「葦牙ジャーナル」74号(2008年2月) 巻頭言

拉致事件と南京事件で問われていること

 昨年の12月、二つの切実な集会に参加した。一つは、13日の「在日朝鮮人・朝鮮総連への強制捜査に見る不当・不法」について聞く会である。もう一つは、15・16日の「南京事件70周年国際シンポジウムin東京」である。

 二つとも、国家犯罪のからむ政治的な問題(前者については日本の国家犯罪の前提となる北朝鮮の国家犯罪もかかわる)だけに深刻な集会であった。
 深刻だというのは、この70年を隔てる象徴的な国家犯罪に対する「われわれの議論」の現状が出口なき論議のレベルに止まっていることだ。
 拉致事件については、被害者家族会はその北朝鮮への制裁論議によって日本政府ばかりかブッシュの足を引っ張ることさえ辞さないし、その意を受けた日本政府は拉致非難に便乗して「戦争のできる国家」へのイデオロギー操作に懸命であるが、われわれはその逆転された象徴的国家暴力(日本の植民地的暴力から北朝鮮の拉致的暴力へ)を打破する道を見出していない。

 13日の議論でも、善悪の批判議論は出されたが、その拉致問題解決のための具体的なロードマップの話はまったくなかった。

 一方の南京大虐殺という象徴的戦争暴力の問題についても同様である。70年前の歴史的事実を抹殺しようとしている人々の熱気が高まって、いまでは自民党が国会に委員会を作ってその象徴的国家暴力の歴史的否認にまで乗り出す事態がある。
 こうした動向に抗する東京シンポジウムは、「過去と向き合い 東アジアの和解と平和を」というスローガンを掲げたが、その実現の前提となる日本の国家犯罪としての「侵略戦争の裁き」についての確たる方向性は出されなかった。

 「南京大虐殺」という象徴的戦争犯罪の歴史破壊を食い止めること自体が難問なのである。「南京事件」に対する歴史修正主義者の策動は、沖縄の「集団自決」を「美しい殉国行為」に偽装しようとする訴訟や文科省の教科書検定による修正強制にも顕著であるが、まずはこうした歴史否定による国益論議とたたかうことが先決であろう。
 歴史は、彼らの策謀の夜につくられてはならないからである。 (武藤功)



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