「葦牙ジャーナル」62号(2006年2月) 巻頭言

  さようなら、私の戦後よ!

 大江健三郎の最近作『さようなら、私の本よ!』には、暴力装置の最大のものである核兵器を事実上アメリカが独占し、世界の趨勢は核保有国が自発的に廃絶に向けて縮小してゆく方向にない、「自分は核廃絶への見通しすら持てぬうちに死んでゆく」─そういう大状況と向き合う長江古義人という大江自身が書かれている。

 作家大江にとって、戦後とは大江そのものであった。その存在証明が日本国憲法であった。ところがいまや、小泉首相は「海外派兵」を実現し、最高裁違憲判決を尻目に靖国神社に参拝し、選挙で反逆者に「刺客」を送り込み、「軍」をもつ憲法へ改悪可能な絶対多数の議席を手中にし、「負け組」を情け容赦なく「キリ捨てる」という一種のマキアヴェッリ的政治劇を演じてみせた。

 この「小泉劇場」は、同じ戦後でも、大江とは対極をなす、本質的には大江と対立的な天皇主義の国家意識と美意識を代表し表現した三島由紀夫を連想させた。大江が、人間的な法と合意に依拠しようとしてきたのに対して、三島は、獣的な力と威信に依拠しようとしたといえよう。こうした二極に分裂する「心の問題」のレベルから戦後60年をへた今日もなお脱出できないこの祖型の反復こそ、戦後政治の限界であり、いまなお大江をして「ミシマ問題」を作中に取り込まずにおかなくさせている理由でもあろう。
 あるべき戦後政治への抑え難き鬱積が横溢する。最終部で、戦後とともに出発した古義人の「生涯の最初に書いた小説」の言葉が甦る。 「僕らは犬を殺すつもりだったろ……ところが殺されるのは僕らの方だ」。
 いま、憲法はあのときの犬なのだ。だが「僕らは殺されても歩きまわる」。   (山根 献)