| 町会設立50周年記念誌 |
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| ●八丁堀の生い立ち 家康が江戸に入ったころ(天正18(1590))は、現在より海がはるかに西まであり、武蔵野台地の東端との間には、茅原が茂る低湿地帯が南北に細長く連なっていた。だいたい日本橋、日比谷の間には日比谷の入り江が北に深く、今の皇居前あたりまで入り込んでいた。その東側、今の東京駅、有楽町駅付近は低湿地帯が半島のように突き出て、江戸前島と呼ばれていた。江戸城本丸と今の駿河台・本郷に続く台地との間には、平川といわれる川が流れていた。 江戸は、太田道灌以来の城といっても、中世の城には城下町などはなく、本丸台地の下に小さな集落があったほかは、平川の沿岸にわずかな村落があり、日比谷や皇居前の千代田、宝田、祝田などに漁師の家が散在するばかりであったという。近世の城下町というのは、その地域の経済的に結果として成立してきた都市でなく、政治・軍事上の見地から、いわばその周辺の経済的条件とはあまり関係なく建設されたところが多い、江戸はもっとも著しい例であった。 荒野の武蔵野台地が坦々として西に広がり、その東の低湿地帯にわずかに漁師村がさびしく点在していたような地域が、家康が入府後一世紀を経た元禄のころには人口100万人、当時としては世界一人々が賑わう町となっていくのであった。 埋め立てでできた下町 家康は江戸に着いて、その8月に平川の河口から江戸城に至る「道三堀」運河を掘らせた。これは、今の東京駅の北、呉服橋から大手町に至る道路に沿ったもので、終点は、現在の和田倉門辺りであった。その堀によって船で運んできた軍需物資や年貢米をそのまま城に運び入れた。また、その土を利用し、日比谷の入江の埋め立てに利用した。こうして堀を掘り、辺りの湿地を埋めて、江戸の下町は出来上がっていった。しかし、埋め立て地であるため、井戸の水質が悪いので大久保五郎忠行に命じて、上水道を作らせた。これがのちの神田上水の元となったが、年代は明らかでない。 江戸幕府が出来上がってからは、諸大名に助役を命じて、いっそう大きな埋め立て工事を行った。すなわち、慶長8(1603)年2月、駿河台からお茶の水へかけて立陵(神田山)を崩し、その土で外島の洲を埋め立てた。 福島、浅野、加藤などの外様大名、譜代大名の主要な大名70家が13組に分かれ区画を受け持ち、各大名が1000石につき1人の割合で人を出した。こうして現在の日本橋、浜町辺りから新橋に至る間、つまり、日本橋、銀座、京橋など今日の繁華地帯が埋め立てられ町となった。 河岸と寺 東京は町名改正で由緒ある町名が消えていく傾向にあるが、尾張町、加賀町、出雲町なども諸大名の工事区分の名残である。この埋め立て工事によって平川の河口が沖に向かって延びたので、その途中に架けた橋が日本橋である。この堀に船着き場を設け江戸湾からの船がその河岸に着けるようになった。この河岸が、やがて江戸商業の発展に大きく貢献するようになった。 こうしてできた市街地の行政は町奉行が行った。八丁堀地域も大変な低湿地帯のため、多少の整地をして70数箇所のお寺に土地を与え、住職たちに埋め立てをさせたようである。各寺で埋め立てが完成するころに、再度寺を移動させてその土地を幕府が利用していたらしい。その時代から現在に至るまで残っている寺が八丁堀1丁目にある玉円寺である。 (山下 登) 八丁堀二丁目の沿革 昭和6(1931)年12月1日、八丁堀仲町の大部(1-47)、永島町の北大部(1-16)(日比谷河岸の一部を含む)を合わせて1町とした。 八丁堀仲町は古くは寺地であった。元禄中(1688-1704)収公して町奉行与力組屋敷とした。 のちまたこれを収公して、北紺屋町、金六町、水谷町などの代地とし、またこれを他に移して幕府の医員用達らの受領地とし、何町立跡と称した。幕末の図に見える澪杭(みおくい)屋敷、卓峯屋敷はその一例である。前者は江戸湾内海標柱請負人の拝領屋敷であり、後者は幕府の筆師安藤卓峯が寛延2(1749)年に拝領したところで、古くは浅草黒船町代地と呼ばれていた。澪杭屋敷立跡は〈古着店〉とも呼び、町東水谷町金六町で形づくる三角形の地を〈三角〉と呼んだ。 そのほか「わらかし道明横町」と変わった俚俗町名もあった。この辺の市街には古着屋が多かった。永島町はもと武家地であった。享保4(1719)年秋田釆女の屋敷を召し上げて割屋敷とし、割残し地を表坊主の町屋敷とした。町名の意味は不明であるが、付近に亀島、北島、竹島、元島などの名があるのは、この地が築填の以前は海面上に現れた島めく土地であったことが想像される。 町の東北亀島川の河岸地を日比谷河岸といった。水運の便に富むので、河岸には数軒の竹屋が軒を並べ、竹河岸の称もあった。 (出典)中央区30年史 ▲TOPへ |
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| ●大岡忠相の江戸町火消し 江戸町奉行 大岡忠相(ただすけ)は町火消しの生みの親。江戸の華といわれたくらい火事が多く、江戸の消防は、はじめ武家の手に任されていて、定火消し、大名火消しの制度があった。それだけでは不足になって、明暦の大火後に、町火消しの組織が何回か手を着けられたが、長続きしなかった。 忠相は町奉行就任直後から新組織を考えていたらしい。長続きしなかった前例にかんがみ、江戸っ子向きに考案したのが、いわゆる「いろは四十八組」の町火消しであった。 享保5年(1720)8月7日の達しで、この新制度が定まった。といっても「い」から「京」まで48字全部があったのではなく、「へ」「ら」「ひ」「京」の4字は音が嫌われて、「百」「千」「万」「本」の4字に変えた。その48組を1番から10番までに分けたが、これも「四」は「火」に聞こえる、「七」は「火地(ひち)」に通じることからそれらを除いて8組しかなかった。 「いろは四十八組」 結局、48組は、次のようになった。 一番組(5組) い、よ、は、に、万 二番組(7組) ろ、せ、も、す、め、百、千 三番組(7組) み、さ、あ、ゆ、て、き、本 五番組(9組) く、や、ま、け、ふ、江、し、こ、ゑ 六番組(6組) な、む、う、ゐ、の、於 八番組(4組) ほ、わ、加、た 九番組(4組) れ、そ、つ、ね 十番組(6組) と、ち、り、ぬ、る、を 組の中には6階級あった。町火消しは江戸時代の大変重要な仕事で、明治新政府は定火消し、大名火消しを廃し、町火消しはそのまま東京府に引き継がれた。 (佐久間つや子) ●八丁堀方面を受け持った江戸火消し――《二番組・百組》 141名 −桜川〜楓川〜亀島川〜日本橋川の内側が持ち分であったらしい。
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| ●八丁堀与力・同心と小伝馬町牢獄 1.町奉行 江戸幕府の職名。幕府の重要都市(江戸、大坂、長崎、駿河など)の民政をつかさどるためにおかれた。その名称は戦国大名家からはじまり、永禄年間(1558-69)のころよりみられるが、江戸時代には単に町奉行という場合は、江戸の町奉行のことをいう。 町奉行所は御番所(ごばんしょ)とも呼ばれ、役所と同時に役宅であって、表が役所、奥が住居であった。町奉行所が八代洲河岸(北)と呉服橋門内(南)の2つに分離したのは、慶長9年からといわれている。 寛永8年(1632)加々爪忠澄と堀直之の2人にはじめて役宅として屋敷が与えられた。その後、鍛冶橋内に役所が設けられ北・中・南と称された。享保4年に鍛冶橋を廃止、宝永4年常盤橋内を廃止し、数寄屋橋門内に新設した。文化3年(1806)以後は呉服橋門内にある役所を北町奉行所、数寄屋橋門内にある役所を南町奉行所と呼び、幕末まで続いた。 町奉行は老中支配に属し、旗本の中から優秀な人材が登用された。役料は寛文6年(1666)1000俵、享保8年(1723)3000石、慶応3年(1867)2500両。重要な職であるうえ、配下の与力・同心が親子代々世襲しているといったなどがあって、俊秀でないと勤めにくい役職であった。そのため500石、1000石といった小禄のものから抜擢されることが少なくない。 職掌は江戸市内の武家地と寺社地とを除いた町地を支配し、町および町人に関する行政・司法・立法・警察・消防などをつかさどった。配下に本所奉行(享保4年廃止)、本所道役・小伝馬町牢獄・町年寄などが属していた。寺社奉行・勘定奉行とともに評定所一座の構成員として、中央官職の性質もあわせ持った。激務のため在職中の死亡率が高かった。 2人の町奉行は交替で月番制をとった。月番の町奉行は午前10時に登城し、午後2時ごろ退出してから町奉行所で訴訟・請願その他の仕事をした。幕府の政治、とくに幕政改革のおりなど新政策を江戸市民に浸透させるには、多分に町奉行の力量や識見に負うところがあった。多くの町奉行のなかでは、大岡忠相や遠山景元(金四郎)はとくに名高い。 町奉行は江戸の町方、寺社領の町、寺社門前ならびに境内借地の者の訴を受理し、裁判を行った。さらに支配地と他領地支配との関連事件を吟味し、科料できた。 2.与力 江戸町奉行に属して、その長を助け、また配下の同心を指揮した。戦国大名の仕えた寄親のことで、寄子が同心にあたる。格式は御目見(おめみえ)以下、200石より150石程度である。一代限りの抱え席であったが、実際には譜代同様に世襲であった。人数は享保4年(1719)に南北両町奉行とも各25騎(人)、合計50騎となる。 役格は支配・支配並・本勤・本勤並・見習・無足見習の6っある。町奉行が月番のとき与力は3人宛、非番のときは2人宛てで昼夜交替で御番を勤めた。 分掌(掛)は享保以前では歳番(ねんばん=財政・人事などを扱うもっとも重要な職)、牢屋見廻り、町廻り(はじめは防火、のちに風俗取り締まりに重点)にすぎなかったが、享保期では10に増し、その後、与力の分掌は次第に増加し、寛政5年(1793)では13、天保13年(1842)では20、慶応元年(1865)では22ほどある。 歳番に次いで重要な分掌は吟味役(ぎんみやく=詮議役(せんぎやく)ともいい、裁判担当)で専門的知識と熟練を要した。 一般には若輩の与力は町火消し人足改などを勤め、父親が退いた跡を襲って召し抱えられ、他の番方などに転出することは稀であった。そのため勤続年数は長期にわたった。 町奉行与力・同心の組屋敷は享保4年(1719)以降は、現、中央区八丁堀を中心とした地域にあった。そのため彼らは俗に「八丁堀の旦那」などと呼ばれていた。与力1人当たりの居住地は、およそ250〜300坪であった。 3.同心 町奉行に属し、与力の支配をうけた足軽身分の者で、享保4年(1719)に2人の町奉行のもとに100人宛、合計200人というように、南北両奉行に各100人から120人、合計200人から240人の時期が長い。 同心の役格は年寄役、増年寄役、年寄並、物書役、物書役格、添物書役、添物書役格、本勤・本勤並、見習い、無足見習いの11に分かれていた。同心は抱え席であったが、事実上は世襲であり、幼少のころより見習いとして奉行所に勤めた。 与力との関係は、家格や俸禄の差だけではなく、職務上もはっきりと上下の関係にあった。与力が吟味方・本所方などを勤めるのに対し、同心は吟味方下役・本所方下役であった。 そのため同心のみで構成する三廻り(さんまわり=隠密廻り(おんみつまわり)・定廻り(じょうまわり)・臨時廻り)を除いては、町奉行に直属し直接に指揮を受けることはなかったようである。 与力と同様に多くの分掌(掛)があり、1人でいくつかの仕事を兼ねたほか、数多くの出役があった。同心から与力に昇格することはきわめて稀であった。 同心1人あたりの居住地は約100坪余であるが、表地面はほとんど町人に貸して生活費を補い、自分はその奥に居住していたという。 三廻りは与力でなく、同心のみで構成され、町奉行に直属した。同心の最高の地位。 「隠密廻り」は江戸市中でも特別に権威あるもので、役割は探索で、治安維持・風俗取締りが重点。 「定廻り」は町廻りと称され、はじめは防火に主眼がおかれたが法令違反者の摘発・逮捕・風聞の探索。風俗取締りの面が強い。 臨時廻り」は定町廻りの補助。定まった道順を巡察するのでなく、臨時に各方面に出かけた。 警察的な仕事はおもに同心が行った。子供のころから捕縛術や十手術・柔術などの練習に励み、犯人逮捕の任に当たったが、同心のすべてが治安維持に当たったのではなく、三廻りが主として担当した。 目明かしは岡っ引・小者・手先などともいわれた。町方人口だけでも数十万人もあった江戸の治安を維持するのは、南北両奉行所の三廻り同心だけでは不可能であった。犯罪の捜査や容疑者の逮捕に岡っ引を使用して、その任務を遂行することができた。 岡っ引は元来、同心が私的に雇ったものであったが、天保13年(1842)には、町奉行や加役方では小額であるが手当てを支給していた。当時の人数は南北あわせて150人であった。慶応3年(1867)には無給の者を含めると400人近く、その子分を加えると1000人に達していた。ばくちを開帳したり、いいがかりをつけるなどの悪事を働いた者もいて、ときには町役人以上の権威をふるった。 4.八丁堀 享保4年(1719)以降、南北両組の与力・同心の組屋敷は、八丁堀を中心とした地域にあった。そのため両組の与力・同心は俗に「八丁堀の旦那」とか、「八丁堀御役人衆」などと呼ばれていた。 【地図は元禄期】 ![]() 嘉永2年(1849)当時、南組与力25人の屋敷は北八丁堀で合計8626坪余、同組同心100人の屋敷は北嶋町・岡嶋町で合計9427坪余であった。北組与力25人の屋敷は北八丁堀で合計6822坪余、同組同心100人の屋敷は7874坪余であった。 「八丁堀細見絵図」(文久2年 尾張屋清七版)など見ても、与力・同心にかかわりなく、地所の一部を貸しているものが少なくない。商家など一般の町人に貸すことははばかれたため、そこに記されたものはほとんど儒者・医者・絵師などである。 俗に「八丁堀七不思議」と称するものがあるが、そのなかに「医者・儒者・犬の糞」とあるのは、そのような理由によるのであろう。 5.小伝馬町牢獄 幕府最大の牢屋は江戸小伝馬町にあった。家康入国のときは常盤橋外にあったが、慶長年間に小伝馬町(現、十思公園)に移され、明治8年(1875)まで用いれられた。 牢屋の長を囚獄といい、幕府草創以来、石出家が世襲し帯刀を襲名した。その下に牢屋同心50〜70人が置かれた。 ![]() 安永4年(1775)以降の牢屋の形状は、牢屋敷2677坪余、内部は3部分に分かれ、囚獄(牢奉行)の石出帯刀(いしでたてわき)の世襲で、役宅・牢役人の執務所、獄舎、および刑場からなる。 各舎房は雑居拘禁で、身分と性別により収監者を分類。大名や500石以上の旗本は大名に預け、牢屋に入れない。舎房には揚がり座敷(あがりざしき)・揚がり屋(あがりや)・大牢(たいろう−5間×3間)・2間牢・百姓牢の別があった。 時の鐘を合図で首切りされ、なさけの鐘といわれた。 囚人の食事は朝夕の2食で、質は身分により4等に分けてある。1等食は揚座敷の収容者(武士)で、1日に玄米6合の飯と1汁3菜つきであった。揚屋および惣牢の囚人には白米4合5勺と汁・塩・菜がつく。女囚は1日3合と味噌汁・塩・菜がついた。 (参考資料) 「江戸学事典」(弘文堂)、「考証『江戸町奉行の世界』」 (新人物往来社) ▲TOPへ |
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| ●八丁堀の七不思議 ●八丁堀の七不思議には諸説があるが、まず、安藤菊二著の「八町堀襍記(ざっき)」から紹介してみる。 (前文略)…八丁堀の方は、ねっから不思議でないところに話の落をつけて喜んでいるのだから他愛もない。それに同じ七不思議も語り手に若干相違がある。どれが正論だと力むこともないが、元八丁堀の与力、佐久間長敬翁の「嘉永日記抄」に載るものは、さすがに真実味が篭もっていて、これは正論だという感じがする。 (編注:著書は原文で紹介されているが、ここでは現代文に置き換えた) 第一 「奥様あって殿様なし」 与力の妻を奥様、奥様と敬語を使い、しかも主人を旦那様といって、殿様とはいわない。江戸時代の殿様というのは御目見以上を呼ぶ敬称なので、いかに与力は僣上(せんじょう=身分をわきまえず、さしでた行為をすること)の振る舞いがあっても、殿様といわない。 第二 「女湯に刀掛けがある」 その始め同心の足洗ということだったが、やがて大衆の入る銭湯に変わったことで、同心は朝のうちに女湯に入るので刀掛けが必要だった。 昔、さむらいが門を出るとき1刀のことはなかった。組屋敷内の風呂場に行くにも、両刀をさしていた。湯上がりの単物、ぬか袋、あかすり、手拭いなどを小脇に抱えて行く。同心の家族という名目で婦女子は入るが、男女混浴は市中一般に禁じられていて、組屋敷内に限ってこのようであった。 第三 「ドブ湯」 前記の風呂屋のこと。元は足だけを洗うためっだので、〈ドンブリ入る〉と言う言葉を約して〈ドブ〉といった。 第四 「鬼の住居に幽霊が出る」 幽霊横町*のこと。鬼とは与力同心をいう。 第五 「地蔵の像なくして地蔵橋がある」 組屋敷内に石の橋があって、旧与力・多賀仁蔵の門前で、すべて自分普請で架けた石橋で、「仁蔵橋」と称していたが、その家が潰れた後、与力の共有にして「地蔵橋」と改称した。また昔、橋の際に小さな石地蔵があったが、大火のために焼き崩れたともいう。 第六 「百文あれば一日快楽のできる土地」 貧乏小路に住んでいる者の言葉。渡し船を渡る船遊びといい、入湯、ひげそり、めし、さけ、その他たかが最下などで快楽である。 第七 「一文なしで世帯が持てる土地」 背割長屋に入ると、敷金も道具もいらないで、1日稼いで幾らか手に入れば、一膳飯屋で腹がいっぱいになる、飲みたい者は酒屋の店先で枡を冠る。ちょっと塩をなめて、したみの5合に虫をおちつくる。時折火事があれば出役の同心の後を追ってその場に駆付ける。布団1枚くらいとるは見逃す。八丁堀同心の長屋に住んで、多少その顔を見知られることを私かに得意とした。 ◇*幽霊横町は、名前のように両側は与力屋敷の高い塀、ちょうど後ろ向きの暗い新道で、夜な夜なしらしらとしらけた首も飛び出し、通行人のそでを引きとめるなど、怪談もある。 ◇貧乏小路は、まこと貧民窟であると記している。 この横町に住む同心のうちに、自分の拝領屋敷内に背割長屋を作る者があり、軒並み背割長屋のスラム街ができてしまった。安永4年吉文字屋次郎兵衛版の「築地八丁堀日本橋南絵図」にも、地蔵橋に近い竹島町の南側に「百間長屋」とある。 背割長屋はこけら葺の平屋で、間口は9尺、奥行2間、表は雨戸2枚、踏み込みは土間で、部屋は3畳1間、裏は3尺のあげ板敷、雨戸1枚建つばかり、安普請だが、家賃も安く、日掛50文ずつであった。 路地は3尺隔てて、幾棟も建て込んでいたから、貧乏長屋の称があった。 ここに住むのはその日稼ぎの者で、男女ともに与力同心の家に出入りするか、あるいは与力の下男などに懇意な者が多かった。それゆえ、沢庵、漬け菜の類を貰ったり、来客の食あまったものなどももらえた。その代わり、中間小者の衣類の洗濯などは、この連中が引き受けていたので、貧民窟といっても、場末のそれに比べるとずいぶん来やすいところであった、とある。 家に女中の7、8人もおき、両刀を帯して、着流しの雪駄ばき、一目でそれと見てとれる、八丁堀の旦那衆の住む町のすぐ近くに、こうして吹き溜まりの人生があったことを、与力は八丁堀の七不思議の中に数えていたのである。 【出典】「八町堀襍記」安藤菊二著、郷土史だより、第43号、1984.3.31京橋図書館発行 ●また、次のような七不思議もある。 「奥様あって殿様なし」 200石(200俵)取りの旗本は殿様、その妻は奥様と呼ばれていた。しかし、町奉行所与力の場合は「旦那(だんな)様」と呼ばれ、妻のほうは他の旗本なみに奥様と呼ばれた。 主人が旦那様なら、妻は御新造(ごしんぞう)様でないと釣り合わない。それなのに主人が殿様でなく、妻だけが奥様というのが不思議というわけである。 普通、与力格の妻は玄関に出たり、外部の者と接触しなかった なかったが、町奉行所与力の妻は例外であった。夫の職務柄、来客は頼みごとが多いが、いかめしい男よりも女性のほうが訪問しやすく、頼みごともしやすい、ということで妻が活躍するようになった。このため、しっかり者でなければ勤まらなかったので、一般から尊敬され、『奥様』と呼ばれていたのである。 「女湯の刀掛け」 町奉行所の与力・同心は毎朝、女湯へ一番先に入った。このため女湯に刀掛けが用意されていた。女湯に入ったのは、女性は家事などの関係で早朝から入浴しなかったのと、隣りの男湯の話しを盗み聞きするのに都合がよかったからである。 「金で首がつなげる」 八丁堀の与力の家には、頼みごとのための来訪者が多かったので、「金を出して頼めば、斬られた首もつながる、つまり賄賂(わいろ)がきく」、という噂がたち、こんなことが囁かれたらしい。 「地獄の中の極楽橋」 八丁堀組屋敷内に「極楽橋」という小さな橋が架かっていた。犯罪者を断罪する八丁堀役人を『地獄の獄卒(ごくそつ)』と考え、彼らの住んでいる組屋敷を地獄に見立てたのである。だから、その中に極楽橋があるというのは不思議と考えられたのである。 「貧乏小路に提灯かけ横丁」 八丁堀組屋敷内に提灯(ちょうちん)かけ横丁というのがあった。「掛け」か「欠け」か、不明だという。貧乏小路とは30俵2人扶持の同心の生活が苦しいと諷(ふう)したのであろう。八丁堀同心の台所は豊かで、他の同心たちのように傘張りなどの内職をしないでも悠々暮らすことができた。外部の者にはそんなことはわからないから、柱二本を立てただけの木戸門から見える組屋敷は、ほかの同心組屋敷同様、貧乏くさい感じがしたらしい。 「寺あって墓なし」 万治(まんじ)のころまで八丁堀一帯は寺町であったので、その寺々の名が小路名として残っていた。そこかから、寺の名前があるが墓がまったくないのは七不思議の1つに数えられるようになった。 「儒者、医者、犬の糞」 犬の糞というのは、いたるところに落ちている。その犬の糞のように八丁堀には多数の儒者(学者)や医者が集まっていたというわけである。 江戸後期になると、与力や同心が拝領した屋敷地は、小遣い稼ぎや生活費の足しにするため、その一部を人に貸し与えるようになった。表向きは、武家屋敷地には武士以外住むことを禁じられていたので、内密に貸していたのである。 しかし、町人では何かと問題を起こしたりする心配があったので、儒者や医者に貸すようにした。このため、八丁堀一帯にはこれら職業の人が集まるようになったのである。 【出典】文:中村整史郎(作家)、「江戸町奉行」歴史群像ライブラリー3、学習研究社1995 ●さらに、七不思議はこのようにもいわれる。 1.「女湯の刀掛け」――同心が一般住民との混浴を嫌い、一般が入る前に女湯を使ったため、刀掛けがあった。 2.「貧乏小路の提灯横町」――貧乏長屋でありながら、提灯をぶら下げてあった。(内職の提灯を干していたか) 3.「金で首がつながる」――金(カネ)さえ出せば、という政治に対する風刺か 4.「奥様あって、殿様なし」――(前出とおなじ) 5.「地獄の中の地蔵橋」――裁きによって討ち首になる刑場は地獄だが、その側に地蔵橋があった。 6.「血染めの玄関」――同心の間米藤十郎が丸橋忠弥召し捕りの際、そのときの功によって玄関を許された。(子孫の間米長十郎氏は八丁堀3-14に居住していた)。「間米の玄関」 7.「寺あれども、墓なし」――亀島山玉円寺のこと。文久時点の切絵図には玉子屋新道(現、八丁堀3-15-10)の角にある。寛永年間、幕命によって他の寺は移転したが、この寺は命に服さず、現在地で墓地を置くことを禁じられた。(大橋) 【資料】「わが町のあゆみ」、八丁堀3丁目西町会刊、昭和50(1975).5.5発行 ▲TOPへ |
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| ●町名の移り変わり 中央区は古くから商工業の中心地として栄え、その町名についても人名(例:八重洲、村松町)や、職業(例:人形町)また土地の利用法(例:小網町)などにちなんだ由緒ある町名が数多くあった。 しかし、その後の町名整理により変遷し、現在では37町名となっている。この中には、住居表示によって複数の古い町名を新しい町名に改めたものや、埋め立てによりできた新しい町名も含まれている。 さて、明治時代以降の町名変更の大きな節目は、大正12年(1923)の『関東大震災』による区画整理と、昭和37年(1962)5月10日に施行された「住居表示に関する法律」での住居表示に実施をあげることができる。 昭和40年(1965)4月から昭和62年(1987)1月1日までの15次にわたる住居表示の移り変わりがある。 関東大震災による区画整理 大正12年(1923)9月1日の関東大震災は町名整理の大きなきっかけになった。見渡す限り焼け野原となった都市中心部の復興計画は、大正8年(1919)に制定された都市計画法による都市計画事業と同時に、国の事業として着手された。 計画は、河川運河の修復・上下水道の改良・公園新設・学校建設など多岐にわたるが、中心は幹線道路の整備であり、そのかなめとなるのが区画整理だった。 幹線道路の新設・拡幅や運河の新さく・拡張は街区の様相を大きく変えた。これによって町名整理の必要が生じ、専門委員が協議を重ねて改正を行った。 住居表示制度の実施 住居表示実施以前、私たちが住所を表すときには、○○町○丁目○番地というように町名と土地地番を用いてきた。しかし、住所を地番を用いて表すことには、いくつかの不便な点があり、誰にでも分かりやすく、探しやすいというものではない。 その理由として、地番はもともと土地の所有権を明確にする目的で土地に付けた符号のため、地番や配列や境が見つけにくい。そして、何より多数の建物を同じ地番で表さなければならないという、不便さがともなう。 この不便さを解消するためにできたのが、昭和37年(1962)に公布された「住居表示に関する法律」で、地番とは別に、建物ごとに住居番号を付けて住所を表示するというものだった。この法律によって、それまで明確な定めがなかった我が国の住所の表し方が制度として確立された。 中央区では、この法律を受けて昭和39年(1964)に「東京都中央区住居表示に関する条例」を制定し、昭和40年(1965)4月1日、月島・勝どき・晴海・豊海町の第1次から、昭和62年(1987)1月1日の日本橋本石町・日本橋室町・日本橋本町の実施で、15次にわたる住居表示事業がすべて完了した。 八丁堀地区の統合 旧「八丁堀」は、昭和6年(1931)12月1日に以下のとおり区画整理して、八丁堀とした。 八丁堀1丁目=岡崎町、水谷町、八丁堀仲町の一部道路。八丁堀2丁目=八丁堀仲町、永島町の北部、日比谷河岸一部。八丁堀3丁目=長沢町、日比谷町、幸町、永島町の一部、日比谷河岸一部。八丁堀4丁目=本八丁堀1丁目、北桜河岸一部、本八丁堀3・4・5丁目、永島町の道路。 旧「西八丁堀」は、八丁堀の西側にあった松屋町・高代町・岡崎町・本八丁堀の一部を合併してできた。 昭和45年(1960)1月1日、「八丁堀」と「西八丁堀」を統合して現在の「八丁堀」となる。 (佐久間つや子) ●京橋地区の新旧町名対照表 *は住居表示の実施により変更された町名 |
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| 実施年月日 | 住居表示実施後 | 住居表示実施直前 | 存在した年代 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 昭和48(1973)/1/1 | 八重洲 | 八重洲 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 昭和53(1978)/1/1 | 京橋 | 京橋 *宝町 |
昭和6(1931)〜同52(1977) |
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| 昭和43(1968)/10/1 昭和44(1969)/4/1 |
銀座 | *銀座西 銀座 *銀座東 |
昭和5(1930)〜同43(1967) 昭和26(1951)〜同44(1969) |
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| 昭和46(1971)/1/1 | 新富 | 新富町 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 昭和46(1971)/1/1 | 入船 | 入船町 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 昭和46(1971)/1/ | 湊 | 湊町 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 昭和41(1966)/7/ | 明石町 | 明石町 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 昭和41(1966)/7/1 | 築地 | 築地 *小田原町 |
昭和7(1932)〜同41(1966) |
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| 昭和41(1966)/7/ | 浜離宮庭園 | 築地 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 昭和45(1970)/1/1 | 八丁堀 | 八丁堀 *西八丁堀 |
昭和6(1931)〜同44(1969) |
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| 昭和46(1971)/10/1 | 新川 | 新川 *霊岸島 *越前堀 |
昭和6(1931)〜同46(1971) 明治5(1872)〜昭和46(1971) |
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(C)Tokyoto Chuo-ku Hatchobori 2chome Higashi Chokai 2001