「葦牙ジャーナル」61号(2005年12月) 巻頭言
間もなく戦後61年に……。
今年は戦後60年。人の様でいえば還暦、敗戦の年に生れた男女はそれぞれにジーサン・バーサンになった。「明治憲法」の君臨した58年よりも、戦後の時間の方がながい。
この間、米軍はこの国に居続け、今後も期限はない。これは世界史上にも稀有なことだ。
はじめは占領軍として、ついで安保条約で日本を守るというタテマエを得、冷戦時には対ソ戦略・反共戦争、昨今は「テロ撲滅」のための世界基地の一環として……。名目は時々に様々に変えながら、堅固な基地インフラを日本の政府に築かせている。非日常的な殺戮を仕事にする軍隊が、市民に及ぼす無法な凶行もこの間絶えることなく生起している。
人びとの暮らしにも、幾多の起伏があった。ヒリつくような貧しさから、「高度経済成長」は多くの人々にある程度の離脱をもたらした。「一億総中流」、「新中間大衆」などという言葉が生れた。
が、バブルがはじけ、「新自由主義」「グローバリズム」の嵐が吹き始めると、こうした言葉や事象はあっけなく吹き飛ばされ、リストラと雇用の流動化という名の下でアルバイトや不安定なパート労働者が激増し、「下流社会」という「新たな階層集団の出現」(三浦展『下流社会』光文社新書)が取り沙汰されるようになった。
グローバル資本主義は、働く人々に「死にいたるまで働く」ことを求めるものだ、と森岡孝二氏はいう(『働きすぎの時代』岩波新書)。激しい生存競争から脱落し、気力を失った若者が巷に溢れている。彼らが、何とはなしに「力」のある存在に依存しようとして政権党やポピュリズムに魅かれる傾向を指摘した三浦氏の言には肯うべきものがある。いっときの「中間大衆」の没落で、階層格差は、戦前のそれとは色合いを異にしながらも、「下流社会」は確実に拡大している。
憲法九条の危機も迫ってきた。こんな61年目以降をどう生きるのか。年末から新年にかけてなんとか智慧をしぼり、力を蓄えたいものだ。 (上原 真)