「葦牙ジャーナル」70号(2007年6月) 巻頭言
人間は火を止めることができるか
五月、熊野古道を歩いた。みどりの萌えさかる古道である。「葦牙」という古事記の世界の言葉がそのまま存在している古道である。四百年来の道ということで、最近「世界遺産」にも指定されたということであるが、歩いている人はいなかった。2時間歩いても一人の人間にも出会わないという古道の経験は、不思議な感覚をもたらす。常に人間のいる自然を生きている者が、人間のいない自然に触れるということには、たとえそれが2時間というような限られた時間であっても、何か根源的なものを感じさせられるところがある。
その感覚から、自分の一歩一歩が自然を壊し、また同時に自然を作り替える人間の一歩であるという思いへと導かれていく。その思いによって、「人間とは何か」という問いを避け得なくなる。
地球環境の激変という現代的な状況があるというだけの理由からではない。人類が誕生したということ、その人類が火を起こすことを発明したということ、そのこと自体によって地球はすでに激変の歴史を歩みはじめたということ、今日の南極大陸の氷床の亀裂や崩壊はその一点の火にはじまる人間の歩みに負っているということ、それらのことすべてが人間存在の意味を問い質していると感じさせられるからである。
この人間の存在は、いまでは「グローバル化」という一言のもとに説明される。モールス信号や海底ケーブルを経て、インターネットにつながった電光の歴史と、それによって手と手の生産と交換から電光の生産と交換へと姿を変えた資本と労働の歴史、そして棍棒や石ころから原水爆につながった武器の歴史が、その「グローバル化」という言葉を規定している。
この言葉のもとでは、本物の自然はあるようで、ない。人間という第二の自然が君臨しているからである。その第二の自然によって破れつつある第一の自然を、熊野古道で考えることは、難問であった。 第一の自然が未来の発展の神話を拒否しているいま、人間はその自然のもとにある地球自体を「世界遺産」としてしまわないために、火を止めることができるだろうか。 (武藤 功)