「葦牙ジャーナル」80号のこの一文
加藤周一を偲んで
青木 信夫
加藤周一が亡くなった。ある時期、私は加藤周一の著作を集中して読んだことがあり、敬愛する評論家の一人であった。
加藤の評論の対象は幅広く文芸に限らず美術、音楽や芸術一般に及び、更に社会評論的なもの、社会科学や文化人類学とでもいうべき分野に関するものにも及んでいた。また加藤の視野にある文芸=文学は小説、随筆、詩歌、戯曲に限らず歴史書、宗教書、哲学書、書簡などおよそ文字で書かれた人間の思想を表わしているものを含んでおり、普通日本でいわれている文学の範囲よりも広かった。私は加藤の著作を読みながら読書の楽しさを堪能した。そして多くのことに共感したと共に考え方の道筋に納得するものがあった。私なりにとらえた加藤の評論の特徴を列挙してみたい。
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@ 加藤の代表作であると思われる『日本文学史序説』の中で述べようとしたことは日本人の精神(思想)の中にある伝統的な性格と特徴についてであった。
それを加藤は「土着世界観」とよんでいる。
その土着世界観が外部からの思想的挑戦(外来思想として加藤が想定しているのは仏教、儒教、キリスト教、マルクス主義である)に対して反応した仕方を、それぞれの時代の社会的条件のもとで文学を通じて考察を試みたのが本書である。
そして日本の土着世界観が超越的な外来思想と出会ったとき、多くの場合は外来思想の「日本化」が起ったと分析している。
そして加藤は日本文化の特徴として彼岸性に対する此岸性空想性に対する日常性接続性に対して現在を強調する傾向を摘出している。
A 加藤は数多くの芸術論を書いたが、散文を除く芸術の発展をその様式の中での発展とみなし、様式間の優劣を論じない。そして様式は時代の表現様式で個人的なものではないと指摘する。加藤はすべての文化は伝統的であり、伝統的でない文化は存在しないという。
B 加藤は芸術家、芸術作品、思想家についてそれを生みだした歴史的条件、その時代の社会構造との関連、異文化の影響の有無を考察しつつその才能を見ようとしている。
そしてその視野は常に国際的であり、その分析方法は社会科学の方法を採り入れているばかりでなく文化人類学的でもある。
C 加藤は『日本文学史序説』の各論ともいうべき『日本文学の定点』の中で親鸞、一休、世阿弥、新井白石、富永仲基と石田梅岩について論じているが、中でも白石について一番多くのページをさいている。
白石は空海と共に多方面の活動を行った知識人であった。行政官であったと共に学者であり、その学問は日本語学、歴史、人文地理に及んだ。加藤は白石の多方面に及ぶ活動を自己及び周囲の世界を包括的に理解しようとする意欲があったのだろうと評している。
そして白石には朱子学的な合理的な秩序に対する一種の信頼があり、事実に対する可能なかぎりの実証的な態度があり、自己のそれと異なる立場や文化に対する柔軟で開放的な精神があるとする。
この加藤の白石に対する評価は彼自身の態度と相通ずるものを読み取っていたからに違いない。
D 加藤は開かれた精神、自由で柔軟な精神を愛し、狂信主義を憎んだ。従って加藤の社会を観察する眼は相対的であり絶対的ではない。ヨーロッパ諸国、北アメリカ、旧ソ連邦、中国、インドなどについての見聞記にもその相対主義が働いて、肯定面と否定面の両方を見ようとしている。また友人、知人との対話を通じて自己の印象を検証しようとしている。
E 加藤は自らも詩歌を作ったことがあるが、その文章は美しい日本語である。英仏独語を読解し、会話する能力を持っていたが、その文章の中で固有名詞を除いてはめったに外国語を用いない。
これはやたらと外国語を使いたがる知識人を含む一般的な風潮の中では珍しいことである。勿論意識してそうしたのであろう。加藤が森外、石川淳に特別に関心を寄せるのは、恐らく彼等の母国語に対する素養、見識に共感を持ったことも関係しているだろう。
F 加藤の文章は常に論理的であり知的であるが、時に耽美主義を思わせるような表現に出会うことがある。
北フランスのランスやシャルトルのカテドラルについて語るとき、平安仏像について語るとき、ヴァークナーの音楽について語るとき、また信濃追分の自然について記すとき、出会った土地の夕焼けの美しさについて述べるとき、この人はこの一瞬のために生きているのではないかとさえ思わせる。
文章の艶とでも評すべきものを感じさせることがあるのが加藤の文章を読む楽しさでもある。艶ということでいえば、加藤は男女の相思について人間にとって永遠に不可欠のものとして強い関心を寄せる。これらのことは加藤の生き方の態度のある側面の反映でもあると思われる。
G 加藤はいくつかの論文を外国語で書き、後に日本語に翻訳されたものがある。
ということはその読者に外国人と日本人の両方を想定していたことになるだろう。加藤の文章はその内容が高度であるにしては非常に判り易く論理的である。
それは一つは自然科学を専攻したことも理由になっているからかも知れないが(医学部出身で医師だったことがある)、外国人に通じることを意識して書いたことにもよると思われる。
H 加藤は日本国憲法についてアメリカ占領軍によって当時の日本の支配者に押しつけられたという歴史的事実を認めつつも、その平和主義、人権尊重、人民主権の性格を持つ現行憲法を積極的に擁護する立場に立ち発言した。
支配者にとっては押しつけであっても、人民にとっては歓迎すべき内容を持っていたからである。但し、民主主義の重要な要素である議会主義が日本においては必ずしも有効に機能しているとは見ておらず、特に戦前へ回帰しようとする右翼的な動向に対して絶えず警句を発した。
加藤の政治問題に対する発言は評論家としてのそれに留まるが、その故に党派的な制約のない、自由で知的な立場からのものであり、現実を見る眼は常に相対的であった。
I 先に加藤の相対主義についてふれたが、それには例外が一つあった。それは人間の生命である。加藤は全ての価値の根底に生命尊重をおいていた。
加藤が「九条の会」の発起人の一人になったのはそのことの社会的な実践でもあった面もあるのではなかろうか。加藤は戦争を憎み、また死刑廃止論者でもあったのである。
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世の中が複雑化し多様化する中で、知識人の仕事の専門分野が益々守備範囲が狭くなるという必然的な傾向の中で、専門家は多いが真の知識人は生まれにくくなっている。加藤のような幅広い守備範囲を持った本当の知識人は今後なかなか生まれにくいだろう。
私が加藤周一に関心を持ったささやかな理由の一つに私の住んでいる信濃追分に縁が深い人であったということがある。加藤は十代の後半以後、外国滞在の時期を除いて毎年のように夏を当地で過し、追分の自然を愛し、そこで堀辰雄をはじめ中村真一郎、福永武彦など多くの知的で人間的な交流を持った。
2007年8月のある暑い日の午後、私は「信濃追分九条の会」の運営委員の一人として他の二名の仲間と共に、林の中の比較的質素な加藤氏の別荘を訪れ、九条の会で計画した加藤氏を囲む談話会の開催について打ち合わせを行ったことがあった。リラックスした雰囲気の中で加藤氏は私達のテーマについての要望をメモしながら丁寧に聞いて下さった。
少し離れた席で夫人の矢島翠さんが控え目ににこにこしながら私達の会話を聞いておられたのが印象深い。加藤氏は私達の会が毎月発行する通信に対して年に数回ハガキで感想を寄せられた。そこには私達の会に対する好意が感じられ、そして九条の会が自由で幅広く開かれたものであることへの期待が寄せられていた。そして加藤氏は各地に無数に増えた九条の会がそれぞれ自主的で対等な関係であること、また九条の会の運営がトップダウン方式になってはいけないことを強調された。
加藤氏が亡くなった後、12月29日付の「立原道造記念館」第48号で佐岐えりぬさん(故中村真一郎夫人)の書いた「加藤周一さんのこと」を読み、加藤氏はまだ意識のはっきりしていた八月にカトリックの洗礼を受け、ルカ加藤周一として12月5日安らかに昇天されたということを知った。そのことをどう理解したらよいのだろうか。ご冥福を祈ると共に、私にとってはいささか難問として残った。