「葦牙ジャーナル」71号(2007年8月) 巻頭言

柳北のパリ

 将軍侍講にして、若く美しい柳橋の歌妓たちと秘めやかな逢瀬を重ねる稀代の「遊民」であった成島柳北は、王政復古ののち、1872年、東本願寺法主の大谷現如の欧州視察随行員としてパリに向かう。
 彼はここで、岩倉米欧回覧使節と遭遇するのであるが、柳北がルーヴル美術館や劇場に赴いたのに対して、回覧使節が向かったのは、士官学校、砲台、兵営、国立銀行といったもののみであった(前田愛『成島柳北』)。

 たしかに、ここには、そもそもなにを「文明」としてとらえるのか、ということをめぐる問題意識の差が歴然としている。使節団が眺めたものこそは、やがて「現人神」が主権を独占する憲法を生み出し、それに支えられて「富国強兵」が遂行される「近代化」なるものの原型をなしていたには違いなく、それはまた、柳北のユートピアたる「江戸文化」が、「薩長の芋侍たち」に蹂躙されていく過程をも意味していた。

 しかし、「江戸文化」という町人文化がその程度のものだったということこそが、じつは、本質的な問題には違いない。すなわち、「富国」という急激な資本主義化・階層分化の過程に否応なしに放り込まれ、「近代的自我」を確立しようともがく青年たちにとっては、デカルトの思索やハムレットやウェルテルの懊悩が、つまりは、柳北がパリで観た「ヨーロッパ芸術」の底に潜む「個の原理」の顕現こそが、彼ら自身の苦悩に照応するものであり、洗練の極みといえども、所詮は「宴会芸能」と化した「江戸文化」は、彼らにはたんなる彼岸の徒花に過ぎなかったということである。

 柳北は、やがて讒謗律・新聞条例に引っかかり、「薩長の芋侍たち」に四ヵ月の禁固刑(罰金百円)を喰らって、他の記者たちと鍛冶橋監獄に放り込まれる―「柳北のパリ」は、日本の「近代以前」の文化におけるある種の脆弱性と、「近代化」なるものの没(反)文化性との双方を、きわめて象徴的に示すものでもあった。  (照井日出喜)