![]() 〜日本橋編〜 |
江戸東京400年のルーツを歩く 〜日本橋編〜 編集制作:巻渕彰 * 試作版 2005/2/18 |
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| ●案内スポットの参考資料(1) | |||||||
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| N001 |
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敷地面積:8185u(A、B街区全体) 延べ床面積:約98063u、 高さ:約121m、地上20階、地価4階、塔屋1階 着工は平成13年7月、竣工平成16年1月。 事業者:三井不動産、東急急行電鉄、東急不動産の各社。 構造:鉄骨造(一部鉄骨鉄筋コンクリート造、鉄筋コンクリート造) ビル名は日本橋一丁目ビルディング。地階から5階までがコレド日本橋、6〜19階までがオフィス階になっている。木原小路を挟んで北東側にはコレド日本橋アネックス(地上2階、地下2階)がある。 |
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| N002 |
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初代当主大村彦太郎は近江長浜に生まれ、慶安末期(1651ごろ)京都で材木商の本店(ほんだな)を創業。1662年(寛文2年)、日本橋に出店。江戸時代に小間物商から大呉服店となり、町人から大名・大奥までをも顧客とした。本店は京都の江戸店持京商人(えどだなもちきょうあきんど)。 白木屋日本橋店の店定法(たなじょうほう)のひとつに『永禄(えいろく)』がある。これは奉公人が守る52か条の規則で、寛政8年(1796)ころ作成された。「物買衆」(お客)には購入の多少にかかわらず大切に、「人相よく」(愛想よく)懇ろ(ねんごろ)にあいさつする……などが定められている。奉公人は近江を中心とした上方出身者で、11歳くらいで雇われ、江戸に住み込みで働いた。元服前の奉公人は「子供」と呼ばれ、「若衆」や「手代」に付いて昼は仕事を覚え、夜は手習いの稽古や算筆を教わった。金銭の貸借禁止や自分の格式より低めの衣類を着用する、年若い衆は悪所へ行かない、などの条項が決められていた。 明治時代以降は百貨店として発展。明治維新以降の服装の洋装化の波にも乗り、1911年(明治44年)に建てられた和洋折衷の店舗はひときわ目立つ建物で、正面入口は回転ドア、百貨店初のエレベーター導入など先進的な取り組みで知られた。しかし、昭和7年(1932)12月16日にクリスマスイルミネーションを出火原因とする火災が発生、14名の死者を出す日本初の高層建築物火災となった。戦後は創業家族の大村家が経営から手を引き、昭和27年(1952)から横井英樹による株式買い占め事件が起こるなどの経過を経て、東京急行電鉄(東急)率いる五島慶太が経営権を掌握。昭和33年(1958)には東急傍系の東横百貨店(現・東急百貨店)と合併したが、白木屋の店名は昭和42年(1967)に東急百貨店日本橋店となるまで残った。その東急日本橋店も平成11年(1999)1月31日、336年間の歴史に幕を下ろして閉店。跡地は複合商業施設のコレド日本橋となって平成16年(2004)4月開業した。 店内にあった白木観音や白木名水、ソニー(当時は東京通信工業)の創業地などでも知られる。 |
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| N003 |
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現在は、コレド日本橋裏の路地を挟んだコレド日本橋アネックス敷地内に設置されている。 ◆「中央区文化財めぐり」には次の記載がある。 江戸時代初期に埋立てられたこの辺りは良質の水の確保に苦労していた。このため、正徳元年(1711)に呉服商の白木屋2代目当主・大村彦太郎が水を得るために井戸掘りに着手した。翌年に、将軍家や諸大名に献上されるほどの良質な水が湧き出した。井戸水は「白木名水」と呼ばれて、江戸に広く名が知れ渡った。現在は白木名水は消失した。現在地は中央区日本橋1-4。 ◆現地説明板の記載内容は上記とやや異なるので、再掲する。 江戸時代のはじめ、下町一帯の井戸は塩分を含み飲料に適する良水が得られず付近の住民は苦しんでいました。 正徳元年(1711)、白木屋2代目当主の大村彦太郎安全は私財を投じて井戸掘りに着手しました。翌2年、たまたま井戸の中から一体の観音像が出たのを機に、こんこんと清水が湧き出したと伝えられています。以来、付近の住民のみならず諸大名の用水ともなって広く「白木名水」とうたわれてきました。 白木名水は湧出してから数百年の時を経て消失しましたが、江戸城下の歴史を理解する上で重要な遺跡です。この「名水白木屋の井戸」の石碑は江戸時代の呉服商を継いだ白木屋デパート、東急百貨店と続く長い歴史の後に、日本橋一丁目交差点角にあったものを、平成16年(2004)ここに移設再現したものです。 東京都指定旧跡。 |
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| N003-02 |
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コレド日本橋(旧日本橋東急百貨店)と旧三菱銀行日本橋支店(2005/4現在、閉鎖され工事中)の間にあり、この白木名水碑が建っている道は、江戸期には日本橋通一丁目新道とあり、その後は「木原店(きはらだな)」と呼ばれた横丁であった。天ぷら、そば、汁粉などの店(たな)が並び、飲食店が軒を連ねていたので「食傷新道(しょくしょうじんみち)」と俗称された。「新道(しんみち・じんみち)」とは、地主と地主が相談してつくった私的な道、私道。明治期には寄席「木原亭」があった。 小説、岡本綺堂著『半七捕物帳』の主人公半七の出生地は木原店を想定したといわれている。半七捕物帳は、大正6年から昭和12年ごろにわたって出版され、コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」と『江戸名所図会』をヒントにした江戸情景が描かれている探偵物語。綺堂は「捕物帳というのは与力や同心が岡っ引らの報告を聞いて、更にこれを町奉行所に報告すると、御用部屋に当座帳のようなものがあって、書役(しょやく)が取りあえずこれに書きとめて置くんです。その帳面を捕物帳といっておりました」と記しているというが、「捕物帳」ではなく「捕者帳」だったのではとの説もあるようだ。 ◆パンの会 明治・大正文学の新進気鋭の作家たちが集った文化サロン「パンの会」は、江戸情緒・異国情緒を求め、セーヌ河になぞらえて隅田川沿いの場所が選ばれたが、この横丁の会場で開かれたこともあった、という。パンとは、ギリシャ神話の牧羊神のこと。明治41年(1908)、北原白秋、石川啄木らが象徴主義と耽美主義を標榜する「パンの会」を結成。メンバーは木下杢太郎、吉井勇、高村光太郎、永井荷風、里見クなどであった。発会の地は両国橋近くであったという。永代橋周辺には「永代亭パンの会跡」が江東区佐賀1-1にある。 |
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| N003-03 |
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◆2005/5/1発行広報紙『中央区のお知らせ』には次の記載がある。 江戸三座と呼ばれた市村座、森田座、中村座の入場券が中央区内の遺跡から出土し、2005/4/1付で区民有形文化財考古資料に登録された。これらは長さ13-15p、幅5-7p、厚さ0.5-1.0p程度の板に、各座名の焼印や墨書がみられる。いずれも江戸時代中期の遺跡から出土したもの。市村座の「切落札」は日本橋二丁目遺跡、森田座の「切落札」は京橋二丁目遺跡、中村座の「土間札」は日本橋一丁目遺跡から出土した。三座の入場券はわが国の文化を代表する歌舞伎に直接関わるものとして極めて重要であり、現時点ではこの3点しか確認されていない。 ◆江戸3座の入場券レプリカ〜交詢社が区に寄贈 財団法人交詢社は2007/8/24、「江戸3座入場券」レプリカを中央区に寄贈した。江戸中期の芝居小屋の木製入場券で、日本橋二丁目、京橋二丁目、日本橋一丁目の各遺跡から出土したもので、市村座、森田座、中村座のもの。中央区区民文化財として登録されている。江戸3座は慶安4年(1651)以後、幕府から芝居興行権を与えられ、天保13年(1842)に浅草へ移されるまで中央区内で興業していた。3座の入場券現存は、いまのところ中央区で出土したこの3点だけ。交詢社は文化事業への援助事業として寄贈した。タイムドーム明石(郷土天文館)で展示公開の予定。(2007/9/10付・中央区民新聞から) |
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| N003-04 |
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同大学は2004/1、日本橋中洲に夏目漱石の『吾輩ハ猫デアル』が上演された「真砂座」の碑を建立した。(資料:2005/7/4、中央区民新聞から) ◆「平成17年6月吉日、早稲田大学第14代総長、奥島孝康 識」と彫られた碑文には以下の記載がある。 江戸っ子漱石はロンドンを舞台にした作品にも日本橋を言挙したほどだ。青春小説「三四郎」、倫理探求の名作「こころ」には、ここの路地の寄席や料理屋が描かれている。 |
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| N004 |
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「たいめいけん」は有名な日本橋の洋食屋さん。伊丹十三監督の名画「たんぽぽ」に登場した、卵にナイフを入れた瞬間、中身がおいしそうにとろけ出すオムライスは、「たいめいけん」のオムライスです。 その先代社長の茂出木心護さんが、昭和52年11月15日、お店の5階に公開したのが「凧の博物館」。現在の館長は2代目社長の茂出木雅章さん。毎年、国内外に50回くらい出張があるため、3,000種類以上ある凧は今も増え続けているそうです。 「凧の博物館」には、「日本の凧の会」事務局も設置。凧揚げ大会、世界の凧揚げ情報など、日本と海外を結ぶ基点となっています。館内には、日本各地の凧はもとより世界中の凧がびっしり展示され、大きさも切手大から2m以上のものまで目の前に所狭しとある。 所在地:中央区日本橋1-12-10 たいめんけん5階 Tel.03-3271-2465 開館時間:午前11時〜午後5時、休館日:日曜・祝日・年末年始、入館料:大人200円 子ども100円 |
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| N005 |
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関東大震災後の帝都復興事業として建設された。復興事業は7年間、1930年(昭和5年)まで続き、区画整理、道路整備、公園建設が進んだ。現在の昭和通りも、東京市長の後、内務大臣兼帝都復興院総裁・後藤新平(1857〜1929)の計画から生まれた。品川から千住まで、幅40間(約75メートル)あるいは100メートル構想の大幹線道路を建設する計画だったが、実際に完成した昭和通りは、幅24間(約45メートル)しかなかった。
◆平成元年、中央区教育委員会発行、川崎房五郎編著『中央区の昔を語る』には次の記載がある。(抜粋) 大正12年(1923)の関東大震災によって当町域も大きな被害を受け、江戸時 代以来の木造建築が消滅していきました。しかし、その後の復興も早く、郊外電車の 発達と市電、市バスの発展などで日本橋周辺に集中した証券、金融、デパートなどへ の通勤客や買物客が益々増加して、昭和に入った頃には、日本経済の中心地として完全 に復興したのでした。 これらの人々の集中によって交通も自動車の普及などで、道路状況が悪くなりまし た。平行して、国や東京市が計画した震災復興計画によって、昭和初期に江戸橋から 南下する中通りで新橋に至る幅広い昭和通りを完成。 |
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| N006 |
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海運橋は明治元年(1868)からの名称。古くは江戸幕府の御船手頭であった向井将監(むかいしょうげん)の屋敷が近くにあったことから「将監橋」「海賊橋」などと呼ばれていた。ここにある海運橋の親柱は、明治8年(1875)に西洋風のアーチ型石橋として架けられたときのもの。当時の海運橋は、橋詰にあった擬洋風建築の東京第一国立銀行とともに明治東京の名所として知られていた。区民文化財。 現在地は中央区日本橋1-20先。 ◆平成6年3月、中央区教育委員会設置の説明板には次の記載。 江戸時代初期には高橋。橋の東詰に御船手頭向井将監忠勝の屋敷があったので海賊橋、将監橋といわれた。御船手頭は幕府の海軍で、海賊衆ともいわれた。明治元年に海運橋に改称。同8年にアーチ型の石橋に架け替えられた。文明開化期のこの周辺は、東京の金融の中心として繁栄し、橋詰にあった洋風建築の第一国立銀行とともに、新名所となった。石橋は関東大震災で破損し、昭和2年鉄橋に架け替えられた。このときの2基の石橋の親柱は区民有形文化財(建造物)に登録された。鉄橋は楓川の埋め立てによって昭和37年に撤去された。 |
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| N007 |
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◆「中央区文化財めぐり」には次の記載がある。 明治4年(1871)、近代郵便制度が発足し、郵政事業を統括する中央機関として駅逓司(えきていし=旧郵政省(のち総務省)、現在の日本郵政公社)が設けられ、取扱機関として郵便役所が東京・大阪・京都に設置された。日本橋郵便局の場所は、かつての駅逓司と東京郵便役所が置かれた。ここには、郵便制度創設に着手した前島密(まえじま・ひそか=1835〜1919)の胸像と郵便事業90周年記念碑がある。前島密胸像は昭和37年4月20日、日本橋会、前島会、日本橋郵便局協力会の3会により、郵政大臣迫水久常の書で建立された。 所在地:中央区日本橋一丁目18-1
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| N008 |
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◆『江戸名所図会』には下記の記載がある。 日本橋の東にありて、伊勢町より本材木町へ行く間に架(わた)す。南の橋詰巽(たつみ)〔南東」の角に船宿あり。江戸のうち諸方への船場(ふなば)なり。また、同所西の方、木更津河岸と字す。房州木更津渡海往還の船ここに集ふゆゑに、名とす。 |
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| N009 |
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上総国への木更津船は、江戸橋土手倉脇より毎夕発船し、荷客を運送する。大形五大力船だった(『江戸の夕栄』)。 ◆『江戸学事典』弘文社刊には次のように著している。 江戸橋広小路 江戸橋の南に設けられた広小路は、日本橋の魚河岸、その他江戸に積み込まれる物資の集中地として、さらに旧来の四日市の名残りとしての草物・野菜・乾魚(ひうお)などの市をはじめ、小間物・化粧品・万百貨の小店が集中し、髪結床、講釈場などから、祭礼の御旅所があるとか、年末には才蔵市が立つというように、大江戸の買い物客が殺到した盛り場であった。 さらに、江戸橋は江戸の各方面に通ずる船場で船宿が多く、その一部に木更津河岸があって房州木更津への渡船場でもあるという、江戸の水上交通センターでもあった。(西山松之助) 江戸市中の広小路のなかでも、もっとも多角的に利用されていた場所である。明暦の大火以前は、日本橋四日市町であったが、大火後に御用地となり、霊岸島に代替地が与えられた。この広小路は近隣の青物町と本材木町一丁目・二丁目の預地となり、江戸橋とともに管理が委任された。橋番人を置き、見廻りや掃除を行い、木戸や矢来の設置、捨物倒者の処理などが具体的内容である。 広小路は交通・文化・娯楽・情報の中心地であったと考えてよいだろう。(吉原健一郎) ◆『江戸名所図会』の「四日市」項に次の記載がある。 四日市(よっかいち) 江戸橋と日本橋の間、川より南の方の大路をいふ。昔は、四日市場といひし村にて、いにしへは、いまの繁華のごときことなれば、万(よろず)の賈衒〔こげん=商店〕も、市をなして交易せざれば得がたし。ゆゑに、所々にその日市を立つる区(ちまた)を名づけて、それの日市(ひのいち)といふ。羽州のあたりには、二日市といふより十日市といふまで、区(ちまた)の名につき交易せり。このところも、昔は毎月四の日に立てしところなりとぞ。ゆゑに、いまもその遺風にて、草物または野菜の類(たぐい)、その余乾魚(ひうお)などの市ありて、繁昌の地なり。この地に根津権現の御旅所あり(正徳年中(1711-16)に造営ありとぞ)。同所、河岸に傍(そ)ひて封疆蔵(どてぐら)あり。下より石をもって畳み揚げ、上に家根を覆ふ(明暦開板の『むさしあぶみ』(浅井了意1661)といへる草紙に、「日本橋の南万町(よろずちょう)より四日市までの町屋を取り除け、高さ四間に川端にそふて、北をうけ、東西二町半に土手蔵を畳みあげらる」と云々。いま霊巌島に四日市といへる町家あるは、このところより引きたるなり)。 |
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| N009-2 |
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明治から大正にかけて付近には銀行が軒を並べていた。その中に村井銀行がこの地にあった。大正2年(1913)当時の出入り口扉跡を移築したものである。旧東海銀行日本橋支店(現UFJ銀行(2006/1から東京三菱UFJ銀行)日本橋支店)ビルの北東、野村證券側に残されている。 村井銀行は京都の村井吉兵衛が設立した。明治期に村井はタバコの民営化で「東洋のタバコ王」と称され、わが国初の両切りタバコ「サンライズ」を製造販売して巨富を築いた。東京銀座の「天狗タバコ」と宣伝を競う。タバコが専売制になった後、明治37年(1904)に村井銀行を創設し、京都を中心に東京にも進出した。当初の支店は大伝馬町一丁目だったが大正2年(1913)、この三角地にルネサンス様式で日本最初の鉄筋コンクリート構造の新社屋に移転した。金融恐慌で昭和2年(1927)破綻・倒産した。ほかにも村井汽船、村井鉱業、帝国製紙などを設立した。 『江戸の夕栄』(鹿島萬兵衛、大正11年(1923))には、「今日の村井銀行の入口の所、万町の方を向ふ入口とせし淡雪といふ茶漬店あり。」とある。 |
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| N010 |
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1566年、[西川創業の年]初代・仁右衛門が19歳で"蚊帳"の商売を始める。1587年、近江八幡に本店山形屋を開設する。1603年この頃"畳表"の販売も始める。1615年江戸・日本橋通り1丁目に支店、つまみだな店開設する。1929年「西川」の商標を登録制定する。この時の商標は右書きの「西川」で牡丹の花びらを表現した書体「ぼたん文字」、1948年に左書きに変更した。2001年創業435年。2005年、日本橋出店390年。株式会社西川、事業内容は寝具・インテリア・ウエアの店舗販売など。 所在地: 〒103-0027東京都中央区日本橋1-5-3 営業時間:AM 10:30〜PM 6:30 TEL03-3271-5531 FAX03-3271-8921 |
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| N011 |
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所在地:中央区日本橋一丁目1-1 ◆創業 (同社HPから) 1712年(正徳 2年) 国分株式会社創業。四代國分勘兵衛宗山が土浦に醤油醸造工場を設け、大國屋の屋号で開業、同時に江戸日本橋本町に店舗を開設。 1756年(宝暦 6年) 五代勘兵衛、日本橋本町の店舗を日本橋西河岸に移転、土浦で醸造した醤油に「亀甲大」のマークをつけ販売。 |
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| N012 |
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当店の歴史は、元禄二年(1689年)、漆器の名産地、紀伊国名草群黒江村(現在の海南市)から江戸へ出てきた人物(姓名不詳)が、本町四丁目に漆器店をおこしたことに始まるといわれております。さて、江戸に出てきた黒江屋ですが、今から二百年ほど前、呉服小間物屋を中心に手広く商いをしていた柏屋(現在の柏原家)に経営権が移り、今日に及んでいます。黒江屋の商標に丸に柏がついているのも、ここに由来しているからです。お椀、木杯、茶托、重箱などに、格調たかい漆器をお客様にお届けしております。 日本橋の擬宝珠 「万治元年戊戌年(1658年)9月吉日 日本橋御大工椎名兵庫」の刻印がある御大工の“御”とは幕府用達の大工であったことを指します。(同社HPから抜粋) 所在地:中央区日本橋1-2-6黒江屋国分ビル2階、 営業時間:9:00〜17:00、休業:土日祝祭日 |
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| N013 |
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安政4年、かの黒船来航の頃、三代目細田安兵衛(幼名榮太郎)が、井筒屋と称して父の代迄、菓子商として続けてきた屋台店をたたみ、日本橋西河岸(現在の榮太樓ビルの地)に独立の店舗をひらいたのがはじめであります。その後屋号を自己の幼名に因んで榮太樓と改め、「甘名納糖」「梅ぼ志飴」「玉 だれ」などを創製しました。創業時代の名代「金鍔」をはじめ、これらの創製品と、商に対する誠実一途の姿勢が顧客の信頼を得るところとなり、幾多の有為転変にもかかわらず、明治・大正・昭和・平成と、時代とともに業績は躍進し、堅実な基礎を固めるに至りました。事業内容は和菓子製造販売。(同社HPから) 商標は創業時には屋号「井筒屋」の井桁が使われていたが、明治10年以降「七段松」と呼ばれ、山が7つある松の意匠で使用している。初代が購入した本所にあった旗本の別荘に将軍家光から拝領したという幅21m、高さ6mの老松大樹があり、これは常盤木でめでたいとしてデザインに採用した、という。 所在地:中央区日本橋1-2-5、休業:日、祝祭日 電話:03-3271-7781 ◆絹本着色 日本製菓子舗榮太樓 本店製造場略図 附 写生帖 けんぽんちゃくしょく にほんせいかしほえいたろうほんてんせいぞうじょうりゃくず つけたり しゃせいちょう 区民有形文化財・歴史資料。中央区日本橋一丁目2番5号 榮太樓本鋪 この図(略)は、安政5年(1857)日本橋に創業された菓子舖榮太樓の初代細田安兵衛が、明治18年(1885)柴田真哉(1858〜1895)に、工場内の様子を描かせたものです。同年ロンドンで開催された「万国発明品博覧会」に、菓子や木型、道具とともに、出品されました。 日本橋の工場内での、菓子製造の工程を良く写し、豊富に水の湧く井戸も描かれるなど、当時の榮太樓の様子を克明に表しています。図とともに、写生帖が残されており、日本橋の紙店榛原の仲介で依頼された、制作の経緯も伝えています。 榮太樓のみならず日本橋の資料としても貴重なものです。 |
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| N014 「板絵着色 お千世の図額」(いたえちゃくしょくおちせのずがく) |
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◆「中央区文化財めぐり」には次の記載がある。 この「板絵着色お千世の図額(いたえちゃくしょくおちせのずがく)」絵は、昭和13年、明治座で泉鏡花 原作「日本橋」上演の折、お千世役を演ずる花柳章太郎が、日本橋西河岸の地蔵堂に、奉納した板絵です。 日本橋檜物町に住んだ、美人画で知られる、小村雪岱〔*こむら・せったい(1887-1940)〕の筆により中央に半玉姿のお千世が描かれ、両脇に章太郎と泉鏡花の自筆と思われる句、「桃割に結ひて貰ひし春日かな」(右脇・花柳章太郎)「初蝶のまひまひ拝す御堂かな」(左脇・泉鏡花)が書き添えられています。 花柳章太郎は、大正4年の初演の折、この地蔵堂に祈願して、お千世役に起用され出世作となりました。 「日本橋」にゆかりが深く、また日本の演劇史の上でも重要な資料です。 区民有形文化財・歴史資料。所在地:中央区八重洲一丁目2番5号、日本橋西河岸地蔵寺教会 (注)お千世の図額は一般公開していない。閲覧は事前に連絡のこと。Tel.03-3271-8177 ◆平成7年3月、中央区教育委員会設置の説明板には次の記載がある。 大正4年(1915)3月、本郷座で泉鏡花原作「日本橋」初演のおり、当時21歳の無名であった新派の俳優 花柳章太郎は、お千世(おちせ)の役を熱望し、劇と縁の深い西河岸地蔵堂(昭和24年(1949)、日本橋西河岸地蔵寺教会となる)に祈願しました。「日本橋」は檜物町(現・日本橋三丁目、八重洲一丁目)の花街を舞台とした、いわゆる日本橋芸者の物語で、お千世は登場する芸妓のひとりでした。章太郎はこの劇でお千世役に起用されて好演し、これが出世役となりました。 ここに所蔵される「お千世の図額」は、2度目のお千世役である昭和13年(1938)の明治座上演の際に、章太郎が奉納したものです。この絵を描いた小村雪岱(こむら・せったい)は「日本橋」の本の装丁や挿絵も担当した日本画家で、図額には章太郎と鏡花の句も添えられています。この「お千世の図額」は、地域にもゆかりの深いものとして、中央区民有形文化財に登録されています。(見学ご希望の方は、本堂まで申し出てください) ◆日本橋西河岸地蔵寺の沿革は、昭和59年9月14日に同寺が掲出した説明板には以下の記載がある。 当寺に安置してある地蔵菩薩は、人皇44代元正天皇(715〜724)の御宇、諸国巡礼中の名僧行基菩薩が、衆生血縁のためにしばらく遠州四方城(静岡県引佐郡)に草庵を構えた折に、地蔵菩薩の霊告を受け、自ら御丈2尺8寸の御尊像を彫刻したものと伝えられています。 この地蔵菩薩は、天海僧正の御持仏で、至心に祈願すれば日ならずして御利益を授かるところから、「日限(ひぎり)地蔵尊」と呼ばれ、ことに延命祈願に霊験あらたかなことは古来より広く世に知られています。 享保3年(1718)9月、勝縁の地として、ここ西河岸に遷座し、今日まで二百数十年を数えます。建立の当時は「正徳院」と呼ばれ、天皇じきじきに拝謁し、奏上のできる格式高い寺でありました。その後、明治維新の廃仏毀釈と大正12年9月の関東大震災や戦災などによる多くの変遷を経て、今日に至っています。 なお、現在の堂宇は昭和52年4月、新たに建て替えられたものです。 |
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| N015 |
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竹久夢二は明治17年(1884)9月16日、岡山県邑久郡本庄村に生まれる。本名は茂次郎。家業は造り酒屋。大正3年(1914)10月1日、呉服橋に開店した当時の港屋は東京名物の一つで人気を集め、その品々を身に着けるのはこの上ない趣味とされ、若い女性の憧れの的となったが、店は忙しすぎる夢二の商品補充が続かず2年で閉じることとなった。昭和9年(1934)死去。享年50。
記念碑の所在地は中央区八重洲1−2−1で、みずほ信託銀行本店(旧安田信託銀行本店)ビル脇の永代通り側、東京メトロ「日本橋」駅A1出口を出てすぐに設置。『宵待草』の歌詞が刻まれている。昭和59年(1984)建立。 出身県の岡山と群馬・伊香保温泉に記念美術館がある。 ◆記念碑の碑文は下記のとおり 情熱と悲哀の画家であり、詩人でもあった竹久夢二(1884〜1934)は、大正3年(1914)この地に「港屋絵草紙店」を開き、夢二のデザインによる版画、封筒、カード、絵葉書、手拭、半襟などを売った。 美術家自身がその作品を商品化し販売する店を作ったという点で、「港屋」は日本の商業美術史上重要な意義をもつものであり、その存在を永く記録にとどめるため、ここに記念碑を設置し、故人の業績を讃えるものである。なお、当時の「港屋」の位置はこの碑の西約13m、間口約2間(3.6m)であった。 ♪ まてど暮らせど来ぬひとを 宵待草のやるせなさ こよひは月も出ぬさうな ◆この店の開店挨拶状には、「下街の歩道にも秋がまゐりました。港屋は、いきな木版絵や、かあいゝ石版画や、カードや、絵本や、詩集や、その他、日本の娘さんたちに向きさうな絵日傘や、人形や、千代紙や、半襟なぞを商ふ店でございます」、とある。夢二の妻だった他万喜(たまき)を店主として、夢二を慕う人々で賑わった、大正初期の人気スポットであったそうだ。友人の恩地幸四郎、東郷青児などの芸術青年も出入りしていたという。 |
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| N016 |
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◆「中央区文化財めぐり」には次の記載がある。 区民有形文化財建造物 所在地:中央区八重洲一丁目11番先。 一石橋(いちこくばし)は江戸城の外濠が日本橋川と分岐する地点に江戸初期からあった木橋です。名前の由来は北橋詰に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰に御用呉服商の後藤縫殿助が居り、両後藤=五斗+五斗=一石で、一石橋と名付けられたと伝えられています。 大正11年6月に木橋からRCアーチ橋(鉄筋コンクリート)に改架され、橋長43m余、幅27m余で花崗岩の石張りの立派な橋となりました。親柱は4本、袖柱は8本の構造で、橋幅は広く、中央を市電が通っていました。翌12年9月の関東大震災でも落橋せず使用されていましたが、昭和39年の首都高速道路の建設で改修され、親柱2本を撤去、同〔*中央区HPで教育委員会の文化財解説には「同年」とあるが「同」の間違いであろう〕48年に鋼鉄橋梁となり、袖柱4本も撤去。RCアーチ橋創建当時の親柱は2本残っていましたが、平成9年に大改修をした際に1本を残して撤去されました。 残った1本は大正11年改架当時の重量感ある大型の親柱で、関東大震災以前のRCアーチ橋のものとしては、都内最古の親柱として貴重な近代文化遺産です。 ◆中央区教育委員会、平成15年3月設置の説明板には次の記載がある。 皇居外堀と日本橋川が分岐する地点に架橋された一石橋の歴史は古く、江戸初期の「武州豊嶋郡江戸庄図」にすでに木橋として見えています。当時は西河岸町と北鞘(きたさや)町とを結ぶ橋で、橋名の由来としては、北橋詰近くの本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰近くの呉服町には、幕府御用呉服所の後藤縫殿助(ごとう・ぬいのすけ)の屋敷があり、後藤をもじって五斗(ごと)、五斗+五斗で一石と名付けたと『江戸砂子』に見え、日本橋地区と神田地区を結ぶ橋として重要でした。 木橋としては最後となった明治6年(1873)の一石橋は長さ14間、幅3間の橋でした。大正11年(1922)に東京市道路局によって鉄骨コンクリート花崗岩張りのモダンな橋となり、堂々とした親柱4基をすえた白亜の橋となったのです。関東大震災にも落橋せず、その後も交通上の重要な橋として使われてきました。 平成9年(1992)には大正11年の橋本体はすべて撤去されましたが、威風堂々とした花崗岩の親柱1基は残され、当時の姿をしのばせています。平成14年(2002)に中央区民文化財に登録されました。 ◆「一石橋の歴史」説明板が北詰東側にあり、以下のとおり記載。 一石橋は寛永年間(1624-1647)または、それ以前から存在した橋である。左の写真(略)に見られる一石橋の姿は、大正11年に架け替えられた当時の姿で、アーチ部分の姿は石積み、重厚な石の高欄や親柱、照明などの細部にいたるまでデザインの施された橋であり、当時の時代を感じさせる西洋的でモダンな印象をかもし出している。 一石橋の上流半分は、昭和48年にスチール製の桁橋に架け替えられ、平成11年には下流側半分についても架け替え工事が行われて今日に至っている。大正時代当時の一石橋の姿を残しているのは上流側の大きい親柱と小さい親柱(当時の袖柱)のみとなり、残りの施設については、平成11年の下流側架け替え工事に伴い、当時の姿を残し、継承する意味で新たに造り替えられている。 |
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東京都指定文化財 中央区八重洲1-11先 一石橋のたもとに残る「一石橋迷子しらせ石標」は、安政4年(1857)2月に日本橋西河岸町の町人たちが資金を出しあって建立したもの。 この石標は、江戸の町中で迷子になった子どもの情報を知らせるために使用した。石の正面に「まよひ子のしるべ」とあり、左側に刻まれた「たづぬる方」の部分には迷子の特徴を記した紙を貼り、右側に「しらする方」には迷子の所在に関する情報を書き記した紙を貼りました。 ◆東京都教育委員会、平成8年3月8日建設の説明板には次の記載がある。 一石橋は「いっこくばし」とルビ。 東京都指定有形文化財(歴史資料)。指定:昭和17年9月旧跡。昭和58年5月6日種別変更。 江戸時代も後半に入るころ、この辺りから日本橋にかけては盛り場で迷子も多かったらしい。もし迷子が出た場合、町内が責任をもって保護することになっていたので、付近の有力者が世話人となり、安政4年(1857)にこれを建立したものである。 柱の正面には「満(ま)よい子の志(し)るべ」、右側には「志(し)らする方」、左側には「たづぬる方」と彫り、上部に窪みがある。使用法は左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、それを見る通行人の中で知っている場合は、その人の特徴を書いた紙を窪みに貼って迷子、尋ね人を知らせたという。いわば庶民の告知板として珍しい。このほか浅草寺境内と、湯島天神境内にもあったが、浅草寺のものは戦災で破壊された。 ◆鹿島満兵衛著、大正11年(1922)『江戸の夕栄(ゆうばえ)』(中公文庫)には次の記述がある。 迷子探し 夏期は割合に少なきも、冬分木枯し吹きすさむ頃になると、弓張提灯をつけ夜中四五人の一連(ひとむれ)、鉦を太鼓を打つかなしげな声で、「迷子の迷子の何某やあーい」と呼びあるく。これは子供のみにあらず、老人もあり、妻女もありて、いかにもかなしげな陰声なり。両国橋、一石橋等には迷ひ子のしるべといふ石碑あり。尋るかた教ゆるかたの二方面あり、警察はなし新聞紙なき時代には、自力をもって尋るのほかなかりしなり。
このときの水準点は独立した標石のほか、恒久的な建築物もしくは石組み等のものに、「不」の字に似たこの標識を刻み、その横棒部分に測量器具をあてて標高を計測した。英語では「Bench Mark」という。基準点は霊巌島水位標をゼロメートルとした。 |
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所在地:中央区日本橋本石町1-1、日本橋室町1-1地域。 明治10年12月、東京府は「日本橋ヨリ以西 一石橋迄」の河岸地、西河岸の対岸を「裏河岸」と命名しました。江戸時代初期、寛永江戸図(1634)などでは「北かし」と記されていますが、この北側には北鞘町と品川町があり、御府内沿革図書では、一石橋側を「北鞘町河岸」、日本橋側を「品川町裏河岸」としており、いくつかの里俗名を確認することができます。 『江戸名所図会』によると、品川町裏河岸の通りには、釘・金物の店が多く、釘店(くぎだな)とも呼ばれたといいます。 ◆平成3年3月、中央区設置の西河岸橋の説明板には次の記載がある。日本橋川に架かり、管理は中央区。 このあたりは、江戸時代より我が国の商業・経済の中心地として栄えてきました。この橋は、日本橋から一石橋までの日本橋川右岸地域が、西河岸町という地名であったことから「西河岸橋」と名付けられたものです。 初代の橋(明治24年架設)は、弓弦形ボウストリングトラスという、当時最新式の鉄橋でした。関東大震災により被害を受けたこの橋は、大正14年に現在の橋に架け替えられました。 区では、架設後65年を経過したこの橋を平成2年度において、傷んだ部分を修復し、さらに伝統的な木造建築様式の木組みを採りいれた意匠で整備しました。 橋梁の諸元 形式:3径間連続鋼構桁橋、橋長:52.0m、幅員11.0m、(車道6.0m歩道2.5m×2)、橋下:日本橋川、着工:大正13年12月、竣工:大正14年8月、施行者:東京市。 |
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◆平成元年、中央区教育委員会発行、『中央区の昔を語る』には次の記載がある。(抜粋) 江戸時代には、現在の日本橋1〜3丁目の地域は、商人の多く住む庶民の町でした 。徳川家康が天正18年(1590)8月に江戸に入ると、関東8か国の大名の居城 地として江戸は、日本橋地域から城下町の建設が進み、全国から商人や職人の集住す る庶民の町として発展していきました。日本橋から西に通じる中央通りは、のちに東 海道の出発地となる大通りで、現在の皇居(江戸城)の外濠と、東の楓川の運河に挟 まれた日本橋地区は、特に近江や伊勢・三河の商人が来住して大商人や問屋の多くに 商いする城下の中心地として活気を呈していきました
江戸城下の中心地 日本橋1丁目 現在の日本橋1丁目の地は、中央通り(日本橋通り)を中心に、通1〜4丁目、通 1丁目新道、西河岸町、呉服町新道、元四日市町(活鯛屋敷・日本橋蔵屋敷)江戸橋広小路、本材木町1・2丁目、万町、青物町、平松町の一部、佐内町などの多くの町があり、江戸城下の中心として活気あふれる庶民の町でした。万町と青物町の間の 南北の通りを中通りといいました。 日本橋は慶長9年(1604)に制定された五街道の起点として急速に諸国からの人々に往来で賑わい、中央通りの両側には大型の商店である呉服の白木屋をはじめ、 両替屋や大問屋が進出し、堂々とした店構えの店が軒をつらね、江戸城下のみならず、日本経済の中心となっていきました。 日本橋1丁目北端の日本橋川には、日本橋と東に架かる江戸橋があり、川沿いの地は、日本橋蔵屋敷や四日市蔵地、江戸橋蔵屋敷があり、諸国から船で江戸に入る物産を納める白壁の蔵々が並んでいました。日本橋広小路には御肴役所もありました。 日本橋2丁目 日本橋2丁目の地域は、江戸時代には中央通りに沿って通2丁目、同3丁目があり、それに隣接して元大工町、数寄屋町、江戸橋広小路、本材木町3丁目、平松町の一 部、佐内町の一部、新右衛門町、川瀬石町、南油町、小松町などの町々がありました 。 通2丁目から西方の江戸城外濠方面に、元大工町新道への小路を十九文横町といい、つづいて樽新道が通じていました。 中央通りの左側には通2丁目新道があり、その南の小路を式部小路といい、江戸初期から幕府の奥医師を務めた久志本式部の拝領屋敷地があった所です。 日本橋3丁目 現在の日本橋3丁目の地域も、江戸時代の初めから庶民の町で、中央通り(日本橋通り)に沿って通4丁目、檜物町、上槙町、下槙町、福島町、本材木町4丁目、箔屋町、岩倉町、榑正町などがあり、大店のほか小売商店や職人が多く生活していました 。 当町域の福島町の地は楓川から深く入り込む堀割でしたが、元禄3年(1690)にその入堀を埋めて福島町が成立しました。 |
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