町会設立50周年記念誌    中央区八丁堀二丁目東町会

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私の八丁堀〜この町とともに(4)

●レイアウトの関係で寄稿者ごとに2段組になっています。左段から右段へ読みつなげてください。


グリル「ハワイ園」
−プロレス放送で満員に

澤佐 由太郎

父豊次郎は昭和20年(1945)、戦争が終わるとすぐ家を新築し、そして考えたことは、近所の人々が困っている水道、トイレの仕事をしよう、と新聞で働く人を募集して水道屋を始めた。豊国工業の始まりでした。同時にミルクホールを始めました。このころコーヒー40円。
昭和27年(1952)にはグリル「ハワイ園」を開店。喫茶・洋食の店で、8人のコック、ウエイトレスがいました。当時のメニューでは、ビール160円、カレーライス110円、コーヒー60円でした。【掲載メニューは昭和27年(1952)ころ】
テレビも少ない時代、外国製のテレビを買いました。プロレス放送が始まると店内は満員、店の外も満員。ガラス戸が壊れたことがありました。また、芸能人も店によく見えました。女優の北原美枝さん、男優では伊藤雄之助さんなどを覚えています。
都電は鍛冶橋通りを通っていました。会社への出前が多かったので乗用車を買い、運転手を雇ってたくさんの出前をしました。車は現在の新大橋通りの真ん中に置いておいたものです。そのくらい車がまだ少ないときでした。
次第に働く人がいなくなったので、日比谷線が開通(*昭和38(1963)年)したころ閉店し、水道屋だけになりました。私は喫茶部でコーヒーを作っていました。店をやめてから他の店にコーヒーを飲みに行くのが楽しみでした。

可搬ポンプ操法講習会に参加

山田 利男

平成12年(2000)10月28日(土)、晴海埠頭駐車場で町会の配置されたD級軽可搬ポンプの取り扱いと煮炊き釜バーナーの実技訓練が実施されました。
中央区内の13防災組織、63名のほか中央区役所、京橋・日本橋・臨港の各消防署及び消防団が参加し、熱心に訓練が行われた。当町会からは佐久間、鎌田、泉各町会員と私が参加しました。

今年は特に、大島・新島の地震、鳥取県西部地震(M7.2)、北海道有珠山の噴火、と近年になく自然災害が多発しており、東京都直下型地震の予想もされる現況であります。中央区では三宅島からの避難民が長い避難生活を続けています。
大規模地震発生の際は、区民一人ひとりが互いに協力し、助け合い、地域の安全を図ることが、国、東京都、八丁堀を守ることになると思います。
八丁堀地域の防災拠点は、「中央小学校」と「旧京華小学校」です。
防災拠点は、震度8以上の烈震でも倒壊しないように、建物の補強がされ、また、住民が3日間程度備えられる食糧と、プールの水を浄水する器材が配置されています。
いったん災害が発生したときには、『隣近所の老人、子供たちを安全に誘導すること』、を常に念頭に入れておいて、いざ! というときの行動を考えておくことが重要です。


よもやま話

水戸部 ミサオ

主人が夜なべをしながら話しをしたことを、書き記してみたいと思います。――
                                           ◇
主人録郎は、父七之助、母オニサとの間に7人の子どもの6人目で「録郎」と名を付けられた。
父は石屋に奉公に出され、石屋の職人になり、栃木県下都賀郡大字親里の宿場の中ほどに、わずかな財産を分けてもらい所帯を持った。腕のよい職人だが、母はたいそう苦労したそうで、職人に支払うお金を使ってしまったり、何日も帰らないこともあった。父の最期は、肝臓が悪くなり大正4年(1915)に亡くなった。主人が1年生の初めのころだった。
                                   ○○
主人の家は貧しかったので、煮炊きする薪の節約のために"松ごく"といって、松の枯れ落ち葉を拾いに松林へ行く。日曜日は午前中に背籠に3杯、午後からは2杯、と決めてあり、雨の日は行かなくてもよいので本当にうれしく思ったそうだ。遊び盛りで辛かったけれども、煮炊きに差し支えるのが分かっていたので、怠けることはできなかった。
"子守"と"松ごく"とどちらがよいか、と聞かれたとき、主人は「松ごく拾い」と言ったという。背中で赤ん坊が泣くのは辛く、無性に嫌だったようだ。

小野寺村の宿場の中ほどに家があり、毎月6の日に市が立つ。その市の日だけ「石屋」という屋号のそば屋の店を出し、母はそば打ちの上手と言われるほどで、朝から忙しく働いていたそうだ。

赤ん坊をおんぶして、親から止められていた沼へ友達と泳ぎに行き、赤ん坊を木に結び付けて皆で泳ぎ始めた。しばらくすると、渡辺君がアップアップをしていたので、慌てて引き上げてきたがぐったりしていて、どうしてよいのか一時呆然としてしまった。水を吐かせなければと思いながら、全身の力で両足を持ち、吊るし上げた。すると、口から水を吐き出し、次第に顔色もよくなり、「俺も安心して、寝転んでしまったよ」。泳ぎ始めてから1時間も経たない出来事だった。再び赤ん坊を背負い、渡辺君を彼の家まで送り届けた、とのこと。
家に帰っても親に怒られると思い、黙っていた。すると、夕暮れ時渡辺君のお母さんが「お晩でやんす」と入ってきた。今日の出来事を母に説明しながら、「これからも兄弟のように仲良くしておくれ」と言いながら、飴玉と50銭玉を置いて、何度も礼を言って、帰って行った。母は顔をじっと見ていたが、何も言わなかった。
夏休みが終わり、学校に行ったら朝礼で校長先生にたいそう褒められて帳面を1冊もらった。

5年生の春のころ、相変わらず"松ごく"を拾いに行く支度をしているところへ母が来て、「もうそろそろ山に行くのは辞めたほうがいい。ヘビが出るころだから」と注意された。あしたから辞めようと思いながら、出掛けた。山まで2キロぐらいの道のりで"松ごく"を拾っての帰り道、枝振りのよい山桜を取り、肩に担ぐように、夕暮れの宿場通りを歩いてきた。
きれいに掃除をして打ち水のしてあるお茶屋の中から、白粉(おしろい)をつけたお姉さんが出てきて、「その桜の花を売っておくれ」と言いながら、わしの手に5銭玉を1個握らせて、桜の花を持っていった。何だか急に辱(はず)かしくなり顔がほてってきて、急いで帰ったことがあった、と照れくさそうに笑って話してくれた。

ある日、先生から教員室に呼ばれ、何事かと思ったら、「君はなぜ、上の学校に行かないのか、成績もよく、それにこれからは学問がなければ、だめである」とくどくどと聞かされ、返事に困り、「僕の家は貧乏だから行かれないのです」と答えた。小さいときから、お前は小学校を卒業したら、奉公に行くのだよ、と言われていた。
○○
大正10年(1921)3月、優等賞で卒業し、すぐに足利の機械工場に奉公に出された。工場の番頭さんが迎えに来て、後から付いて行くとき、とても嫌な気持ちだった。工場での仕事は女工さんの手助けのようなことで、女工さんの足元を行ったりきたりで、こんな仕事は嫌だった。
ある日、工場の奥さんから呼ばれ、「お前は学校の成績が良かったそうだから、これからは家の子どもに勉強を教えておくれ」と、住居の方に連れて行かれ、子供たちに紹介してくれた。2、3年の子どもを教えるのだと思っていたら、5年生とのことで、自分といくつも歳が違わない少年だった。
工場の昼休み、皆さんと一緒に庭に出たとき、遠くの煙突に「今泉」と大きく書いてあったので、大勢のいる前で、自信たっぷりに大声で、『こせん』と読んだところ、まわりの人々が大笑いしながら『いまいずみ』と読むのだよ、と言われてしまった。あまりの恥ずかしさに穴があったら入りたい気持ちであった。
それに、子どもの勉強を教えながら、あまり分からないとき泣かしてしまったり、いろいろあって嫌になり、明くる朝早く逃げ帰り、家に入れず裏の墓地に行き、父のお墓の前でうずくまっていた。
○○
それほど嫌なら東京に行きなさい、と言われて、大正10年(1921)東京に行くことが決まり、姉に岩舟駅まで送ってもらった。汽車の窓から、夏みかんが3個入った袋を渡され、「気をつけて行けよ」と言う言葉に送られて、汽車が発車した。
初めての上京なので心細く、窓外の景色を見ていても、上(うわ)の空だったが、だんだんと落ち着きを取り戻し、夏みかんを食べ始めた。この夏みかんの味は、この歳になっても忘れられないようだった。
やがて、上野駅に着き、あまりの賑やかさに驚いた。早速、人力車の並んでいるところに行き、「動坂」(編注*現文京区千駄木4丁目)まで、値段はいくらだね」と聞いたら、「1円だ」と言われた。1円を払ったら懐が淋しくなると考え、交番に行き、「動坂までどのくらいの道のりか」と聞くと、お巡りさんが1里くらいだと言う。そこで、「歩くから道を教えておくれ」と言ったら、「7銭で電車に乗っていったほうがよい」と教えてくれた。


電車に乗り、動坂までの切符を買い、もの珍しく車外の風景に見とれていた。電車は東照宮前、七軒町と走り、2停留所を乗ったのに、1里もないのか。田舎にいるときは佐野までの1里を、友達とマラソンで行ったものだが、と思う。
車掌さんが「次ぎは、合染橋」「次ぎは、根津八重垣町」と言う。心配になり、大声で「動坂はまだかね」と聞いてみたら「まだ」との返事。「千駄木町」「次ぎは、団子坂」…まだ目的地には着かない。あまりのことに、前よりも大きな声で「動坂はまだかね」と怒鳴ったら、車掌さんが笑いながら、「着いたら教えてあげるよ」と答えてくれる。

動坂、と言う声に送られるように電車から降りる。ほっとしたが、こんどは「大和屋」という材木屋を探さなければならない。人に聞くのも恥ずかしく、気の向くまま歩いたら、2軒も材木屋があったが、名前が違う。田舎では村に1軒くらいしか材木屋がないのに。思い切って人に聞いたらずいぶん遠いところの材木屋を教えてくれたが、それも間違いだった。
辺りが薄暗くなり、人通りも少なくなり、聞くにも聞けずトボトボ歩いていると、材木屋らしいところに出た。立ち止まって、夕闇を透かしてみていたら自転車に乗ってきた人が、「そこにいるのは誰だ」と言った。その声に我に返り、「ああ、兄さんだ!」「俺だよ、録だよ!」と叫んだ。そのときは本当にうれしかった。運がよかった。兄は常次といって、大和屋材木店の番頭をしていた。

明くる日は浅草見物に連れていってもらい、あまりの賑やかなのに驚くばかりだった。2日目の朝、近所の洋服屋さんの旦那が覗きに来て、「常さん、これが弟さんかい」と言いながら、店に入ってきた。その人はジロジロ見ていたが、「どうだい、洋服屋にならないかい」と言いながら、手を取るようにして、旦那のお店に連れていかれた。
お菓子とお茶を出してすすめてくれる。そうしているうちに、兄が来て、2人が話しを始めた。ぜひ、うちに奉公させておくれ、と兄に頼んだようだ。10年の奉公で1年のお礼奉公、と決まっていた。いよいよ丁稚奉公の始まりである。
○○
洋服屋の旦那はまだ独り者だった。"龍どん"という小僧さんは、東京・神田の大工さんの子で、兄弟子というわけである。2歳年上で東京者だけあって、なかなか大人ぶった子どもであった。朝早くから起きて、掃除から洗濯もさせられ、ご飯を炊くときは薪に新聞紙を巻き付けて燃やした。おかずは1人1日5銭で、佃煮屋に行き自分の好きなものを買って来た。しばらく続いたが、旦那は、毎日5銭ずつは不経済だと言って、塩辛を1樽買ってきて毎日食べさせた。

奉公先のおかみさんが亡くなり、元の生活の戻り、旦那さんはまた、毎晩のように飲みに出るようになったそうだ。毎晩のように夜なべをさせられ、年頃のためもあって、腹が空いていてたまらなく、小僧同志でお金を出し合い、食べ物を買った。
あるとき、そのころ同郷の栃木から来た"正どん"におでんを買わせてに行かせたところ、しばらくして帰ってきて、「おでん屋に旦那がいて、酒を飲んでいた」と言う。これはまずいと思っていたところ、やがて旦那が帰ってきて、大声で、「おでんを買いにやらせたのは誰だ」と怒鳴った。ちょうど起きていたので、2階から降りて行って、「へい、私です」と座って頭を下げたら、旦那は大声で、「みっともない真似をするな」と言うが早いか、手元にあった土瓶を投げつけた。額から満潮のせいもあってか、白地の寝間着の肩から胸にかけて、真っ赤な血が流れ、びっくりした。旦那のほうも驚いて、平謝りをして「このことを兄さんに言わないでおくれ」と何回も謝ったとか。

おかみさんが亡くなってから1年を過ぎたころ、千住の金貸しの家の娘さんを後妻に貰った。このおかみさんもつましい人で、弟子が4人になっていたが、食事はご飯が2杯、味噌汁が1杯がやっとの状態だった。それも早く食べてしまわないとなくなる始末。――このためか主人は普段家で食事が一番早いのです。私が嫁に来たとき、食事が早いのでびっくりしてしまいました。――

奉公してから3年目の夏、チフスで駒込病院に1ヵ月半ほど入院した。病状が良くなってくると非常に退屈で、病院に置いてある雑誌を片っ端から読んだ。そのせいもあって、本を読むことが好きになり、貸し本を夜ふとんの中で随分読んだ、と言っていた。おかげで、お店を持ったとき、お客様のところへ行くと、物知りの洋服屋さん、と言われた。博士の肩書きのある御宅に注文取りに出掛けた行ったとき、その奥様が「水戸部博士がお見えになりました」と冗談をおしゃることが、たびたびあった、と笑っていた。

毎日のように盥(たらい)にオシメが浸けてあり、その洗濯を言いつけられ、そのために手が荒れ、皹(ひび)ができ、仕事のとき糸が傷に入って、その痛さは、今思い出してもぞうっとする、と言っていた。その男の子が3歳くらいのころは、とてもかわいく「録どん、録どん」と懐(いだ)き、お風呂に行くときでも、「録どんと行くんだ」と駄々をこねるので、仕事を休ませてくれて、子どもと一緒に明るいうちから、お風呂に行くことになった。

時折、小僧一同でお金を出し合い、おやつを買って食べるが、いろいろ考えて知恵を絞った。一番下の小僧を買いに出すとき、針の袋を懐に入れて、旦那には「針を買ってまいります」と言って、外へ出て行く。買った菓子袋は2階の窓から紐を垂らし、それに結びつけて吊り上げる。小僧は「ただいま」と言って、針の袋を見せる。頃合いを見計らって2階に上がっていく。――こんな奉公生活だった。

その後もいろいろと話しを聞きましたが、長かった話しもこの辺で終わりといたします。

八丁堀に嫁いで50年

佐久間 つや子
三栄装備株式会社


昭和24年(1959)戦後の傷痕がまだ生々しいころ、八丁堀で室内装飾業を営む佐久間栄に私は嫁ぎました。それ以来、地域の方々のお世話になって半世紀が過ぎました。当時のことを思い浮かべますと、現在の世情が想像もつきません。
そのころ、主人が営業上どうしても電話を設置しなければ、と電話局に申し込みました。電話線は市場通り付近に敷設されていますが、架設のためには何本かの電柱を増設しなければならず、また、電話債券の購入などなかなか大変なようでありました。その後電柱が建てられて、複線で通話できるようになりました。ご近所もまだ回線が少なく、電話の取り次ぎは私の役目でした。トイレ下水もなく汲み取り式で、水洗になったのは昭和26年(1951)ころだったと思います。
私どもの室内装飾という仕事は当時なかなかご理解をしていただけず、内容をご説明させていただくことがたびたびございました。

この仕事は主人の父の栄次郎が、明治27年(1894)に創業し、主人で2代目です。初代が手がけた仕事は、大正14年(1925)に歌舞伎座の緞帳(どんちょう)工事、昭和元年(1926)に新橋演舞場の内装工事、同年衆議院議場工事、昭和2年(1927)には皇居宮殿改装工事、御大典京都御所工事などがあります。昭和元年(1926)に着工し、同6年(1931)竣工した国会議事堂工事では同業者の応援をえて完成し、迎賓館や装飾などには心血を注いで取り組んだそうです。
主人は昭和14年(1939)、軍隊に召集され、昭和21年(1946)復員しました。戦前に使用していた道具類はすべて空襲で焼失しましたが、幸いにも宮城(皇居)に置いてあった道具類は無事でした。主人は自転車にミシンを積んで、毎日、宮中に通ってカーテン類の修理に専念しました。当時は取り替える品物が無くてずいぶん苦労したようです。
現陛下の皇太子立太子礼の式典工事のときには、主人は寝食も忘れて仕事に打ち込みました。一方では町会の役員もやらせていただき、同時にボランティア活動も一生懸命に行っていました。
その主人も平成5年(1993)1月18日、病のため他界しました。生前主人が楽しみにしていました平成6年(1994)11月の創立100周年は、皆様のご協力を賜り施行させていただきました。初代、先代と築いた室内装飾業は現在、3代目が受け継いで"日々年輪"として勉強してくれています。
この半世紀は、私には遠い昔のようにまた、きのうのようにも思えます。現在は地域の皆さまの種々の親睦の会などに参加させていただき、幸福な毎日を送らせていただいております。


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