「葦牙ジャーナル」69号(2007年4月) 巻頭言

「四月は残酷な月で……」

 四月になると、いつもT・S・エリオットの『荒地』を思い出す。「四月は残酷な月で……」と詩人エリオットは歌い始める。
 なぜ四月が残酷かというと、過去は可能性を喪失してしまったという絶望感と、未来にはそれでもわずかに可能性があるという期待感とがないまぜになって、生命の始まりの季節はこの上なくやるせないからである。

 他方、東洋人も、植物の新しい芽吹きを愛でながらも、それがやがて醜く枯れて死んでゆくさだめを内包していると考え、その哀しさと残酷さを美に変えて慈しんできたのである。西洋も東洋も、四月が残酷な月であるという感触は共通しているようだ。

 しかし、その四月の残酷さはここ数年、詠嘆や美意識には置き換えられない様相を呈し始めている。自然も人間も、社会も政治も、そこにおける人の心が自我愛と欲望で、むごたらしくすさんできている。

 維持できない開発、他者と共存できない大人や子供たち、信じられない殺人や詐欺、そして戦争放棄の放棄、いずれも人間として許容できるキャパシティの臨界へ限りなく近づいていて、エリオットが生きていれば、「四月は残酷な月で……」などと美しく嘆く言葉を使ったことをきっと恥じたであろう。

 そして人の営みの始まりの季節が、ほろ苦い期待も胸をうずかせる哀しみももはや内包していないことを感じて、言葉を失ってしまったであろう。

 それでも、エリオットはやはり正しかったのだ。過去から未来の可能性を引き出し、そのわずかな可能性にすがりついても世の無明を砕くことを諦めてはならないのだ。
 四月の残酷さは、未来への重い扉を開く。今年もまた、断たれることによって繋がるいのちの非連続を秘めて、桜は無心に咲き、無心に散ってゆく。  (中野信子)