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ちょっとしたコラムとしてはじめたこのページですが、今回、文字数が無制限となったので、言いたい放題になる可能性があります。行き過ぎだ! と思ったら誰か止めて下さい。
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サザンという学校 |
「この人は、種を蒔いているんだ」そう思った。1992年9月12日。“僕ら”は北京中央体育館のステージに立っていた。「いとしのエリー」の最後のシャウトに続いて、「勝手にシンドバッド」のイントロが始まる。日本国内で入念に繰り返されたリハーサルでも一度も試さなかった曲つなぎだ。ドラムのヒロシさんと毛ガニさんがアイコンタクトできっかけを作る。サポートベースの根岸さんが強靱なグルーブを作り出す。ギターの大森さんは満面の笑みだ。小倉さんも大森さんのカッティングに絶妙に合わせたリフを弾きまくり、ブラスセクションが情熱的に盛り上げる。そしてすべてを包み込む原坊の微笑みとピアノプレイ。サポートキーボードの片山さんはハモンドオルガンの音色で彩りを添える。そしてコーラスの僕と前田康美姉さんは声の限り「ラララーララララララー」のフレーズを繰り返す。その時、“僕ら”は確かに「サザンオールスターズ」だった。 このとき桑田さんが目指していたのは、「ビートルズが来日公演でしたことをサザンが北京でできないか」という途方もないミッションだった。天安門事件の余韻さめやらぬ中国でロックのコンサートをすることがどんなにリスクの大きなことだったか。だが、中期ビートルズを彷彿とさせる傑作アルバム「世に万葉の花が咲くなり」を完成させたバンドは充実していた。そして、桑田さんの視線は、日本文化のルーツである半島、そして大陸に向いていた。もちろん、10億の人口を要する巨大市場に日本のポップ・ロック(このときまだJ-POPという言葉はない)が食い込んでいけるか、というビジネス的な課題もあった。そしてその突撃隊長となれるバンドは、当時、サザンを置いて他にはなかったのだ。バンドに多人数のサポートメンバーを入れ、ステージ機材も照明も日本国内のコンサートと同規模のものを運び込む。スタッフも100人ではきかない人数が入っていたと思う。そしてその「失敗できない」というプレッシャーは、桑田さんを押し潰した。 ステージ中盤、桑田さんが突然舞台袖に引っ込んでしまった。舞台監督の水津さんとマネージャーの松野さんが何事か相談している。ステージに残ったメンバーには「何とかつないでくれ」という指示が来た。そして僕はいつの間にか、センターマイクの前に立っていた。「Do You Know The Beatles?」僕は観客席に向かって叫んだ。もう一度。「Do You Know The Beatles?」客席に反応があった。「O.K.I Sing The Beatles' Song!」そして僕は「I Saw Her Standing There」を歌った。リハーサルなしの一発勝負だ。なんとか歌い終えるとバンドはブルースセッションに入った。こうなると名うてのミュージシャン揃いの強みが生きる。ヒロシさん、根岸さん、小倉さん、片山さんを残して、他のメンバーは善後策を協議するため、楽屋に戻った。頭からタオルをかぶって、桑田さんが肩で息をしている。「もう少し休ませてくれ、大丈夫だから」そういっている。多分、過呼吸か、パニック・ディスオーダーの発作だ。アミューズの大里会長が心配そうに声をかける。結局、桑田さんと原坊さんを残して全員が一度楽屋を出た。ステージではブルースセッションが続いているが、もう限界だろう。お客さんたちも、何事かが起こっていることを察知し始めているだろう。5分ほどして、原坊が出てきた。「今日のところは、私がお客さんに謝って、帰ってもらいましょう。」そして、短い休憩を挟んで、原坊が観客の前に立った。「今日は桑田が体調不良で、コンサートは中止させて下さい」といった趣旨のことを通訳を通じて話す。「最後に私が歌います」と、これも予定になかった「花咲く旅路」を歌い始めた。そしてその曲が終わると同時に、ステージ下から銀のテープが打ち上げられた。そしてコンサートが終わろうとしたとき、背後から言葉にならない雄叫びを上げながら、男がステージに駆け上がってきた。桑田さんが最後の力を振り絞って戻ってきたのだ。 「勝手にシンドバッド」の終盤でいつものように客を煽る桑田さんを見ていて、僕は本当に感動した。今回、政治的なメッセージのある曲はなく、ステージはエンターテインメントに徹したものだった。でも「ロックという自由」の感覚は、北京の人々にも伝わっただろう。桑田さんはビートルズからもらった恩を、北京で返したのだ。ロックの神様はそんな桑田さんを見捨てなかったに違いない。 翌日の公演は、予定通りの演目で無事に、そして大盛況のうちに終了した。ヒロシさんが「こんなに一体感のあるライブはアマチュアの時以来だ」といった。そのあとバンドは凱旋帰国し、30本あまりのコンサートをこなしたけれど、充実感、という意味では、たしかにあの北京の2日間は特別だった。あの場にいられたことを、本当に誇りに思う。 蛇足になるが、僕はサザンオールスターズのサポートコーラスとして過ごした約1年で、多くのことを学んだ。どんなに大きな会場でも、モニターチェックは入念にすること。そして演奏中は、歌うことと同じくらい、モニター、つまり自分たちが出している音をよく聴くことに集中すること。それから、ライブ終了後のメンバーの行動については詮索しないこと。そして、桑田さんから学んだもっとも大きなこと、それは「自分らしくあれば、それでいい」ということ。桑田さんはバンドを離れればよき夫であり、よき父であり、良識ある社会人だった。僕の、たとえば尾崎豊の生き方にコンプレックスを持ってしまうような考え方は間違いだと示してくれた。筒井社長が言っていたような、アーティストとしての自己演出などは不要なのだと身を以て教えてくれた。 リハーサルが始まったばかりのある日の休憩時間、桑田さんが僕のところにやってきた。そして言った「松崎君はさ、力を抜いて、軽く歌ったときの声がとってもいいね。ジェームス・テイラーみたいだよ」 その一言で、ソロ時代に僕がこだわっていた歌い方が「力みすぎ」なのだということが素直に理解できた。バースディスーツでの僕のボーカルスタイルは、このときの桑田さんの一言がなければ確立されなかったろうと思う。これから僕はどんなプロデューサーと仕事をしようとも、桑田さんのアドバイスを胸に自分の声に誇りを持って歌うだろう。思えばあの1年間は、僕が本当に自立したアーティストとして世に出るための学校のようなものだった。メンバーの中で一番年下だった僕は、謙虚に多くのことを吸収させてもらうことができた。この場を借りて、桑田さんをはじめサザンのメンバー、サポートメンバーの全員に謝意を表したい。 |
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ポップ泥棒の誕生 |
アーティストにとって、デビューというのはこの世に生を受ける体験に等しい。だから、その時に心に傷を負えば、それはトラウマとなってアーティストとしての生涯に影響を及ぼすものだ。たとえば、あるバンドのボーカルが、デビューに当たって「他のメンバーは才能がないからクビにしてソロで行け」と強制されたとする。するとそのアーティストは、アーティストである限り「バンド」にこだわり、「バンドの一員である自分」に戻ろうとする。僕にとってそのトラウマは「自分で詞を書く」ということだった。アマチュア時代、僕は自分で詞を書き、曲を書き、アレンジをし、それが当たり前のことだと思っていた。だが、上京してプロとしてやっていこうとするとき、最初に評価されたのはボーカルとメロディーセンスだった。そして詞は、「プロとしては未熟」というのが、スタッフの評価だった。時は1989年、バブルのまっただ中。当時売れていた作詞家は、秋元康に代表される、「おしゃれな詞が書ける、コピーライターライクな作詞家」であり、ソロデビューするシンガーであれば、そうしたおしゃれな詞で「武装」するのが当たり前とされていた。僕を見いだした筒井という社長は山本達彦のマネージャーとして名をなした人物であり、僕をそのノウハウで売り出そうとしていた。そして、山本達彦の音楽プロデュースをしていた高木という人物に僕を預けたのだ。彼とのやりとりは本当に熾烈だった。上京前から書きためていた作品のほとんどは「詞がダメだ」と却下された。その中には「Another Time,Another Place」「Different Windows」「汚れてもマリア」も含まれていた。とくに「マリア」は、メロディーがポップでシングル向けと判断されたため、徹底的に詞の書き直しを命じられた。「泣かないで 僕のマリア 汚れても 僕のマリア」というフレーズだけを残して、あとは全部書き換えろと言うのだ。僕は本当に悩んで、社長の筒井に「あの高木というプロデューサーを変えて欲しい」と何度も頼んだ。だが、筒井と高木とは山本達彦という成功を共有していた。筒井は「高木と3枚アルバムを作ったら、おまえも一人前にセルフプロデュースができるようになる。それまで辛抱しろ」といった。そして、高木とテイチクの吉田というディレクター(彼も善意の人物ではあったが、才能は決定的に欠けていた)主導によって、デビューアルバム作りはスタートしてしまった。吉田は、実川翔というコピーライター兼作詞家を連れてきて、僕にあてがった。締め切りまでに僕が詞を書けないと、容赦なく実川がかわりの詞を持ってきて、それが採用された。「汚れてもマリア」は無惨に改ざんされ、2流のポップソングになりはててしまった。その結果を見て僕は「作詞家としての自分」を一時撤退させることにした。そのころ生まれていた「Home Teacher」という曲も封印した。無惨に書き換えられるくらいなら、最初から自分で書かない方がいい。そう割り切った結果、「ガラスのピアス」「戸惑いのハードル」というような、シティポップス、ニューミュージックの流れをくむ作品がアルバムに収められることになった。 アルバム「ハートがまんまビートになる日」は、クレジットされているとおり、作詞では実川が、アレンジでは高木が主導権を握ったものだ。僕はそれでもそこにロックンロールの魔法の片鱗でもいいから紛れ込ませようと、ボーカルに力を注いだ。あのアルバムでの歌唱が全体に力んでいるのはそのせいだ。今回、このコラムを書くに当たって全編を聴き直してみたが、やはり「汚れてもマリア」だけはあのとき放出してしまうべきではなかったと後悔している。詞は、僕がコンセプトだけを提示し、実川に最初から書いてもらう方がロスが少なく、いいレコーディングになったはずだ。そういう大人の割り切りが出来なかったことが、ある意味敗因だったのかもしれない。そうすれば、制作サイドも宣伝サイドも「第2の山本達彦」の売り出しに成功していたかも知れない。 だが、もしそうしていたとしても、時代は「第2の山本達彦」を求め、受け入れてくれただろうか? 答えは多分Noだ。このとき、すでにバンドブームが始まっていたのだ。ソロ・アーティストという存在の仕方自体が難しくなっていたのだ。この時代にソロとしてやって行くには、実は「自分で詞を書く」ととこそがキーだったのだ。岡村靖幸、槇原敬之、高野寛、KAN、このときバンドブームに飲み込まれずに「個」を主張して生き残ったアーティストはみんな」詞に特徴を持っている。僕は想像する。あのとき高木や吉田や実川の影響を排除して、「Another Time,Another Place」「Different Windows」「汚れてもマリア」そして「Home Teacher」といった曲を詰め込んだアルバムでデビューしていたら。多分、売れなかったとしても、ありのままの自分を世に問うことができていたら。いや、そうしたら、僕はそこで満足してしまい、プロとしてのキャリアはそこで終わっていたかも知れない。だがこのアルバムでデビューしてしまったことで、僕は一生「自分の詞」というアイデンティティーにこだわっていくことになったのだ。 救世主が現れた。村上という新しいマネージャーが事務所に入ってきたのだ。彼と僕は親睦を図るために彼の車で湘南までのドライブをした。そこで僕は高木に没にされたたくさんの曲をカセットに詰め込んで聞いてもらった。村上は、僕の詞を含めた存在の仕方を認めてくれた。そして、このプロジェクトから高木を外すべく、筒井と交渉してくれたのだ。そしてそれは実を結んだ。高木に変わって、当時吉川晃司などのバックミュージシャンとして名をはせていたバンド「PAPA」をプロデュースしていた小路隆という人物がサウンドプロデューサーとしてやってきた。彼は僕のストック曲を聞いて、やはり「メロディーセンス」に注目した。これを活かしていこう。だが、高木と違ったのは、僕と音楽の趣味が共通していたことだ。当時、「佐野元春が日本のブルース・スプリングスティーンなら、僕は日本のエルヴィス・コステロになりたい」というと、ほとんどの大人たちは「そんなのマニアックすぎる」と斬って捨てた。だが小路さんは違った。いわゆる「ねじれたポップセンス」というやつを日本のシーンで開花させる、というアイデアに乗ってくれたのだ。2度目の打ち合わせで彼は、「こんなの聞いたことある?」と、お気に入りの曲をカセットに編集して持ってきてくれた。そのなかには、ビートルズ、クイーンといったメジャーどころからジェリーフィッシュのようなマニアックなバンドまで、当時の僕好みの曲が満載されていた。そして、2枚目のアルバムのコンセプトは決まった。「堂々と、B級ポップをやろうじゃないか」。 1枚目の失敗は繰り返したくない。作詞のバックアップは僕がコンセプトを書き、信頼できる作詞家にオファーした。中でも松井五郎氏がこのオファーを受けてくれたのは幸運だった。もともとフィル・スペクター調のミディアムチューンだったデモテープの1曲をプリテンダースの「Don't Get Me Wrong」調にアップテンポにしたある曲に、松井さんが素晴らしい詞をつけてくれた。こうして「君が世界に盗まれる」は生まれた。2番での「ジョンレノンがいなくなってから何年経ったろう」というフレーズが、アルバムのコンセプトを補強してくれた。「1990年に、ラブソングが語るべきことはあるか?」という問いかけだ。バンドブームで出てくる新人たちのほとんどは奇をてらっていた。その中で、王道のラブソングがどれだけの力を持つことが出来るか?というのが僕らのチャレンジだった。アルバムのタイトル案の中で、僕の一押しだったのは「それいけ! ポップ泥棒!」というものだった。ポップという衣装は所詮以前に存在した曲からの影響から自由にはなり得ない。だったら積極的に引用してやれ!という思い切りが「泥棒」というフレーズに込められている。テイチク宣伝部の猛反対で「それ行け!」は落ちたものの、僕と小路さん、村上さんのトリオで「ポップ泥棒!」というタイトルは決定された。アルバム「ポップ泥棒!」はこうしてリリースされた。 「松崎、バンドブームの嵐に巻き込まれて、ついてなかったな」最後に筒井社長はこういった。でも違う。環境が悪かったのではない。僕らが戦略を誤ったのだ。それでも「ポップ泥棒!」というアルバムが残った。このアルバムを聴いて、佐木伸誘も、桑田佳祐氏も、松崎真人という存在を意識してくれたのだから、よしとしなければならないだろう。もしこのコラムを読んでいるあなたが松崎真人に興味を持ってくれたのなら、「ハートがまんまビートになる日」は聴かないでおいて欲しい。そしてできることなら「ポップ泥棒!」を手に入れて聴いて欲しい。そこには、挫折を味わってそれでもなお音楽をやめなかった極東の日本という国に住む青年の、1990年の精一杯が詰まっている。 そして、どんなストーリーにも後日譚があるように、「ポップ泥棒!」にも続編が存在する。2006年現在「シンガーソングライター」として、ギターを抱えてうたっている松崎真人が、再び「ポップ泥棒」となって神出鬼没の活躍をする日が来る、予定である。それは、バースディスーツがいつか再結成されることと同じように、確かなことだ。この世界に偽物の「ポップ」が蔓延し、心あるポップミュージックファンが嘆きの声を上げるとき、彼はきっとやってくる。 |
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引き際 |
「松っあん、これからどうする?」 京都α-Stasionでの3時間の生放送を終え、ホテル近くの行きつけの定食屋で遅い夕食をとった後、佐木君が僕に聞いた。一瞬、「もう一軒行こうか?」と誘っているのかと思ったが、木屋町の夜風に吹かれる佐木君の横顔は、そんなのんきなものではなかった。佐木君は「バースディスーツをこの先続けていくのかどうか」を訊ねていたのだ。それは僕にとっては意外な質問だった。 ファーストアルバム「CLOSET」を送り出した後、僕らはボスである渡辺ミキさんの意向で、テレビ朝日ミュージックという音楽出版社と仕事をしていくことになった。B'z、WANDS、T-BOLAN......。1993年当時、ビーイングが続々と送り出す新人バンドがブレイクする道筋をつけていたのがテレ朝ミュージックだった。曲の出版権を握る見返りとして「ミュージックステーション」への優先的な出演の機会が与えられたのだった。ミキ社長は、そのベルトコンベアーに僕らを乗せることを決めたのだ。 テレ朝ミュージック側の交渉相手は、吉田というプロデューサーだった。初めての打ち合わせで、吉田は「CLOSET」について、「使えそうな曲は1曲もないね」と切って捨てた。思えば、あのときにテーブルをひっくり返して帰ってくれば、バースディスーツというバンドのその後は大きく変わっていたのだろう。だが、その時の僕は、佐木君と一緒なら、どんなハードルも楽々と跳び越えられる気がしていた。相手の土俵に上がって、オーダー通りの曲を書き、歌い、ブレイクする。それもゲームとして面白いと考えていた。そして、苦闘の日々が始まった。 「これでもか」というほど下世話な曲を書き、持って行ったつもりが、ことごとく吉田からN.G.を出される。彼のダメ出しの言葉は決まって「サビが弱い」。1回聞いたら忘れられなくなるようなキャッチーなサビ。コピーライターが書いたような印象的なフレーズ。吉田が求めていたのはそういうものだった。すでに完成している曲に「サビがないじゃないか。サビを付け加えろ」というオーダーが出ることもあった。約半年に渡ってそんな不毛なやりとりを繰り返し、僕も佐木君もすっかり疲弊してしまった。 「想い出を永遠に変えて」という曲は、そうした妥協の産物だった。あの曲のサビの前半は、僕らが書いたものではない。テレ朝に発注された「プロの」作曲家が作り替えたものだ。だが、それはキャッチーかも知れないが、曲としての美しさが著しく損なわれていた。そこで僕と佐木君がスタジオに入ってさらに練り直し、サビの後半「季節はまた巡るけど 愛してたこと 忘れない」の部分を付け足した。詞にいたっては、最初からプロの作詞家を入れることが決まっていた。大体、「想い出を永遠に変えて」とはどういう意味なのか、何が言いたいのか、さっぱりわからない。そこには「何となく切ない」というムードがあるだけで、メッセージも、言葉としての美しさもない。だが、すっかり疲弊していた僕らは、その複数の作詞家が書き、吉田が気に入った部分をつなぎ合わせた歌詞で「想い出を永遠に変えて」をレコーディングした。 約束は果たされ、僕らはミュージックステーションに出演した。だが、その効果は僕らや、吉田や、ミキ社長を満足させるものではなかった。オリコン最高位40位。考えてみればわかることだ。その歌詞が何を意味するか、歌っていた僕らがわかっていないのだから、TVを視ている人々に伝わるわけがないのだ。何かが伝わったとすれば、そのメッセージはこうだ。「僕らは妥協を積み重ねても売れたいんです」。 それでもゲームは続けられた。吉田が与えた次の課題は「夏のラブソング」だった。僕らは学習していた。無駄な消耗戦は避けよう。吉田の気に入るような曲を書こう。それはちょうど、銀行強盗に対して人質が必要以上に協力的になったり、恋愛感情を持ったりするのに似ていた。なんとしても生き延びたい、という防御本能がそうさせるのだ。吉田の思うようなシングルで売れたら、アルバムではまた好きなことがやれる。「CLOSET」のようなアルバムがまた作れる。それだけを心の支えに、僕らは曲作りに取り組んだ。今度は割と簡単だった。「夏のラブソング」というテーマが決まっているのだから、そしてビーイングと仕事をしてきた吉田のオーダーなのだから、僕らはTUBEになればいいのだ。あの程度の曲なら、左手でも書ける。 そして「渚の片平」という曲が出来た。もちろんタイトルは「片平なぎさ」から頂いた。どうせ詞はプロの作詞家にまかせるのだ。そんな投げやりな気分が、この仮タイトルからは伝わってくる。だが今にして思うのだが、TUBEのパロディーを標榜するのだったら、「渚の片平」のほうが人を食った感じで面白いのではなかったか。「夏の瞳で恋を始めよう」よりも。 誤算があった。僕らと同じ年にデビューしたCLASSというグループの存在だ。僕らも、そしてスタッフも、同じ男性2人のデュオでもバースディとCLASSではモノが違う、と高をくくっていた。ところが「夏のラブソング」という同じ土俵の上に乗ってみると、詞も曲もアレンジも「プロの」仕事で固められた「夏の日の1993」はとてもTV映えした。同じ回のミュージックステーションに出演していたバースディスーツは、明らかにこの対決で負けてしまった。「夏の日の1993」というタイトルも、何を言いたいのかわからない。だが、テレ朝ミュージックの、吉田の思うように動いて成功を収めたのは彼らの方だった。僕らはセールス的に成功を収められなかったばかりか、「CLOSET」で得たグループのアイデンティティーさえも失った。残ったのは「バースディは売れない」というレコード会社スタッフのあきらめと、誇りを失った2人のミュージシャンだった。 「松っあん、これからどうする?」という佐木君の問いかけは、そんな状況を受けてのものだった。彼はソロデビューも東芝EMIで、会社の体質をよく知っていた。デビュー時に金をかけ、大々的に売り出すのは得意だが、アルバムの売り上げが5万枚も行かないアーティストをこつこつと時間をかけてブレイクまで持って行く、育てていく、というのは苦手な会社なのだ。これからは色々な面で風当たりも厳しくなるだろう、というのが彼の見方だった。 「今からなら、ミュージシャンを続けるにしても、何か他の仕事に就くにしても、やり直しがきく」と佐木君は続けた。今、バースディスーツというバンドは「解散」という選択肢を俎上に載せているのだった。 沈黙があった。木屋町のはずれにある博多ラーメンの店から、むせるような豚骨の臭いが流れてくる。佐木君が新しい煙草に火を点けるのを待って、僕は言った。 「俺は佐木君と、行けるところまで行きたいと思っているよ」。 「そうか。松っあんがそう言うなら」 佐木君はそれしか言わなかった。会話はそれだけで十分だった。バースディスーツという帆が破れかけた船は、それでもあたらしい航海に出ることを決めたのだった。 あのときバースディをやめていたら、僕はまだ30才。多分、スタッフか、作曲家になっていたことだろう。佐木君は、新しいバンドを、もっと早くにスタートさせていただろう。結果としては、バースディスーツは「想い出を永遠に変えて」を超えるヒットを出せないまま2000年に活動を休止した。セールス、という数字だけでみれば、もっと早くに解散した方がおたがいの人生にとってプラスがあったのかも知れない。 それでも、と僕は思う。あのときやめていたら、「君を迎えに行く」のレコーディングで尊敬する鈴木茂さんにスライドギターを弾いてもらうこともなかっただろうし、「CRAZY!」の素晴らしくゴキゲンなセッションも体験できなかっただろう。バースディスーツは「TUBEになれなかったバンド」として、人々の記憶から消えていったことだろう。佐木君との関係も、3年弱の人生の一コマに終わっていたことだろう。 あなたが、このHPにアクセスして、この文章を読むこともなかっただろう。 すべて人生の選択が合っていたか間違っていたかなんて、死ぬその瞬間までわからない。「信頼」という歌で書いたように「答えは最後にひとつだけ それでいいから」そういうものだと思う。 中田英寿選手が、29才の若さで引退を決めた。新庄も、今季限りでユニフォームを脱ぐという。そういう潔い散り際に、人々は賞賛を惜しまない。だけど僕は、ボロボロになるまでもがき苦しんで、球団を解雇され、自由契約になっても別の球団のテストを受け直してプロを続けようとする、そういう選手に感情移入してしまうし、自分自身もそうありたいと思う。プライド、とは、汚れることを嫌ってどこかにしまい込んでおくものではなく、どんな風の日にも、泥をかぶりそうな雨の日にも、真っ正面に掲げて前に進んでゆく、ちょうど船の舳先に付けられた女神像のようなものだと思うのだ。 |
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While We Are Sleeping...... |
バースディスーツのCDを買ってくれていた人たちは、僕らの活動休止後、どんなアーティストに流れていったのだろう。先日、聞き捨てならない噂を耳にした。かなりの人たちが、ゴスペラーズのファンになっているというのである。がっかりだ。いったいバースディとゴスペラーズのどこに共通点があるというのだ。ハーモニー?バースディのコーラスはあんなに濁ってないぞ。楽曲のクオリティだって......(以下自粛)。まあ、ゴスペラーズも苦労人だし、売れて良かったね、とは思うけれど。 松崎の声や曲調が気に入っていた人たちが、今は平井堅に夢中、というのはよく聞く話だ。僕自身、「楽園」で彼がブレイクしたとき、「これは困った。キャラかぶってるぞ」と思った。田舎の親戚の一人も「楽園」を聞いて「真人ちゃんもついに売れたか」と勘違いしたそうである。キーボーディストの恩田さんには「松崎君たちは、5年早かったんだね」といわれた。日本人がブラックミュージックを消化するとどうなるか、というトライはアルバム「R.」までのバースディのテーマだった。だが、バースディはそれだけの存在ではなかったのだ。もっと盛り込みたいたくさんの要素があって、「僕ら、R&Bです!」といったわかりやすさはなかったのだ。まあ、そのわかりにくさが敗因なのだけれど。 ライターの仕事をするようになって、キリンジにインタビューする機会があった。当時4枚出ていた彼らのアルバムを集中して聴き込んで、舌を巻いた。僕がバースディでやりたかったことのほとんどが実現されていた。悔しさを通り越して、僕は彼らの大ファンになってしまった。インタビューが終わって僕はレコードメーカーのスタッフにこう言った。「彼らを大事に育てて下さいね。今後10年の日本のポップスを背負っていく逸材なんですから」と。安易なヒット狙いの作品を要求して、彼らを消耗させることだけはして欲しくなかった。程なくして彼らは東芝に移籍したけれど、相変わらずクオリティの高いポップスを作り続けている。武道館公演も行ったそうだ。日本のリスナーの耳も、まだ捨てたものじゃない。 そんなわけで、バースディなきあとの日本のポップスの未来は、とりあえずキリンジに担ってもらおうと思う。昔バースディを聴いていてキリンジを聴いたことがない人たちがいたら、彼らのすべてのアルバムをおすすめする。これを聴いて待っていて下さい、と。 |
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きみのともだち |
松崎真人。1964年8月1日生まれ。30才までのモットー「分かれ道があったら、険しい方を選ぶ」。30才からのモットー「分かれ道があったら、楽な方を選ぶ」。アイデンティティー「シンガーソングライター」。 ギターを始めた中学生の頃、松山千春がヒーローだった。彼がラジオ番組でかけた岡林信康や加川良の作品を聴き、いっぱしのフォーク少年になった。職業作家が熟練の技で作り上げた曲を与えられてプロの歌手が歌う「歌謡曲」ではなく、荒削りでも自分の思いをメロディーにのせて歌う「フォーク」こそが若者の、そしてこれからの音楽であると信じていた。ちなみに演奏スタイルは「ギター1本弾き語り」こそが至上であり、アレンジなるものは商業主義の虚飾であると切り捨てていた。「新譜ジャーナル」で富澤一誠氏が書く音楽エッセイにハマり、「生きざま」なる言葉に興奮をおぼえた。自分もいつかはギターを抱えて旅をしながら歌を作り歌う「シンガーソングライター」になるのだ、と胸に誓っていた。 多くの若者の未来予想図がそうであるように、予定想定は内部外部の働きかけにより変更を加えられるものである。中学から高校にかけて「フォーク」は「ニューミュージック」と呼ばれる流れに飲み込まれ、師・富澤一誠氏が「サウンド派」などと揶揄して呼んでいた一派が力を持つようになった。TVからはCMタイアップという方法論がメジャーになり、矢沢永吉「時間よ止まれ」甲斐バンド「HERO」などがヒットチャートを席捲した。そしてあろうことか、松山千春までもが「季節の中で」で全国区の人気を得る。「生きざまを歌ってアマチュアリズムを貫く」というフォークミュージックの魂が汚されたようで、フォーク少年の心は傷ついた。だがこのタイミングで、僕の心を大きく揺さぶる1曲がまさにそのTVCMから流れてきたのだ。 山下達郎「RIDE ON TIME」。彼自身が夕映えの海をバックにピストルを撃つモーションで登場する日立マクセルのCMは札幌の片田舎に住むフォーク少年の心を撃ち抜いた。そのハイトーンボーカルはもちろんのこと、いままで虚飾だと思っていた「アレンジ」が言葉、メロディーと一体となった時に発せられるエネルギーにすっかり参ってしまったのだ。「音楽の魔法」をはじめてかけられた瞬間だった。行きつけのレコード店「玉光堂」へ走り、「RIDE ON TIME」が収録されているであろうアルバム(フォーク少年にとってはアーティストの「コンセプト」が込められたLP=アルバムこそがドーナツ盤より上位にあったのだ)を探したが、実は当時まだこの曲は発売されておらず、それでは、と「RIDE ON TIME」より1枚前のアルバム「MOONGLOW」を買い求め、期待に胸を躍らせて針を落とした。そこで僕はまたしても衝撃を受けることになる。 そう、ご推察の通り、山下達郎のトレードマークである「アカペラ」に出会ってしまったのである。しかも一人多重録音だというではないか!「音を重ねる」ことのすばらしさを知って、彼のレコードをさかのぼって聴いてみると、それはまさに宝の山だった。やがて待望のアルバム「RIDE ON TIME」が発売される頃には、彼が参加していた「ナイアガラ・トライアングルVol.1」、在籍していたシュガーベイブのアルバム「SONGS」までをレンタルレコードとカセットデッキを駆使してコレクションするまでになっていたのである。そしてナイアガラ=大瀧詠一との出会いは、さらなる音楽の深みへと僕を誘ってゆくのだが、それはまた別の話。 山下達郎によって開かれた目(というか耳)をとおして聴き直してみると、自分の持っていたレコードコレクションの中に、「これは!」と思うものが数枚あった。そしてそれらは海外レコーディング、しかもLA録音のものがほとんどだったのである。(後からわかったことだが、ベースにリーランド・スカラー、ドラムにジム・ケルトナーを配したものが多かったことは松崎真人の耳の良さを証明する小さな自慢)こうして、高校から大学にかけてハイティーンの僕は洋楽の世界へと踏み込んでいった。小林克也氏の「ベストヒットU.S.A.」ピーター・バラカン氏の「Popper's MTV」などの洋楽番組の影響などももちろん大であった。 さて、リスナーとしては日々進化を続ける松崎少年であったが、プレイヤー、シンガー、そしてアレンジャーとしてはまだ「フォークのしっぽ」をひきずっていた。何しろ幼稚園の頃にオルガン教室で挫折して以降、鍵盤楽器はまるで駄目、楽譜は読めない書けない、頼みの綱のギターもフォークで使うローポジションのコードしか知らないという三重苦である。心酔していた山下達郎が音楽誌で「自分はコードしか知らないフォークシンガーとは違う」という趣旨の発言をしていたのを読んだこともあり、僕は本当に焦った。ロックンロール、R&Bといった自分にとって未知の音楽をもっと吸収し、肉体化しなければ。そして結果的に、まずはヴォーカルスタイルから改造していこうと決意したのである。 いいお手本が現れた。「悲しい色やね」をヒットさせた上田正樹だ。僕は彼を媒介にしてより直接的に黒人音楽に触れ、自分の歌にそのエッセンスを取り入れていった。ボブ・マーリーやジミー・クリフらのレゲエを知ったのも彼を通じてだった。こうして、「ギターを抱えて歌うすがたはフォークシンガーだけれど、ヴォーカルスタイルはソウル・シンガー(見習い)」というスタイルができあがっていった。 この間、つまり札幌北高時代、僕はヤマハが主催するポプコンというアマチュアのコンテストに2回出場し、北海道大会まで進んでいる。1回目はギター1本で、2回目はギターを抱えてヤマハがつけてくれたバンドをバックに。そして北海道大学に進学した年、「たわいないトワイライト」という曲ができた。当時ヤマハ札幌支部のディレクターだった丸岡清貴さんの「フォークとプログレを合体させたようなアレンジにしたい」というアイデアと、「ソウルフルに歌いたい」という僕の希望が化学反応を起こし、「たわいないトワイライト」の北海道大会バージョンは完成した。当時一世を風靡しつつあったヤマハのシンセ・DX7を5台並べる(もちろんキーボード奏者も5人)という80年代版プログレ・バンドをバックに歌った「たわいないトワイライト」で、僕は初めてギターを持たずに、スタンドマイクで歌った。両手の動かし方は上田正樹や、当時「愛と青春の旅立ち」を大ヒットさせていたジョー・コッカーにならって鏡の前で練習したものだ。そしてこの曲で僕は、初のポプコン全国大会、そして世界歌謡祭へと駒を進めることになる。 余談だが、日本武道館で行われた第15回世界歌謡祭の司会はあの坂本九さんとジュディ・オングさん。坂本九さんは、リハーサルでマイクに近づく勢いが強すぎて歯をぶつけてしまった僕に「緊張しなくていいんだよ」とあの笑顔で声をかけて下さった。今でもあの笑顔と優しい声を昨日のことのように思い出す。日航機墜落事故で坂本九さんが亡くなったのは翌年だから、「たわいないトワイライト」ができるのが1年遅かったら、僕は九ちゃんと出会えていなかったことになる。 出会いといえば、この歌謡祭のグランプリはTOMCATの「ふられ気分でRock'n Roll」だった。TOMはあのサングラスをはずすととてもコケティッシュな魅力のある女の子で、ジャニス・ジョプリンを敬愛し、彼女のようになりたいと願う真摯な女性だった。「ふられ気分でRock'n Roll」を聴いて佐野元春の「悲しきRADIO」との共通点を感じていた僕がそのことを彼女に話してみたところ意気投合し、それからTOMCATがコンサートやイベントで札幌に来るたびに会う間柄になった。彼女はTOMCATというパブリックイメージと格闘し、「本当のRock'n Rollをやりたいんだよ」と繰り返し語った。僕もまた「フォークのしっぽ」を切り捨てて前に進もうと苦闘していた同じミュージシャンとして、彼女との話は尽きなかった。お酒も飲まずにホテルのレストランで夜更けまで話し合ったことをよくおぼえている。 さて、ここでRock'n Rollというキーワードが登場して、話は何年かさかのぼり、高校時代に戻る。当時ロックといえばハード・ロックのことで、学校祭で高校生がプレイするロックは「スモーク・オン・ザ・ウォーター」や「ハイウェイ・スター」と相場が決まっていた。フォーク少年にとって「ギターの音を歪ませる」というのは理解しがたい行為で、ロックは近寄りがたい音楽だった。 ところがある日、同級生が持ってきたモノクロのアルバムジャケットで笑う人なつこそうな髭面を見て、僕はすっかりその音楽を聴いたような気になり、好きになってしまったのである。その男の名は、ブルース・スプリングスティーン。そのアルバム「明日への暴走」を聴いてみると、確かにギターは歪んではいるがハード・ロックの歪みほどではなく、聴き慣れたアコースティック・ギターのサウンドも生かされていた。サキソフォーンが入っているところはソウル・ミュージックの............いや、細かい説明はよそう。とにかく僕はノック・ダウンされてしまったのだ。だからあの時代、佐野元春が彼を模倣しようとした気持ちはよくわかる。「疾走感」という、フォークの文脈にはない要素がそこにはあった。今年、「明日への暴走」のリマスター盤がライブDVD付でリリースされたので、興味がある方は購入することをおすすめする。当時の僕らが受けた衝撃の片鱗は理解してもらえるはずだ。 さて話は「たわいないトワイライト」当時に戻る。ヴォーカルスタイル、メロディーラインこそフォークから一歩抜け出した僕だが、自分自身次の課題となったのは「歌詞」だった。「たわいないトワイライト」は女性の立場から失恋を歌ったラブソングで、フォーク、ニューミュージックの「古い」話法を踏襲していた。スプリングスティーン、佐野元春との同時代性を感じていた僕にとってそれはなんだか気恥ずかしいことのように思えたのだ。ちょっと理屈っぽく言えば、「詞」と「メロディー」と「ビート」の組み合わせ方に、もっと斬新な、自分にしかできない手法を見つけ出したい、と思い始めていた。小学校2年の時に「母の日」という詩を先生にほめられて以来、「言葉を使う」ことに関しては才能を自負していた僕としては、それは当然のなりゆきだった。中学1年で出会った中原中也、萩原朔太郎、谷川俊太郎といった詩人たちのエッセンスや、佐野元春を通して知ったアレン・ギンズバーグやバロウズなどビートの詩人たちからの影響を貪欲に自分の音楽に反映させようとした。10人が聴いたら10の意味を見いだせるような多面的な構造や物語性を3分間のポップ・ミュージックに込めたかった。けれどそれは二十歳そこそこの世間知らずの青年には無謀な試みだったのだ。丸岡さんをはじめ、周囲のスタッフからは「もっと たわいないトワイライト のような曲を書いたら」と意見された。それは今思えば「もっと足もとを見なさい」という有り難いアドバイスだったのだが、僕は聞かなかった。そんな試行錯誤の途中、自己矛盾の中で、僕は大学を卒業し、デビューを迎えるのである。だが、デビューまでの苦闘については、また別の話。デビュー時のキャッチフレーズが「ダイナミック・メロウ・ポップスの貴公子」だったことも、今となっては時代を感じさせるエピソードだ。 それから僕は、何百という曲を書き、プレイし、幸いにしてそのうちの何十曲かをレコーディングし、世に問うことができた。実験的な曲があり、凡庸な曲があり、そして何曲かの納得できる曲ができた。「ギターを抱えて日本中を旅する」という夢も、佐木伸誘という良きパートナーを得ていつしか実現していた。そして今またひとりで、ギターを抱えて歌を歌っている。それは形だけ見ればフォークに回帰したように見えるかも知れないけれど、僕は曲を書くたび、プレイするたびに「詞」と「メロディー」と「ビート」のイカした組み合わせ方ができないかと腐心している。願わくば、そこにソウルがあり、Rock'n Rollがあり、サウンドの魔法があらんことを。そして生涯、ひとりのシンガーソングライターでありたい、と願っている。山下達郎も、大瀧詠一も、佐野元春も、そして桑田佳祐だって多分思っているだろうけど、「生涯最高の一曲」は「この次に書く一曲」なのだ。 |
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松崎真人と浅からぬ縁のあるリンク集 |
Lab-Siva.net |
バースディスーツの相方、SAKIが命を懸けている3ピースバンド、ラブシバのサイトです。 |
Birthday Pockets |
バースディスーツ時代からお世話になっている、ちづこさんのサイト。現在、BBSのみですが、関西方面の情報交換にとっても便利。 |
渋谷WASTED TIME |
80年代がコンセプトのライブハウス&カフェ。オリジナルカクテルが評判です。 |
三宿ミトラサール |
レストラン&ライブのお店。グランドピアノも置いてあって、PAもとってもいいです。お料理もおいしい。 |
ボブテイル |
下北沢のはずれ(秘境?)池の上にあるバー&ラウンジ。松崎のライブではおなじみのAGUEHAちゃんが歌います。松崎もそのうち出演するかも。 |
音楽処 |
松崎も佐木もお世話になっている札幌狸小路のレコードショップ。アマゾンに負けるな! |
adult education |
元susumori。松崎とは札幌つながりの男女デュオ。とってもおしゃれです。でも、MCが営業っぽいのがタマにキズ。 |
ウスギヌ ウェブサイト |
松崎がいろいろとお手伝いをしている優子と恵美によるユニット。ユニークな詞、切ないメロディー、本当にソウルフルな歌。 いつの日かの活動再開を願って。 |
Miyuki Kawabata's Home Page |
波乱万丈、とはこの人のような人生をいうのでしょう。自らシンガーソングライターでありながら、佐木、松崎を影に日向に支えてくれる、有り難いお方。一度、ライブで彼女の元気に触れてみて下さい! |
札幌平岸 フライアーパーク |
これからしばらく、松崎のホームグラウンドとしてお世話になるライブハウス。オーナーの宗形さんは玉光堂出身。 |
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