「葦牙ジャーナル」58号(2005年6月) 巻頭言

映画『夜明け前』を観る

 かねて長い間、私にとっての「幻の映画」であった島崎藤村原作・新藤兼人脚本による吉村公三郎監督作品『夜明け前』を最近やっと都内のある小劇場で観る機会をえた。
 日中戦争のさなか『愛染かつら』と並ぶ恋愛映画『暖流』をヒットさせ、戦後も数々の名作を手がけて日本映画の巨匠のひとりに数えられた故吉村公三郎の監督作品であり、主役の青山半蔵を演じるのが名優の誉れ高い滝沢修である。
 原作・監督・役者が三拍子揃っているとあっては、どうしても観たいと思うのが映画フアンとしての人情であろう。

 映画は、発足まもない独立プロダクションの近代映画協会と劇団民芸の提携で、ほぼ半世紀前の一九五三年に制作されたものである。
 一年におよぶ現地ロケと多額の資金を投じた意欲作にもかかわらず、興行的には思わしくなく、近代映画協会を苦境に追い込んだ曰く付きの大作だったようで、そのせいもあってか、どこかでリバイバル上映されたという話もとんと聞かないできた。 幸いにもそれを観ることができたのである。

 古い白黒フィルムなので、音声などに難色があったものの、作品の実質はいささかも古びてはいない、見ごたえのある作品であることはたしかであった。

 しかし、幕末・維新の大変動期を木曾馬籠の本陣・問屋・庄屋として生きた青山半蔵の新しい時代によせる期待と絶望がそれなりに映像化されていたとはいえ、半蔵の生き死にする場である時代そのものの胎動がやや説明的に流れていて、歴史の深さや厚みにおいて主人公をとらえるという点では不満なしとしないではなかった。
 それをいうのは、もともと無理な注文かもしれない。古典的な名作を映画化して、原作を凌駕する傑作などそうめったにお目にかかれるものではないからである。

 とはいえ、長期の現地ロケを敢行しただけあって、まだ観光地化される前の馬籠宿のたたずまいや木曾街道をめぐる風景、さらに木曾川の奔流や雨にけぶる恵那山が名カメラマン宮島義勇によって見事に映し撮られているのには、さすが映画ならではのことと感心せざるをえなかった。
ともあれ、歴史意識を喚起させる、そういう日本映画を今こそ見たいものである。 (中野健二)