の役は尾上家の「お家芸」になったほどだった。歌舞伎がますます於岩稲荷に人気を煽った。あまりの人気ぶりに幕府も当惑し、四谷塩町の名主・茂八郎に命じて町内の様子や出来事をまとめさせ、奉行に提出させている。歌舞伎の初演から二年目のことだった。 ◇第四幕 時は、その後。 ところは四谷左門町・於岩稲荷神社。 この歌舞伎の影響力は大きかった。最初は出演した役者がもっぱら参拝していた。そのうち上演前に参拝しないと役者が病気になる、事故が起こるといった話にまで発展するようになった。祟りがある、という声もあったが、事故の原因はほかにあった。なにしろ怪談て゜ある。トリックを懲り、道具だても複雑になり、多くなる。おまけに怪談だから、どうしても照明は暗い。また天井からの吊し物も多い。そんな中で芝居することになるので怪我が多かった、ということだろう。それが怪談にからめて「祟り」と結びついたのである。 ◇第五幕 時は、明治以降。 ところは中央区新川。 「東海道四谷怪談」を手掛けては天下一品といわれた市川左団次から、「四谷まで毎度出かけていくのでは遠すぎる。是非とも新富座などの芝居小屋のそばに移転してほしい」という要望もあり、明治十二年(1879)の四谷左門町の火事で社殿が焼失したのを機会に、隅田川の畔にあった田宮家の屋敷内に移転した。それが現在の中央区新川にある於岩稲荷神社で、四谷の於岩稲荷とまったく同体の神社だ。その新川の社殿は昭和二十年(1945)の戦災で焼失したが、戦後、四谷の於岩稲荷ともども復活して、現在は二つの於岩稲荷がある。
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| S012 隅田川(すみだがわ)テラス | |||||||||
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| S013 中央大橋(ちゅうおうおおはし) | |||||||||
構造形式は鋼斜張ハープ橋、橋長215.0m、幅員25.00m、平成5年(1993)3月完成。
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| S014 霊岸島検潮所(れいがんじまけんちょうしょ)・量水標(りょうすいひょう)跡 | |||||||||
◆「日本水準原点と霊岸島水位観測所」の説明板が、建設省関東地方建設局・荒川下流工事事務所によって隅田川テラスに掲げられている。そのあらましは次のとおり。 日本の近代測量は明治初期に始まった。当時の測量方法は、主要河川の河口部に水位を測るための「量水標」を設け、測量を行うときには近くの「量水標」の平均海面データを用いていた。量水標の主なものは、明治5年に日本初が利根川河口にでき、明治6年に霊岸島、明治7年に江戸川、淀川など全国に設置された。 霊岸島水位観測所の零位は、A.P.0m(エーピーゼロ=A.P.はArakawa Peilの略、Peilはオランダ語で「基準」あるいは「標準」の意)と呼ばれるようになった。その後、平均海面のデータの全国統一に選ばれたのが、ここ霊岸島観測所だった。 平均海面を算出するために、ここで明治6年6月から6年3ヵ月にわたり潮位を測定し平均値を求めた。このときの値1.1344mを東京湾平均海面、すなわち「T.P.0m」とし、全国の高さの基準とした。明治24年5月、千代田区永田町に「日本水準原点」が設置され、原点の高さ24.5000mが基準点となった。大正12年関東大震災の影響で、昭和3年に24.410mに改訂され、現在に至っている。 その後の東京湾の埋め立てや隅田川の河川水の影響で、水準原点の観測所としては、現在では神奈川県三浦半島油壺の観測所にその機能が移されている。霊岸島水位観測所は、荒川水系の基礎データ観測を続けている。隅田川テラス護岸施行に伴い平成6年5月に元の位置から約36m下流に移設した。元の観測所の位置には歴史的経緯を長く後世に伝えるため、観測柱を正面にシンボル柱として設置した。また、新しい観測所の3角形のフレームは高さを表わす記号▽をイメージし、その下端部はA.P.0mを指し、その一辺の長さは観測所位置の東経139°47′にちなみ13.947m。観測室は斜方12面体という形の立方体で、それぞれの面に勾配45°の四角錘を付加したような形をしていて、川に沿って視点を移動していくと正方形、正六角形、八角形と変化して見える。
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| S015 江戸港(えどみなと=江戸湊)発祥跡 | |||||||||
◆平成11年(1999)1月、東京京橋ライオンズクラブ建立の江戸港発祥の碑がある。設置場所は新川リバー通りから入った、隅田川テラス。説明文は以下のとおり。 慶長年間、江戸幕府がこの地に江戸湊を築港してから、水運の中心地として江戸の経済を支えていた。昭和11年(1936)まで伊豆七島など諸国への航路の出発点としてにぎわった。
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| S016 向井将監(むかいしょうげん) 御船手組屋敷 | |||||||||
◆新船松町 『東京都の地名』(平凡社) 明治2年(1869)起立。北西は東湊町1・2丁目、南西は亀島川、東は大川(隅田川)に面していた。寛永年間(1624-44)以来は御船手頭向井将監支配による御船手組屋敷があり、南西の亀島川と大川の合流点に面して船見番所があった。明治維新後、船松町1丁目新地と改称し、明治2年新船松町と改称した。 ◆安藤菊二著『八町堀襍記』には次の記載がある。 向井氏は幕府に仕えて子孫世々船手の職を勤めた。講談社版『大日本人名辞書』から転載する。 向井忠勝(むかいだたかつ) 徳川氏の臣、姓は源氏、左近衛将監と称す。其祖仁木義長の孫政隈始めて族を向井と称す。政隅の曾孫を政重と云い、政重の二男を政綱(甲斐国志に忠安に作る)と云い、武田勝頼に仕ふ。之を忠勝の父と為す。 忠勝、徳川氏に仕へ、天正8年3月甲斐の婢将鵜殿兵部の軍船を三島浜に奪ふ。大坂冬の役忠勝海門を守り、九鬼守隆等と舟師を帥ゐて伝法海口に到り、快戦して敵の哨船数十を奪ふ。功を以て食邑を相模、上総に賜はる。後寛承18年10月14日死す。年60。法名月峰宗心、真珠院と号す。子忠政、右衛門と称し、封を継ぎ子孫世々船手の事を掌(つかさど)りて幕府に仕ふ。 忠勝の後、正俊、忠宗と継ぎ、忠宗の時、子甚右衛門が正保4年10月病没し、嗣なくして家は断絶した。 向井宗家に代わって水軍を掌(つかさど)ったのは忠勝の五男正方であった。寛永18年12月、父の遺跡三浦郡の内において千百石を頒ち与えられ、兄忠宗隊下の水主(かこ)30人を預けられて御船奉行となった。 ◆向井将監(むかいしょうげん) 『日本史広辞典』(山川出版社) 慶長3年(1598)〜寛永18年(1641)10月14日。江戸時代前期の幕府船手頭。父は正綱、諱は忠勝。16歳で徳川秀忠に仕え、大坂の陣では水軍を率いて活躍、秀忠、家光の御座船を指揮した。以降、向井家は代々将監を称して船手頭を世襲、その首位の座にあり、将軍御座船の指揮をとった。幕府船手である向井流の泳法も継承した。
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| S017 将監河岸(しょうげんがし) | |||||||||
◆新川に生まれた萩原久利氏は著書『江戸湊の残英』(1993/7/20、非売品)で、付近の思い出を次のように述べている。 南高橋からみる大川は、大川端でみる大川とはまたちがった風景だった。右手の湊町側は大きく右へ弓形に湾曲していて機帆船が何隻もいる。亀島川に入ってくる艀を橋上から直下にみる。(略)大川に向って大きく開けたこのあたりは、少し遠景になる行き交う船に、しみじみと湊を想わせるものがあった。 左に桜川(八丁堀)の入口があり、川の右側は〈将監河岸〉で岸いっぱいに倉庫が続き、八丁堀入口にも将監河岸にも伝馬船やだるま船が二重三重に舫っていた。
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| S018 中村不折(なかむら・ふせつ)生誕の地 | |||||||||
◆台東区根岸の書道博物館に設置されている東京都教育委員会、平成13年(2001)3月31日の説明板には以下の記載がある。 東京都指定史跡 中村不折旧宅(書道博物館) 所在地 台東区根岸2丁目10番4号 指定 昭和27年(1952)11月3日 中村不折は、明治・大正・昭和初期の洋画家で書家であり、慶応2年(1866)7月10日江戸八丁堀に生まれた。幼名をニ太郎という。少年時代を長野で過ごし明治20年(1887)上京し、浅井忠や小山正太郎に師事し、明治美術会に出品するほか、「小日本」新聞の挿絵なども担当していた。 明治34年(1901)から4年間フランスに留学し、ラファエル・コランやジャン=ポール・ローランスの教えを受けた。帰国後は、太平洋画会や帝国美術院の会員として展覧会活動を行う一方、太平洋美術学校校長として後進の育成にも力を入れ、多くの逸材を育て美術教育にも貢献した。 書道界では、書家としての活動の他に書道博物館の創設者としても知られている。昭和11年(1936)11月3日に開館した書道博物館は、中国と日本の書道史研究上重要なコレクションを有する専門博物館で、重要文化財12点、重要美術品5点を含む1万6千点が収蔵されている。昭和20年(1945)4月の空襲で中村邸の居宅と蔵は焼失してしまったが、博物館とその収蔵資料および不折の胸像や石灯籠などは焼失を免れた。 不折は大正2年(1913)から亡くなるまでの30年間、この根岸の地に住んだ。昭和18年(1943)6月6日78歳で死去、多磨霊園に葬られた。 --------- 慶応2年(1866)7月10日、江戸京橋東湊町二丁目に生まれる。幼名ニ太郎。明治3年(1870)、維新の混乱を避け、母の郷里・長野県高遠町に移住。明治17年、小学校授業生(代用教員)に合格。明治21年上京、画塾「不同舎」に入門。明治27年、浅井忠の紹介で正岡子規と知り合い新聞挿絵を発表。明治28年、日清戦争従軍記者として中国に渡る。明治34年、渡仏。明治38年帰国、漱石『我輩は猫である』に挿絵。明治40年、文展、帝展など官設展覧会に出品を続ける。明治45年、書道研究の「龍眼会」結成。大正3年、帝国美術院会員。昭和11年、収集した書道資料展示の「書道博物館」開館。昭和12年、帝国芸術院会員。昭和18年(1943)6月6日死去、78歳。
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| S019 徳船(とくふね)稲荷神社 | |||||||||
徳川期、この地新川は、越前松平家の下屋敷が三方掘割に囲われ、広大に構えていた(旧町名越前堀はこれに由来する)。その中に小さな稲荷が祀られていたという。御神体は徳川家の遊船の舳(とも、へさき)を切って彫られたものと伝えられる。明暦3年、世にいう振袖火事はこの地にも及んだが御神体はあわや類焼の寸前、難を免れ、大正11年(1922)に至るまで土地の恵比寿稲荷に安置された。関東大震災で再度救出され、昭和6年(1931)、隅田川畔(現中央大橋北詰辺り)に社を復活し、町の守護神として鎮座したが、戦災で全焼。昭和29年(1954)、同所に再現のあと、平成3年(1991)、中央大橋架橋工事のため、この地に遷座となる。例祭は11月15日である。 ◆『江戸名所図会』には下記の記載がある。 恵比寿前(えびすまえ)稲荷祠――同所東湊町(ひがしみなとちょう)の南、高橋の北詰、人家の間にあり(別当は天台宗にして普門院(ふもんいんと号す)。昔は、向井(*将監)侯のやしきにありしが、海賊橋より引き移られし頃、宮居を構の外に出だされしとぞ。このところをゑびすの宮前(みやまえ)、または、蛭子前(えびすまえ)と唱へはべり(古老云く、昔、この地より銕炮洲(てっぽうず)・築地へかけて、一円の海なりし頃は、ここかしこに出洲(です)のみあり。このあたりの洲に芝海老といえるもの多く集まる。ゆゑに、漁人字(あざな)にえびの洲と唱へ、その洲崎にありし稲荷の宮なるをもて、海老洲の宮とのみ、よびならはせしが、後世誤りて、蛭子神(ひるこのかみ)に混じ、また、夷子(えびす)に転じ、いよいよ附会せしなりとぞ。この説、さもありなんかし)。
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| S020 湊橋(みなとばし) | |||||||||
◆平成2年3月、中央区設置の案内板には以下の記載がある。 万治2年(1659年)12月、隅田川三又(みつまた)、現在の中洲(ながず)あたりにおいて仙台侯伊達綱宗により遊船中にて吊し斬りにあった新吉原三浦屋の遊女高尾太夫(2代目高尾、野洲塩原の出)の遺体がこの地に引き揚げられ、これにより約80m隅田川岸、旧東神倉庫、今の三井倉庫敷地内に稲荷社として祀られ、古く江戸時代より庶民の信仰の対象となりかなり栄えた。
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| S021 豊海橋(とよみばし) | |||||||||
箱崎町側の近くに日本銀行発祥の地碑がある。かって旧永代橋はこの豊海橋の箱崎町側に架かっていて、深川方面から日本橋への道だった。 ◆現在の橋は昭和2年(1927)震災復興橋として改架された。橋長46m,幅員8m。はしごを横倒しにしたような外観で、フィレンデール橋と呼ばれる全国でも珍しいデザイン。永代橋とマッチするように、シンプルなデザインのなかに鋲止(びょうどめ)形式という古い形態を残し、重量感のある鉄骨橋梁の代表例として貴重とのこと。 中央区民有形文化財・建造物。所在地:中央区新川一丁目〜日本橋箱崎町(日本橋川)。 ◆平成14年(2002)3月、中央区教育委員会設置の説明板には以下の記載がある。 中央区民文化財 豊海橋 所在地 中央区新川一丁目・日本橋箱崎町(日本橋川) 現在の豊海橋は大正15年(1926)5月起工、昭和2年(1927)9月竣工。 日本橋川が隅田川に流入する河口部の第一橋梁です。橋の歴史は古く、江戸時代中期には豊海橋(別名「乙女橋」)がありました。この辺りは新堀河岸と呼ばれ、諸国から廻船で江戸に運ばれた酒を陸揚げするところで、川に沿って白壁の酒蔵が並んでいました。 明治期には豊海橋は鉄橋になり、大正12年(1923)の関東大震災で落橋してしまいました。復興局は新規に設計を土木部の田中豊に依頼、実際の設計図は若手の福田武雄が担当。隅田川支流の河口部の第一橋梁はデザインをひとつひとつ変えて区別しやすく工夫していました。それは隅田川から帰港する船頭に対する配慮でした。 福田武雄はドイツ人フィーレンデールの案出した橋梁デザインを採用し、梯子を横倒しにしたような外観で重量感ある豊海橋を完成しました。この様式は日本では数ヵ所あるのみで近代土木遺産としても貴重な橋で、区民有形文化財に登録されています。
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| S022 日本銀行創業の地(にっぽんぎんこうそうぎょうのち) | |||||||||
明治15年10月10日、日本銀行はこの地で開業した。明治29年4月、日本橋本石町の現在地に移転した。創業百周年を記念してこの碑を建てる。 ◆この地にあった北海道開拓使出張所(開拓使物産売捌所)の跡に日本銀行が創業した。 北海道開拓使は明治2年(1869)7月から明治15年(1882)2月まで設置された。日本銀行が入った建物は明治14年(1881)1月竣工したもので、設計は明治政府が招いた、いわゆるお雇い外国人のイギリス人建築家ジョサイア・コンドルによる初期のもので、イスラム的なアーチが特徴。。コンドルは明治10年(1877)に来日し、工部大学校造家学科(現・東京大学工学部建築学科)で建築家を育成して、上野博物館、ニコライ堂、鹿鳴館などを設計した。
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| S023 高尾稲荷社(たかおいなりしゃ) | |||||||||
江戸時代この地は徳川家の船手組持ち場であったが、宝永年間(1708年)の元旦に、下役の神谷喜平次という人が見回り中、川岸に首級が漂着しているのを見つけて手厚く埋葬した。 万治2年(1659)江戸の花街・新吉原京町一丁目、三浦屋四郎左衛門店の遊女で2代目高尾太夫。傾城という娼婦の最高位にあり、容姿端麗にて、艶名一世に鳴りひびき、和歌、俳諧に長じ、書は抜群、諸芸に通じ、比類のない全盛を誇ったといわれる。 生国は野州塩原塩釜村百姓長助の娘で当時19歳であった。その高尾が仙台藩主伊達綱宗侯に寵愛され、大金を積んで身請けされたが、彼女にはすでに意中の人があり、操を立てて侯に従わなかったため、ついに怒りをかって隅田川の三又(みつまた=現在の中洲)あたりの楼船上にて吊り斬りされ、川中に捨てられた。 その遺体が数日後、当地大川端の北新堀河岸に漂着し、当時そこに庵を構え、居合わせた僧が引き揚げて、そこに手厚く葬ったといわれる。高尾の不憫な末路に広く人びとの同情が集まり、そこに社を建て、彼女の神霊高尾大明神を祀り、高尾稲荷社としたのが当社の起縁である。 現在この社には、稲荷社としては全国でも非常にめずらしく、実体の神霊(実物の頭蓋骨)を祭神として社の中に安置してあります。江戸時代より引き続き、昭和初期まで参詣のために訪れる人多く、縁日には露店なども出て栄えた。 縣願と御神徳 頭にまつわる悩み事(頭痛、ノイローゼ、薄髪など)、商売繁盛、縁結び、学業成就。縣願にあたり、この社より櫛1枚借り受け、朝夕、高尾稲荷大明神と祈り、縣願成就ののち、ほかに櫛1枚を添えて奉納する慣わしが、昔から伝わっております。 高尾が仙台侯に贈ったといわれる句 君は今 駒形あたり 時鳥(ホトトギス) 辞世の句 寒風に もろくも朽つる 紅葉かな
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| S024 梅花亭本店(ばいかていほんてん) | |||||||||
| 御菓子匠・梅花亭本店は嘉永3年(1850)、大伝馬町で創業。初代は徳川家康公の御用御金(札差)として江戸開府の際に江戸にくる。創業から3年目の嘉永6年ペリー来航のすぐあとに、はじめて和菓子を釜で焼く「亜墨利加饅頭」を売り出し評判となる。厚手で梅を模(かたど)り、青えんどう豆を使った若草色飴の味わい「梅もなか」は代表的なもの。支店は2店あり、小伝馬町店では1年に2日間(10/19-20)だけ宝田恵比寿神社「べったら市」で売り出される「喜利羊羹」と「切り山椒」、深川不動尊の仲見世通りにある深川店では2代目が創作し、煎餅のような薄さが特徴の「どら焼き」が名物。新川本店では「亜墨利加饅頭」のほか6代目が創案した「梅もなか」「仏蘭西饅頭」などが人気商品。中央区新川2-1-4 電話03-3551-4660、休業日:日曜・祭日 (参考資料)『東京メトロ沿線だより』2007/2月号から
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| S025 稲荷堀(とうかんぼり) | |||||||||
稲荷堀(とうかんぼり) 所在地 中央区日本橋蛎殻町一丁目・日本橋小網町 地域 小網町と蛎殻町1丁目の境にあたるこの辺一帯は、昔は堀割になっていました。その河岸の端に稲荷神社があったことから、稲荷を音読みで「とうか」とか「とうかん」と読んで、堀を「とうかん堀」と呼んだと伝えています。 この地域はこの堀を利用して各種の荷物が船で運ばれたために問屋が集まり、とくに瀬戸物問屋の多かったところです。堀の出入口にあった行徳河岸は寛永9年(1632)以来、この堀と下総(千葉県)行徳村とを結んできました。この水路は行徳からの塩の受入地となり、また江戸から下総への唯一の交通路となって、行徳行きの人と塩などを運んだ船が出入りする賑やかなところでした。 この堀は最古の江戸図といわれる「寛永江戸図」にも見られます。また、この堀に沿って酒井雅楽頭(うたのかみ)の屋敷が幕末までありました。姫路藩15万石の藩主として知られています。酒井家の屋敷の一部は明治維新のあと、明治6年(1873)10月まで西郷隆盛の屋敷となりました。 なお、東華小学校(現日本橋小学校)の校名は稲荷堀の稲荷(=とうか)をとって東華(=とうか)と名付けられたといわれています。
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| S026 行徳河岸(ぎょうとくがし) | |||||||||
行徳河岸(ぎょうとくがし) 所在地 中央区日本橋小網町1-3番先・日本橋蛎殻町一丁目1番先 地域 かつて箱崎町と小網町・蛎殻町の間には、運河である箱崎川が流れていました。寛永9年(1632)、南葛西郡本行徳村(千葉県市川市)の村民が小網町三丁目先の河岸地を幕府から借り受け、江戸と行徳の間で小荷物や旅客の輸送を開始して以来、ここは行徳河岸と呼ばれるようになりました。江戸と行徳とを結ぶ船は毎日運航され、成田山新勝寺の参詣などで房総に向かう多くの人びとが、この水路を利用しました。
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